取材で何度もお世話になった
小田原市に住む元小学校教師で絵本作家の
増田昭一さんが亡くなった。
増田さんには生前、何度か取材に協力していただき
いくつかの戦争体験を語っていただいた。
しかし放送内容はアーカイブされていない。
増田さんが亡くなったことで
増田さんが生涯をかけて伝えようとした「ある子供たちの記憶」が
いつか途切れてしまうのではないかと不安になった。
世界情勢も鑑み
手元に残る取材メモをもとに、ここに書き残しておこうと思う。
―――
1945年、8月9日
真夜中にソ連軍が満州全土に攻め込んできた。
日本との中立条約を一方的に破棄した旧ソ連軍は
戦車と大砲を中心とした軍隊を編成して攻撃を開始したのだ。
まだ、3歳だった「のんちゃん」の開拓団も
必死で逃げる途中でソ連軍の攻撃を受けてしまう。
「お母さんはもうダメです。助かりません。だから天国に行きます、
のんちゃんは、みんなに愛される子になって、長生きするのよ」
「のんちゃんもいっしょに行く!いっしょに天国に行く!」
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満州の首都、新京に
真っ赤なソ連の旗がはためく「敷島地区難民収容所」があった。
両親が死亡するなどして孤児になり、
誰も引き取らなかった子供たちが小さな肩を寄せ合って暮らしていた。
「敷島地区難民収容所」は元は「西広場小学校」という名の小学校だったが、
暖房のための燃料も無く
11月ともなれば、屋内でも零下20度を越す寒さとなった。
1945年、増田さんもこの施設に入る。
17歳、終戦の年の秋だった。
―――
60人以上いた子どもたちが目の前で次々に亡くなっていった。
小さな遺体は、元校庭に井型に積み上げられていった。
こうした施設はほかにもあったが、どこも状況は同じだったという。
家族で避難していた大人は
さげすんだ目で飢えた孤児を睨む。
「水をください」
「きのうから末期の水をといっているが、いつになったら死ぬんだ」
その子は早朝に息を引き取った。
そこに連れてこられたのが、
まだ3歳だった女の子「のんちゃん」だ。
―――
昭和3年に生まれた増田さんは
17歳のとき、大学入試のため家族のいる満州に渡った。
父親が満州で野戦兵の部隊長を勤めていたからだ。
しかし、そこでソ連軍の激しい攻撃を受けることになる。
自ら志願して戦場で戦ったが
ソ連軍の戦車砲の射撃にあって右手首の知覚神経を切断してしまう。
一緒に逃れた負傷兵が次々と自決する中、
増田さんはハルビンに逃れ、
昭和20年9月、再開した母親とともに難民収容所に入ることになった。
しかし、その年の11月、親子とも発疹チフスを発病し、お母さんは亡くなってしまう。
増田さん自身も回復が遅れ、収容所の孤児仲間とともに難民生活を送っていた。
父親はシベリアに3年間抑留され4年目に死亡した。
―――
収容所にいた子供たちについての資料は少ない。
そこで神戸に向かった。
中国残留孤児や肉親など100人以上から聞き取り調査を行った
神戸大学大学院・人間発達環境学・研究科の浅野慎一教授に会うためだ。
浅野さんは
「僕が聞いたことでよかったら」と快く取材に応じてくださった。
『なぜ日本政府は彼らを救おうとしなかったのか。
確かに「移民を満州に土着させようという政策」も理由のひとつだろうが
それならいったん移民を帰国させ、平和になってから満州に戻す手もあったはずだ。
実はほかに彼らを日本に帰国させなかった「理由」があった。
敵に対して、一般人の彼らを「壁」にしたのである。
救えなかったのではなく、「救わなかった」のだ』
日本政府は1959年「未帰還者特別措置法」を制定して
「残留孤児」たちを「死者」として扱う「戦時死亡宣告」の制度を設けている。
肉親探しが始まったのは、中国と国交が回復してから10年もすぎた1981年からだ。
中国残留孤児、というと
「逃げる日本人の親が、中国人の養父母に預けた」というイメージが強い。
実はそれは半数以下で、一部の都会に限られたケースだという。
多くの農村では
「道に置き去りにされたり、両親、兄弟が殺されてたまたま拾われて助かった子」が
「中国残留孤児」になった。
しかし、誰にも助けてもらえず「中国残留孤児」にもなれなかった子がたくさんいた。
道端で死んでいったか、「収容所」で亡くなったか。
「のんちゃん」も、その一人であろう。
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国から見捨てられた難民収容所で
増田さんは、のんちゃんを妹のように可愛がったという。
ここに収容された10代の子供たちは皆、幼い子供たちを可愛がっていた。
なぜなら、皆、幼い弟や妹を亡くしていたから。
のんちゃんは、とてもクリスマスを楽しみにしていた。
「お兄ちゃん、あといくつ寝るとサンタクロースは来るの?」
「あと3日だよ」
「きーよーしー、このよーるー」
クリスマスには縁遠い時代だったが
のんちゃんはこのフレーズだけは知っていた。
なんどもなんども歌うものだから
収容所のほかの子どもたちも覚えてしまった。
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なぜ、のんちゃんは「きよしこの夜」を知っていたのか。
前年のクリスマス、のんちゃんのもとにはサンタクロースがやってきた。
本土と違い、まだ当時の満州にはお米もお味噌もあったという。
朝、目を覚ますと
枕もとの靴下が大きく膨らんでいた。
はしゃぐのんちゃんにお母さんは言った。
「良い子にしていれば、
また来年もサンタさんは必ず来てくれるでしょう」
戦時下でもクリスマスを祝える幸せな家庭だったのだ。
―――
「サンタクロース」という名前すら知らない子が多い収容所で、
のんちゃんがクリスマスを指折り数えて待っていたのは
お母さんと、別れ際にとても「大切な約束」をしたから。
「のんちゃんもいっしょに行く!一緒に天国に行く!」
「・・・のんちゃんはクリスマスが大好きでしたね。
だからお母さんは、天国へ行っても
サンタのおじいさんと一緒に、のんちゃんに会いに来るからね。
それまで良い子になってがまんして」
―――
収容所のクリスマスイブ。
お兄さんのような存在になっていた増田さんは
のんちゃんに声をかけた。
「のんちゃん、靴下はかなきゃだめだよ、足が凍っちゃうよ」
「きょうはダメ!どうしてもダメ!」
真夜中、襟元に冷たい風が吹き込んで夢から覚めたのんちゃんは
眠い目をこすりながら枕もとのリュックサックに目をやった。
小さなリュックは、
お母さんと一緒のときから大切にしてきた
ただひとつの「のんちゃんの持ち物」だ。
でも、昨日の夜にリュックの上においた赤い靴下は、
そのまま。
「サンタさんは、のんちゃんのおうちが、わからなかったのかな。
そうだ、お迎えにいかなくちゃ!
きーよしー、このよーるー、きーよーしー、このよーるー」
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のんちゃんが収容所にいないことに気が付いたのは
クリスマスの朝だった。
幼い「なきがら」を見つけた人影の中には
増田さんもいた。
雪の中に埋もれかけた小さな手には
赤い靴下があった。
冷たくなった手がしっかりと握った靴下の中には
「何か」が入っていた。
それは「サンタさんに当てた一枚の手紙」だった。
「お味噌とお米を持ってきてください。
優しい収容所のお兄さんやお姉さんの分もです。
のんちゃんは、よいこでいました」
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帰国し、大人になった増田さんは
小学校の教諭を退職後、収容所で目にしたことをもとに、
2年半かけて24枚の水彩画を描き、絵本をつくった。
でも描いても描いても自分の中に矛盾が生まれる。
僕たちは、もっと汚れていた。
僕たちは、もっと傷ついていた。こんな色じゃない。
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増田さんの絵本に感銘を受けた人々の協力により
増田さんに
「あの収容所があった場所」を再び訪れるチャンスが巡ってきた。
収容所の建物は無くなっていた。
跡地には、中学校が建って、中国の子供たちが元気に勉強し、遊んでいた。
教室では子供たちに当時の話をした。
教職を退職して随分経っていたが、久しぶりに「教師」の顔に戻ることができた。
こんな日がくるとは。
でも、1人グラウンドに立ったとき言葉を失った。
「僕らは、確かにここにいたんだ」
黄昏迫るグラウンドに水をまき、手を合わせる増田さん。
「また来れたよ」
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「のんちゃん」は、どこから来たのだろう。
彼女につながる情報はないのだろうか。
2008年、11月
僕は厚生労働省、社会援護局中国孤児等対策室を尋ねた。
実は、今回の取材と平行して
敷島地区難民収容所についての資料を探してもらっていたからだ。
もしかしたら、のんちゃんの身元もわかるかもしれない。
見つかった資料は少なかったが
ソ連が攻め込む前の旧満州の地図を見せていただくことができた。
増田さんの記憶によれば
ソ連軍の侵攻から逃げてきた人々は
「西広場小学校」という学校の校舎を敷島地区難民収容所として使っていたという。
「西広場小学校」その名称を、この古びた地図の中に見つけることができるのか。
あった。
地図の真中に位置する首都の駅、新京駅。
南側一帯にはかつて、にぎわっていたであろう市街地が広がっている。
その市街地の、新京駅にほどちかい位置に、
のちに収容所として使われることになる「西広場小学校」の名がある。
・・・こんなに駅に近かったのか。
満州北部、国境付近から命からがら逃げてきた子供たちは
港へ向かう列車を目の前にしながら、なすすべもなく親と引き離され命を落としていったのだ。
ただ、「のんちゃん」の身元につながる情報は
見いだせなかった。
ただ、もしわかったらどうするつもりだったのかは思い出せない。
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敗戦時、 満州にいた日本人およそ22万人のうち
満洲開拓団の死亡者はおよそ8万人。
新京での死者は逃げてきた3万人に対し6000名。
殆どが、女性や高齢者、そして幼い子どもたちだった。
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取材の後、増田さんは深呼吸し優しい笑顔を見せてくださった。
「誰の記憶にも残ることのできなかった子どもたちのことを
どうか覚えていて欲しい」
増田さんはクリスマスを祝ったことがないという。
亡くなるまで、増田さんの家に
ツリーの明かりが灯ることは無かった。
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取材協力:増田昭一さん、
神戸大学大学院・人間発達環境学研究科、浅野慎一教授
厚生労働省社会・援護局中国孤児等対策室
参考文献:「来なかったサンタクロース」夢工房
協力:片桐務さん(夢工房代表)
http://www.yumekoubou-t.com/kikann/sousaku.html
※文化放送「のんちゃんの靴下」の取材時のメモをもとに、改めて書き起こしたもの。