石森則和のSEA SIDE RADIO

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のんちゃんの靴下~3月31日文化放送でON AIR

2009-03-20 | Weblog
1945年、
日本との中立条約を一方的に破棄した旧ソ連軍が
突然、満州全土への侵略を始めました。

現地で暮らしていた一般の日本人(開拓団など)は
逃げ惑うしかありませんでした。

命からがらの逃避行の中、幼い子どもたちは置き去りにされることも多く
現地人の養子(いわゆる中国残留孤児)になるか、売られるか
極寒の地で死を迎えていったのです。

しかし、
肉親探しが行われている「中国残留孤児」の存在は知られていても
「中国残留孤児」にもなれず、
現地で幼い命を落としていった子供たちのことは
殆ど知られていません。

逃げてきた日本人が身を寄せた
「日本人難民収容所」
・・・その名を聞いたことがありますでしょうか。

「難民収容所」といっても
校舎の跡地や、テントのようなものまで様々で
いわば「難民キャンプ」のようなものだったといいます。

それ故、国にも詳細な資料が残っていません。

この
「日本人難民収容所」は
屋内であっても零下50度の風が吹き込み、
食糧不足や、不衛生であったこともあって
幼い孤児たちは殆どが命を落としていったといいます。

しかし、「生き残った」人がいました。
小田原市に住む増田昭一さんです。

増田さんは少年時代、
この収容所に入り、仲間の孤児たちと過ごしていました。

そこに、連れてこられたのが
「サンタさんが死んだお母さんを連れてきてくれる」と信じる3歳の少女、
「のんちゃん」でした。

のんちゃんは
お母さんの遺体の横で泣いているのを発見され
連れてこられたのです。

増田少年は「サンタさんはいない」と言い出せないまま
とうとうクリスマスを迎えることに・・・。

増田氏は、こうした
「誰の記憶にも残れなかった孤児たち」の想いを今に伝えるのが
「生き残った自分の使命」だと思うようになり、
自らの苦しい記憶と向き合おうとしていました。

そのひとつの方法として
絵本を描いたことをきっかけに
そして、あの「収容所跡」を再び訪れる機会を得たのです。

そこに増田さんは何を見たのでしょうか・・・。

僕は、今回
この増田さんの証言を元に
「日本人難民収容所」とは何だったのか、

また
「孤児たちはなぜ
自分の国に守ってもらえなかったのか」を
取材することにしました。

わずかな孤児の情報を求めて厚生労働省へ、
また、
数多くの中国残留孤児から聞き取り調査をしてきた
研究者を訪ねて神戸へ・・・。

そして、
今月31日(火曜日)の夜9時、

文化放送開局スペシャル
報道特別番組
「のんちゃんの靴下
~誰の記憶にも残れなかった子供たち」として
ドキュメンタリー番組を放送します。

※秋田放送でも4月3日(金)の夜8時から、
また山梨放送でも4月4日(土)の夜10時から
放送してくださいます。

途切れさせてはいけない記憶があります。
戦争の語り部が少なくなった現代、
この機会に、是非、お聴きください。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ご無沙汰しております。 (ひとみ)
2009-03-22 11:53:05
かろうじて30代の私ですが、

「満州」も「原爆」も他人事にできない、

してはいけないと思い続けています。

でも、「収容所」のことは知りませんでした。

31日はしっかりと聞かせていただきますね。
返信する
ありがとう。 (いしもり)
2009-03-30 21:49:37
ありがとうございます。

中には
悲しい話も出てきますが

いろんなかたの想いが伝わるように
できるだけ
優しい語り口の番組に
したいと思っていました。

よかったら
お聴きくださいね。
返信する