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1995年の阪神淡路大震災がきっかけとなり自動書記で突如絵を描き始める 絵の仕事は26年目 ブログ光のチャレンジは11年

テレパスアート物語(はじめに)

2012-05-30 | シリーズ「テレパスアート物語」
お待たせいたしました!
いよいよ「テレパスアート物語」のはじまり、はじまり。
まるで紙芝居?のようですが、はてさていつまで続くやら?
出来るだけ末永く書いていきたいと思いますので、どうぞ宜しくご愛読ください。

今日は「はじめのはじめ」として、故「まさG」のことを書きます。
まさGは広島の人で、私が知り合ったのは彼がすでに定年退職していわゆる精神世界の入り口におられた頃だったと思います。
その頃の私はまだテレパスアートを仕事にしていず、(阪神淡路大震災後に移住した)広島で暮らしていた関係で彼と知り合ったのです。と言っても、個人的に親しくさせていただくようになったのはずっと後のことで、その頃は彼はいろんな集会の司会をされたり、平和のために尽力されていて、私は遠くから彼の名を知るのみでした。

当時の広島は(今もそうかもしれませんが)私の目にはなぜか「二重構造」になった不思議な街に思えました。
ともかく「私の精神世界への旅立ちは広島から始まった」といってもいいぐらい、実にいろんなセミナーやワークショップが開催されていてまさに花盛りでした。
そういう中で受けたワークショップの一つに即興のダンスもあり、そこで私も(一参加者としてまさGと偶然同じグループになり)踊ったこともありました。
その後まさGは何とイギリスのエジンバラでも舞台に立たれたり、またずっと後には即興の音楽も始められ、和太鼓の演奏もされていたようです。

彼は原爆でご両親や大勢の兄弟姉妹を一瞬にして亡くされ、自らも被爆して、唯一生き延びた兄と共に必死になって十代の身で戦後の混乱期をずっと働き続けて来られたのです。その彼だからこそ「年金がもらえるようになってほんとうに嬉しかった」としみじみとして言われたのです。そのささやかな年金で暮らしながら彼は精神世界の中を自由に泳ぎ廻られ、富士山に登ったり、セドナやマチュピチュに行ったり、最晩年にはヒマラヤにまで行かれたのです。

私が彼のテレパスアート(その頃は「ヒーリングアート」という呼称でしたが)を初めて描かせていただいたのは、ご本人からの依頼ではなく、その頃彼を崇拝されていた仲間たちの一人からの申し込みだったと思います。
当時はまだ色を塗ることもせず、ボールペンで描いたものをそのままファックスで送って、電話でその説明をしていました。
(「仕事」として~というよりも遊び半分のような感じで、料金も5千円でした)

最初に描いた彼の絵は、その当時の彼の仕事と関連したものが出て来ていたそうで、(私自身は彼の仕事も知らず、詳しいことは何も伺っていなかったのですが)彼は非常にびっくりされたそうです。
そしてそこに描かれていた内容は、彼の「過去生」とも関連しているということで、後日その資料のコピーも送って下さったのです。それは奈良の地図で、いわゆる「大和三山」がある特別な図形(剣を持った人物の形象)になっているものだったのですが、その時私の描いた彼の絵がまさにその図そっくりだったそうなのです。

みなさん、まさかと思われることでしょうが、彼は『平城京を建てた(造営したという意?)のは私です』と、さらっと言われたのです!
また江戸城を築城したといわれている太田道灌だった!?時代もあるそうで、そういうことは一体どうやってそれが真実(事実)であると知ることが出来るのか?
その科学的な証明や根拠も無い彼の話に対して(私自身はかなり合理的なタイプの人間でもあるので)、彼の生前は少し距離をおいていた面もあります。

けれども彼はとっても私を信頼して下さって、その後もそのお仲間の方を通して、何度か彼の絵を描かせていただく機会がありました。そして彼との交流は十年以上にも及び、その間にたくさんの方々をご紹介してくださったおかげで、私は絵の仕事を続けてこれたことを今でも心から感謝しています。

そんな彼が余命少なくなった時にも(身近かでお世話されていた方からのご依頼により)絵を描かせていただきました。

その絵の中では彼はすでに雲の上に居られましたが、もう一人の彼はご自分の死の床に居てたくさんの仲間に囲まれ、ある人のことが「死んでも死に切れない想い」で気になっておられるようでした。
それはその人の回心を待っておられるようで、「あと一人この人をどうしても、、それまでは死ねない」と私にも話されました。
その人がどういう方なのか、それは今でも私にはわかりませんが、決して彼の個人的なエゴとかでは無く、彼亡き後にその人の存在がどうしても必要だったからではないかという気がします。またそれまで誤解や行き違いがあって、グループから出て行ってしまった(あるいは入りきれないでいる?)その人を、今一度呼び戻したいということが彼の悲願ともなっていたようで、「それが済むまでは自分は死ぬわけにはいかない」と強く決意しておられるようでした。

ほんとにそのぐらいの悲壮な覚悟で死に臨んでおられたので、その人が早く気が付いてまさGの願いに応えてくれるといいのにな~と、私も心から願っていました。
でも(その後その人のことはどうなったのか、その結果は今も知らないのですが)残念なことに、まさGはそれからしばらくして永眠されてしまったのです。

その訃報を知ってからまだ彼が遠くへ去らないうちに(四十九日の前に)私はまた彼の絵を描きました。
それは私自身が「彼は今どこでどうしているだろう?何を考えておられるだろうか」と、個人的に気になったからです。
すると彼は必死になってこちらの世界と連絡を取ろうとされているところのようでした。

そして何か合図を生前に決めておられた?(仲間と何か取り決めておられた?)らしいのですが、なぜかそれがうまく伝わりにくいようで、絵の中の彼はとてもあせっているようでした。そのお仲間のうちの何人か(私の顔見知りの方も中には居られました)も絵に出て来ていて、みんなで大笑いしているふうでした。
それは彼が亡くなった後も自分たちのことを「きっと守ってくれているよな!?」ということで、半分冗談を交えながら話している場面(後日の追悼会?)のようでしたが、彼の方では冗談どころでは無く、ほんとに必死になっていて、描きながら私はその彼の苦しさ(大変さ)を強く感じました。

その後、彼の一周忌の記念に描かせていただいた絵では、本来の彼の魂の姿?が画面に出て来たのです。
それは「ホワイトイーグル」のある一人の長老の姿でした。
(自画自賛になって恐縮ですが)それはほんとに素晴らしい絵でした。
それを眺めながら、そうか、彼の本質はやっぱりこういう人だったのだ!と私は深く納得したのでした。
そして改めて「凄い人にご縁をいただいていたのだなぁ」と、深い尊敬と愛を感じたのです。

彼は私が落ち込んでいる時にはいつも「宇宙画が描けるんだから、、その自分を信じなさいよ」と慰めてくれたのです。
また後年伊豆の私たちの家に泊まってくれた時、帰り際に強く私の手を握って「宜しく頼みます」と何度も言われたのです。
それは彼の「平和への想い」を私にもぜひ引き継いで欲しいという願いだったのです。
平和は決して「運動」では達成出来ない。一人のひとりの内なる「心の平安こそ」が平和を生むのだと。

そのことを訴えるために、彼は「運動」では無く、静かに瞑想し、ダンスし、平和を愛する先住民族を訪ねて共に語り合い、仲間と共に聖地を旅し、歌い、太鼓を叩き、そして祈ったのです。
被爆について彼が語れるようになったのは60歳を過ぎてからだと、もの静かに話されていたことも印象に残っています。
被爆した彼自身でさえ「それまではどうしても自分の体験を人に話せなかった」と言うのです。けれども自分のいのちの残り火を見つめた時に、「それを誰かに伝えたいという願いがどうしても湧いてきたのです」と。

今日(5月30日)はその「まさG 」の命日です。
このブログを書き始めると同時に滂沱の涙が流れたのは、もしかして彼が喜んで下さっているのでしょうか。
もしそうだとしたら私もほんとうに嬉しいです。

(彼の関係者の方々がこのブログを読まれて、もしも私の事実認識が間違っているところがありましたら、どうぞご容赦ください。私自身のおぼろな記憶を頼りに書いていますので、失礼があればおゆるしください)

驚いたことに、これを書き終わる寸前、窓の外を鳩がコツコツと突っついたのです!白い鳩を胸に抱いた彼の遺影をふと思い出しました。
もしかしたらまさG が「これでOK!やっと連絡が取れた♪」と合図を送ってくれたのでしょうか!?



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