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1995年の阪神淡路大震災がきっかけとなり自動書記で突如絵を描き始める 絵の仕事は26年目 ブログ光のチャレンジは11年

阪神淡路大震災で授かった能力(11)

2012-01-31 | シリーズ「アズミックアート物語」1~20
阪神淡路大震災後の夏の終わりに広島に移ったのですが、その翌年の1996年初夏のこと。その頃は一人暮らしでしたが、よく瞑想をしていました。
また線描画を描くことも再開していて、いろいろなメッセージを受けていました。

その中に(ほんとうにそうなのかどうか?今でもよくわからないのですが)、サイババからのメッセージもあったのです。
(自動的に降りて来るものを「自動書記」で紙に書いていました。日本語では無いものもありました。)

そしてなぜかサイババは私に「インドに来るように」と何度も言うのです。
「あの笛を聴きたいから持って来るように」と。(この「笛の話」は以前に書きましたが、特殊なかたちの陶笛です)

私は「インドは暑いし、お腹を壊すからイヤだ」と返事しました。
すると、「そんなことはない。来てみるとわかる。とてもよいところだ。oo(日月)にはooに居るので、そこに来るように」。
そこで待っているからと、(そして私がかつてインドで暮らしたことがあり、その頃の話をしてくれたり、その当時の旅の途上の風景や咲いていた花のことを語ってくれたりして)誘ってくれたのですが、私は固辞していました。

「ではまずメキシコに行きなさい」「明日その知らせが来るだろう」と言われても、まさか!?と全く本気にしていませんでした。
(なぜメキシコかというと、それは私があまりにも「インド行き」を怖がっていたので、どうやら「予行演習」?らしいのです)
ところが、翌日、ほんとうにその知らせが来たのです!!! 
そしてそれはまさにサイババの予言通り、ズバリ、メキシコの旅のDMだったのです。

(この話は前にもHPに書きましたが)その封筒の表には、「一生に一度の思い出に残る旅」だったか、何かそのような心惹かれるうたい文句が書かれていました。
(DMの嫌いな私はいつもなら中も見ずに捨ててしまうのですが)その時はなぜかその勧誘の言葉に心が動いて、ふと読んでみる気になったのです。

それになぜ、そんな全く知らないところから私にそんなものが送られて来たのか?も不思議でした。
一体どこで私の名前や住所を知ったのでしょうか?
(広島に住んでいることは身内や親しい友人以外には知らせていませんでした)
それは旅行会社の一般的なツアーでは無く、もう今は別会社になっている東京の「あるスピリチュアル系の会社」の企画による小さな旅のDMだったのですが、それまで私はその会社と全く関わりが無く、「会社名も知らなかった」のです。
これはほんとうに今でも謎です。


そういうわけでメキシコに行くことになったのでしたが、私がメキシコに行こうと思ったのにはもう一つ理由がありました。
昔からなぜか「マチュピチュ」が好きで(というか、おそらくその山だと思うのですが、夢によく出て来たので)興味があり、一度行ってみたかったのです。
つまり私はその時点ではマチュピチュはメキシコにあると思い込んでいたのです!

あとでその間違いに気づき、そのツアーの行程にマチュピチュが入っていないので調べてみると、それはペルーにあり、そこへ行くにはメキシコからだと(その当時は)一週間に一度の便しか無かったため、私がその旅の間にフリーでマチュピチュまで往復するのはとても無理ということがわかったのでした。

でも、もうすでに申し込み金も一部払っていたし、一緒に行ってくれる知人も乗り気になっていたし、何よりも気分転換がしたかったのです。
それに「その旅で重要な人に会うことになるだろう」とも言われていました。

ほんとにそれは私にとって一か八かの賭け でした。
何せ20年ぶりぐらいの海外旅行(かなり高額のツアー代金 )で、しかもその頃の私は40代の後半だったのです!

そして、その旅で(後年私の線描画を彩色してくれることになる)彼と遭遇したのでした。
まさかサイババのそのメッセージがほんとうに実現することになるなんて
夢にも思っていませんでした。
(もちろん「そうなったらいいなぁ~」という淡い期待はありましたが。。




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阪神淡路大震災で授かった能力(10)

2012-01-28 | シリーズ「アズミックアート物語」1~20
「テレパスアート」の話の続きです。

阪神淡路大震災がきっかけとなって始まった「自動書記」による線描画(宇宙画)から、そんなふうにして自然に「ヒーリングアート」に移行し(2004年秋からはアクリル彩色による「テレパスアート」に変更)、今春で15周年を迎えます。

今日は、ごく初期の頃の印象に残っている絵についてお話します。
ある若い女性からおばあさん(祖母)の絵を頼まれました。その方はご高齢の上、(自宅か病院かは忘れましたが)病気で療養中ということでした。描いてみると(私の場合描き終わるまでどんな絵になるかは私自身にもわかりません。先にイメージが浮かんでそれを描くというのではありません)、なぜかそのおばあさんの若い頃の「お嫁入り」の風景になりました。

それは古風な(その当時のままの?)お嫁入り風景のようで、角隠しの「花嫁衣装姿」で、なぜか川船(渡し)に乗って岸辺に着いたところのようでした。
そして偶然にもその絵を描き終えた頃に、ちょうどそのおばあさんが亡くなったという知らせが来ました。
それで(その頃は電話で絵の説明をしていたのですが)その絵の意味を、彼女にお伝えしました。

もしかしたらそのおばあさんにとっては、若い頃のその初々しいお嫁入りの時が、「この世での最も仕合せな時」だったのかもしれない、と。
そして、おばあさんは死の床でその時の気持ちや風景をまざまざと思い浮かべながら、まるで自分が再度お嫁に行くような?華やいだ晴れやかな気持ちで、あの世(向こう岸)へと安心して渡って逝かれたのではないでしょうか?とお伝えしたのでした。

人はそんなふうに、死の間際にはもしかしたら「自分が最も幸せだった時のこと」を思い浮かべるのかもしれないと感じた、それはとても印象に残る絵でした。
またそれだけでは無く、一枚の絵がさまざまな重層的な意味を含んでいると感じます。

例えばこの絵では、かつてはお嫁に行くことはまるで「死に赴く」ぐらいの覚悟の要ることだったことを想像させます。
その絵には相手(花婿)の姿は描かれていませんでしたが、昔は「相手の顔も知らずに嫁ぐ」ことも多かったことでしょう。
「結婚は人生の墓場」という言葉もあるように、花嫁衣装が死に装束姿?の白無垢だったのも、そういう覚悟をうながすものでもあったのかもしれません。

それでもこの亡くなった女性にとっては、若かりし頃のそのお嫁入りの時こそが「最も心躍る期待に満ちた最高の時!」だったのではないでしょうか?

そしてそれはまた、「死」というものがそんなふうに決して暗いマイナスなものでは無く、遺された孫娘(絵を頼んだ人)に対してその女性(祖母)が、「死を決して怖れないように、また私の死を嘆かないように。私はとても幸せな気持ちで彼岸に渡って逝くのだからね。安心してね」ということを伝えたかったのではないかという気がします。

その絵を描かせていただき、「死」に対してもそういう観点から臨むことも出来るのだと私も初めて気づかせていただき、今でもとても感謝しています。

結婚するということは、ある意味で「エゴ」(自我)との闘い?という面もあるのかもしれませんが、「死」はそういう意味では「エゴ」の終わりというか、肉体の終わりではあっても、決して魂の終わりでは無く、そこからまた新しい人生が始まっていくのだということも、絵から教えられました。

まるでお嫁にいく(神の花嫁になる=宇宙と合体する!?)ような新鮮な気持ちで、
ワクワクと死んでいける時代がすでに来ているのかも?
かく言う私は誰よりも「こわがり」なので、エラソーなことは言えませんが。





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阪神淡路大震災で授かった能力(9)

2012-01-27 | シリーズ「アズミックアート物語」1~20
今日は(これまでの話を読まれた方はすでにご存知かと思いますが)、そのようにして生まれた線描画(宇宙から降りてきたメッセージ!?)を「どうして彩色するようになったか」といういきさつについて書きます。

1996年初夏にユカタン半島の遺跡を巡るツアーで出逢った彼が、まさかそのような彩色の能力があるなんて、当初私は全く知りませんでした。(彼と親しくなったのは実はある「本」がきっかけなのですが、この話についてはまた後日)
それまで彼と絵の話をしたこともなかったからです。

ある時、あるリゾート地で友人がやっているギャラリー&喫茶店で私と知人(本格的に絵を描いている人)との「二人展」をやらないかという誘いがあったのです。「お店の賑わいになるのなら」と気軽な気持ちで引き受けた私は、ほとんどをその知人に頼り、私は線描画を幾つかそのまま額に入れて飾ればいいだけだから~と、単純に考えていたのです。
額もわざわざ買うのでは無く、貸してくれるというので、ほんとに「楽ちん」と思って引き受けたのです。

ところが、展覧会が近づいても知人からは何の連絡も無く、私が出した問い合わせにも返事が来ないのです。
それでお店に迷惑はかけられないと思いその知人には断りを入れて、もう一人別の心当たりのあった人と一緒にやることに、急遽の変更になってしまいました。
(その別の人というのは、私の線描画を見て突如絵を描き始めた若い女性です)

そんな急な変更があったために、まるで私の絵がメインのような感じになってしまい、展示数も増えた上に、線描画は元々小さなサイズ(B5ぐらい?)の「落書き帖」に走り描きされたようなものなので、そのまま額に入れても(彩色無しでは)あまりにも全体の迫力が足り無いという気がしたのです。

それで困ってしまい彼に相談したところ、何と彼が自分がその彩色をしてもいいよと言い出したのです!
おまけに彼は「トレース」も出来、線描画を和紙に「拡大コピー」することも出来ると提案してくれたのです。

青天の霹靂でよく話を聞いてみると、実は彼は昔絵画教室で油絵を習ったことがあると言うではありませんか。

しかも(その頃の彼はある織物会社の企画部に十年近く働いていて)色を見分ける力もあるし、それまで別の会社でTシャツにロゴを描く仕事をしたこともあると言うのです。
これはもうほんとに願ったり叶ったりの嬉しいビッグニュース!でした。

話の途中ですが、このつづきはまた明日。今日はこれから出かけます。



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オーリングテストの話(6)

2012-01-26 | シリーズ「オーリングテストの話」
オーリングテストにより、今日はオーリングテストの話の続きを書きます。

オーリングテストの便利なところは、(私の経験から)
1)道具が要らず簡単に出来る
2)費用がかからない
3)覚えたらすぐその場で応用出来る
4)他の人にも教えたり、伝えたり出来る
5)いつでもどこでも誰でも使える
6)いつからでも始めることが出来、止めるのも全く自由に出来る
7)続けたいと思えばずっと続けられて、飽きが来ないし副作用も無い
8)一人でも出来るし、何人でも出来る
という点でしょうか。もちろん他にもいっぱいあると思いますが。

またその「効用」はいろいろあると思いますが、長年の体験で私たちの場合は
1)ケンカが格段に減ったこと
2)お互いに自分の意見とは違った結果も受け容れられるようになり、考えの幅が広がった
3)中庸の選択肢が増えて行動的になった
4)余分な手間や無駄が省けて(特に時間的ロスや経済的ロスが少なくて済み)助かることが多い
5)さまざまなものをテストしてみることによって興味の範囲が広がり、好奇心が満たされる
6)直感力が磨かれた
7)想像する以上に適確で役に立つ事が多く、人に感謝されることが増えた
9)意外な思い付きがあったり、素晴らしいひらめきやアイデアが湧く
10) 思いがけない道が拓けることがあり、ワクワクし、興味が尽きない
といったことを感じています。
もう今ではこれ無しの生活は考えられない程です。

だからと言って自分で考えることを止めてしまったわけではなく、逆になぜかだんだん直観が冴えてきて、オーリングテストをする前に(そのイメージをしただけで)、「結果が事前に想像出来る」ようになりつつある気がします。

例えば、ルナちゃんがお母さんと文字盤を使ってお話したり、人にメッセージを伝えたりする時に、お母さんのその指遣いがあまりにも早くて、端から見ていると、ルナちゃんでは無く、まるでお母さんが指示しているかのように誤解されがちですが、それは決してそうではないと思います。

私も(我流ですが)オーリングテストを長年やり続けていると、あまりにもその動作が早過ぎるので、勝手に結果を自分で出していると(人が私の腕を抑えるより先に自分自身で腕を下げているかのように!?)思われることも多いです。

私の一番好きなのは、誰かにオーリングテストを教えてあげて、その人がすぐその場でやってみて自分で確かめてみた結果に驚いて
「なんで~???」とびっくりする場面です。 そんなふうに驚く顔を見るのが何よりの楽しみです。

そういうわけでオーリングテストの面白い話は、これからもまだまだ続きます。

ところで、オーリングテストでやってはいけないことは、
1)人のことを勝手に忖度して、その結果をその人に(頼まれてもいないのに)知らせること
2)オーリングテストを強要したり、その結果を押し付けたりすること
3)信じない人やそれを今何も必要としていない人をバカにしたり、軽く見たりしないこと
4)結果に頼り過ぎたり、信じ込み過ぎたりしないこと
5)選択を「オーリングテスト」で決めたとしても、その結果をそのせいにしないこと
6)遊び半分でいい加減な態度でやらないこと
7)気持ちの乗らない時やいやな気持ちがする時は無理にやらないこと
8)自分の思う結果が出るまで何度もやり直したりしないこと
9)答えが出ても(そうしたくない時は)その答え通りにしなくてもいいこと
10)すぐにその通りにならなくてもかなり経ってからその結果や意味がわかることもあるので、「当たっていない!」とその答えを莫迦にしたりしないこと。
(どんな結果も尊重すること) 等々でしょうか。

以上、また他にも何か思い浮かんだら後日追加(補足)するかもしれません。

オーリングテストは使えば使うほど、その有用性がわかり、人生観が変わるような経験をすることもあるかもしれません。

でも例えば今年のバレンタインデーに 「チョコをあげるのをどうしよう?」などと、彼やボーイフレンド、本命や義理チョコの選択を、オーリングテストで「あげるか、あげないか 」って決めるのだけはやめて下さいね。

だって、これは一年一度のイベントで「迷うからこそ楽しい」のですからね

「巨大迷路」だって出口が先に分ってしまうと面白く無いでしょ

そういうわけで、明日はどんなお話になるやら、お楽しみに


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阪神淡路大震災で授かった能力(8)

2012-01-25 | シリーズ「アズミックアート物語」1~20
阪神淡路大震災がきっかけとなって突如授かった能力はさまざまありますが、今も続いているものもあり、自然に消えていったものもあります。今日はリーディング&ヒーリング能力、そして歌う能力について書きます。

1996年夏に広島に移った翌年の春、なぜかユカタン半島の遺跡巡りのツアーに参加することになりました。
(この前後のいきさつについてはまた別の機会に書きます)

そのツアーの中でもいろいろ不思議なことがありました。
ツアー最初の夜のことです。二人部屋で、私は知り合って間の無い広島の知人と同じ部屋だったのですが、その人が眠る前に自分の両腕をさすりながら、「昔からなぜか腕だけが冷えてね、、」と語り出したのです。

それで何気無くその腕を触ったら突然に「その腕が冷えるのはどうしてか」という、過去生?での彼女の体験を私がとうとうと話し出したのです。
それは本当に思いがけないことでしたが、彼女は泣き出して、うん、うんとうなづきながら聞いてくれて、(その話の間中私は彼女の腕を自然にさすっていたのですが)話終わる頃には「何だか腕があったかくなったわ」と言ってくれたのです。
そして、その後も冷えることなく「すっかり治ってしまった」と、広島に帰ってからも感謝され私の方がびっくりでした。

その能力は今も少しは残っているようで、時々人のからだに触れるとその箇所から伝わってくる情報などがなぜか自然にわかることがあります。例えば誰かをマッサージしながらそういう「情報」?がひとりでに私の口から出て来ることがあります。
特にそうしようと意識してやるのではなく、ただその部分の細胞?(DNA?)の記憶を読んで?それをそのままその人に伝えるような、そんな感じです。(それが果たして当たっているのかどうか?はわかりませんが。。)

この能力がどうやって芽生えたのかはわかりませんが、その前にメキシコの「太陽の道」と呼ばれているところにある遺跡の上で、私は指先を飛んで来た虫に刺されてしまい、 そのツアーに参加していた一人の日本人女性がその場で「ヒーリング」で治してくれたこととも、もしかしたら関係しているかもしれません。それは何かの毒虫だったようで、もの凄く痛くて指先が急激に腫れたのですが、彼女の治療のおかげでその場でほとんど良くなったのです!

それにはほんとうに感動しました。それは私にとって初めての「ヒーリング」体験でしたが、今でも彼女のヒーリング能力の高さはほんものだと信じています。
(あとで知ったのですが、彼女は東京でも名の知れたプロのヒーラー の方でした)
その彼女の手腕を(ヒーリングされながら)見つめているうちに、なぜかその能力が私にも移って来た?のではないかという気がします。

と、言うのも、そういうふうにして突然に「回路が開かれた」人が他にもいるからです。
私の描いた線描画を見て、「色が塗りたくなった」と絵のコピーに水彩絵の具で彩色してくれていたある若い女性が、急に自身も絵が描けるようになり、その後もどんどん描き続けるようになったりとか、展覧会に来てくれた子供がその場で同じような絵を描き出したりとかということもありました。
同じ部屋に置かれた二つの楽器のように、お互いに「共鳴」 するのかもしれませんね。

それから私の場合はその後、特に小鳥をヒーリングする機会が多くありました。
山の中で暮らしていた頃は、小鳥が突然に失速して落ちて気を失ったり、間違えて窓ガラスや木にぶつかって体のどこかを傷めるということがよくあったりして、そういう時には掌の中で小鳥をあたためてまた飛べるようにしてあげたりしました。
ある時、小鳥同士の喧嘩?(なわばり争い?)でやられたしまった方の小鳥を介抱していたら、その小鳥の「恐怖感」のようなものがまるで自分のことのように伝わって来ました。

このような能力が今でも続いているのかどうか?は(試す機会が今は少ないので)わかりませんが、貴重な体験でした。
即興で歌う能力も突然に開かれたのですが、こちらの方は今はほとんど消えているかもしれません。

長くなりますので、この話はまた今度。 ご愛読に感謝です。





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