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1995年の阪神淡路大震災がきっかけとなり自動書記で突如絵を描き始める 絵の仕事は26年目 ブログ光のチャレンジは11年

阪神淡路大震災で授かった能力(31)

2012-03-31 | 「アズミックアート物語」21~ その後
このシリーズもいつのまにか30回を越えました。

(オーリングテストに基づき)なぜか毎回話があちこち飛ぶので、読んで下さっている人も大変だろうなぁ~と想像していますが、書いている本人も「これまでどういう話を書いたのか?」全部を覚えてられないので、これからももしかしたら話が重複してしまうこともあるかもしれませんが、どうぞご海容を。

今回初めてこのシリーズを読まれる方のために、「これまでに書いた主な話」の大体の内容をまとめて下記にお知らせしておきます。(順不同)

☆ 阪神淡路大震災がきっかけでいきなり始まった「自動書記」(線描画)のこと、その前後のいきさつ
☆ 自動書記の他にも突如して拓かれた能力(料理、歌、作曲、ヒーリングなど)や「笛」づくりの話
☆ 阪神淡路大震災で亡くなった方への鎮魂曲/自作の歌詞(アウロラ)の紹介
☆ 魂の似顔絵「テレパスアート」(ヒーリングアート)がどのようにして生まれたか、そのいきさつなどの話
☆ 「宇宙画」の彩色に関する話

☆ 相棒(私の「線描画」を彩色してくれている)との出遇いの話
☆ 『岡本天明伝』の紹介(審神=サニワの必要性について)
☆ 阪神淡路大震災の前年に起きた(体を乗っ取られた?)「宮島参り」の体験談
☆ 「植物さんとの共同研究」をされていた三上晃先生の話(絵のエネルギー測定の話)& あわや新興宗教の「教祖」に祀り上げられそうになったアブナイ話
☆ 大阪での「宇宙画展覧会」(2001年)の話

☆ 私の「特異体質」?(真夜中の異言、柏手、霊動)にまつわるさまざまな体験談
☆ 「内観法」(吉本伊信先生)の話/(後年の再度の「内観」で逃げ出した!話)
☆ 「五井先生」に関する話(平和のポールの話)
☆ 「ひょっこりひょうたん島」の話(京都「平野神社」でのハープコンサートの紹介)
☆ 「ガイアシンフォニー」や、その映画の監督龍村仁さんとのささやかなエピソード

☆ 恐山のイタコの話。私の受けたカウンセリング体験など(優秀なカウンセラーとは?)
☆チャネリングや、バシャール、エクトン、ヘミシンクに関する本の話など
☆ 「銀河系まで意識を飛ばせる人」に「線描画」を瞑想で霊視?してもらった報告談
☆ 2000年問題~振り回された話
☆ 癒しの絵の話(いろいろな画家の紹介)/草間さんの展覧会の話

以上がこれまでに紹介した話ですが、このシリーズはフルコース!?料理のまだまだ「前菜」段階です。

(時にはワインで酔っぱらって「自己陶酔」したりして?)なかなかメインにまで辿り着けそうにありませんが、どうかこれからもお気長に(デザートとコーヒーが出るまで)お付き合いいただけましたら幸いです。

ご愛読に心から感謝です。


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オーリングテストの話(15)

2012-03-28 | シリーズ「オーリングテストの話」
オーリングテストは便利だが、人前でこれを使う時はいろいろ気を遣う。
「一体何をやってるんだ?」と奇異な目で見られることはざらにある。

古い話で恐縮だが、私と相棒が共同制作で描いた「宇宙画」の展覧会が大阪の旧セルヴィスギャラリーで2001年に開催されることになった時、ふと知り合った人のご縁で、ある「額縁専門店」を訪ねた。
絵の装幀をお願いするためであるが、その竿(額縁の枠)の材質や色を選ぶのに、私たちはオーリングテストをやりたかった。
「それ以外の方法で選ぶなんて考えられない」ぐらいにその頃はオーリングテストにはまっていたからだ。

それで、額縁一筋でやってこられたその道の専門家の方への気兼ねと遠慮もあり、最初はこっそりとバレないようにそれとなくオーリングテストをしながら竿を選んでいた。(内心ちょっとひやひやしながら、、)

けれども、その日は遠方から訪ねたために時間があまり無かったのと、持ち込んだ絵の数が多く、竿だけでは無く、マット(額と絵との間の余白にある押さえの厚紙)や、そのサイズや色なども決めなければならないし、その他にもいろんな専門知識も必要なので、だんだんにオーリングテストだけでは間に合わなくなり、結局その店のオーナーにかなりの部分をおまかせすることになった。

その専門家の方はたぶんこのような私たちを見て「不信感」?を抱かれたに違い無い。
あるいは心の中でちょっと軽蔑されていたかもしれないのだが、その後も顔を合わす度に「オーリングテストで決めますか?」と笑いながら冗談半分で尋ねられたりして、私たちはその度に赤面するはめになった。

実際のところ、その方が選んでくれた額と私たちがオーリングテストで選んだ額とでは、(もう今ではどれがどれだったか忘れてしまっているが)全くどちらも遜色無い出来映えで、彼が専門家の目で選んでくれた額はもちろんどれも私たちの気に入り、まさに絵にぴったり似合っていた。
否むしろオーリングテストで決める以上に、さらなるユニークさ(これはその方の感性の素晴らしさなのだろう)に輝いていたのでは?という気がする。

そしてその時に感じたことは、オーリングテストで選べば「ミスマッチ」は無い(それ以外には無い最高の組み合わせ!)と安心は出来るけれど、それよりも人にまかせた方が案外それを上回る「予想外」(想定外)の面白さや発見があるということだ。

例えば俳句や川柳などの句集を作る場合、よくあるような無難で手堅い「自選」の「自費出版」では無く、もし専門家にまかせて「他選」してもらい、編集やレイアウトなどもその道のプロの人にやってもらったなら、意外なヒットもあり得るかもしれない。
『有夫恋』(時実新子著/朝日新聞社)のようなベストセラーになることも無いとは言えない。

話が横道に逸れてしまったが、そういうわけで、それ以後の「額縁選び」は、もうすっかりその専門家の方にまかせてしまうことになった。
もちろん出来上がりが必ずしも私たちの好み通りでは無い時もあるけれど、それもまたよし!と思っている。

それじゃあ、一体「オーリングテスト」はどんな意味があるの?と思われる人もいるかもしれない。

上記の額縁選びで言うなら、その色、素材、かたち、サイズ、それに予算や本人の好み、観る側の好みや流行、飾られる場所や展覧会の雰囲気、目的、全体のまとまり、調和、その他技術も含め様々な要素を考慮する必要があるだろうが、普通は考えれば考える程どれがいいかわからなくなってしまうことだろう。

専門家は場数を踏んで、時には失敗もしながら、絵に合う装幀をするために必死に学んで来られ、また元来そういうことが好きだったり、直観が働いたり、鋭い感性を持っておられるに違いない。
それでもやはりどれをどう選ぶか、どれにするかを決めるのはかなり至難の技と思う。

オーリングテストの場合は一体どういう「基準」で(何を根拠にして)それを決めるのか、理由はわからないが、ともかくそういう全ての要素を網羅し、他にも何か特別の観点を加味して?まさに「一瞬」にして何のためらいも無く、「この絵にはこれ!」(これ以外には無い)と言わんばかりに、どんな場合も「一切の迷い無く」瞬時に決めることが出来るのだ。

それがまた不思議なことに、その結果が、自分が一つずつ意識的に時間をかけて選んだあげくの額装と、ぴったり同じである場合も多いのだ。そんな時のオーリングテストは(確認の意味で)、「あぁやっぱりこれでよかったんだ!」と思えてなお嬉しいものだ。

そしてそんな時にはオーリングテストがあってよかったなとつくづく思う。
だからオーリングテストが出来るからと言って、決して「専門家」が不要というわけでは無いのである。
それは「宇宙との共同創造作業」でもあるのかもしれない。

オーリグテストが「この絵にはこの額」というふうに決めた場合には、おそらく人間の側の都合や美意識以上の何か別の観点から(目に見えないけれど重要な要素なども考慮して?)決めているということも、もしかしたらあるのではという気がする。

例えばその素材が後にリサイクル出来るか?とか、有害物質を使っていないか?とか、将来その絵を買うことになる人物のこととか?
ともかく考えられるあらゆる要素が全て総合(統合)判断されて、その幾つもの可能性の中から「最高の選択が自動的に出来るシステム」が自然に出来上がっているのかもしれない。
そんなふうに考えると、オーリングテストが益々好きになってくる。

ちなみに私は昔あるところで店員をしていたことがあり、インテリア関係の売り場で「額」を売ったり絵に合うマットを選んだりする仕事をしていたことがある。
(この仕事はけっこう好きで気に入っていた)
その頃はまさか、将来自分がこのような絵を描く仕事をしたり、その額を「オーリングテスト」で選んだりすることになるとは全く想像さえしなかった。ほんとうに人生何が起こるかわからない。

いずれにしてもオーリングテストが誰からも奇異の目で見られることなく、どんなところでも自由にオープンに出来るような世の中に早くなって欲しいと思う。
そういう新しい時代が来たなら、たぶんもうその時にはオーリングテストが不要な世の中になっていることだろうが、、。



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オーリングテストの話(14)

2012-03-24 | シリーズ「オーリングテストの話」
「さがしもの発見器」というのが出来たそうだ。エアーブザーを鳴らすと本体のセンサーが感知して音で知らせてくれるそうだ。
「オーリングテスト」を使って探すことももちろん出来るが、けっこう時間がかかるので、それよりも私はこんな方法を使っている。(これは誰に教えてもらったかは忘れたが)普通に探すよりもこの方がずっと早く見つかることが多いので。

まず声に出して(声を出せない場所では心の中で)「さがしもの」に呼びかける。
例えばそれがメガネだとしたら、「メガネさん、メガネさん。私はあなたが必要なの。出て来てくれてありがとう!」と、自分がそのモノを必要としていることを訴えて、「すでに出て来てくれたかのように」感謝する。
そんなふうにぶつぶつ唱えながら部屋や洗面所や玄関、キッチン、庭などいろんなところを歩き廻る。
すると「あらっ!こんなところに置き忘れていた!」と意外な場所でふと見つかったりするのだ。

この方法も結局のところは、そのモノ(分子)と自分の細胞(記憶)とが「呼応」して出て来るのではないかと思うので、これも要するに「さがしもの発見器」と同じ原理?ではないかという気がするが、どうだろうか?
すなわち全ては元々みんなつながっていて、それは「一体」だからこそ、ただ忘れているだけで、「呼びかける」(呼び起こす)ことで、そのつながりが「起動」(励起)するというか、「復活」して、再び出合うことが出来るのでは?と思う。

だからこの原理はおそらく人にも当てはまることだろう。
誰かのことをふと思った瞬間にその人からの電話が鳴ったり、宅配が届いたり、郵便が来たりすることもよくある現象だ。
それをシンクロニシティ(共時性)と呼ぶことも出来るかもしれないが、いずれにしても、そのような「さがしもの発見器」のような道具があれば便利なこともあるかもしれないが、たとえそういうものが無くても、自分で出来るこのような簡単な方法もあるので、もしよかったら一度試してみられてはどうだろうか?

これは「どうしても見付けなければ~」という必死な感じでするよりも、(たとえ時間が無くあせっていたとしても)なるべくリラックスした状態で(ゲームのような感覚で半ば楽しみながら)やる方が、断然早く見つかるようだ。
私はだから鼻歌気分で(上記の「呪文」を口ずさみながら)探すことが多い。

それでも私が見つけるより、いつもなぜか相棒が先に見つけて助けてくれる確率の方が高いのは不思議だが、、。

さて、今日は午後からあるセミナーに出かけます。
今朝の私のオーリングテストによれば、ここで私は何か今後の自分の方向転換になるような出遇いがあるらしい?ので、それが何なのかワクワク楽しみです。
うまくいけばまたご報告しますね。

では、行ってきま~す!




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阪神淡路大震災で授かった能力(30)

2012-03-22 | 「アズミックアート物語」21~ その後
大阪中之島の「国立国際美術館」で開催中(4月8日まで)の「草間(弥)生展」を観てきました。
(「弥」生の「弥」という字は、ほんとうは旧字体で「弓の右側に爾」ですが、打ち出せなくてごめんなさい)

平日なので空いているかと思っていましたが、春休みに入っているためか、かなり混んでいました。
たまたま出かけたこの日(22日)は、偶然にも草間さんの83歳のお誕生日でした!

この会場ではお誕生日の特別なイベントは無かったのですが、(事前応募の)鑑賞者の映像を撮影し、作品への感想や草間さんへのメッセージと共にビデオにしたものを、本日ご本人にプレゼントされるとか。草間さんの喜ばれる姿が目に浮かぶようです。

会場に入ると彼女のメッセージ(詩)がまず目に入り、その言葉を読んだだけで私はもう胸がいっぱいになって、何だか涙が出そうでした。赤地に白の水玉でいっぱいの部屋、そして白地に赤い水玉の作品もあり、それを観ていると私にはなぜか「日の丸」が連想されて、佇んでいるだけで不思議なことに元気が出てきました。

たくさんの作品の中でも特に惹き付けられた絵があり、青と赤の補色のせいか、浮き上がって見えるので、係の人に「これは何かラメ入りとか特別な絵の具を使っているのですか?」と尋ねたら、そうですという答えでしたが、単に技術的なことを超えて、その絵を観ていると、細胞の奥の奥の方(超素粒子?)まで「活性化」してくるような気がしました。
(あとで知ったのですが、この絵は『愛のものがたり』というタイトルでした)

その他のどの絵も観る人を子供に戻すような凄い「蘇生力」を感じました。
鑑賞しているうちに「若返る」?というか、来場者の中には私と同年代のような熟年女性グループも多かったのですが、みなさん会場を出る頃には、さらにイキイキとしてくるようでした。もちろん私もワクワク、ウキウキと足取りも軽くなって、知らないうちに顔がほころんでいました。

画集に載っていた彼女の文章の中から、私の印象に残った言葉を下記に抜粋引用します。

『1つ1つの水玉をネガティブにした網の目の1量子の集積を以て、果てしない宇宙への無限を自分の位置から量りたい願望があった。
どの位の神秘の深さをこめて無限は宇宙の彼方に無限であるか。
それを感知することによって、1個の水玉である自分の生命を見たい。水玉 即ちミリオンの粒子の1点である私の命。
水玉の天文学的な集積が繋ぐ白い虚無の網によって、自分も他者も、宇宙のすべてをオブタレイト(消去)する
というマニフェスト(宣言)を発表したのは1959年であった。』

私はこの彼女自身の言葉に出会って、彼女の作品の意図するところが他の誰の解説を読むよりもより深く納得出来た気がしました。
子供の頃から何度も自殺を考え、死なないために、生きるために闘い続け、描き続けることで生きているという彼女。
その必死の想いと彼女の平和への強い願いが伝わってくるからこそ、どの作品もあれほどのエネルギーに満ち溢れているのかもしれません。彼女の言葉(詩)が胸を打つのも、その底に地球人類への深い「愛」が込められているからだと感じました。

最後に、この展覧会のために描かれたという「新作ポートレート」の3点の作品の中の『神をみつめていたわたし』を観て、この絵の明るさと力強さになぜかとても救われる思いがして、ほっとしました。
(どこかアンディウォーホルの作品とも共通するものを感じましたが、草間さんは彼とも親しい間柄だったようで、彼女の前衛的な芸術が彼に与えた影響も少なく無いようです)

絵ももちろんよかったですが、「幸福の彫刻たち」(巨大な南瓜、チューリップ、魂の灯)も忘れられません。
「魂の灯」は小部屋になっていて、そこに入ると電飾と鏡によって、まさに宇宙空間に居ることを実感させられます。
(ここは長蛇の列で、係の人がタイムスイッチで誘導していて1分間?ぐらいで出なければならないのが惜しかったですが、、)

ぜひ会期終了(4月8日)までに多くの人に足を運んで欲しいと思います。
(会場にはポストカードやTシャツ、ボールペン、バンダナ、ポスター、画集などたくさんのグッズが売られていましたが、その収入の一部は東日本大震災で被災した美術館などに贈られるそうです)

なお、『 THE BIG ISSUE 』(ビッグイシュー 日本版)183号(2012年1月15日号)の巻頭およびスペシャルインタビューは草間(弥)生さんです。
(『ビッグイシュー』は書店ではなく街路で「販売員さん」から買うしかないのですが)、ラッキーなことに、ちょうどこの国立国際美術館前の信号のところで、販売員さんがこの号を売っておられたので、手に入れることが出来ました。
(『ビッグイシュー』は1冊300円ですが、そのうち160円が販売員さんの収入になります。ビッグイシューを売ることで生計を立てやがて販売員さんが「野宿生活」を卒業していく支援をしているのです)

ついでながら、187号(2012年3月15日号)は、映画『マーガレット・サッチャー鉄の女の涙』で3度目のアカデミー賞を受賞したメリル・ストリープが巻頭です。
(この号の『ビッグイシュー』には彼女のスペシャルインタビューも掲載されています)
また同号には『いま、福島の子どもを守るには?』という特集も組まれていて、かなり読み応えがあります。
(5冊以上であればバックナンバーが通信販売で買えます。詳細は「ビッグイシュー日本」でネット検索してみてください)

話は元に戻りますが、彼女の作品の中にはアメーバー?のようなものがたくさん描かれている絵もあり、久しぶりに「宇宙とのつながり」を思い出すことが出来た半日でした。

彼女は「強迫観念」を抱えながらもそこから目を逸らすこと無く、作品に描くことで向き合い、「記録」し、常に「死」の恐怖を抱えながらもそれらと「共存」していくという、勇気ある選択を日々しているのです。
そのことに何よりも私は感銘を受け、「こんな私でも生きていていいのだ」と勇気をもらいました。

私もまた「原発」やこの「現実」(人間社会)を恐れながらも、それらをしっかりと見て、そして描くことで「忘却ではなく、記録すること。排除ではなく、共存という選択」をしていけたらと、、と。


下記の絵は『サルー』です。
(この題はエスペラント語の「サルートン」という挨拶の言葉がヒントになりました)
草間さんの絵の話の後で拙作を載せるのは少々気恥ずかしいのですが、どこか似ているものを感じたのも事実です。
(今日はどうも彼女の影響でかなりハイテンション!?になっているようです)




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阪神淡路大震災で授かった能力(29)

2012-03-21 | 「アズミックアート物語」21~ その後
「2000年問題」や「ノストルダムスの予言」、それから「フォトンベルト」、そして近年は「アセンション」や「2012年マヤの予言」など、一時騒がれましたが、正直な話、私自身も随分振り回されました。

情報の洪水の中でどれがほんとうなのか?誰の言っていることが正しいのか?を見分けることは、誰にとっても本当に難しいことと思います。
しかも私の場合はその「お先棒を担ぐ」ような?ことを仕事を通してやっていたので、「もしも自分の伝えることが間違っていたらどうしよう?」と真剣に悩んだ時もありました。
(今でも「確信」を持っているとは言い難いですが、、)

でも最近は、これは「情報を受け取る側の問題」(選択)という面もあると気が付いてきたので、自分の「責任」について思い悩むことが少し減ってきました。

「エクトン」(リチャード・ラビンさん)のチャネリングを受けた時に、「あなたは例えば人に炊飯器を手渡すと、その人が上手に炊けたかどうかをずっと気にして、次に会った時にどうだった?と尋ねて、使い方を教えようとしてしまうところがあるようですが、そういうことは必要ではありません。その人がうまく炊けるかどうかはその人にまかせることです。あなたの役目はその炊飯器をその人に渡すところまでです」と言われたのです。
このアドバイスは私の「肩の荷を下ろす」ことに非常に役立ってくれました。

また、別のカウンセラーのあるセミナーを受けた時に、「もしあなたが熱々の茹でたジャガイモを投げられたらどうしますか?」という問いかけがあり、(私はそれまでどういうことも拒否してはいけないとなぜか思っていたので)「私ならたぶんそのジャガイモを受け止めて何とかしてそれを落とさないように持っているだろうな」と、(てのひらが熱くて火傷しそうで困りながらも)それを(相手に投げ返すことや床に投げ捨てることなど思いもつかず)ずっと持ち続ける自分の姿が浮かびました。

そしてその時初めて「そうか、もし相手からそれを貰ったとしてもずっとそれを持ち続ける必要は無いし、そうしなくてもいいんだ!」とハッと気が付いたのです。
(それがどんなものであれ、自分が「それを選ぶかどうか」は自分自身で決められるのです)

また、ある本で野良犬の話を読んだ時もびっくりしました。野良犬を殴ったら犬は逃げていく。片方の手に棍棒を持ちながら犬に向かって「オイ、コラッ、コッチへ来んか!」「言うことを聞かないと殴るぞ!」といくら怒鳴っても、犬は決して寄り付かないし、それどころかそんな言葉など聞く前にすでに一目散に逃げ出していることだろう、、と。

ところが、人はなぜか自分がいじめられていてもそのことに気が付かなかったり、それどころかその相手に気に入られようとさえするのは不思議です。

最近読んだ『ヘルプ』(キャサリン・ストケット著/集英社文庫 上下)という本に出て来る5人の子持ちの黒人女性(ヘルプ)のミニーも、いつも夫に殴られながらもなぜか離れられなかったのですが、「自分のことを語る」ことで最後にやっと気づくのです。

この本は「人類が初めて月に第一歩を踏み入れた時代」や、その後の「ケネディー大統領が暗殺された時代」を背景に、ミシシッピー州のある町を舞台にして描かれた、「ヘルプ」として働く黒人メイドたちの差別問題を主に取り上げたベストセラー小説です。
そして白人女性同士の間にもあるさまざまな差別や軋轢、人間関係の葛藤、また価値観の違いに苦しむ親子関係や古い恋愛パターン(男女差別)なども取り上げていて、その人間観察は実に深く鋭いものがあります。
(まるで現在自分の周りで起こっていることであるかのように共感してしまいます)

中でもシーリアという女性はヒリーという女性リーダーに気に入られようと必死になるのですが、自分が嫌われていることにも気が付かず、いじめにあっている(ヒリーを怖れるグループの仲間からも無視されている)ことにも気が付かなかったりするのです。
いわゆる全く「空気が読めない」(ちょっと鈍感な?)タイプの女性なのですが、読んでいて思わず感情移入してしまいました。

どうしてここまで相手に気に入られようとするのだろう?と信じられないぐらいですが、それはまたかつての自分の姿とも重なって見えました。
「スピリチュアルな会」だからといって、そういうことが無いとは言えませんし、精神的なリーダーから見捨てられたり、無視されるのはその人を尊敬している場合はなおさらつらいものがあることでしょう、、。

もしもそういうことがあった場合は、それを「熱々のじゃがいも」だと思えば、別にそれをそのまま受け止める必要は無く、「もっと自分に合うよいものを探す」ことも出来るのです。火傷から身を守るためにそれを床に投げ捨てたとしてもオッケー!なのです。

この私も(恥ずかしながら)これまでどれだけたくさんの人の「追っかけ」をしてきたことでしょうか。
誰かが「答え」を持っているに違いないと、いつも外側ばかりを見ていました。
そしてそのような人たちから言われたことは素直に実践していました。

2000年問題の時は、どれだけたくさんの水やら、炭やらを用意したことでしょうか。その時に準備した卓上カセットコンロなどまだ一度も出番の無いまま、予備用の大量のプロパンガスボンベと共に未だに押し入れを独占しています。

最初は「あんな人の言うことを真に受けてしまって、、」と相手のせいにしたり、自分を責めたりしていましたが、今では「笑い話」になりました。それもまた自分の「選択」だったのだと思えるようになり、自分のアホさ加減もゆるせるようになりました。

おかげで現在このような話をブログに書けるし、「話の種」も尽きることが無く、しっかり「元を取っている」のかも?
今でも「失敗」?は尽きませんが、それもみんな「体験」 と思えば気が楽です。

これからもいろんなことに関心を持って、興味を引かれるものにはとりあえず参加してみて、その結果を自分の中で咀嚼し、自分なりの分析と視点でシェアしていけたらと思っています。
(それを役立てるかどうかは読んだ人の「選択」ということで、、)

「ヘルプ」は映画になり、封切りは今月末 なのでさっそく観に行こうと楽しみにしています。

写真は『マドンナ』です。




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