たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

お盆と日本人 <大阪うめきた 梅田墓に「大坂七墓」物証の人骨200体>を読んで

2017-08-13 | 宗教とは 神社・寺・教会 信仰

170813 お盆と日本人 <大阪うめきた梅田墓に「大坂七墓」物証の人骨200体>を読んで

 

今年はお盆休みが「山の日」休日もあって長期間の人も多いのではと思います。幸い巨大台風ノルーが過ぎ去って穏やか(暑さは仕方ないですが)な天候でお墓参りやそれぞれの地域特有の行事、各家庭の祖先供養が行われていることでしょう。

 

葬送文化は時代性・地域性を反映して、少しずつ、場合によっては大きく変わってきた、いや変わらないまま、見方によっていろいろな様相を示すかもしれません。

 

そんなことをつい書く気になったのは、昨日の毎日夕刊の見出し記事に驚かされたからです。

 

だいたい「梅田墓」といってもぴんと来ないですね。関西の地理・地下鉄駅にうといといっても、「梅田」くらいは知っていますが、そこに墓域があって「梅田墓」と呼ばれていたということまではなかなか結びつきません。

 

<JR大阪駅北側の再開発区域「うめきた」(大阪市北区)に江戸~明治時代にかけてあった「梅田墓(ばか)」の発掘調査で、200体以上の埋葬人骨が見つかった。>というのですね。

 

<梅田墓は、江戸期に庶民の間で流行した盆行事「大坂七墓巡り」の1カ所に数えられ、近松門左衛門の「曽根崎心中」や井原西鶴の「好色二代男」にも登場する>というのですから、江戸時代から有名な墓場だったわけですね。

 

驚いたのは、一つは大坂でいま最も発展著しい「うめきた」がわずか100年くらい前まで墓場だったということです。当時の梅田周辺の土地利用は知りませんが、中之島からでもさほど離れているわけでもないわけですから、辺鄙な郊外とはいえないでしょう。そんな場所に火葬・土葬が入り交じった墓地が作られていたということが、当時の墓地に対する意識を考えるヒントにもなるかなと思うのです。

 

そういえば、谷中墓地も青山霊園、雑司ヶ谷霊園など、前2者は訪れたことがあり雰囲気のいいところですが、いまでは東京都の中心街からそれほど離れていませんね。でも「うめきた」なみに、東京駅の北は皇居ですから無理ですが南の八重洲付近に墓地があったなんて想像できませんね。

 

江戸時代における大坂の活気と生死をも飲み込む多様な文化を取り入れる素地が、そういう土地利用を可能にしたのでしょうか。

 

土葬と火葬が混在というのも興味深いですね。<調査では、きれいな盛り土の層に整然と並ぶ棺桶(かんおけ)に入った状態で土葬された人骨が見つかった。一方、火葬されて骨つぼごと穴に投げ込まれたような状態で見つかったものや、骨つぼに入れられず、同じ場所に何層にも重なって埋葬された痕跡も確認されるなど、多様な埋葬形態が明らかになった。>

 

<調査した大阪文化財研究所の岡村勝行・東淀川調査事務所長は「江戸期の大阪では、火葬が大半だったとする史料が残されているが、土葬もかなりあったことが明らかになった。多様な埋葬形態は、時期の違いや貧富・身分の差によるものかもしれない」と話す。>ということですが、私自身は都市域での火葬はかなり大変だったのではないかと思うのです。

 

当時は燃やす施設も簡易なもので、燃やす材料も木や藁しかなく、日中は臭気や煙が大変で、夜中に燃やすのですが、それでも朝まで燃やしても容易に焼骨までならなかったと言われています。

 

江戸では、北千住に火葬場があったそうで、解体新書を書き上げた前野良沢、杉田玄白らは毎日のように通って死体を解剖して、オランダ原書を翻訳することに成功したという記憶です。つまり、江戸市中というより、芭蕉が奥の細道の出発点とした郊外地にあったという記憶なのです。

 

むろん、現在の拾骨儀式もありません。それだけの方法を採用するには、明治以降の先進的な火葬技術の進展をまたないと行けなかったわけです。ですから、いま斎場(火葬場とはいわないですね)で行われている拾骨儀式は戦後に普及したものですね。

 

もう一つこの記事で驚いたのは、土葬された遺骨の形態です。まさに屈葬です。高層ビルをバックに発掘現場が丁寧に撮影された写真では、そこに写っている遺骨はいずれもきちんと尾骨を中心に横に折れ曲げられています。

 

私が四半世紀前から愛読している?『火葬の文化』の著者・鯖田豊之氏は同書で、スイスの遣日使節団長アンベールが『幕末日本図絵』下で「遺体を折りまげてのかめやたるへの屈葬」を詳細に記述しているのを引用しながら、例外は皇女和宮の寝棺だけで上は徳川将軍から末端まで座棺収容の屈葬だったというのです。

 

明治以降も戦前までは、経済的に豊かな一部が寝棺を使用していますが、「全体としては第二次大戦直後まで土葬、火葬の別なく座棺が圧倒的だった。」というのです。

 

むろん、梅田墓も座棺屈葬であるのは当然です。ではなぜ座棺屈葬なのかについて、鯖田氏は、「胎児の姿勢をとらせるためより、故人の再帰迷奔をふせぐのがねらいともいわれるが、真偽のほどはわからない。」というのです。

 

私のような素人にはわかるはずもないですが、縄文時代から続いているのではないかと思うのです。すると、屈葬には日本人としてなにか重要なDNAなり血統なりの継承の意味があったのかもと考えてしまいます。そういう意味不明の議論はここまでとします。

 

私が屈葬を取り上げたのは、拾骨といういまでは当たり前のように行われている葬送作法の一つが寝棺となり、さらに火葬技術の向上によって初めて成り立ったという文化というか習俗というか、それを一言指摘したかったからです。それもわずか70年にも満たないような葬送作法でしょうか。

 

それは仏教でも儒教でも、ある種の宗教的な教理によるものではないことを改めて指摘しておきたかったわけです。鎌倉新仏教において初めて個人の心の問題を対象にするようになったともいわれます。葬送方法もその頃から次第に形成し、檀家制度を経てかなり実体を伴うようになり、戦後の経済成長の中でより進化したのではないかと思います。

 

それは個人の選択の問題でもあり、仏教を含む宗教団体、宗教者の対応の問題でもあり、いまはやりの各種葬儀業者の問題でもあるのでしょう。

 

最後に、二人の知見を紹介しておきます。

 

新谷尚紀著『「お葬式」の日本史』で、盂蘭盆会を含む葬送儀礼について、「日本の歴史では盆行事は、まず死者への供養が主であった。それは奈良時代や平安時代のことである。そして鎌倉時代になると、孟蘭盆会とともに万灯会、そして施餓鬼会がとりおこなわれるようになる。」とし、「供養の対象を先祖の霊から餓鬼の世界に墜ちたあらゆる霊に広げた施餓鬼供養は、仏教の浸透にさらに拍車をかけることになった。」というのです。

 

そして江戸時代の檀家制度と本山末寺制度です。新谷氏は「寺と檀家との結びつきが密接になると、一般民衆の墓は「寺院墓地」に設けられるようになった。一度檀家になった寺からの離脱を禁止し、一宗一寺の原則を敷き、民衆支配の機能を強化する。」と指摘します。

 

そして「戸籍業務を一手に引き受けた寺はしだいに尊大になっていった。庶民に対しても葬儀を強要する風潮が生まれたが、それは「五条日宗門檀那請合之旋」によるところが大きかったとされている。」のですが、この掟が「真っ赤な偽文書」だったというのです。

 

その偽の掟には「(宗派の祖師の法要、釈迦の死去した日、孟蘭盆会、彼岸と各人に先祖の命日には必ず寺に参拝すること)とし、これに参加しないものは吟味するというのである。」など現代の葬式儀礼につながる細かな指示が次々と打ち出されているのです。

 

決して庶民の自由な意思で選んだり、地域の自然な慣習から生まれたものでもないですし、仏教本来の教理から導き出されたものではないのです。

 

私はいま、現在の盂蘭盆会を含むさまざまな行事を廃せといっているのではないのです。仏教者を含む宗教者も、世俗の人々も、改めて何のために行うかを心に問いかけて、真の思いを尽くすことに叡智を傾け、行動する必要を感じているのです。

 

山折哲雄氏はなんどかお会いする機会があり、いつもその柔らかな語り口としっかりした内容に敬意を抱いてきた方であり、その著作も大変な量の一部ですが、愛読しています。その山折氏の著作『仏教とは何か』で、日本人抱く「先祖崇拝 その構造」という見出しの中で、仏教伝来を推進した蘇我氏が疫病の流行に直面し、当初より祟りが問題となり、その後政権を巡る殺戮を通して祟りと鎮魂が何世紀にもわたって支配するようになったというのです。

 

そのことについて山折氏は「このような「崇り」と「鎮魂」というメカニズムが、日本人の宗教意識の根底をつらぬく特質であった。その骨格はほぼ平安時代において定まったということができるが、それがやがて民間にも深く浸透していった。その結果として、われわれの先祖の霊もまた崇るという観念がしだいに定着していった。」というのです。

 

先祖崇拝と祟り・鎮魂の結びつきは、仏教の役割の変化、庶民に普及する過程で強固なものになったかもしれません。

 

山折氏は「先祖の霊にたいする供養をおろそかにするとき、その先祖の霊はかならずや何らかの形で崇りをなすであろう。それが先祖供養を支える中心的な観念であった。納骨や墓供養の問題がでてくるのも、そのような観念がしだいに強力なものとなっていったからなのである。」として、戦争中の「英霊」へも言及しています。

 

さらに山折氏は「こうして先祖や死者のための墓を建て、一定の時期に祭紀と供養をおこなうことが、子孫たるものや関係者たちのつとめとされるようになった。生きのこった者たちの家内の安全と幸福を約束する道であるとされるようになった。家の永続と子孫の繁栄は先祖の加護によってこそはじめて可能になるということがつよく信じられるようになったのである。」と明言しています。

 

ただ、それはこれまでの先祖供養の観念です。山折氏は現代世相の変転について常に心を砕いています。

 

山折氏は、その事実をしっかりと見据えて、次のように一人一人に訴えかけているように思えるのです。

 

「いま先祖供養の問題は、新たな展望のもとに位置づけられるべき段階にきているのではないであろうか。それはもはや、たんなる死者供養や霊魂信仰にとどまるものではない。先祖供養の課題は、それらの枠組みをとびこえて、むしろわれわれの日常化した現実生活を組みかえる、もう一つの人間関係を暗示しているようにもみられるからである。生きている者同士の、しばしば硬直化しかねない人間関係にたいし、生者と死者とのあいだに対話や連帯のパイプをとおす、深みのある人間関係をそれはひそかに主張しているようにもみえるのである。

 

先祖供養の問題は、今後はたして、あいもかわらず日本人の宗教意識を規定する固有の信念体系として受容されていくのであろうか。それとも、そのような枠組みを踏み破って、さらに広い普遍の場に歩みだしていくのであろうか。

 

いずれにしても、日本の仏教者は、そろそろこの先祖供養の問題を、正面から本気で考えるべきときにさしかかっているように私には思われるのである。」

 

そうです。私が言いたかったのは、山折氏の最後の言葉です。

 

今日はこの辺で終わりとします。2時間かけました。