180603 認知症と人 <介護職員 「我慢も限界」 抱きつかれ、殴られ>などを読みながら
最近、介護施設を訪れる機会が増えてきました。別に私の近未来を予定して下準備をしているわけではありません。
昨日のNHK番組だったと思いますが、ある50代の単身女性で非正規労働を続けていてシェアハウスの5万円弱の家賃を払うと残りは5万円強の給料しかもらえず、病気でもするとたちまち生活に窮する厳しい現状が取り上げられていました。その方は、そのような状況でも月に一度でしたか遠く離れた実家に通って、一人暮らしをしている父親のために買い出しや掃除などをしているというのです。父親は、80代でしたか、手足は動くものの衰えが目立つ様子ですが、自分は絶対に施設には入らない、自宅で死ぬと頑張っているのです。
私自身、病院も介護施設も縁のない世界でありたいと思っています。違った意味で父親の気持ちは少し理解できます。でも最近では高齢になると病院か介護施設に入ることが当たり前になりつつありますね。
では介護施設はいったいどんなところなのでしょう。私が担当している方(後見とか保佐ですので財産管理がメインです)をお見舞いして訪ねる程度ですので、実態はよくわかりません。それでもほとんどの職員の方は笑顔で接してくれますし、とても動きがスムーズです。介護施設で要請されている介護サービスはしっかりと提供されているように思えます。
ただ、問題がないかというと、私のようにたまに訪問するくらいだとなかなか実情はみえてきませんね。一方で介護職員による虐待やハラスメントがあるかと思えば、他方で利用者による介護職員に対するハラスメントや暴力・暴言もあるようです。
今回は後者を取り上げてみようかと思います。毎日の昨夕記事<介護職員「我慢も限界」 抱きつかれ、殴られ 現場「2人1組の体制を」>はその実情を述べています。
<施設の扉を開けようとすると、いきなり背後から認知症の60代男性に抱きつかれた。無言で見つめられ、女性は身動きできなかった。>
このときはベテラン職員が男性を止めて助かったのですが、その後の言葉は信じられません。
<ベテランの女性職員は、慌てて男性を制止した後、険しい顔で女性に告げた。「隙(すき)を見せたあんたが悪い」。まさか自分が怒られると想像していなかったが「すみません」と頭を下げた。>
次は<元会社経営者という80代男性は介助の度に性的な関係を求めてきた。拒否すると「俺は客だぞ」と開き直る。>それで上司に相談してもその対応がひどいのです。
<「お客様だから我慢して」「年寄りだから気にしなければいい」と取り合ってくれなかった。>
暴力も男性・女性の利用者を問わずあるようです(私も聞いたことがあります)。
<暴力も頻繁に受けた。認知症の60代男性をお風呂に入れようとしたら、突然殴られて壁にぶつかった。以降、この男性が怖くなり、近付かないようにした。女性の入所者に爪で引っかかれることもよくあり、腕に傷が絶えない。言葉のかけ方を工夫したり、腕にタオルを巻いたりして対応しているという。>
統計的情報としてもありますね。<似た経験は、多くの介護職にある。福祉職員の労働組合「日本介護クラフトユニオン」が4月にまとめた組合員アンケートでは、29%が利用者や家族からセクハラを受けていた。上司や同僚に相談した人の47%は状況が「変わらなかった」という。>
それで施設側や上司は、介護職員に我慢することを求めているようです。これは明らかにおかしいですね。
<現場からは2人で介助できる体制の整備を求める声が上がっている。【原田啓之】>ということですが、現状の定員数ですら足りない状況で、2人体制を敷くというのは実効性に乏しいかもしれません。
なにか基本的なところで問題があるように思うのです。介護施設を訪れると、とても静かです。認知症といっても軽度な方も結構入所されているのですが、会話を楽しむような様子はあまり見られないように思います。家族が面会に来たときは話していますが、利用者同士で気軽に話したり、楽しんだりという感じはあまり見かけません。
そのような状態だと、ますます認知症が進んで、他方で、介護職員が少ないスタッフで迅速的確に介護サービスを提供していると、職員と利用者との会話や触れ合い、アイコンタクトといった、人間的触れ合いがほとんど失われていくのではないかと思うのです。ユマニチュードに反する介護対応がかえって認知症高齢者に異様な心理状態というか、異様な言動をとらせる危険を増やしているのではないかと懸念します。
認知症になると本性が現れるといった話をどこかで聞いたことがありますが、ほんとかなと思うのです。むろん高齢化や認知症が進むと、自己コントロールというものが衰えてきて、人間の欲望が露わになるということもあるかもしれませんが。その現れ方は人それぞれでしょうから、怒りを露わにする人、性的感情を抑えられない人、侮蔑的な言動をする人、いろいろかもしれません。それは介護職員がまじめに丁寧に対応しているか否かに関係なくありうるのではと思うのです。
それが人間の本性なのかどうかはわかりません。ただ、私はユマニチュードを信頼したいと思います。その神髄を理解し技術を習得して、心から接すれば、決して人は悪い本性を出さないで済むのではと思っています。
今朝の毎日記事では<セカンドステージ認知症とかかわる 介護予防に「サロン」づくり>と予防対策を身近な社会の中で生み出そうと努力している地域の取り組みが紹介されています。自らも認知症にならない努力を自宅生活の中で楽しみながらやることも大事でしょう。そして施設に入ってもその継続が必要ではないかと思うのです。サロンのあり方も、これから従来のものに拘泥しないで、さまざまなものを工夫してもいいかと思うのです。
最後に、少し違った視点に立った<がんドクトルの人間学超高齢社会を生きるには=山口建(県立静岡がんセンター総長)>の記事では、山口氏は50代から「喪失の時代」と呼んで、まるで暗黒の世界のようにみる一方で、彼は個人的にも、社会的にも工夫の必要を訴えているようです。<自分の身体をいたわって、可能な限り「健康寿命」を保つように心がけます。>
もう一つは心構えです。それがいいたかったのではないかと思います。
<「豊かな心」を育むことで心を落ち着けることができます。「豊かな心」の構成要素は人によってさまざまですが、個人的には、「生老病死を運命として受け入れること」「森羅万象、特に身の回りの全てのことを見つめ直し、新たな発見を楽しむこと」「家族、友人、同僚、社会との絆を大切にし、感謝の念を忘れないこと」「幸せのハードルを下げ、家族や友人に囲まれた普段通りの生活といった当たり前のことに幸せを見いだせること」「自分を知り、小さくても良いから生きがいを持つこと」などが大切だと思います。>
同世代なので、考えることもそう大きく変わらないのかもしれませんが、おおむね賛成です。
そうすれば日野原重明氏のように、生涯現役で、大往生ができるのかもしれません。いや、人の命は自然の寿命に任せて、おおらかに生き、死ぬことで、認知症や健康への不安も気にならないかもしれません。
駄文が長くなりすぎました。このへんでおしまい。また明日。