たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

柔道の技の魅力とリスク <柔道事故 手足に障害、県敗訴 1.2億円支払い命じる>を読んで

2017-04-25 | リスクと対応の多様性

170425 柔道の技の魅力とリスク <柔道事故 手足に障害、県敗訴 1.2億円支払い命じる>を読んで

 

今朝も清々しい空気に包まれ、ウグイスが気持ちよさそうにまだ未熟な歌声を奏でています。相変わらずホオジロも一筆啓上を繰り返しています。静寂な中に生き物の活気を感じさせてくれます。

 

その雰囲気をベランダに出て、一杯の野菜ジュースを飲みながら、しばらく堪能しました。でもそうのんびりできません。出かける前に、サンルーフ用のポリカーボネートの波板が長すぎて、雨水が樋に落ちないで、そのまま落下する状態なので、これを短く切断しないといけません。それで波板ばさみというそれ専用のハサミを買ってきていたので、今朝は切断作業です。やはり素人、うまく切れません。力任せに切ると、斜めになったり、凸凹になってしまいます。これでは切れないなとあきらめかけたのですが、ハサミの形状が波打っていることから、これを波板の形状に合わせて切ればどうだろうと、試してみると、意外と簡単に切れました。これが分かったのがジグザグでめちゃくちゃに切った32を終えた後でした。説明書きでも読んでいれば、もう少しちゃんと切れたのにとは後の祭りです。

 

後の祭りはまだありました。そうやって樋に雨水が入るように短くしたのはいいのですが、こんどはピンで押さえつけていた部分が簡単にとれてしまうようになりました。波板が長すぎた分、無理矢理押さえ込んでいたのが、短くなり、ピンで押さえつけていた箇所のクッションが圧縮されすぎていたので、ピンが緩んでしまったのです。これではもう一度、穴家とピン押さえの作業が必要です。なんとも情けない話しで、まだこの波板張りは続きそうです。

 

と素人作業は進まないのですが、仕事の方は、今日は順調に和解成立し、今度は即決和解の申立をして、ある土地引渡請求事件が短期間で解決できそうになりました。大変な量の土砂・重機、産廃などがあり、訴訟になると時間がかかるなと心配していましたが、案ずるより産むが易しということもあります。といってもこれから計画通り進行するよう報告・現場立入など履行確保手段を実施して、監視体制をしっかりしていかないといけないと思っています。

 

さて、そろそろ本日のテーマに入りたいと思います。柔道の技の魅力とリスクというと、それは柔道という言葉を他の格闘技やスポーツに変えても通用する内容です。

 

そういえば、一昨日は井岡選手の14戦連勝記録達成のボクシング試合がありましたね。彼の鋭いパンチと安定した防御センスは見事です。力道山を直接見て感激した後、具志堅用高など活躍するボクシングファンになっていきましたが、今なおその技の魅力に時間を忘れてしまいます。

 

元に戻って、柔道も私の好きなスポーツ?格闘技?です。一応、耳に痕跡が残る程度には練習しました。嘉納治五郎のようにほんとに柔よく剛を制するという魅力はいまなかなか見ることができませんが、それでもやはり力に頼らず、体勢をいかに崩し、あるいは相手の腕の勢いを制しながら、縦横無尽に技をかけるような試合を見ることが出来ると、柔道の魅力が理解されると思うのです。

 

しかし、他方で、そのリスクは他のスポーツ以上にあるように思います。上段者がそうとうレベルの低い人を相手にするような場合だと、どのように投げても相手への衝撃がないように配慮するのが普通です。むろん上段者同志では切磋琢磨するので怪我をすることも少なくないでしょうが、その程度は深刻なものになることは少ないように思います。しかし、まだ経験の浅い人同士が柔道をすると、大きなリスクを孕むことになるでしょう。それは地からの入り具合や技の威力を知らない、無理な体勢で投げてしまう、相手への配慮まで働かないなど、いろいろな要因があるように思うのです。練習中でも必死にやっていれば、事故は起こります。ましてや試合中だと双方必死ですので、審判がいても危ない状態のまま倒れてしまうこともあります。

 

さて、<柔道事故手足に障害、県敗訴 1.2億円支払い命じる 福岡地裁判決>の事件は、詳細が報道されていないものの、記事によると<福岡県の県立高校の武道大会で柔道の試合中にけがをして手足に障害が残ったのは、教諭らが必要な指導を怠ったためとして、同校の生徒だった男性(22)と両親が県を相手取って計2億6800万円の損害賠償を求めた訴訟で、福岡地裁(平田直人裁判長)は24日、県に約1億2000万円の支払いを命じた。>とのこと。

 

そのけがの経緯については<相手に払い腰を掛けようとしてバランスを崩し、左側頭部から転倒。頸髄(けいずい)損傷などによって両手足に障害が残り、車椅子生活となった。>ということです。払い腰をかけようとした場合バランスを崩すというのはよくあることですし、ちょっとしたことで転倒しますし、相手がバランスを崩した状態を利用して技をかけることもあるでしょう。この技の掛け合い、あるいはバランスを崩して転倒したといったことで、指導教諭に責任を問うということはどういうことでしょう。

 

<平田裁判長は「大会はクラス対抗形式で競争心や顕示欲を必要以上にあおりかねないが、大会固有の危険性を十分に説明したとは認められない。安全指導の基本を欠いていた」と指摘。>とか、<前年度の大会で2件の事故が起きたのに予防策を協議した形跡もない>とか取り上げて、注意義務を認めていますが、これではよくわかりません。

 

大会固有の危険性とはなんでしょう。安全指導の基本を欠いていたというのですが、これだけでは予防的な意味も、結果回避策も具体性を欠き、有効とは思えません。と、簡単な記事だけで判決批判はしてはいけません。私もこれまで多くの事件が報道で取り上げられ、短い記事の場合などはとても的確な判決批評ができないと思っていました。

 

むろん判決文自体も事実認定などは、判決理由に結びつくのみを取り上げて多くの事実関係を省いてしまうのが普通で、そのような判決文の内容だけで判決批評をする論者もいますが、私自身はあまり評価していません。

 

話を戻します。練習中の事故の場合だと、その練習方法やその生徒の体調・能力などからリスクの程度もより明確になるかと思います。そのような事情を勘案して指導すべき注意義務も明確化しやすいように思いますが、試合となると、簡単ではないように思えるのです。

 

ここで、練習中の事故で頭部を受傷したのに、練習を継続させ、急性硬膜下血腫で死亡した事故について、学校側に安全配慮義務違反があったと認定した平成25514日の大津地判(判例時報219968頁)を取り上げてみたいと思います。

 

同地判では、まず、「学校の教育活動の一環として行われる課外のクラブ活動(部活動)において、生徒は担当教諭の指導監督に従って行動するのであるから、担当教諭は、できる限り生徒の安全にかかわる事故の危険性を具体的に予見し、その予見に基づいて当該事故の発生を未然に防止する措置を執り、クラブ活動中の生徒を保護すべき注意義務を負うものというべきである。」とクラブ活動一般について注意義務を担当教諭に課しています。

 

次に、柔道の場合について「技能を競い合う格闘技である柔道には、本来的に一定の危険が内在しているから、課外のクラブ活動としての柔道の指導、特に、心身共に未発達な中学校の生徒に対する柔道の指導にあっては、その指導に当たる者は、柔道の試合又は練習によって生ずるおそれのある危険から生徒を保護するために、常に安全面に十分な配慮をし、事故の発生を未然に防止すべき一般的な注意義務を負うものというべきである。」とよりリスクへの予防という一般的な注意義務を認めています。

 

さらに具体的な注意義務として、

「①生徒の実態(発育・発達段階、体力・運動能力、運動経験、既往症、意欲等)に応じた合理的で無理のない活動計画を作成する義務、

②練習中に怪我や事故が生じないように、練習メニューに頸部の強化トレーニングを盛り込むなどして、生徒が確実に受け身を習得することができるように指導する義務及び

③部員の健康状態を常に監視し、部員の健康状態に異常が生じないように配慮し、部員に何らかの異常を発見した場合には、その状態を確認し、必要に応じて医療機関への受診を指示し又は搬送を手配すべき義務」

を負っていたとして、前記の頭部への受傷があったことから、③の義務違反を認めています。

 

そして「柔道部顧問が同生徒の異変を認識した時点において直ちに練習を中止し、専門の脳外科を受診するなどしていれば、救命可能性はあった」としています。この点はどのように因果関係を認定したか、気になるところです。

 

いずれにしても、練習中の事故ということ、また、負傷後も練習を中止せず、継続させている点など問題にされてよいかと思います。とはいえ、柔道はもちろん他のスポーツでも、ある程度の負傷があっても本人が大丈夫だというと医療機関の判断を仰がず、自分の経験だけで判断して練習を継続させていることが少なくないのではと懸念しています。

 

さて、この大津地裁の判断基準は一応、目安にはなりますが、福岡地判の事案にどうあてはまるかと考えると、事実関係も明確でなく、相当異なるようにも思えますので、前記の①、②だけで判断できるか疑問です。③は試合中、負傷するまで、事故を予見できたと考えにくいので、これも当てはまりにくいかなと思うのです。

 

いずれにしても、福岡地裁の判決文を見ないとなんともいえません。控訴されるような事案かもしれません。

 

柔道はすばらしいスポーツです。嘉納治五郎の柔道にかけた情熱、その技の記録は卓越したものです。しかし、一般の人が柔道に取り組むとき、その安全配慮の適切なマニュアルが必要な時代かもしれません。嘉納治五郎の書籍を読めば理解できるのかもしれませんが。

 

今日はこれで終わりとします。

 


情報化施工 <働き方改革を促すデジタル野帳「eYACHO」・・>を読んで

2017-04-24 | AI IT IoT

170424 情報化施工 <働き方改革を促すデジタル野帳「eYACHO」・・>を読んで

 

今朝も快晴でした。昨日やり残したサンルーフ用ポリカーボネートの波板屋根を取り付ける作業を早朝からやり始め、ようやくできあがりました。この波板を取り付けるのに、穴を開けないといけないのですが、少しけちって安物の充電式ドリルを買ったところ、力がなく、やり方もよくわからなかったため、途中で充電が切れ、波板6枚に一枚につき9個の穴開け作業を予定していたのですが、6枚の端っこだけ穴開けが終わったところで充電が切れてしまい、そのまま放置していると風で飛ばされる状況でしたので、仕事に出る前に作業を終える必要があったのです。

 

ところが、昨日と打って変わって、作業が迅速になりました。ちょっと押さえ込むとあっという間に穴が開きました。安物だから力がないと勝手に思い込んでいたためで、要領が分かると、どんどん穴が開いていきました。でも最初は丁寧でしたが、どんどんあらっぽくなり、少しずれても平気で開けていましたら、波板の底付近に穴を開けてしまい、すると押さえつけるピン状のものがきちんと止まらないで、ぶらぶらしています。一つくらいはいいかと、にわか大工ですので、自分で納得。少し高い位置での作業ですので、滑り落ちると骨折してしまう危険があり、無事終えてなによりです。

 

素人ながら、適当につくったサンルーフですが、意外といい感じになりました。ついでに買ってきたロープ、長さがたっぷりの20m。これは林業家の人も使うそうで、とても強くてしかも柔らかいのです。これで今度は擁壁の上り下りにチャレンジです。週末でもやってみようかと思います。

 

そして今日は和歌山を往復しました。今回の裁判は第一回なので、簡単に終わりましたが、久しぶりに大勢の弁護士を相手にすることになりました。答弁書をしっかり書いてくる人、三行半ではないですが、請求棄却だけ書いて、次回に認否反論をする従来型の人、当日答弁書を出す人、いろいろです。中には依頼人に判断能力が疑わしいので成年後見の申立をするかもしれず、後見人が選任されれば同人が当事者となるので、本日は傍聴だけの人と、弁護士の対応もいろいろでした。

 

裁判はともかく、和歌山を往復するドライブが最近、楽しくなってきました。体調がよくなってきたことも大きいですが、山並みの形状に加えて、針葉樹と広葉樹の針広混交林が自然に混じり合っていて、広葉樹の新緑が黄緑色や少し赤みがあり、濃い緑の針葉樹との対比がとてもきれいなのです。よそ見運転はいけませんが、高速道路を走りませんので、さほど交通量も激しくなく、右に紀州の山々、左に和泉山系を見ながら走っていると、まるで絵画が展覧会のように並んでいるように感じるのは私だけの異常事態でしょうか。

 

昼過ぎからは曇天となり、大きく雲が張り出し、山頂も山腹も少し薄暗い印象を感じつつも、そこに光りが差し込むと、さっきのモザイク状の明るい黄緑色と濃い緑とがなんともいえない形状で、心をやわらげ楽しませてくれるのです。

 

ときおり濃い緑の針葉樹林帯が広がるところがありますが、きっと国有林ではないかとか、谷間付近は濃い緑が縦に続いていたりすると、谷斜面に植林されたヒノキかななんて想像したりしながら、走っていました。

 

さて、そろそろ本日のお題、情報化施工について触れてみたいと思います。今朝のスマートジャパンからのメールに<建設現場を“手書きの苦労”から開放、施工管理向けWebサービス>の記事が掲載されていて、ちょっとのぞいたら、少し前のニュースですが、<情報化施工:働き方改革を促すデジタル野帳「eYACHO」に意思疎通の新機能>というのがありました。

 

野鳥でなく、野帳は現場で作業する人にとってはなくてならないものですね。手書きでいつでもどこでも自由にかけるので、手軽で便利で、しかも情報価値が第一次情報源ですので、とても信頼性が高いですね。しかし、この情報化社会ではPC入力となると、なかなか大変です。そのため情報の集中に手間と時間がかかり、上部の意思決定までに時間がかかることや、内部的にも情報共有がそれだけでは困難です。

 

日報などをいかにして迅速かつ客観化・データ化できるかが、ここで取り扱われている建設現場に限らず、どこの現場でも大きな課題でしょう。

 

JUSTSYSTEMSと大林組が共同して開発している「eYACHO」はそんな課題解決機能を追求しているようです。ネーミング自体は一般的ですが、もし手書き入力でデジタル化、データ化が図も写真も文字もできるのであれば、これは有用性があるでしょう。

 

さらに応用してよりデータ処理が迅速化、合理化でき、目的に合ったものができると汎用性が高まるでしょう。

 

私もいま、林業作業の日報をいかにデータ化して、その後の業務処理および管理会計にスムーズに連携処理できるかを検討していますが、このデジタル野帳の将来性を期待したと思います。

 

すでに今日見てきた山林の林相、状態については、ITソフトがどんどん導入されていて、

航空写真で林相の違い、地形の違いが相当程度デジタル処理ができつつあるようです。それらが今後、地籍調査、境界確認の作業にも効率化をもたらすかもしれません。また、林業の世界でも山林の相続の場合にその財産評価が問題になることもあります。そのような場合でも現場踏査した野帳からあっという間に林齢・林相・道路からの距離などがデジタル化できれば、便利だろうなと思ったりします。

 

もう20年以上前、アラスカで環境関係の会議があり、そのとき太平洋沿岸の各国からエキスパートがやってきていましたが、アメリカの名称をうっかり失念しましたが、オレゴン州だったか、国有林担当の専門官がPCを持参してGPS画像などを巧みに処理して、計画的な管理を行っているといったことを自慢そうに話していたことを思い出しました。当時の日本では考えら得ない状況でしたが、いまわが国も周回遅れかもっとかもしれませんが、だいぶがんばっているように思うのです。今後さらなる開発を期待しつつ、今日見たモザイク状の山林利用も自然でいいなと思う私です。

 

今日はこれでおしまい。


介護と家事の彷徨 <介護相談者、8割女性 京都の団体調査 実の娘に負担>を読んで

2017-04-23 | 医療・介護・後見

170423 介護と家事の彷徨 <介護相談者、8割女性 京都の団体調査 実の娘に負担>を読んで

 

今朝はすばらしい快晴でした。コバルトブルーとまではいえませんが、とても青々しい空です。当然、高野の峰峰もくっきりと姿を見せ、複雑な稜線も葉脈のように浮き出ています。楊柳山の向こうには奥の院があり、弘法大師空海廟が鎮座しているはずと推測できます。わが家からは廟の右手が転軸山、左手が魔尼山となります。といっても、楊柳山の頂に隠れて背後の廟は見えるはずもありませんが。しかしあのような高野の平坦な台地をよく見つけたものだと改めて感心してしまいます。

 

ともかくデジタルカメラでパノラマ写真を撮ってはみたのですが、安物ですので、画素数が1000ちょっとと最近のスマホカメラにも負けてしまう程度ですから、写真にすると物足りない感じになります。ついでに国土地理院の地図情報サービスを閲覧すると、3D画像も提供されるようになっていて、これはおもしろいです。どんどん進化していて、見るたびに新しいサービスを提供している印象です。

 

わが家から西の方角では、龍門山と思われる長い平坦な稜線をもつ山並み、さらに西方にはいくつかの面白い形の山々が見えるのですが、まだ同定できていません。和歌山に向かうときは紀ノ川南岸道路を通るので、そういった山々の麓を走ることになり、対岸にある和泉山系はよく見えるのです。ぎざぎざのノコギリ状の山脈が続いたかと思うと、緩やかな稜線ばかりと、わずか40kmくらいの間にその山容は結構、いろいろで楽しめます。

 

とくに今は新緑が鮮やかで、パッチ状に山腹の景観を豊かにしてくれています。スギ・ヒノキの針葉樹と多様な広葉樹が入り交じり、その合間合間に竹林が散在していて、紀ノ川の流れもいいですが、山肌の変化もいいです。そういえば明日は久しぶりに和歌山です。

 

さて本日のテーマ、介護と家事の彷徨ですが、私なりに現在の状況をそう呼んでみました。毎日の昨日の夕刊に、<ともに・認知症国際会議in京都介護相談者、8割女性 京都の団体調査 実の娘に負担>の見出しで、大きく取り上げられていました。

 

<社団法人「認知症の人と家族の会」(京都市)が過去3年間に受けた認知症患者や家族からの約1万件の電話相談のうち、45%が実母の介護を巡る相談だったとの結果を同会がまとめた。こうした相談者の8割以上を女性が占め、実母の介護で娘が悩むケースが多い実態が浮き彫りとなった。同会は「『実の娘が母親を介護するのは当然』との風潮があり、周囲のサポートを得にくくなっているのではないか」と分析している。>

 

これは京都市所在の家族の会のデータですので、全国的なレベルで一般化できるかは気になるところですが、私の狭い体験でも、ある年代までは似たような状況が全国的にあるのではないかと思っています。

 

実の娘が母親だけでなく父親を介護するのは当然という意識は、遠く離れていてもあるのかもしれないと思っています。息子がいれば息子ないしは息子の嫁が介護するかというと、世代同居などの関係が成立している場合は別でしょうが、離れて暮らす現在の多くの世帯では、息子の妻(嫁)が義理の両親の介護をするかというと、かなり少ないのではないかと思うのです。

 

私の仕事上の経験では、男兄弟ばかりだと、その嫁同士が話合い、順番で世話をするということもありますが、それほどうまくいくわけではないでしょう。実の娘がいる場合でも、複数いる場合、介護・世話を奪い合うときもあれば、なすりつけあうこともありますが、多くは前者ではないかと思います。一つには、これは弁護士に依頼するようなケースでは、その年金収入や貯蓄が介護と一体となっていることがあり、亡くなった場合に、その介護のあり方や支出のあり方が問題になったりしますが、お金の問題がなくても、実の娘の場合はだいたい介護を担うことを当然に思うような意識が多くあるように感じています。

 

卑近な例で言うと、私の姉も遠く離れて住んでいながら、母の介護のために頻繁に実家に帰っていました。認知症初期段階の時はいろいろ問題が起こり、けんかをしたりしていたようですが、それでも心配で帰っていました。実の娘とはそんなものかと思うのは、息子という男の勝手な見方ではないかと思っています。たしかに実の母でも介護の世話となると大変です。私はたまに親孝行ということで帰っては温泉に連れて行ったりしていましたが、姉がいると安心して温泉に行けましたが、姉がいないと、母一人では温泉に入らせることもできません。

 

でも真剣に両親の介護に取り組んでいる人であれば、娘であれ息子であれ、父・母の世話を生活全般に見ているのだと思います。私はその意味ではとっくに失格者です。介護を語る資格がないといえばそのとおりです。ただ、気持ちだけは、娘がみればいいとは思っていません。自分ができないことを押しつけたりすることもできるはずがありません。

 

そうなると介護保険制度に依拠せざるを得なくなるわけです。介護を担う人が、要介護者が増えていく中で、減っている、あるいは追いつかない状態のとき、外国人を受け入れることは自然の成り行きでしょう。その労働条件・賃金や性・外国籍などによる差別が行われていないかなど、外国人の働く環境を適正に見守る必要があるでしょう。

 

ただ、今朝の毎日では<急速な高齢化社会>というタイトルで、総合研究大学院大学長・長谷川眞理子氏は、<生物学的に見たヒトの潜在的寿命はもともと非常に長>いとおっしゃり、縄文時代以来から

 

<生き延びた少数の高齢者は、まだまだ元気でよく働いていて、それなりの役割がある。あまり体力を使わない食料収集、伝統医療、宗教祭事、道具作り、孫の世話、社会関係の調整、めったにない災難への対処、集団の歴史の伝承などだ。現代医療のない世界でここまで生き延びてきたのだから、確かに元気で知識も豊富である。だから老人は尊敬される。

 しかし、最後の最後、どうにも体が言うことをきかなくなったときには、伝統小規模社会は悲しい。積極的か消極的かはともかく、死んでいくに任せるのである。誰もが、それが運命だと思っている。>

 

基本はそのとおりと思うのですが、<最後の最後、体が言うことをきかなくなったときは・・・悲しい」と言われることには半分くらい賛成しかねるのです。おそらく長谷川氏は死んでいくことが辛く悲しいことと決めつけているからではないでしょうか。死は生の瞬間から予定されているわけで、どのようなことでいつ死ぬか分からない中、体が動かなくなるまで生き抜いたことは幸せではなかったのかしらと思うのです。

 

高齢者の見方について、昔は社会的に役立つから、尊敬されるから、よかったけど、<私たちの現代社会は、伝染病をなくしたり、経済を発展させたりと、個別の幸せ目標を達成させようと努力してきた。その結果、誰も気づかないうちに、多くの人が高齢まで生き延び、しかも、それらの高齢者にあまり役割のない状況を作ってしまったのだ。これからどうすべきか?>と疑問を投げかけ、

 

<人生をどう終わらせるかについて、新たな美学を作らねばならないのだろう。>とおっしゃるのです。高齢者がなんらかの役割をもたないといけないのでしょうか。人は死に当たって、惜しまれるような生き方を求めないといけないのでしょうか。長谷川氏の美学は、なにか社会的な有用性をもつ必要を指摘しているのではないと思いますが、誰かに愛されるといった美学であれば、それは素晴らしいと思いつつ、私には難題かとも思ってしまいます。

 

介護とその担い手的な話しから、高齢者自身、介護される立場の終末の処し方までやってきました。

 

最初の介護の担い手としての娘の問題と関連して、たまたま昨日のNHKの朝の番組を見ていたら、外国人による家事代行サービスの制限が、東京都など一部で緩和され、事業者認定がされ、本年3月からサービスが始まったことから、その実際を取材したレポートがありました。

 

登場したのは共稼ぎの夫婦で、妻の方はいままでの勤務状態から管理職になったことで、家事との両立が困難となり、外国人の家事代行サービスを頼むようになったとのこと。

 

フィリピンの女性だったと思いますが、お風呂場やキッチンなどの清掃を見事に丁寧に、まるで姑が横で立っていた頃のように、隅々まで目を皿のようにして見られている雰囲気で、ぴかぴかにしていました。

 

で、気になったのは、その妻である女性、取材を受けているとき台所で洗い物をしながら取材に応じているのはいいのですが、その脇に夫がのんびりソファーに座って新聞かTVを見ている様子。子どもたちも同様にのんびりしていて、家事は妻の仕事という家族全体の感覚です。これでほんとに「ガラスの天井」を破ることが出来るのですか。

 

このような状況でいくら外国人の家事代行サービスが導入されても、家事は妻、女性がすることの意識は夫、子、そして社会が根強く抱き続けるだけで、両性の本質的平等という憲法の精神には相容れない状況を根付かすことになりかねないと危惧する次第です。

 

早く切り上げるつもりがいつの間にか7時近くになりました。今日はこのへんで終わりとします。


動物園と法律 <動物園とは何か 法学の視点から考える>を読んで

2017-04-22 | 自然生態系との関わり方

170422 動物園と法律 <動物園とは何か 法学の視点から考える>を読んで

 

今朝の早暁は曇り空でどうなるかと思っていたら、どんどん青空が広がり、おかげで汚れたベランダの床掃除にはちょうどよかったものの、太陽の光が熱く感じるほどでした。

 

それでも早朝は涼しいというか寒いくらいで、その中を今日も一筆啓上・・を高らかに謳っています。そのホオジロがヒノキのてっぺん、穂先の上でまるでダンスをしながら謳っているようなので、100倍ズームのビデオカメラでのぞきました。もう10年近く前のカメラなので画素数も最近の物とは比べようもないほどで、やはりぼけて見えます。とはいえ、30mくらいしか離れていないので、ホオジロの鳴きながら頭を体を揺らしている様ははっきり見えます。なんともかわいらしいものです。

 

昨日は久しぶりに昔の仲間Hさんから電話があり、相変わらず水質浄化に係わる(そんなレベルではないのですが、あまり一般受けしない言葉なので今回は直截な表現は避けておきます)研究をしているそうです。私の方はこのブログ三昧で日々を送っていることを伝えました。読み人知らず、というか読んでくれる人がいればそれはありがたいですものの、これはなんども書いていますが、私のエンディングノートで、いまは親のやることに関心を抱かないわが子がいつか興味を持ったとき、私が唯一残す物としての意味合いをもっているかなとHさんにも話しました。実際のところそれは余禄であって、やはり千日回峰行はできないけど、それにあやかるというか、そんな毎日を送る気持ちで書いています。

 

だから一人黙々と書くことに意味があるのかなと思っています。酒井大阿闍梨も、誰が見ていようがいまいが関係なく、歩くことにのみ集中していたからこそ、生死の狭間を行き来しながらも達成できたのでしょう。私の場合は生死の狭間とは縁のない状況で、ただ、書くことによって、自我を没却できるのではと半分期待しつつ、書いています。

 

さて、本題に移りたいと思います。先般、学芸員を一掃すべしといった暴言・虚言を批判的に取り上げた際、私もいい加減な理解で、批判的な言辞を述べてしまったことを反省する意味で、とりあげようかと思った次第です。

 

そのとき、博物館法に学芸員が有能な資格者として規定されていることを指摘しつつ、同法で動物園・水族館・植物園なども対象となっていること、そして上野動物園など著名な動物園・水族館の一部を取り上げて、創意工夫を繰り返しながら運営していること、それが学芸員の活躍もその重要な要素であるといった趣旨の指摘をしたかと思います(振り返って読むことはほとんどないので記憶です)。

 

しかし、博物館法はたしかに動物園・水族館などをも対象としているというか、対象から除外していないのですが、明示的に取り上げていないだけでなく、まず同法の対象になるのは登録していることが前提です。私が取り上げたいずれも著名ですし、大規模な施設ですので、登録しているものと錯覚していました。しかし登録されていませんでした。

 

このことは、今日、久しぶりに「環境と正義」という機関誌を読んで、気づいたのです。これは私が所属している日本環境法律家連盟が毎月発刊している環境関連の情報誌といってよいかと思います。大学の教師から弁護士、環境に係わる運動家、ジャーナリストなど多様な筆者によるオリジナルな情報が毎回盛りだくさんです。最近はどうも気分が乗らず、あまり読むことがなくなってきたのですが、つい目を通して、動物園のテーマに惹かれてしまったのです。

 

筆者は諸坂佐利(神奈川大学法学部)氏で、タイトルは「動物園法学事始め 第一回 動物園とは何か 法学の視点から考える」というものです。諸坂氏によると、「現在登録されている動物園は唯一、日本モンキーセンターのみです。」私が何度もいったことのある井の頭、上の、ズーラシアですら、登録されていないのです。先のブログで引用したすべてが登録されていないようです(諸坂氏は動物園のみをとりあげていますが、水族館も同様と思います)。

 

では、博物館法は、動物園や水族館を対象としていないのでしょうか。いやいやちゃんと登録審査基準を設けています。旧文部省が昭和27年に「博物館の登録審査基準要項について」と題する通達で、上記を含め多様な施設を登録の対象としていることが分かります。でも結局、登録してこなかったのですね。その理由は、次の諸坂氏の論文で言及されるのではないかと期待しています。

 

では動物園には法的根拠がないのか、法的規制はないのかというと、いくつか関係する法律が諸橋氏によって指摘されています。まず動物愛護管理法です。といってもこの法律は私も紀州犬による咬傷事件で少し勉強しましたが、ピットなど多様な動物が対象で、動物園プロパーとはいえません。

 

諸坂氏は、動物愛護管理法の「愛護」という表記について、英訳では”the Act on Welfare and Management of Animals”とされていることから、明らかな誤訳ではないかと指摘しています。そのうえで、「動物福祉とは、その動物“種”「にとって何が福祉(=幸福)か。その種の本能や習性、食性、棲息環境を客観的に、すなわち科学の目をもって研究することを前提とした議論です。」とまず前提を指摘します。ここから「昨今の日本の動物園・水族館に対する海外からのバッシング、たとえばイルカ問題(和歌山県太地町立くじらの博物館)やゾウの花子の飼育環境問題(井の頭自然文化園)は、ここに元凶があるように考えています。」と指摘しています。

 

私自身、四半世紀前、日本生協の研究会で、捕鯨問題などについて、生態学者や獣医学者などと議論する機会があり、いまなお伝統的な狩猟採取方式を継承する日本の地域文化的価値と生物種の保護の面とをいかに両立するべきかについて結論が出ていません。その直後頃からカナダ北極圏の先住民イヌイットの人たちに会い、狩猟制限されて、銃をもたなくなったとか、酒におぼれて体を壊してしまったとか、そういう現状を垣間見たとき、どのような伝統と生物種の保護の調和的解決が可能か、今なお悩ましい問題だと思っています。

 

諸坂氏は、上記以外に、動物園に係わる法律として、都市公園法や自然公園法を取り上げています。しかし、いずれも施設を規制する趣旨であって、諸坂氏が指摘するように、動物園のソフトローという重要な部分が抜け落ちています。いや、自然公園法ではより事業計画などで本来の対象である自然と溶け込めるような動物園施設管理が可能ではないかと思うのですが、環境省にはそのような視点がないのでしょうか。都市公園法についても、現在では画一的な施設整備、広場整備といったものから、たとえばドイツの都市公園のごとく自然林を含め自然を取り込んだ公園形態を認める方向もあるのですから、運用次第で、動物園を取り込んで新たな管理ルールを設けることも可能ではないかと思うのです。

 

そのような法律の世界とは別に、諸坂氏は、公益社団法人日本動物園水族館(JAZA)のホームページにある動物園の4つの役割を援用しながら、ハード・ソフトを備えた国立動物園といった制度が必要であると述べているのかと思います。JAZA加盟の園が90で、全体の5分の1に満たず、その9割が自治体の公立動物園であるとのこと。それが問題のようですが、国立動物園を必要とする趣旨はわからなくもないのですが、公立だと問題であるかのような議論はまだ釈然としません。

 

むろん諸坂氏が指摘している札幌市立円山動物園で発生した「マレーグマ ウッチーの死亡事故」やそれ以前から繰り返し起こっている各種の死亡事故は非常事態といってよいと思いますので、きちんとした対応が求められるところでしょう。とはいえ、自治体立動物園だから、民間の動物園だから、問題が起こるということや、管理に限界があるというのは、一面ではそういえるかもしれませんが、それぞれの特徴や地域特性を生かすことも大事であり、国による管理が必要とまではいえないように思うのは、実態を知らないためでしょうか。今後の諸坂氏の立論を期待したいと思います。

 

なお、札幌市は上記マレーグマ事件について、動物愛護管理法に基づき、改善勧告を発出し、それに対して動物園側は改善計画書を提出しています。その妥当性については、ウェブ情報では概要にすぎないので、あまり当否を論ずることが出来ないのは残念です。


DV・モラハラ <増えるDV、保護は低調 入所率35%止まり>を読んで

2017-04-21 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

170421 DV・モラハラ <増えるDV、保護は低調 入所率35%止まり>を読んで

 

ライトグレーの空模様。それでもいろいろな野鳥は朝から活気があります。小さな庭に植えた花たちもだいぶ賑わいを増してきて華やかです。サンシャインという名の庭石が雑多な花たちとなんとなく似合いの関係に見えるのは私だけかもしれませんが。

 

今朝の近藤流健康川柳では、

「腹が立つ内はまだチョイ愛がある」というもの。

 

チョイでも愛があるのはまだ見込みがあると言うことでしょうか。いやいや形だけの意味合いを込めているのかもしれません。義理チョコみたいと思ってしまうかもしれません。

 

さて、今日のテーマは悩みましたが、見出しのDVが増えているのに、保護の方は低調という見出し記事に着目して見ます。

 

首都圏にいる頃は男女問題は一切取り扱いませんでしたが、地方では、そういっていたら、仕事がなくなりそうです。そんなわけで、自然と男女問題、離婚問題、養育費問題などなど、自然とやるようになってきました。やはりその種のトラブルが多いのを感じます。

 

で、毎日記事で指摘する<増えるDV>というのは、とくに実数が増えたかというと疑問です。元々かなりの数があったと思いますが、多くは女性側が意識せず、我慢してきたため、顕在化しなかったというのがようやくDV防止法を含めそれがいけないこと、救済されるべきことという社会的に受け入れられるようになったことから、訴える女性も増えてきたのではないかと思うのです。

 

しかし、<保護は低調>というのは残念な結果ですが、そのとおりでしょう。施設もスタッフも十分な予算がないため、本来的なDVケアの体制になっていないのだと思います。

 

記事によると、<婦人相談員には「夫のことは空気と思えばいいじゃない」と言われた>

<「骨折させられても一時保護所に入れなかった」との証言が複数ある。>

<福祉事務所に30年以上勤めてきた職員は、暴力を受けた女性を一時保護所に入所させようと何度も働きかけたが、「命に別条はないでしょう」と認められないケースが多かったという。>

いずれもひどい対応ですね。

 

そしてモラルハラスメントの例もひどすぎます。

<夫から生活費を月3万円しか渡されず、毎日のように「死ねばいい」とののしられてきた40代女性は、うつ病を発症し、子供4人とともに民間シェルターで保護された。婦人相談所に保護を求めると、「あなたにも悪いところがあるんじゃないの。生活保護や児童扶養手当のために偽装離婚したいんでしょう」。相談員の心ない言葉に深く傷ついたという。「相談するのがむなしくなりました」

 

入所拒否する理由については

<「退所後の生活の見通しがつかなければ保護できない」「妊娠しているから保護できない」「子供が5人いるなら保護できない」。いずれも実例だ。これらの人を受け入れた西日本の民間シェルターが、保護されない人の例を自治体に尋ねたところ、病気がある人▽規則が守れない人▽身辺の自立ができない人--などと回答された。支援団体によると、一時保護を断られる女性は、子供の数が多い▽一定年齢以上の男児を同伴▽精神疾患や発達障害をもつ--といった特徴がある。男児が敬遠されるのは女性が集団生活する場で男性にいてもらいたくないという気持ちが働くためという。>

 

そして死の危険が現実的で痕跡がある場合はいいが、モラハラのような場合は容易に入所が認められないというのです。

<10年以上、現場でDV相談を受けている相談員の女性によると、首を絞められた痕や殴られた痕がある女性は入所しやすい。しかし、精神的に追い詰められるモラルハラスメントの場合は見た目では分からないため、「相談員の知識や資質によるところが大きい」という。また、相談員がDV加害者に待ち伏せされたり、嫌がらせを受けたりするケースもある。この相談員は「危ない仕事の割に、賃金は月15万円ほどで、心のケアも不十分。相談員がよりよい環境で仕事ができれば、もっと被害者に寄り添えるのでは」と話す。>

 

婦人相談所の一時保護所の存在自体を知らない人も多いでしょう。民間シェルターがそれなりに広報活動をしているのに対し、前者はどうでしょう、ほとんどやっていないように見受けられるというといいすぎでしょうか。

 

ともかくDVやモラハラは今なお相当の数で忍耐を強いられていると思われます。それは毎日記事で指摘しているような施設の不足、入所基準の厳しさ、相談員の裁量の問題、相談員の数の不足に加えて能力アップや収入アップなどの対策がとれていないというのもあるでしょう。

 

ただ、それだけでなく、経済的な支援がないという背景も看過できないと思います。たとえば養育しないといけない子がいる場合、子を連れて出て行っても、養育費の支払を求めにくい状況があり、また、養育費の算定基準自体が低すぎるため、到底、母子だけで生活をやりくりすることは容易でない状況にあると思うのです。

 

当地にやってきてこれまでさほど多くないですが、それでも相当数のDVやモラハラ事件を取り扱ってきました。中には夜中に家からたたき出されたひどいケースもありました。あるいは普段はともかく酒を飲むと暴れて部屋を壊し妻を殴る蹴るといったことを繰り返し、ついには父親が知るところとなり110番して逮捕、起訴となった事案もあります。そして多くは医者にも行かず、我慢しているため、暴力を受けた事実を証明することが容易でない場合もあります。他方で、最近は携帯やスマホで痣になったところを写真撮影して残す人もいますので、それは有効です。

 

問題はこういったDVは単独で行われることが少ないと思います。その前に、というかそれと一体して、モラルハラスメントという言葉の暴力がひどいことが多いのです。これはほとんど証拠が残りませんが、精神が受ける痕跡は場合によって暴力・傷害以上に酷く、深刻なものになっていると思います。うつ症状になるのは少なくないのではないかと思います。うつ病と診断されれば、傷害認定でもいいのではと私などは思うのです(裁判例をチェックしていませんのでここは曖昧です)。

 

他方で、弁護士の場合、男性側の代理人もするので、見方が異なることもあります。妻側が「対抗措置」をとる場合もあります。たとえば、食事の用意をしない、夫の洗濯物は放置する、口をきかない、などなど、かなり強烈な対応をして、家庭内別居を徹底する妻もいます。そのような妻からの冷淡な扱いに、ときにちょっとした一言で激怒して暴力・暴言をする場合もあれば、忍の一事で我慢する人もいます。

 

いずれにしても、夫婦関係は、簡単ではないと思うのです。法的にはいろいろな手法で一応の解決は可能でしょう。離婚条件・養育費・財産分与・慰謝料などなど。しかし、それは子どもにとっても、夫婦であった男女にとっても、はたして望ましいことかは永遠の課題かもしれません。

 

そこまで悪くなる前に望ましい共同体を形成する工夫や配慮ができないものか、あるいはさらにいえばそもそも夫婦関係を成立する前に、問題の起こりにくいように十分な期間の話合いなり付き合いなりが必要ではないかと思うのは、千年の昔から言い伝えられたことかもしれません。

 

夫婦関係がDVやモラハラによって破綻する一つの理由は、支配力を一方が相手に抱くことかもしれません。憲法24条は個人の尊厳を謳っています。

 

「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」

 

この規定を問題にして自民党改正案では、「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」といった条項を追加しようとする動きがあると以前報道されていました。

 

この規定をもって家制度の復活的な批判は当たらないと思います。しかし、「個人の尊厳と両性の本質的平等」という価値観がいまだ男性にも女性にも十分意識化されていないことこそ問題にすべきではないでしょうか。家族が相互に助け合う前に、お互いを個人として尊重することこそ基本でしょう。また、両性、現代的に言えば同性、ジェンダーもですが、その本質的な平等、これらを幼児教育の段階からしっかり教育することこそ、なによりも必要ではないかと思うのです。

 

一方が他方を支配する意思をもったり、差別的な対応をしたりするといったことは、きちんとした教育を受けていない結果ともいえるのではないかと思うのです。

 

その意味で森友学園での教育のあり方などはもってのほかと言うべきでしょう。いま保育園不足が問題になっていますが、そのため違法な、あるいは脱法的な保育園運営もあると報道されています。このような保育園児の段階から、少なくとも高校生まで、しっかりと個人の尊厳と両性の平等思想を実効的に身につけてもらうような教育のあり方を模索して欲しいと思うのです。

 

一時保護所とか、シェルターとか、増えることが望ましいのではなく、DVやモラハラ自体を減らす男女関係、夫婦関係を形成する土台を作ることこそ、最も肝要ではないかと思うのです。