たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

日曜日の朝、事務所の花に水遣り

2017-11-19 | 心のやすらぎ・豊かさ

事務所は土日祝日は開いていません。でも花は生き物。水遣りにやってきます。自宅の庭の花は雨が降ったり、朝露もあり、最近はほとんど水遣りをしていません。でも事務所の中はそうもいきませんので、そのくらいは生き物に気を配ってあげたい?と思っています。

以前とりあげたターシャ・テューダーさんの庭のような理想はありますが、引退後に考えたいと思っています。いまは無知識のままいい加減に花と付き合っています。

今日は写真撮影で、とりあえず入り口の机にまとめてみました。最近は数を少なくしていっていますが、それでも結構あります。写真画像はできるだけ避けてきましたが、たまにはいいかと今日はアップしました。

昨日は急の仕事で内容証明を書き上げ、今日もいろいろ仕事が残っているのですが、ブログをいくつかのテーマで回見ようかと思います。

 


専門家とセクハラ <BS1ワールドニュース・フランスでの医療機関でのセクハラ報道>を垣間見て一言

2017-11-18 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

171118 専門家とセクハラ <BS1ワールドニュース・フランスでの医療機関でのセクハラ報道>を垣間見て一言

 

最近なぜか寝付きが悪くなり、うつらうつらしていて、朝も雨だとまったく目が覚めません。人間の体調は一定でないので、回復するまで付き合うしかありません。

 

普段は8時のニュースを見ることはないのですが、今朝はつい見てしまいました。BS1ワールドニュースです。いつもは6時台のを見ているのです。このニュースは世界各国の大きな話題から小さな話題織り交ぜ、なかなかよくできています。

 

で今朝は途中からですが、ひょいと気になるニュースについ立ち止まって見てしまいました。フランスの放送で、手術室内の密室空間で行われているセクハラが取り上げられていました。医師による患者に対するセクハラや、医学部教授などによる研修生などに対するセクハラはこれまでも報道で取り上げられることがあったと思います。

 

しかし、手術室といった空間は、人の命を預かり、緊張感に包まれ、厳粛な環境とのイメージがどうしても浮かんでくるのが普通ではないかと思います。ところが、そうでない場合もあることが報道されていたのです。しかも女性の立場が尊重されているといわれるフランスでです。これは少し驚きつつも、やはりという気持ちでした。

 

詳細なセクハラの内容が報道されたかは、途中から見た段階ではなかったので、はっきりしません。でも看護師や研修生、さらに指導を受ける若い医師など、相当数が手術台を囲んで、執刀医の下、チームワークよろしく厳粛に行われている場合ばかりでないことが明らかにされていました。医師の不愉快な発言や接触に対して、異議や苦情を述べることは容易でないとの発言が女性看護師などから出ていたかと思います。

 

手術室内の出来事はほんとにわかりませんね。最近は可視化されて電磁記録として残される場合が増えていると思いますが、手術の手技や患者の侵食部位以外となると、撮影対象外でしょうし、発言となると細かく拾えないことが考えられますね。

 

話は飛びますが、かなり昔、都立病医師による手術および術後管理に医療過誤があるとして訴訟提起したことがありますが、当時の看護記録にしても十分でなく、適切な管理ができていたか疑いありました。その中で、ある若い看護師が止めたという情報を入手したのです。その看護師がなにか情報を知っているはずだと、追求しようとしたのですが、できませんでした。その頃でしたか、映画The Verdict(評決)が放映されていたのを見た記憶で、主人公のポールニューマン演じる荒くれ弁護士が医療過誤訴訟で、窮地に陥ったとき、退職した看護師の行き先を突き止め夜間に電話で医師のミスを確認する場面がありました。これは無茶な弁護活動と思いましたが、それにより逆転勝訴になったのです。私もそれぐらい貪欲さが必要かと思いましたが、ま、無理かなと思いつつ、なにか溜飲を下げたような気もしました。

 

要は、手術室内は密室で、医師を含めた人の行いは一部しか記録されません。患者に対する措置も適正とは限らず、それを身近に体験する看護師は医師の指揮下にあって反論できません。セクハラとは関係ありませんが、そういう主従関係は先輩医師と後輩医師、看護師との間で厳然としてあるわけで、男女間で言えばセクハラ・パワハラが生じうる隙というか、土壌は油断すると形成されやすいかもしれません。

 

こういう風に医師という専門家を批判的に見ていますが、それは医師に限りません。専門家と称される職業人には優越的地位にあることから、昔からあった男尊女卑の感覚を振り払えない感覚の人がいまなお相当数生き残っていると思います(もしかしたら私の意識の中にも)。

 

この点、弁護士はというと、たとえば日弁連が平成20年12月18日理事会議決で<セクシュアル・ハラスメントの防止に関する指針>を発表しているとおり、問題を抱えていることは否定できません。

 

私が若い頃、まだ女性弁護士はわずかで、多くはすぐに結婚すると見られたりして、一人前の弁護士として扱われない傾向があったと思います。また、事務所の中では女性事務員がほとんどでしたが、ある種の閉鎖空間ですから、弁護士の言動は法律を熟知している装いで「正義」の旗を振るうわけですから、現在のセクハラもかなり平気でやられていたのではないかと思います。

 

驚いたことに、今でもそういう弁護士が一部にいることが、法律関係の労組からの申出で指摘されることがあります。驚くほどのことではないのでしょうかね。日弁連や各単位会が本気で取り組まないと、旧態依然の体質が是正されていないと、フランスで報道された医師のように、外国のニュースの種になるかもしれません。

 

ただ、そうはいってもセクハラとは何か、場合によってよくわからないこともあります。厚労省のパンフ<職場におけるセクシュアルハラスメント対策を事業主の義務とする>では、はっきりいって誠実な人でもよくわからないように思います。女性側が過度に反応することもありますし、誤認・誤解することもあることは、たとえば電車などでの痴漢事件で起こる話です。

 

で、日弁連の上記指針は参考になるかと思うのです。ご承知の方は別に詳細を知る必要はないのですが、意外とこの識別基準的なものが理解できていない人もいるので(これも変わりうるものです)、少し長くなりますが、引用しておきます。

 

具体的な部分だけ取り上げます。

 

<セクシャル・ハラスメントになり得る言動として、例えば、次のような言動 が挙げられる。

(1)    性的な内容の発言

性的な関係を強要すること。

身体的特徴や容姿の良し悪しなどを話題にすること。

性的な冗談を交わすこと。

性的な経験や性生活について質問すること。

性的な噂を立てたり、性的なからかいの対象とすること。

(2)   性的な行動

性的な写真や記事が載っている雑誌等を広げて読んだり、パソコンの画面 に卑わいな写真を映し出したりすること。

体を執拗に眺めること。

食事やデートに執拗に誘うこと。

性的な内容の電話をかけたり 性的な内容の手紙や電子メールを送ること。

体に不必要に接触すること。

トイレや更衣室等を覗くこと。

カラオケでのデュエットを強要すること。

(3)   性別により差別するもの

「男のくせに 「女のくせに」等の発言をすること。

「男の子、女の子 「おまえ、僕、坊や、お嬢さん 「おじさん、おばさん」、「じじい、ばばあ」等と他人を失礼な呼び方で呼ぶこと。

不必要に、語頭に「男の、女の」等性別を付けること。  

体調が悪そうな女性に「今日は生理日か 」「もう更年期か」等ということ。

酒席等において、女性の座席を男性の隣に指定したり、お酌やダンスを強要すること。 性別による役割分担を課すこと。

 

「李下に冠を正さず」というのがこの場合適切かはともかく、セクハラに限らずパワハラと第三者から疑惑の目で見られないように、常日頃、言動に慎重でありたいものです。すべての人に分け隔てなく、誠実であれば、そういう問題も生じないかもしれません。聖徳太子の言葉だとなんでしょうね。いますぐに的確なものが浮かびませんが、太子像を思い浮かべれば、自然、差別的扱いができなくなるでしょうし、和をもって貴しとなるのでしょうね。

 

今日はこの辺でおしまい。

 


ゴミと人の意識 <ドキュメント 東京ごみストーリー1~10>の連載を読み終えて

2017-11-17 | 廃棄物の考え方

171117 ゴミと人の意識 <ドキュメント 東京ごみストーリー1~10>の連載を読み終えて

 

私がゴミ問題を意識した最初は、ちょうど「東京ごみ戦争」と騒がれていた頃だったと思います。ただ、まだ当時は東京港の埋立処分場を訪れたこともなく、たまたま見るTVの画像などでカラスが乱舞する様子やそこに向かうゴミ収集車が立ち往生している状況を気にしつつも、あまり深く考えたこともなかったと思います。

 

その後京都で空き缶のポイ捨てが問題となり空き缶条例が話題になったことで多少意識するようになりましたが、まだ条例の有効性とか適法性とかのレベルであったかと思います。

 

そして私の意識を変えるきっかけは、関係者の法律相談を担当するようになり、そのときその施設の図書室で繰り返し読んだ、弾左衛門に関する文献をはじめ被差別問題に関する文献を目にしたことがきっかけではないかと思います。

 

内容はもう35年以上前ですので、おぼろげな記憶ですが、江戸をはじめ関東一帯の町中がとてもきれいにされていたのは、弾左衛門を中心とする被差別階級の人たちがしっかり清掃等を行っていたからだという趣旨であったかと思います。むろん儒教思想とか幕藩体制の中で秩序維持をするため生活上の規律がすみずみまで行き渡っていたことも、また村の秩序が自律的であったことも別の要素でしょう。

 

維新前後に訪れた異邦人が見た世相は、経済的には貧しくても身だしなみだけでなく町中や村中もゴミ一つ落ちていない清浄さが保たれていたからではないかと思います。

 

弾左衛門の文献を読んだとき、当時の現場作業の人たちだけでなく清掃局職員の多くが差別的な視線を浴びていたのように思います。収集にしても、運搬にしても、焼却施設、処分場、すべて現場で働く人は厳しい環境で仕事をしているのに、それを適正に評価されていなかったと改めて感じたのです。

 

その後東弁の公害環境委員会(当時はまだ公害消費者委員会でしたが)に参加し、たしかゴミ部会という名称だったと思いますが、そこで本格的にゴミ問題を勉強することになったのです。それから30年あまり経ち、東京都内の最終処分場や中間処理施設など多数を見学したり、各地で調査に参加してきましたが、まだまだゴミ問題の本質も理解できず、その解決の道筋もわからないまま、現在はいなかの当地でやっていることは生ゴミはすべてコンポストにして、燃えるゴミの排出減量に取り組みだけでしょうか。

 

この毎日の連載記事では東京都杉並清掃事務所が取材対象ですが、私が取り組んだ容器包装プラスチックの中間処理施設をめぐる公調委での原因裁定やその後の訴訟では杉並区が対象でしたので(いわゆる杉並病事件として長く話題になりました)、なんども訪れて日案リングさせてもらったりしたので、懐かしさと(むろん当時の担当者は退職しているでしょう)、この連載を通じて彼らの心意気を改めて感じさせてもらいました。

 

さてこの連載記事は成田有佳記者が10回にわたって、もっぱら一般廃棄物の収集という清掃事業のほんの一部ではありますが、重要な一部(住民にとっては最も関心の高い部分でしょう)を多面的に取り上げた力作ではないかと思います。成田記者は、もしかしたら杉並病事件を知らない世代かもしれませんが、その点を除けば、清掃事業の実態に迫るいい内容だと思います。

 

ここではその一端を適宜選択しながら取り上げてみたいと思います。まずは夢の島がスタートでしょうか。70年代初頭でしたか、ひどい悪臭などの埋め立て地で、とても「夢」の島とはいえない状況でした。北米やイギリスの埋め立て地を見学したことがありますが、こんなひどい埋め立て地はむろんありませんし、まして都心の一角にあったのですから、まさに公害日本の象徴でした。でも現在の夢の島はすばらしいですね。そして最近の外防最終処分場はメタンガスの臭いなどはあるものの、適正な管理が行われいるといってもよいかもしれません。

 

で、記事は、<ドキュメント東京ごみストーリー/1(その1) 「戦争」経て闘うマルサ>で、夢の島の公害抑制のために<都はごみを焼却処理する清掃工場の建設を各地で計画したが、杉並では住民が反対し、訴訟に発展した。怒った江東区民が「杉並のごみは持ち帰れ」とバリケードを築く騒動に--いわゆる「東京ごみ戦争」だ。>と東京都における杉並区の特異な性格を指摘します。

 

しかし、この試練は、杉並区の行政・住民の意識を高めたと思います。<40年余の時が流れた。杉並区は1人当たりのごみ排出量が23区で最少となり、「収集と福祉の融合」も実践する。>

 

ここから連載で紹介される清掃における現場職員がもつ、あるいはもちうる多様な価値・機能が紹介されるのです。

 

その重要な役割を担うのが「ふれあい指導班」人呼んで「ゴミのマルサ」です。<付近の住民から「ごみ出しのルールを守らない人がいて集積所が汚い」との苦情が入った。杉並清掃事務所「ふれあい指導班」の出番だ。

 彼らは、違反ごみの中から郵便物などを元に「排出者」を特定し、ルールを守るようお願いしに行く。人呼んで「ごみのマルサ」。>

 

私は、東京に居住していた頃、東京都内の分別がまだ3分別で、しかもいい加減な出し方をしているのを経験していましたから、収集担当者に分別についての調査・指導の権限を与える方向で条例を作る必要があると思ったぐらいです。それは当時ではあまりに過激でしょうから、よほど工夫しないと採用されることはなかったでしょう。しかし、このゴミのマルサ方式だと、穏便で、なかなか実践的でいいですね。東京以外でも採用しているところは結構あるかと思います。

 

ドキュメント東京ごみストーリー/3 祭り翌朝、悲しい便乗>は悲しいかな、東京ではありうるでしょうね。私は横須賀の分譲地に住んでいたことがあり、やはり自治会のお祭りでは、役員として祭り参加者が膨大なゴミを出すので、分別ゴミ袋を用意して、終了後に整理したりしていました。横須賀くらいですと、さほどひどい状態にはなりません。でも東京都になると人種のるつぼとまでいえませんが、少なくとも田舎者の無秩序な集合で、杉並区の落ち着いた環境でも駅前となると、無責任な不法投棄が便乗するのでしょう。

 

<壊れた扇風機やさびついたガスコンロ、スプリングがまる見えの椅子、使い古された長机がある。向こうに見えるゆがんだ木の枠は、元は窓枠だったか。隙間(すきま)を半透明の袋で埋め尽くし、ごみの山は大人の背丈ほどになっていた。

 人里離れた不法投棄の現場ではない。ここは東京都杉並区、1日の利用者が5万人を超えるJR高円寺駅前だ。>

 

このような問題の対応は、中国のような監視社会化でもしないと、東京都のような都会では簡単にいかないでしょうね。駅前など特定の多様な人が集まる場所に監視カメラを多数設置することで、多少は予防効果、その後に追跡指導することも許容範囲かもしれません。

 

ドキュメント東京ごみストーリー/4 ペットは家族、別れに涙>も切ないですね。現場の職員の方の苦労・配慮を感じさせられます。この点ペットだけでなく、孤独死の方の場合の火葬場の職員の苦労もうかがったことがありますが、一言では言い表せませんね。

 

<廃棄物処理法は、死んだ動物を「廃棄物」に区分している。ペットも野生動物も死んでしまえば「ごみ」となり、回収や処理は清掃事務所の仕事となる。保健所も引き取ったり捕獲したりするが、あくまで生きている動物が対象だ。動物の死体は鳥インフルエンザなどのウイルス感染や正体不明の病原菌が死因の恐れもある。作業には「細心の注意が必要」なのだ。>

 

命ある生き物、人はもちろん、動物も最後は冥福を祈る姿が人の心なのでしょう。<杉並区では3100円払えば、ペット葬祭の専門業者に委託して火葬するようにしている。飼い主のいない野生動物の場合は区が費用を負担する。>というのです。

 

次は<ドキュメント東京ごみストーリー/5 集積所設置、やまぬ相談>です。

ゴミ集積場をどこに設置するか、これは難問ですね。私も分譲地でその問題を担当したことがあり、その地区というか10戸くらいの世帯で解決できないと、別々にといことを認めていると、こんどは行政費用がその分かかるわけですね。しっかりした分譲地ですと、分譲時点で集積場となる場所の区画を少し低めの価格で設定して決めているかと思います。とはいえ、決まっていた分譲地でも新陳代謝が激しくなると、従来の決まりが通用しないこともありますね。上記の開発業者が決めているような場合、契約なり、協定書なりで定めていることもありますね。とはいえ、集積所の選定とか変更をめぐる裁判もあるわけで、こじれればなかなか苦労する問題です。

 

本来は<「集積所は、そこに住んでいる人々が決める住民主体が基本。それに基づいてわれわれ職員が収集します」>となっています。それが好意で置くのを許容しているような場合、突然、集積場廃止宣言をされるという非常事態になることになりかねません。

 

<廃止宣言のあった集積所も結局、数戸ずつの集積所に分散することになった。杉並区では近年、集積所の設置基準を事実上緩和しており、この4年間で5000カ所も増えた。

 ごみの集積所はその地域社会のありようを映す。「集積所が細分化されたら、ご近所さんと話をする機会も減るので、さびしいです」。>

 

といった、これまでの清掃事務のあり方については、そろそろ考え方を変えても良いのではないかと思うのです。その集積場が分散するコストアップを当該地区で負担させるなり、より効果的な策を提案する時期に来ているように思います。そうでないと、北米のように一戸ずつ収集するようなことにもなりかねません(すべてではないですが)。巨大ポリバケツを夜中に大型収集車が一戸一戸集めていくのです。

 

ドキュメント東京ごみストーリー/6 戸別収集、高齢者に笑顔>の記事は、いいですね。高齢者対策としても、行政コストとしてなんとかやれればと思うのです。担当者は大変でしょうけど。

 

その実態は<ふれあい指導班、人呼んで「ごみのマルサ」。日々の任務は、違反ごみの排出者を特定し、訪問指導するだけに終わらない。江川雅志所長(59)の「ごみを取るだけの時代ではない」の言葉通り、彼らは「福祉の実動部隊」の顔も持つ。マルサ班長の古川勝さん(49)たちは、佐藤さんの依頼にもとづき、照明にたまった虫の死骸を掃除するため訪れた。

 持参した脚立に班員が乗り、ぞうきんでカサを丁寧に拭き取ると、照明は元の明るさを取り戻した。5分足らずの作業。でも、足腰がめっきり弱くなった佐藤さんにはありがたい。「ああ、うれしい」。佐藤さんの笑顔に、マルサたちは「僕らならではの仕事」だと感じた。>

 

そのサービスがさらに進化していくのです。<ドキュメント東京ごみストーリー/7 異変を察知、命助けたい>では、命のセンサーであり臨時救命体ともいえる活動です。

 

<「私は生きる価値がない」と小さな体を更に小さくして涙した1人暮らしの女性。100歳を超えた親と80代の子の老老介護の家庭。孤立しがちな高齢者を見守る難しさを痛感した。

 だから、杉並清掃事務所長として清掃部門に戻ってきた15年、区の上層部に掛け合ったのは、清掃部門の全車両に自動体外式除細動器(AED)を搭載してもらうことだった。

 清掃部門は戸別収集を通じて「異変」を察知できる。倒れた人を見つけるなど緊急事態に出くわしたとき、最低限の人命救助ができれば、行政の見守り体制は厚みを増す。10年の体験から「ごみを取るだけではもったいない」との思いに駆られたためだった。>

 

最終回の今日は<ドキュメント東京ごみストーリー/10止 偏見を越えた「誇り」>です。

 

清掃職員に対する偏見は、以前はかなり強烈だったと思います。最近は表面的にはなくなりつつあると思いますが、それでもまだ残っていると思います。成田記者は次のようにその深刻な実情を記事にしています。

 

<人が生活する上で生み出されるごみは、臭くて汚い。そこに職業差別が生まれた。

 東京23区の収集作業員を都が一括採用していた時代。自宅から遠い勤務地に配属する慣習があった。近隣に職業を知られると、いわれのない差別や偏見に家族が巻き込まれるのではないか、子どもがいじめられるのではないか。そんな不安があった。家族にさえ仕事の内容を隠し続けた人がいた。事務職を装って背広姿で出勤し、定年を迎えた人がいた。>

 

でも私のようにゴミ問題を30年以上取り組んできた一人としては、ゴミの専門家は収集する担当者です。彼らこそ、分別の意義、内容を理解しているのですから、彼らによる適切な指導にしたがってゴミを分別排出する責務が一人一人にあると思うのです。こういうと自分たちは住民でサービスを受けるのが当たり前として、分別は行政の一方的な負担の強制ととらえる人もいるかもしれませんが、それは結局余分の行政負担をして適切な行政サービスに予算が回らないことになると思うのです。

 

彼らこそ環境行政の先端を走る人たちですし、そうなって欲しいと思うのです。そして高齢者を含む困っている住民に最も身近に、日々対面できる行政パースンでもあるわけで、自治体としては彼らの活動を誇りなるような仕組みを立ち上げて欲しいと思うのです。

 

記事は最後にある環境教育の場面を紹介しています。

 

<杉並区にある保育園に、車体の側面が透けて見える特別仕様のごみ収集車がやってきた。園児たちは目を輝かせた。

 降り立ったのは杉並清掃事務所ふれあい指導班、通称「ごみのマルサ」の12人。この日は子どもたちへの環境教育が任務だった。リサイクルをテーマにした紙芝居、ごみの分別や収集車への積み込み体験。班員たちは子どもの目の高さまでかがみ、笑顔で話しかけた。「僕らが楽しく振る舞わなきゃ伝わらない。おうちにこの話を持ち帰ってもらいたいですからね」。>

 

私たち大人と言われる人たちは、子や孫から、こういった教育を受けた知識を学び、清掃職員に対する意識を変えていく必要を感じています。

 

今日はこれでおしまい。


農地転用許可と隣地承諾 <農地転用申請に隣接農地所有者の同意書を求める扱いについて>

2017-11-16 | 公共事業と多様な価値

171116 農地転用許可と隣地承諾 <農地転用申請に隣接農地所有者の同意書を求める扱いについて>

 

わが国は長い歴史の中で向こう三軒両隣のなかで生きてきたように思えます。ちょっとした法律相談の中で、草枕の一節を思い出しつつ、過去の宅地開発から農地・山林の開発までの出来事もふと思い出してしまいました。

 

宅地開発で言えば、宅地開発指導要綱というのがたしか90年代までいつもチェックする必要があったように思います。中には各市町村の要綱を都市計画法などと一緒にうまく整理して書籍化しているのもあったと思います。その中で、近隣同意書は必須とされていたかと思います。

 

日本社会では、そのような近隣の同意を得ることが紛争防止に、あるいは近隣社会の平穏な維持に有効であったのかもしれません。しかし、驚異的なバブル開発は全国に及び、そのような縛りは、都市計画法や建築基準法など法令上の根拠がない、合理的根拠がないとして、違法視され、ついには裁判で否定され、いつの間にか要綱行政という言葉も消失していったように思います。むろん、その中心の一つであった近隣同意書も要求される時代は過去の物となりました。

 

ただ、都市計画法33114号は次のように定めて、近隣者との調整を求めたのです。

「十四 当該開発行為をしようとする土地若しくは当該開発行為に関する工事をしようとする土地の区域内の土地又はこれらの土地にある建築物その他の工作物につき当該開発行為の施行又は当該開発行為に関する工事の実施の妨げとなる権利を有する者の相当数の同意を得ていること。」

 

開発行為の施行等の「妨げとなる権利を有する者」とありますが、はたしてどの範囲の権利がそうなるかは簡単ではありません。そのため、最近では各開発許可権限のある自治体では条例でより明確にその内容を合理的に定めようと努力しています。単に隣接地だからそうなるとは限りませんね。

 

より合理的な既存住宅と新規開発の調整基準が次第にできあがっていくのが本来でしたが、わが国では中央で決めた法令が優先され、自治体の条例はそれに劣後する物として、地域的でより民主的な自主的規制たる条例が育たないまま今日に及んでいるように思います。そこが北米のゾーニング条例規制と大いに違う局面でしょうか。

 

他方で、農地についていえば、向こう三軒両隣的な土地利用秩序がまだまだ実務的には残っているといってよいでしょう。たとえば農地転用の場合、申請書には隣接する農地の同意書を当然のように必須要件としているのが自治体行政ではないかと思います。

 

たしかに実際、畑を山林にする場合、日陰になったり風通しが悪くなったりするので、隣接の畑所有者の了解を得るのが普通でしょう。同様に田を畑にしたり、畑を田にする場合でもいろいろな影響がある場合もあり、隣地の理解を得るようにすることが少なくないと思います。農地を宅地や雑種地にする、転用の場合は、よりその必要性が高まるのは理解できる話です。

 

しかし法令上の根拠があるか、疑問があり少し調べてみました。宅地開発の場合は少々異なる仕組みになっています。

 

農地法46項の規定の中に、転用許可ができない場合を定めていますが、そのうちの3号が妥当すると考えます。

 

「申請者に申請に係る農地を農地以外のものにする行為を行うために必要な資力及び信用があると認められないこと、申請に係る農地を農地以外のものにする行為の妨げとなる権利を有する者の同意を得ていないことその他農林水産省令で定める事由により、申請に係る農地の全てを住宅の用、事業の用に供する施設の用その他の当該申請に係る用途に供することが確実と認められない場合」

 

上記の下線部です。しかし、この規定から当然に、隣接する農地所有者の同意なり承諾を必要とすると解することには無理があると思います。でも各農業委員会の実務では隣地承諾書か同意書を求めるのが普通です。

 

3号の解釈を考えるとき、その他の規定をも参考にすべきではないかと思うのです。4号はそのヒントになると思うのです。

 

「申請に係る農地を農地以外のものにすることにより、土砂の流出又は崩壊その他の災害を発生させるおそれがあると認められる場合、農業用用排水施設の有する機能に支障を及ぼすおそれがあると認められる場合その他の周辺の農地に係る営農条件に支障を生ずるおそれがあると認められる場合」

 

これは転用によって実害が及ぶ場合です。すると上記3号の「妨げ」というのは単に隣接関係にあるだけでは、同意を求めることまで要求するのは過大ではないかと思うのです。現在自治体行政で行っている隣地所有者の同意書を求める扱いは、憲法が保障する財産権規定に抵触するおそれが高いと思います。合理性がないと考えます。

 

でもまだ裁判例をチェックしていませんので、宅地開発指導要綱のような裁判例があるのかどうか、こんど時間があるとき調べてみたいと思います。

 

なお、この条文の運用解釈を定める通知が農水省からたびたび発せられていて、その重要な一つが次の通知です。

 

農地法の運用」と題する通知です。農業委員会や事務局はこの通知を根拠に運用しています。この中に次の規定があります。

 

(2) 立地基準以外の基準(一般基準。法第4条第6項第3号から第5号まで) (1)の立地基準に適合する場合であっても、次のいずれかに該当するときには、許 可をすることができない。

農地を転用して申請に係る用途に供することが確実と認められない場合(法第4 条第6項第3号)

 具体的には、次に掲げる事由がある場合である。

 () 転用行為を行うのに必要な資力及び信用があると認められないこと(法第4条 第6項第3号)。

 () 申請に係る農地の転用行為の妨げとなる権利を有する者の同意を得ていないこ と(法第4条第6項第3号)。

 「転用行為の妨げとなる権利」とは、法第3条第1項本文に掲げる権利である。>

 

上記の(イ)の「申請に係る農地の転用行為の妨げとなる権利を有する者の同意を得ていないこと」として同意を求めています。その「転用行為の妨げとなる権利」については、やはり明らかにされていません。解釈・運用に任されているのでしょうが、実務は先に述べたとおりで、農水省もそれを認めているのかどうか、まだ確認できていません。これは簡単に調べられるので、近いうちに問い合わせてみたいと思います。

 

と今日は別の話題(米海軍が111日付けで報告した最近のイージス艦衝突事故原因)を取り上げるつもりが、そろそろ帰宅時間になりましたので、今日はこの辺でおしまい。別の機会にします。


戸籍とマイナンバー <論点 戸籍制度のあり方>を読みながら

2017-11-15 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

171115 戸籍とマイナンバー <論点戸籍制度のあり方>を読みながら

 

今朝はわが家の谷間がとても奥ゆかしい雰囲気に包まれました。全体に靄がかかり、小集落が見え隠れしたり、遠くの高野の連峰が霞んだり見えなかったりと、深い靄のおかげです。

 

そういえば霧のロンドンもいい雰囲気ですね。90年代はまさに大気汚染で現在の中国ほどではないとしても青空だといやな感じでした。でも霧がかかり、テムズ川の汚れも見えず、石畳の街路もガス灯?もぼんやりと浮き出てきて、なんともいえない情緒を感じました。

 

さてと今朝も終日なにかと忙しくまだ仕事が終わっていませんが、帰宅時間が過ぎているので、今日も短時間にブログをまとめることにしました。

 

毎日朝刊の<論点 戸籍制度のあり方>は反橋希美記者が3人の有識者からヒアリングした記事です。戸籍というと、たいていの人は滅多に目にする機会がないのではないかと思います。いや離婚歴が多いので結構見慣れていますとか、転職が多くてそのたびに企業から求められましたとか、というのは希でしょうね。専門職以外はあまり戸籍謄本などをみることもないでしょう。

 

まして大正期や明治期の手書きのものとなると、よほどの人でないとみたことがないでしょうね。戦前のものを見ると、まさに家制度がしっかりと戸籍制度によって社会的に確立されてきたのだなと感じます。戸主を頂点に、すべて家族が順序立てられ、長幼も、男女の性別も、嫡出・非嫡出も明確に規律されています。

 

でも血のつながりを家制度が連綿と保持してきたといった意識がどこかにあるかと思いますが、意外と血縁と関係ない養子縁組も少なくないように思います。むしろ家を家産を守る意識の方が強かったのではないかと思うこともあります。

 

とはいえ、長男とか次男ということがわが国では当たり前ですが、北米などではそんな英語表現はないのではないかと思います。Brotherと呼称するかファーストネームを呼び捨てするかが普通でしょう。長幼も順序もないのですね。個人の尊厳を基本とすれば当たり前でしょう。ジェンダーも次第に社会の中で受け入れられていっていますので、性差もいまと異なる取り扱いになるのもそう遠くないでしょう。

 

さて本論に入ります。といっても残り15分くらいで書き上げようかと思っていますので、コピペでまとめます。

 

遠藤正敬・早稲田大台湾研究所非常勤次席研究員は、まず出発点としての戸籍制度について、<戸籍は個人の身分関係を記録する公文書であり、東アジア固有の制度だ。元来、戸籍は徴兵や徴税、治安維持を登録の主な目的とし、個人よりも国家に利便性のある制度だった。>と国家のための制度と位置づけます。

 

個人しての価値はというと<近代以降、戸籍への登録が旅券取得や社会保障などの権利と結びつくことで、国民にとっても多少は有用なものになった。だが、そもそも、戸籍は人口統計や個人識別には役に立たない。現在の基本的な行政サービスを受けるには、居住の事実が要件となる場合が多いため、戸籍よりも住民票が重要になっている。>と否定的です。

 

利用価値の乏しい制度がなぜ現在も残っているのかについて、<実効的な機能は乏しくなる一方にもかかわらず、なぜ戸籍制度が維持されてきたか。理由は、戸籍の道徳的な機能と深く関わっている。>としています。

 

それを次の3つの要素から根拠づけています。<日本の戸籍は(1)天皇の「臣民」としての登録(2)家の登録(3)「日本人」の登録--という三つの独特な性格があった。1点目の臣民登録は、古代国家において戸籍制度が実施された時からの性格だ。天皇を戸籍に記載せず、「氏姓」を授ける立場とすることで神格化し、臣民との間に絶対的な境界線を引く意義があった。今も天皇や皇族は戸籍法が適用されず、その構造は変わっていない。>と。

 

しかし、日本人の実態は歴史的には純血でないことは証明済みですね。<だが、その「日本人」は純粋な血統上の「日本民族」ではない。古代の渡来人に始まり、さまざまな民族との血の混交を伴って現在の戸籍に登録されており、「単一民族」や「血統」という概念は擬制だ。>

 

そして将来の姿については、<人の国際移動や家族の多様化が進む今日、型通りの「日本人」しか登録しない戸籍と現実のねじれは明らかだ。戸籍に家の系譜としての価値や、日本国家との結合性を見いだす人々もいるだろうが、実生活でそれ以上の存在意義はない。真に必要なのは、国民の多様な生活実態を把握し、平等に権利や機会を保障する弾力的な身分登録制度だ。>とマイナンバー制を評価しているわけではないですが、個人を単位とする制度化を求めているように思えます。

 

この点、二宮周平・立命館大教授も<個人単位の編製に改めよ>と基本的には同一の歩調に近いのでしょうか。

 

戸籍制度が持つ価値について、<こうした家族単位の戸籍は、祖先や他の親族関係をたどれる追跡機能と、家族の状況が一目で分かる一覧性が利点として語られてきた。だが、追跡機能については、出自の差別に利用されてきた歴史がある。第三者や弁護士ら有資格者は戸籍法で定められた場合しか戸籍謄本などの取得はできないが、不正取得事件が後を絶たない。一覧性も、本籍を変更する「転籍」や、離婚して除籍されるなどの事情がないことが前提となる。>とその利害得失を問題にしています。

 

そして同教授はまさにマイナンバー制の導入を積極的に支持しているかのように<今後、法制審議会で戸籍事務にマイナンバー制度を導入するための議論が進められる。事務の簡素化などの枝葉末節の議論ではなく、戸籍のあり方の見直しにつながる機会になるよう期待したい。>と述べています。

 

最後は申 栄(シン・キヨンさん、漢字がないので空白)・お茶の水女子大准教授は<「時代遅れ」と韓国では廃止>と、その先進例を紹介しています。

 

韓国と言えば、あのイザベラ・バードが『朝鮮紀行』で李氏朝鮮の現状を鋭く考察していますが、日本以上に儒教社会の厳しい男女差別や長幼差別があるなど問題点を指摘しつつ、その人々の心遣いなどのすばらしさを細やかに描写しています。

 

でも89年の戸主権の廃止後、<父系血統主義的な姓制度や、戸主と家族の主従関係の撤廃を求める運動が続き、違憲訴訟も相次いだ。>そしてついに、憲法裁判所が画期的な判決を下して一気に改革が進んだようです。

 

<憲法裁判所は05年2月、家族制度の「伝統文化」について(1)歴史性や時代性を持つ概念として人道的精神などを考慮して今日的にとらえるべきだ(2)憲法が保障する個人の尊厳と両性の平等に反してはならない--とする判断を下した。「伝統文化よりも憲法理念が重要」という明確な立場が示されたことで、戸主制度、戸籍制度の廃止が一気に進んだ。>

 

なにか慰安婦問題が次第に取り上げられた時期と重なるような印象を受けます。90年代以前は、多くの個人、とりわけ女性は批判的な発言をすることが容易でなかったのではないかと思うのです(いまもあまり変わらない部分はあると思いますが)。

 

現行の新戸籍制度は、個人の人格に光をもたらしたようです。

 

<現行の「家族関係登録制度」は個人単位。家族関係証明書も交付を受けられるが、記載は本人中心だ。家族は配偶者、父母、自分の子に限られ、兄弟や祖父母は表示されない。父母の合意があれば子は母の姓も名乗れる。戸籍制度では外国籍の配偶者は排除されていたが、登録制度では、韓国語表記だが姓名ともフルネームで示される。親の離婚歴や嫡出子かどうかは本人の記録には残らない。差別的な項目をなくし、多様な家族形態を許容する形式になっている。

 戸籍制度の廃止は韓国社会において革命的な発想の転換を生んだ。自分が家族関係の中心であるという自立的な考えが芽生え、両性平等という感覚が育っている。例えば、90年の性別出生率は、男子を選んで出産する人が多かったため、第3子、第4子は男児が女児の2倍だったが、現在では、ほとんど男女差はない。これは、家制度を守るために長男を産まなければというプレッシャーから女性が解放された表れではないか。>

 

今日はこの辺でおしまい。