前日に引き続き、本日、東ジャワ州の事を記事に致します。
2005-02-20
Kota Manan (1)
テーマ:エセ男爵・東ジャワ紀行
(あめぶろより、転載)
「東ジャワ州・マラン市滞在小記」-(1)
1999年のクリスマス前から2001年の初夏までの足掛け3年、東ジャワ州での活動中、スラバヤに3ヶ月、その後はマラン市を活動拠点に定めていました。
マラン市内では、ホテル住まいを半年間、一般民家と大学のゲストハウスに住んでいました。ゲストハウス滞在以前の民家での生活に、今でも懐かしさが鮮明に浮かびます。マラン市内はジャラン・タンポマス (Jl. Tampomas) の民家に滞在していました。よくご存知かと思いますが、「グラハ・チャクラ・ホテル」まで徒歩で約5分。いつも徒歩で公園を抜け、このホテルにはたびたび食事に行きました。毎朝決まったように、5時から6時の明け方は、温度計が20度以下をしめす涼しいマラン。早朝、といっても7時過ぎですが、熱帯地域とは思えない適度に乾燥した新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込みながら、野鳥のさえずりに耳をすませ公園を横切って向かうグラハ・チャクラ・ホテルまでのウオーキングは快適でした。さらには市役所の隣、かの有名な「ツグ・パーク・ホテル (Tugu-Park Hotel)」まで、タクシーで10分掛かるかどうか、のロケーションですから、とても便利の良いところです。
長さにして約100メーター程度の南北に通じた一本道がタンポマス通りで、通りの両側におおよそ100~150坪程度の敷地、緑に囲まれた庭の手入れが十分に行届いた家々があり、その数合計で約30~35軒の民家がありました。我が下宿先は、すでに築50年以上にもなるオランダ人が建てた独特の雰囲気のある住みよい家屋でした。南北のタンポマス通りの入り口には、まるで電車の踏み切りの遮断機と同じものが付されており、午後9時過ぎると翌朝まで遮断機は閉鎖されます。私が夜遅くタクシーで帰ったりすると、顔見知りのガードマンがタクシーの中を覗き込み、私の顔を確認し、黒褐色の顔にあくまでも白い歯を出し、いつもにっこり笑って遮断機を開いてくれていたこと、思い出します。こうしてタンポマスの一角は四六時中、つまり24時間態勢でガードマンが配備されており、常識的且つ最低限度?の安全は確保されていました。
この家は、有名な私立大学の経済学部長の母上の持ち物(父上はすでに他界されていた)で、敷地の空間つまり中庭を取り巻くように、「ク(く)の字型」の長屋?が敷設してありました。それぞれ4報半くらいの部屋には、当時、6~7人の下宿生活者がいました。下宿人は全員が男、学生や独身のサラリーマン達です。
平屋の建物である母屋の間取りを紹介します。まず玄関入り口を入ると、吹き抜けと思わんばかりの天井の高い広々とした30畳ばかりのリビングルームがあります。その奥に入ると約10畳ばかりのダイニング、さらにその奥がキッチンとなっています。リビングルームの左右に2部屋と3部屋の合計5室のベッドルームがあります。私は向かって左側の日当たりの良い部屋と裏庭に通じている部屋と合わせ、合計2部屋を借りて住んでいました。正面の庭からタンポマス通りに面した部屋は日当たりが良く、事務用書斎として快適でした。また裏庭に通じるつなぎの部屋は、一日中裏庭から微風(そよかぜ)が入る風通しの良いいささか薄暗い部屋でして、主として寝室に使用。とくに昼寝には最高の部屋でした。
どちらかといえば私は夜が遅く、他の若い下宿人は朝が早い。若者は日の出前に起床し、皆にぎやかに、中には鼻歌交じりで景気よくそれぞれが朝の準備を始める。なんだか皆さん8時出勤が多く、ほとんどの人物が6時前に起床し、7時にはけたたましいバイクのエンジン音を撒き散らしながら出勤していきます。裏庭につながる通路のすぐそばが私の寝室でして、防音消音の施されていない部屋の壁とガラスの付いていない、西部劇に出てくるサロンの入り口のドアの木製板よろい戸程度の窓からは、容赦なく連中の叫ぶ声やバイクの排気音が聞こえてくるのです。しかも、5時ごろからですから、おのずと目が覚めます。参りました。加えて早朝の4時半前後には、どこからともなくあらゆる方向4~5箇所のモスクから、朝一番のお祈りのコーランが拡声器で流され、このコーランの放送でもって眠りから覚めてしまいます。コーランが終わるのが5時前、今からもう一個眠ろうと思ったころに、下宿人が騒ぎ出す。こちら朝から騒がしいのは大の苦手でして、これが唯一、当下宿の難点でした。朝は必ず20度以下、感覚的に冷え込むくらい温度が下がり、昼間は30度をわずかに超えますが、夕方4時になると30分間隔で見る見るうちに温度が下がる。午後9時近くになると、もう25度以下になり、地元の人間はセーターやコートを着ている者まで現れる。我々はせいぜい長袖のスポーツシャツで十分に凌げるのですが、、、。とにかく蒸暑さを感じない(標高約500~800メーター)マランの高地(高原盆地というのが適切か)では、すこぶる環境良く快適な下宿生活を体験できました。
(続く No.-2)
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2005-02-20
Kota Manan (1)
テーマ:エセ男爵・東ジャワ紀行
(あめぶろより、転載)
「東ジャワ州・マラン市滞在小記」-(1)
1999年のクリスマス前から2001年の初夏までの足掛け3年、東ジャワ州での活動中、スラバヤに3ヶ月、その後はマラン市を活動拠点に定めていました。
マラン市内では、ホテル住まいを半年間、一般民家と大学のゲストハウスに住んでいました。ゲストハウス滞在以前の民家での生活に、今でも懐かしさが鮮明に浮かびます。マラン市内はジャラン・タンポマス (Jl. Tampomas) の民家に滞在していました。よくご存知かと思いますが、「グラハ・チャクラ・ホテル」まで徒歩で約5分。いつも徒歩で公園を抜け、このホテルにはたびたび食事に行きました。毎朝決まったように、5時から6時の明け方は、温度計が20度以下をしめす涼しいマラン。早朝、といっても7時過ぎですが、熱帯地域とは思えない適度に乾燥した新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込みながら、野鳥のさえずりに耳をすませ公園を横切って向かうグラハ・チャクラ・ホテルまでのウオーキングは快適でした。さらには市役所の隣、かの有名な「ツグ・パーク・ホテル (Tugu-Park Hotel)」まで、タクシーで10分掛かるかどうか、のロケーションですから、とても便利の良いところです。
長さにして約100メーター程度の南北に通じた一本道がタンポマス通りで、通りの両側におおよそ100~150坪程度の敷地、緑に囲まれた庭の手入れが十分に行届いた家々があり、その数合計で約30~35軒の民家がありました。我が下宿先は、すでに築50年以上にもなるオランダ人が建てた独特の雰囲気のある住みよい家屋でした。南北のタンポマス通りの入り口には、まるで電車の踏み切りの遮断機と同じものが付されており、午後9時過ぎると翌朝まで遮断機は閉鎖されます。私が夜遅くタクシーで帰ったりすると、顔見知りのガードマンがタクシーの中を覗き込み、私の顔を確認し、黒褐色の顔にあくまでも白い歯を出し、いつもにっこり笑って遮断機を開いてくれていたこと、思い出します。こうしてタンポマスの一角は四六時中、つまり24時間態勢でガードマンが配備されており、常識的且つ最低限度?の安全は確保されていました。
この家は、有名な私立大学の経済学部長の母上の持ち物(父上はすでに他界されていた)で、敷地の空間つまり中庭を取り巻くように、「ク(く)の字型」の長屋?が敷設してありました。それぞれ4報半くらいの部屋には、当時、6~7人の下宿生活者がいました。下宿人は全員が男、学生や独身のサラリーマン達です。
平屋の建物である母屋の間取りを紹介します。まず玄関入り口を入ると、吹き抜けと思わんばかりの天井の高い広々とした30畳ばかりのリビングルームがあります。その奥に入ると約10畳ばかりのダイニング、さらにその奥がキッチンとなっています。リビングルームの左右に2部屋と3部屋の合計5室のベッドルームがあります。私は向かって左側の日当たりの良い部屋と裏庭に通じている部屋と合わせ、合計2部屋を借りて住んでいました。正面の庭からタンポマス通りに面した部屋は日当たりが良く、事務用書斎として快適でした。また裏庭に通じるつなぎの部屋は、一日中裏庭から微風(そよかぜ)が入る風通しの良いいささか薄暗い部屋でして、主として寝室に使用。とくに昼寝には最高の部屋でした。
どちらかといえば私は夜が遅く、他の若い下宿人は朝が早い。若者は日の出前に起床し、皆にぎやかに、中には鼻歌交じりで景気よくそれぞれが朝の準備を始める。なんだか皆さん8時出勤が多く、ほとんどの人物が6時前に起床し、7時にはけたたましいバイクのエンジン音を撒き散らしながら出勤していきます。裏庭につながる通路のすぐそばが私の寝室でして、防音消音の施されていない部屋の壁とガラスの付いていない、西部劇に出てくるサロンの入り口のドアの木製板よろい戸程度の窓からは、容赦なく連中の叫ぶ声やバイクの排気音が聞こえてくるのです。しかも、5時ごろからですから、おのずと目が覚めます。参りました。加えて早朝の4時半前後には、どこからともなくあらゆる方向4~5箇所のモスクから、朝一番のお祈りのコーランが拡声器で流され、このコーランの放送でもって眠りから覚めてしまいます。コーランが終わるのが5時前、今からもう一個眠ろうと思ったころに、下宿人が騒ぎ出す。こちら朝から騒がしいのは大の苦手でして、これが唯一、当下宿の難点でした。朝は必ず20度以下、感覚的に冷え込むくらい温度が下がり、昼間は30度をわずかに超えますが、夕方4時になると30分間隔で見る見るうちに温度が下がる。午後9時近くになると、もう25度以下になり、地元の人間はセーターやコートを着ている者まで現れる。我々はせいぜい長袖のスポーツシャツで十分に凌げるのですが、、、。とにかく蒸暑さを感じない(標高約500~800メーター)マランの高地(高原盆地というのが適切か)では、すこぶる環境良く快適な下宿生活を体験できました。
(続く No.-2)
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私が1番反応したのは、
“そよ風”という響きでした。
蒸暑い中では、“そよ風”の心地よさも半減してしまいます。
それに、なんだか“そよ風”という言葉の響きが、とても懐かしく感じられたのは何故でしょう。
殺伐とした社会で生きていると、
そうなってしまうのでしょうか?
マランは、本当に「そよ風」という言葉にぴったりの「楽園」です。
しかも、町の旁がいかにもコロニアル風でおしゃれなのです。
オランダ統治時代に「プランテーションの生産品集積地」として開発された「オランダ人居留地」が、そのまま現代のマラン市の街並みとしてオランダ人が造ったと思われる旧市街が残っており、いかにも情緒があります。
インドネシアに長期滞在し始めて最初に想った事。
赤道直下(に近い)位置とは信じれないほど「気候」がよい!それに比べ、湿気の多い季節風の吹く日本の気候は、いかにも不快な事であるか!
しかし、TVなどで、日々の天気予報をやらないのが不思議でした。しかし、1年間滞在してみた後になって、ようやくその天気予報をやらない理由が解りました。理由は、その必要性がないからです。何故か?まず乾季と冬季に分かれていて一年中の気候が安定している事。さらに、一日の天気の変化は、必ずと一定よいほど時間によって安定しており、めったな事ではそのパターンは変わらない。
この繰り返しですから、天気予報は必要ないのです。
我々温帯地域に住む人間にとっては考えられないこと。しかし、インドネシア人にとって「天気予報」の必要な地域の天気の変化の事、したがって天気予報の必要なこと等、逆に全く理解できないでしょう。
こういうところに住んでいれば、何もあくせく競争社会にもまれる人生など考える必要のない場所の方が、まだこの地球上には(競争社会よりも)多く存在する。等々、考えさせられる事柄がたくさん出てきます。
本当に、地球は狭くなったといえども、まだまだ広いですね・・・
想像で判断することは危険ですね。
実際に暮らしたエセ様から、今日も
いろいろと教わりました。
(・・||||rパンパンッ
アメリカだと風呂は浅く、トイレは大きすぎて日本人に合わず非常に不便と行く度に感じます。
(・・||||rパンパンッ
いや~
さすがに、鋭い質問です。
昨年の4~5月に、バリ島ウブド地区にある別荘のトイレを、記事にしたいきさつがあります。
実は、
この下宿のバストイレが、たいへんなシロモノだったのです。
ま、
正直言って100%、インドネシア人はバスタブを使いません。バス?・トイレの中には「置き水」があり、それを手桶ですくい上げ、頭からぶっ掛けるのです。石鹸はその途中幾度かに分けて身体にすり込む。そしてまた手桶で水をかぶる。ここマランでは、朝方18度まで気温が下がり、我々の常識では考えられない気温の中、平気?で手桶の冷たい水(たぶん15度近く)を頭からぶっ掛けます。私は決して真似しませんでした。真昼の、一番気温の高い時(摂氏33~5度位?)に、之をやりました。そうすると寒くない。しかし、後がたいへんでした。暫くすると、体がもえてもえて仕方がない!かえって(一旦冷たくした身体は)後から体温が反発して高くなるのですね。
トイレ・・・
これは「不浄の左手」をお尻に当てて、右手で手桶を使って左手にぶっかけながらお尻を左手で洗う・・・
ま、
いわば「手動ビデ」のようなものです。
この方法が、インドネシアのトイレの使用法の基本的常識!
だから、
食事の時(全て指先で食す)には、絶対に左手を使わないのです。
我々(欧米人も含み)は、指先で食事をする習慣がないから、ついつい左手も使って食事をする。外国に行った経験のあるインドネシア人ならともかく、そんな経験のない普通のインドネシア人は、さぞかし我々の左手使用による食事方法を「不潔」に感じたことでしょう。
さらに、トイレに関する笑えるようで「笑えない話」を、、、。
国際線航空機の中、インドネシア人女性がトイレを使った後、トイレットペーパーが無くならないから不思議、不潔、だと思ったスチュワーデスがいたそうです。
トイレの使用した後に、連中はお尻を拭かないのか?と、勘違いした女性(フライトクルー=スチュワーデス)がいたそうです。これは決して、勘違いではない。「トイレでは、トイレットペーパーを使うべし!」
という常識を持った国では、非常識。
しかし、インドネシアで育った人にとっては、
「トイレで、トイレットペーパーを使うことこそ、非常識!」
これ、
インドネシアの常識の方が正しいかもしれない・・・
本当に、トイレットペーパーを使うより、水を使って洗浄した方がむしろ清潔でしょう。
問題は、飛行機の中!
どうやって手桶に該当する「洗浄水」を確保し、どういう方法で洗浄したか?
狭い飛行機のトイレの中では、これが大いに問題になるでしょうねえ~・・・
以上にて、
ご説明、ご理解頂けたでしょうか?
TS@捻くれ者さん!
すばらしいご質問、たいへんありがとうございます!