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沖縄の旅(12) 中城城跡 

2021年03月18日 | 日記
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沖縄⑫ 中城城跡/護佐丸(ごさまる)と、阿麻和利(あまわり)


護佐丸が改良した相方積み。これまでの様に四角い石を一列に積み上げていく布積みと違って、多角形の石を加工して、隣の石とかみ合う面を多くした。更に曲線を持ちいることで、強度が格段に増し、崩れにくくした。

(勝連城跡のつづき)

中城城を築城した護佐丸の絵をみると、黒々とした太い眉毛、黒いあごひげ、三船敏郎のような風貌の豪傑が、描かれています。

今帰仁城の城主だった護佐丸の曾祖父は、北山王との戦いに敗れ、城は取られてしまいました。その後、子孫にあたる護佐丸は、名門の出ということで、琉球王に仕え、幾多の戦で力をつけ、因縁の北山との戦いで勝利し、今帰仁城を取り返しました。

その後、琉球王の命で、今帰仁から要害の地、今の読谷村に座喜味城をつくるのでありました。

このころには、戦だけではなく土木技術にも才能を発揮し、数々の石積工法を編み出しました。

座喜味城は、これまでのような、岩盤の上につくる石垣ではなく、山土の上に築かなければなりませんでした。

何度も失敗を重ねながら、ついにあの曲線が美しい、堅牢な石垣をつくったのでありました。曲線は、石垣の強度を増すためのものだそうです。

その後首里城の琉球王に相談役として、仕えていましたが、勝連城の阿麻和利の台頭を警戒した国王は、すぐ隣の中城に築城するよう護佐丸に命じました。

この中城城の石垣で、これまで蓄積されたされた築城の経験と技術が生かされました。

こうして勝連城をしのぐ巨大な城ができあがりました。更に護佐丸は、日夜軍事訓練を怠らず、万全の態勢で、勝連城の阿麻和利に備えました。

阿麻和利にとっては、これは大変なことでありました。

首里城を攻めて、国王に取って代わるどころか、目と鼻の先の中城城の護佐丸の兵が、自分たちに向けば、勝ち目のないことを悟った阿麻和利は、意外な行動に出ました。

表向きは、阿麻和利も国王の一按司なので、護佐丸のいない、首里城に出向いて、国王にこう言いましたた。

「王様、ちょっとお耳に入れたいことが・・・」

「なんだね」

「実は、護佐丸は、ひそかに国王の座を奪わんと、策略をめぐらしている様子が見られます。
今なら間に合いますので、国王が護佐丸討伐の命を下されば、この阿麻和利、及ばずながら陛下のもとに馳せ参じ、護佐丸の野望を打ち砕いてみせます」

国王は、阿麻和利の言葉を信じて、長年にわたり功績のあった、護佐丸のいる中城城に兵を向けるのであります。

本来なら、沖縄中の兵を敵に回しても落城することのない堅牢な城であったのですが、国王が自分の忠義を疑って兵を向けたことを知った護佐丸は、国王の兵を一兵たりとも打ち取ってはならぬと部下に厳命した上で、反逆の意志がないことを示すため、自害して果てました。

この生きざまに沖縄の人々は、心打たれ、「忠臣護佐丸」として、語り継がれてきたのであります。

半面、狡猾な阿麻和利、凡庸な国王という構図が出来あがったのであります。

しかし、史実とは異なるという人もいます。

日本にも、吉良上野介は、地元では立派な殿様だったといわれているのと同じで、阿麻和利も悪い領主を退け、貿易による産業を興し、領民のため尽力した功績のある領主でもあったわけです。、

と、ここまで書きましたが、これは私が都合よく想像したストーリーです。まあ、城石垣には、このような背景があったのだな、程度に受け取っていただければ幸いです。

でもこれで、世界遺産に登録された、今帰仁城、座喜味城、勝連城、中城城、そして首里城すべての城址を訪れ、ブログ上で、紹介することができました。沖縄には、この他にまだ300余りの名前の知られていないグスク(城)がありますが、私は行っていません。










































今帰仁城址


座喜味城址  (座喜味城址/2016年をみる)


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