私たちが普段、ふつうに使っている西暦(キリスト歴)。
この2006年という年号は、実はキリスト生誕の年から始まるとされている。
キリスト生誕以前(B.C=Before Christ)と以後(A.D=Anno Domini「主の年に」の意)である。
世界史の授業でも覚えさせられたはずだ。
さらにクリスマスは、キリストの誕生を祝う日である。
「イヴ」にはステキな異性とキャンドルの灯りで過ごしたりしてることだと思う。
これだけの影響力を世界に与えたイエス・キリストの人物像を
どれだけの人が理解しているのだろうか?
少し掘り下げてみた。
そもそもナザレのイエスと呼ばれていた人物が生まれた時代、
エルサレムを中心とするユダヤ王国はローマ帝国の植民地であった。
ものすごく混沌としていた。
ユダヤ人たちは、かなり鬱屈していた。
だから、救世主を求めた。
「メシア信仰」と呼ばれるものだ。
映画「マトリックス」を思い出してみるとよくわかる。
地下国家ザイオンの民が、電子国家マトリックスの支配を打破すべく、
キアヌ演じるネロに、救世主への思いを重ねる…それが「メシア信仰」。
救世主がこの閉塞した世界を大きく転覆させてくれる…。
「天変地異」の大仕事をしてくれる救世主が現れる…。
ユダヤ人にしてみれば、ローマ帝国の支配は屈辱以外のナニモノでもない。
だから、さまざまな預言者が神の名を借りて、「メシア像」を説いた。
ここで忘れてならないのは、…ユダヤの民が求めた…ということ。
ローマの民やギリシャの民は「メシア」を求めてはいなかった。
つまりナザレのイエスの存在は、極めてローカルなポジションだった。
これって、意外に忘れられている。
これだけ世界に影響力を与えている救世主イエスって
実はめちゃくちゃドメスティックな存在だったってこと。
今に置き換えるのは適当ではないと思うけど、
今日みたいな日に渋谷の街で看板立てて、
「信じれば救われます」とビラ配っている程度の存在だったってこと。
とにかく混沌としていた時代にナザレのイエスは生まれた。
そしてこのイエスがスゴイところは、預言書のシナリオに自分の人生を賭けたってこと。
ここはとても重要であり、難解でもあるんだが、
「マトリックス」を再確認すれば、これもまた解決するかもしれない。
あの映画でもネロは、予定調和に導かれていくようなスタンスで自分を救世主に見立てていったと思う。
ナザレのイエスも「イザヤ書」と呼ばれる預言書に倣って
己のポジションを救世主まで高めていった。
彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、
彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎であった。
彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方向に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。
苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、
彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命をとられた。
彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、
その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた。
病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの捧げ物とした。
鬱屈に閉塞したユダヤの民に取って代わって、自らの命を神に捧げよう…とした
「イザヤ書」のメシア像は、いわば窮余の策だ。苦渋の選択だ。
まずは自己の存在を「スーパースター」の高みに押し上げ、求心力が最高潮に達した時、
「捧げ物」として支配者ローマの犠牲となることで、ユダヤ人の結束を高めよう。
これは相当な決意が要る。
この「生け贄の小羊」的犠牲心の発想は、ユダヤ人の根幹にあるようで、
旧約聖書の中でも、神への忠誠の証として、自分の息子を生け贄に捧げる話が出ている。
実際、当時のエルサレムの神殿では「罪を清める」儀式として生け贄の動物を捧げる義務があったようだ。
おのれの命を「生け贄の小羊」として神に捧げよう。
だからこそ、迷いがあった。
捧げるからには犬死になっては意味がない。
周到な準備と画策が必要である。
イスカリオデのユダの存在が、ここで重要な責務を担うこととなる。
「裏切り者」のポジションである。
革命家としてユダヤ王国を再建しようと、
ローマ帝国への感情を剥き出しにしていたユダは篤い男だった。
求心力の高まったイエスを快く思っていないローマ帝国に対して
「生け贄の小羊」となって自らの命を捧げようと思う…
そんな計画を聞かされたユダは、かなり動揺したことだろう。
「いま、アンタがいなくなったら、ユダヤはどうなる?」
これはひとつの賭けだ。
ユダヤ結束の大きな礎となるか、崩壊の一途を辿るか…。
12人の使徒を巻き込んでしまったら、求心力も衰えてしまう。
「ここはひとつ、ユダよ、裏切り者となって、わたしをローマに引き渡してほしい」
使徒たちを欺き、信者たちを敵に回し、イエスへの忠誠心だけで
イスカリオデのユダは「裏切り者」を演じる決心をする。
十字架にはりつけにされ、さらし者になったイエス。
求心力を高め、ユダヤの結束を最高潮に押し上げたイエスの立役者として
「裏切り者」ユダの存在は、尊い。
※上記内容は三田誠広著「ユダの謎キリストの謎」やニコス・カザンザキス著「キリスト最後のこころみ」を参考資料に
わたくしの主観で書かれたものであって、イエス・キリストおよび関連する宗教団体を誹謗・中傷するものではありません。
よって、内容に関しては賛否両論があるかと思いますが、イエス・キリストの存在を意識するきっかけになれば…と思い、
掲載いたしました。
ユダの謎 キリストの謎
この2006年という年号は、実はキリスト生誕の年から始まるとされている。
キリスト生誕以前(B.C=Before Christ)と以後(A.D=Anno Domini「主の年に」の意)である。
世界史の授業でも覚えさせられたはずだ。
さらにクリスマスは、キリストの誕生を祝う日である。
「イヴ」にはステキな異性とキャンドルの灯りで過ごしたりしてることだと思う。
これだけの影響力を世界に与えたイエス・キリストの人物像を
どれだけの人が理解しているのだろうか?
少し掘り下げてみた。
そもそもナザレのイエスと呼ばれていた人物が生まれた時代、
エルサレムを中心とするユダヤ王国はローマ帝国の植民地であった。
ものすごく混沌としていた。
ユダヤ人たちは、かなり鬱屈していた。
だから、救世主を求めた。
「メシア信仰」と呼ばれるものだ。
映画「マトリックス」を思い出してみるとよくわかる。
地下国家ザイオンの民が、電子国家マトリックスの支配を打破すべく、
キアヌ演じるネロに、救世主への思いを重ねる…それが「メシア信仰」。
救世主がこの閉塞した世界を大きく転覆させてくれる…。
「天変地異」の大仕事をしてくれる救世主が現れる…。
ユダヤ人にしてみれば、ローマ帝国の支配は屈辱以外のナニモノでもない。
だから、さまざまな預言者が神の名を借りて、「メシア像」を説いた。
ここで忘れてならないのは、…ユダヤの民が求めた…ということ。
ローマの民やギリシャの民は「メシア」を求めてはいなかった。
つまりナザレのイエスの存在は、極めてローカルなポジションだった。
これって、意外に忘れられている。
これだけ世界に影響力を与えている救世主イエスって
実はめちゃくちゃドメスティックな存在だったってこと。
今に置き換えるのは適当ではないと思うけど、
今日みたいな日に渋谷の街で看板立てて、
「信じれば救われます」とビラ配っている程度の存在だったってこと。
とにかく混沌としていた時代にナザレのイエスは生まれた。
そしてこのイエスがスゴイところは、預言書のシナリオに自分の人生を賭けたってこと。
ここはとても重要であり、難解でもあるんだが、
「マトリックス」を再確認すれば、これもまた解決するかもしれない。
あの映画でもネロは、予定調和に導かれていくようなスタンスで自分を救世主に見立てていったと思う。
ナザレのイエスも「イザヤ書」と呼ばれる預言書に倣って
己のポジションを救世主まで高めていった。
彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、
彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎であった。
彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方向に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。
苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、
彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命をとられた。
彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、
その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた。
病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの捧げ物とした。
鬱屈に閉塞したユダヤの民に取って代わって、自らの命を神に捧げよう…とした
「イザヤ書」のメシア像は、いわば窮余の策だ。苦渋の選択だ。
まずは自己の存在を「スーパースター」の高みに押し上げ、求心力が最高潮に達した時、
「捧げ物」として支配者ローマの犠牲となることで、ユダヤ人の結束を高めよう。
これは相当な決意が要る。
この「生け贄の小羊」的犠牲心の発想は、ユダヤ人の根幹にあるようで、
旧約聖書の中でも、神への忠誠の証として、自分の息子を生け贄に捧げる話が出ている。
実際、当時のエルサレムの神殿では「罪を清める」儀式として生け贄の動物を捧げる義務があったようだ。
おのれの命を「生け贄の小羊」として神に捧げよう。
だからこそ、迷いがあった。
捧げるからには犬死になっては意味がない。
周到な準備と画策が必要である。
イスカリオデのユダの存在が、ここで重要な責務を担うこととなる。
「裏切り者」のポジションである。
革命家としてユダヤ王国を再建しようと、
ローマ帝国への感情を剥き出しにしていたユダは篤い男だった。
求心力の高まったイエスを快く思っていないローマ帝国に対して
「生け贄の小羊」となって自らの命を捧げようと思う…
そんな計画を聞かされたユダは、かなり動揺したことだろう。
「いま、アンタがいなくなったら、ユダヤはどうなる?」
これはひとつの賭けだ。
ユダヤ結束の大きな礎となるか、崩壊の一途を辿るか…。
12人の使徒を巻き込んでしまったら、求心力も衰えてしまう。
「ここはひとつ、ユダよ、裏切り者となって、わたしをローマに引き渡してほしい」
使徒たちを欺き、信者たちを敵に回し、イエスへの忠誠心だけで
イスカリオデのユダは「裏切り者」を演じる決心をする。
十字架にはりつけにされ、さらし者になったイエス。
求心力を高め、ユダヤの結束を最高潮に押し上げたイエスの立役者として
「裏切り者」ユダの存在は、尊い。
※上記内容は三田誠広著「ユダの謎キリストの謎」やニコス・カザンザキス著「キリスト最後のこころみ」を参考資料に
わたくしの主観で書かれたものであって、イエス・キリストおよび関連する宗教団体を誹謗・中傷するものではありません。
よって、内容に関しては賛否両論があるかと思いますが、イエス・キリストの存在を意識するきっかけになれば…と思い、
掲載いたしました。
ユダの謎 キリストの謎