大会実施の構想についてお伝えします。
日大豊山が主催する大会について考え始めたのは4月中旬頃です。
その時は緊急事態宣言が発令され、全国的にコロナウィルスの感染者が増加していた頃でした。
その頃から全国中学校大会やインターハイの開催が厳しいかもしれないと思い始めたからです。
もし夏季の全国大会が失われたら、中学3年生や高校3年生は今後一体どうすればよいのか。
日大豊山は中高一貫校ですから、中学3年生は高校進学後も活動を継続することはできますが、高校3年生は大学進学を控えており、目標としていた大会が失われればそのまま引退という形になってしまいます。
4月上旬から週6日間ZOOMを使って筋力トレーニングを行っていましたので、オンライン上では毎日のように顔を合わせていました。
夏季の全国大会の中止が発表されたら、すぐにその後の対応を知らせる必要があると感じていました。
そこで水泳部スタッフに自分の構想を伝え(もちろんオンライン会議で)、中止が発表された翌日には全員に伝えることを決めました。
その後悪い予想があたってしまい、4月下旬には全国中学校・インターハイの中止が発表されました。
インターハイの中止が発表されたその日、主将である瀬良紘太君から沈んだ声で電話がありました。
「これから、どうしたらいいですか。」
その時には詳しいことは説明せず、翌朝のオンライン陸トレのミーティングで全員に自分の考えを伝えると言いました。
そして翌朝、全員に対して夏には日大豊山主催の大会を実施することを伝え、高校3年生に対してはそれまでは選手として続けてほしいとお願いしました。
各コーチからもそれぞれ話をしてもらい、特に野本コーチは東日本大震災のあった2011年に高校3年生として在学していましたので、その時の話をしてくれたことを覚えています。
部員に日大豊山主催の大会を実施することを発表しましたが、その頃は構想だけで具体的な計画まではなかったのですが、全国の多くの水泳関係者の方々が賛同してくれました。
今から考えると学校の許可を得ないまま、私の構想だけで発表してしまったというのは先走りだったと反省しております。
学校やクラブ活動再開の先行きが見えないまま時間だけが過ぎていき、正式に学校でのクラブ活動が再開したのは7月でした。
オンラインで筋力トレーニングは行っていましたが、最初は水につかるだけというような練習からスタートしました。
部員は皆と再会してプールに入れるというだけでうれしそうでしたが、3月まで1回2時間~2時間半の練習を行っていた選手が、わずか15分~20分程度で息が上がっている様子でした。
約3か月間、きちんとしたトレーニングを行っていないという影響は予想以上に体力の低下をもたらしたようです。
練習再開後の要望も部員に聞いていましたので、なるべく要望を取り入れて皆でリレーをしたり、泳ぎづくりを行うことで徐々に体力と泳ぎを取り戻していきました。
その後、じっくりと時間をかけながら徐々に強化し、同時に8月に行う予定の大会について具体的な検討を始めました。
大会とする会場は感染リスクを避けるために屋外の長水路で、さらに更衣の問題から参加者は男子のみとしました。
大会名は日大豊山主催ということは表に出さず、大会に賛同した中学生と高校生の競泳選手の大会であることとし、副題は「新たなスタートへ向かって」としました。
これは3月から一度も大会がなかった東京都の選手がこの大会を機にスタートをしてもらいたいという願いが込められたものです。
高校3年生は大学進学という次のスタートへ、高校1・2年生は9月以降の大会へ向けてのスタートとなります。
大会準備とともに日々のクラブ活動の中でも感染予防の対策を考え、校内で感染者が出て休校となるような万が一のときの対応なども検討しておりました。
いつクラブ活動の制限や中止という状況になってもおかしくない日々でしたから、連日水泳部スタッフはコロナウィルスの問題に取り組んでいたと言えます。
7月下旬頃には大会の概要が決まってきたので、4月に賛同を頂いた参加者に連絡を取り始めました。
私が大会の構想をした4月頃は、夏にはコロナウィルスの問題が収束しているという前提のもとに考えていたのですが、実際には7月に入ってもまったく収まる様子も見えないというのが現実でした。
そのため、4月に賛同して下さった学校や選手もほとんどが不参加という厳しい状況です。
しかし、高校3年生のことを考えると実施しなければ区切りがつきません。
報道関係の方からも何度となく質問されたのが、大会を実施する意味でした。
なかには幼少期から水泳を続けてきた選手もいるので、最後の年を迎える前に前年度の3月で自然と消滅するというのは考えられないことで、私の考えではどういう形であっても大会を実施するということは当然のことでした。
インターハイが失われたからといってそのまま引退ということは、一度も考えに浮かんだことはありません。
参加者がいないという最悪の場合、日大豊山水泳部の生徒だけでもきちんとした記録会を実施することを検討していました。
一方で幸いにも練習は順調にいっており、7月下旬頃にようやく選手の体力が回復してきて、瀬良君から豊山レースの申し出もあり、8月6日に実施致しました。
高校2年生の北川凛生君が立派なプログラムを作ってきてくれました。
皆、久々のレースで盛り上がり、とても活気づいていたことが印象的でした。
しかし8月に入った頃、予定していた大会会場が使えないという事態に直面したのです。
竹村知洋