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十数年前に、この記念館に来た時のことだ。
その折は、バスツアーで、この場所を訪れた。
記念館がツアーに組み込まれている事は知らなかった。
この記念館のことはもとより、知覧に特攻隊が出撃して行った空港があったことも知らなかった。
バスを降りて、記念館の周囲に作られている、いくつかの三角兵舎(特攻兵の宿舎)を通り抜けていくのだが、ひとつ通り抜けたところで、何となく、ザワザワとした気持ちになった。
残りの兵舎を通り抜けるのをやめて、そのまま直接記念館に向かった。
記念館に入ると、右側には、大きなガラスの壁の向こうに、水没していたゼロ戦を引き上げて復元したものが飾られていた。
正面には、燃え上がるゼロ戦から、焼けただれた特攻隊員を抱え上げる天女たちの大きな陶板画があった。
衝撃的な画だった。
展示室の中には、奥の壁に、無数とも思われる数の特攻隊員の遺影と、恐らく遺品や遺書が飾られていたのだろう。
というのも、私はそこへは入れなかったのだ。
展示室に一歩踏み込んだとたんに、何か透明で弾力のあるものが写真の方から一斉に溢れてきて、そこから前に進めなくなったのだ。
その「何か」に触れたとたんに、涙が止まらなくなった。
泣くどころではない、号泣が止まらなくなったのだ。
不思議な事に、私の気持ちは、悲しくはない。
悲しくもないのに、激しい慟哭に襲われる。
嗚咽しながら、展示室を出、外のベンチに座ったのだけれど、それでも慟哭は止まない。
何故自分が泣いているのかもわからない。
それは、バスに乗ってからも、しばらく止む事はなかったのだ。
私は、この不思議な経験を、ずっと消化しきれないできた。
特攻隊員たちの母親を求める気持ちと、私の中の母親の気持ちのチャンネルが一致して、そこから、語られなかった隊員たちの思いが一斉に流れ込んできたのだのだろうとは、その時は、確信したのだが。
けれど、目に見えないけれども、はっきりと「見えた」透明な何か、私が触れた「弾力性のある何か」とはなんだったのか。
大体、そのような具体的でクリアな経験は(見たり聞いたりするだけでなく、直接なにかに「触れる」ような経験は)今までにしたことがなかった。
恐ろしい体験では決してない。
理解不能な体験だったのだ。
結局私は、そこに展示されているものをきちんと見ることなく、帰途についたのである。
再び鹿児島を訪れることになっても、また記念館を尋ねるつもりはなかった。
二度と足を踏み入れたくない、という思いだった。
なんだかよく分からないけれど、二度とあんな思いをしたくなかったのだ。
ところが、今回、いざ鹿児島空港に降り立つと、夫が、知覧に行こうと言い出した。
「けりをつけなくちゃあかん」と。
「目をそらしたらあかん」と。
なんでそんなことを言うねん?ww
普段はヘラヘラしてるのに?ww
(申し訳ありません。更に、(3)に続きます。)
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