港町のカフェテリア 『Sentimiento-Cinema』


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『8月18日』その1

2019-08-17 22:17:10 | 明日は誰の日

☆マルセル・カルネ Marcel Carné (1906.8.18~1996.10.31)



知的ペシミズムと心理リアリズムによって戦前・戦後にかけてのフランスの映画黄金期を支えた映画監督です。
高級家具師の子息としてパリに生まれ、家具実習学校に学んだ後職業技術学校の映画科に入り、ジョルジュ・ベリナールの
助監督、次いでルネ・クレールの『巴里の屋根の下』の助監督、そしてフランソワーズ・ロゼーの推薦でジャック・フェデーの
『外人部隊』『ミモザ館』で助監督をつとめました。クレールとフェデーに師事したことが誠に幸運であり、二人の巨匠から
吸収した映画の構成技術は後々の作品群にカルネ自身の発現として大いに生かされることになりました。
1936年にジャック・プレヴェールの脚本で『ジェニイの家』で監督としてデビュー、カルネ独特のペシミズムを全編に漂わせ
ながら師匠フェデーゆずりの鋭いリアリズムで描き切りました。この作品の大成功は詩人プレヴェールの協力によるもので
その後の二人のコンビによる運命の皮肉をテーマにした知的ペシミズムに強烈な心理リアリズムを融合させる作風によって
フランス映画黄金期に数多くの傑作を生みだすことになりました。
第二作の1937年『おかしなドラマ』はパロディのようなコメディ・タッチの風刺映画で、どこかクレールの抒情を意識した
ように思える仕上がりになりました。
1938年の『霧の波止場』では霧深い港町に繰り広げられた運命的な敗残者たちの悲劇を見事なまでの雰囲気描写で描き上げ
カルネ独特の知的ペシミズムに強烈な心理リアリズム(ある意味で詩的リアリズム)による作風が完成されました。
やがてナチの台頭でヨーロッパが戦場となり、フランスもナチに占領されてクレール、デュヴィヴィエ、ルノワールなどが
アメリカへと逃避しましたが、カルネはドイツ占領下のフランスに残り、1942年に『悪魔が夜来る』を発表しました。この
作品は時代を中世に設定して表向きは恋愛物語を装いながら作品の裏にフランス人としての誇りを盛り込み、ナチスによる
フランス支配に抗議の意を示し占領下でも消えることのない不屈の精神を内に秘め込みました。
続く1944年の『天井桟敷の人々』もドイツ占領下で制作されたました。十九世紀前半のブルボン王政復古からから七月王政
にかけてのパリの犯罪大通りを舞台とした一大恋愛絵巻をリアリズムとペシミズムを基調として純化された19世紀の風俗を
再現し、社会全体を見下ろすと同時に人間の精神の内部をきめ細かく描き、それを社会と個人の関係として対比させる手法
(バルザック的な二元論)によってフランス映画史の金字塔と呼ばれる傑作に仕上げ、カルネetプレヴェールの集大成的作品
となりました。
その後も運命の皮肉をテーマにした『夜の門』、冷たいリアリズムによる残酷喜劇『港のマリィ』などの佳作を撮った後
1953年に『嘆きのテレーズ』を発表しました。原作はエミール・ゾラの「テレーズ・ラカン」で長年コンビを組んでいた
プレヴェールに代えてシャルル・スパークを起用し、筋書きに大きな変更を加えて、現代風にドラマティック要素を持たせ
以前のカルネに見受けられていたペシミズムの中に垣間見えていたロマンチシズムを完全に押し殺し、冷やかで突き放しの
リアリズムによって感傷のかけらすら見せずに人間の煩悩と運命の深渕を簡潔に描きあげ、全編鋭さで貫かれた運命的心理
サスペンスとなってカルネの代表的傑作となりました。
しかし、プレヴェールと別れたことで名匠カルネの神通力も衰え、それ以降の作品群にかつての鋭さも影をひそめ、1965年の
『マンハッタンの哀愁』でカルネの終焉を思い知ることになってしまいました。

【主要監督作品】
1936年『ジェニイの家』 Jenny

1937年『おかしなドラマ』 Drôle de drame
1938年『霧の波止場』  Le quai des brumes

1938年『北ホテル』 Hôtel du Nord

1939年『陽は昇る』 Le jour se lève
1942年『悪魔が夜来る』 Les visiteurs du soir 

1944年『天井桟敷の人々』 Les enfants du paradis

1946年『夜の門』Les portes de la nuit 

1950年『港のマリィ』 La Marie du port 

1951年『愛人ジュリエット』 Juliette ou La clef des songes
 
1953年『嘆きのテレーズ』  Thérèse Raquin

1954年『われら巴里ッ子』 L'air de Paris

1956年『遥かなる国から来た男』 Le pays d'où je viens

1958年『危険な曲り角』 Les tricheurs 

1960年『広場』 Terrain vague

1965年『マンハッタンの哀愁』  Trois chambres à Manhattan 

1968年『若い狼たち』 Les jeunes loups


☆ラディスラオ・ヴァホダ Ladislao Vajda (1906.8.18~1965.3.25)



ハンガリー生まれで戦前のドイツ映画のシナリオ・ライター、後にスペインなどで活躍した映画監督です。
ハンガリーのブダペストに生まれました。1920年代からドイツでシナリオ・ライターとして活動をはじめ、G・W・パブスト
監督の1928年の『邪道』をはじめとして『三文オペラ』『炭坑』『アトランテイド』などの脚本を担当し、フランスなどでも
シナリオを書いた後、1943年にスペインに渡りました。フランコ政権下、映画不毛の地といわれたスペインで1950年代に
数本の作品を監督し、1955年に「奇跡の一作」といわれた『汚れなき悪戯』を監督しました。信仰ロマンスを率直に表現し
清澄で情感あふれる映像美で興行的にも大ヒットし、国際的にも認められるようになりました。
次いで1956年には闘牛士を扱ったセミ・ドキュメンタリー『鮮血の午後』、同じく闘牛士の人間愛の物語『広場の天使』を
発表しましたが、日本では観る機会もなく、1965年のイタリア映画 "La dama de Beirut" が遺作となりました。

【主要監督作品】
1955年『汚れなき悪戯』Marcelino Pan Y Vino

1956年『鮮血の午後』Tarde De Toros

1956年『広場の天使』Mi Tio Jacinto


『8月18日』その2

2019-08-17 17:30:21 | 明日は誰の日

【誕生日】


☆ロマン・ポランスキー Roman Polanski (1933.8.18~ )



ポーランドから脱出し西側諸国で問題作を撮り続けた話題の多い映画監督です。
パリ生まれのユダヤ系ポーランド人で、三歳の時に家族と共にポーランドに戻りましたが七歳の時にナチスによって一家は
収容所に送られ、自身はそこから出所したものの母親は収容所で死亡、何とか生き残った父とは戦後に再会を果たしました。
戦争中はドイツに占領され戦後はスターリン主義の抑圧を受けて人々の心が二重三重に屈折した複雑なポーランドで苦しい
少年期を過ごしたようです。
1947年にクラクフの演劇学校に入り舞台に立ち、1954年にはウージ国立演劇映画高等学校でアンジェイ・ムンクの教えを受け
ムンクやアンジェイ・ワイダの映画数本にも出演しました。1955年から短編映画の監督を始め、そのうちの一本が傑作と
といわれる『タンスと二人の男』でした。
そして1962年、初めての長編映画『水の中のナイフ』を監督、孤独の心理を瑞々しいモノクロトーンの映像美で描くと共に
貧富の格差を痛烈に訴えて一躍脚光を浴びました。この作品がベネチア映画祭で高い評価を受けたことによって西側諸国から
招かれるようになって社会主義国家のポーランドから脱出、自由な表現活動を手にすることができるようになりました。
ただ、1969年には妻のシャロン・テートが狂信的カルト指導者たちによって惨殺されたり、1977年には少女への淫行容疑で
アメリカから逃亡し、アメリカ司法局は現在でも身柄の引き渡しを求めている、など映画のほかでも話題の多い人物でした。

【主要監督作品】
1958年『タンスと二人の男』  Dwaj Ludzie Z Szafa
1962年『水の中のナイフ』  Nóz W Wodzie

1964年『世界詐欺物語』 Le plus belles escroqueries du monde 
1965年『反撥』 Repulsion

1966年『袋小路』 Cul-de-sac

1967年『吸血鬼』 The Fearless Vampire Killers

1968年『ローズマリーの赤ちゃん』 Rosemary's Baby 



*個人的にはポランスキーの最高傑作は『タンスと二人の男』であると思っています。以前にこのブログで記事に
していますのでご参照ください。
タンスと二人の男(1958)その1 
タンスと二人の男(1958)その2


☆リュシエンヌ・ボワイエ Lucienne Boyer (1903.8.18~1983.12.06)



『聞かせてよ愛の言葉を』でフランスの第一回ディスク大賞を獲得を獲得したシャンソン歌手です。
ベル・エポック真っ只中のパリ・モンパルナス地区に生まれました。第一次世界大戦で父親を失って家族の生計を支えるため
軍事工場で働き、16歳頃から絵のモデルをしながらキャバレーで唄い始め、一時はアメリカのブロードウェイなども経験して
フランスに戻りました。歌手として現実派シャンソンのイヴォンヌ・ジョルジュをお手本にしていました
が、1929年にジャン・
ルノワールの門下に入って歌のレッスンを受け本格的な歌手を目指し、1930年にはジャン・ルノワールの作詞・作曲による
『聞かせてよ愛の言葉を』をレコーディングして大ヒット、この年から制定された第一回ディスク大賞を獲得しました。
その後、『私の心はバイオリン』などのヒットがあり、1950年まで歌手として活動を続けていますが日本ではほとんど
耳にすることはありませんでした。
また、パリの芸術家たちが集まるモンパルナス生まれの彼女は、絵画のモデルをしていたこともあったようです。日本人の
画家・藤田嗣治の「カフェにて」のモデルはリュシエンヌ・ボワイエだと言われています。


↓はリュシエンヌ・ボワイエの『聞かせてよ愛の言葉を』 【YOUTUBEより】


↓はリュシエンヌ・ボワイエの『私の心はバイオリン』 【YOUTUBEより】



☆ジョニー・プレストン Johnny Preston (1939.8.18~2011.3.04)



『悲しきインディアン』が全米No.1となりましたが結局は一発屋で終わったアメリカのポップ・シンガーです。
テキサス州ポートアーサーに生まれ、高校時代にロックンロールバンドを結成して地元のクラブで唄っていたところを
ビッグ・ボッパーの名でディスク・ジョッキーをしていた J・P・リチャードソンに見出されてマーキュリー・レコードと
契約を交わしました。1959年にリリースした『悲しきインディアン』(ジョニー・プレストンの自作となっていますが、
実際の作詞・作曲は J・P・リチャードソンだといわれています)が1960年1月に全米1位のミリオン・ヒットになりました。
同年の『恋のゆりかご』も全米7位を記録していますが、それ以降はヒットに恵まれず、ほぼ一発屋で終わりました。

↓はヘジョニー・プレストンの『悲しきインディアン』 【YOUTUBEより】



【ご命日】

★エルマー・バーンステイン Elmer Bernstein (1922.4.04~2004.8.18)



クラシック、ジャズなどの手法を取り入れ、あらゆるレパートリーの作品をこなすアメリカの映画音楽家。
主な映画音楽作品として『黄金の腕』『荒野の七人』『コマンチェロ』『大脱走』などがある。


★ジョン・スタージェス John Sturges (1910.1.03~1992.8.18)



男性的なアクション映画を得意とするアメリカの映画監督。
主な監督作品として『OK牧場の決斗』『老人と海』『荒野の七人』『大脱走』などがある。


★スコット・マッケンジー Scott McKenzie (1939.1.10~2012.8.18)



反戦運動が盛んとなった60年代後期において、人類愛を唄った『花のサンフランシスコ』を唄った人気歌手てす。