☆マルセル・カルネ Marcel Carné (1906.8.18~1996.10.31)
知的ペシミズムと心理リアリズムによって戦前・戦後にかけてのフランスの映画黄金期を支えた映画監督です。
高級家具師の子息としてパリに生まれ、家具実習学校に学んだ後職業技術学校の映画科に入り、ジョルジュ・ベリナールの
助監督、次いでルネ・クレールの『巴里の屋根の下』の助監督、そしてフランソワーズ・ロゼーの推薦でジャック・フェデーの
『外人部隊』『ミモザ館』で助監督をつとめました。クレールとフェデーに師事したことが誠に幸運であり、二人の巨匠から
吸収した映画の構成技術は後々の作品群にカルネ自身の発現として大いに生かされることになりました。
1936年にジャック・プレヴェールの脚本で『ジェニイの家』で監督としてデビュー、カルネ独特のペシミズムを全編に漂わせ
ながら師匠フェデーゆずりの鋭いリアリズムで描き切りました。この作品の大成功は詩人プレヴェールの協力によるもので
その後の二人のコンビによる運命の皮肉をテーマにした知的ペシミズムに強烈な心理リアリズムを融合させる作風によって
フランス映画黄金期に数多くの傑作を生みだすことになりました。
第二作の1937年『おかしなドラマ』はパロディのようなコメディ・タッチの風刺映画で、どこかクレールの抒情を意識した
ように思える仕上がりになりました。
1938年の『霧の波止場』では霧深い港町に繰り広げられた運命的な敗残者たちの悲劇を見事なまでの雰囲気描写で描き上げ
カルネ独特の知的ペシミズムに強烈な心理リアリズム(ある意味で詩的リアリズム)による作風が完成されました。
やがてナチの台頭でヨーロッパが戦場となり、フランスもナチに占領されてクレール、デュヴィヴィエ、ルノワールなどが
アメリカへと逃避しましたが、カルネはドイツ占領下のフランスに残り、1942年に『悪魔が夜来る』を発表しました。この
作品は時代を中世に設定して表向きは恋愛物語を装いながら作品の裏にフランス人としての誇りを盛り込み、ナチスによる
フランス支配に抗議の意を示し占領下でも消えることのない不屈の精神を内に秘め込みました。
続く1944年の『天井桟敷の人々』もドイツ占領下で制作されたました。十九世紀前半のブルボン王政復古からから七月王政
にかけてのパリの犯罪大通りを舞台とした一大恋愛絵巻をリアリズムとペシミズムを基調として純化された19世紀の風俗を
再現し、社会全体を見下ろすと同時に人間の精神の内部をきめ細かく描き、それを社会と個人の関係として対比させる手法
(バルザック的な二元論)によってフランス映画史の金字塔と呼ばれる傑作に仕上げ、カルネetプレヴェールの集大成的作品
となりました。
その後も運命の皮肉をテーマにした『夜の門』、冷たいリアリズムによる残酷喜劇『港のマリィ』などの佳作を撮った後
1953年に『嘆きのテレーズ』を発表しました。原作はエミール・ゾラの「テレーズ・ラカン」で長年コンビを組んでいた
プレヴェールに代えてシャルル・スパークを起用し、筋書きに大きな変更を加えて、現代風にドラマティック要素を持たせ
以前のカルネに見受けられていたペシミズムの中に垣間見えていたロマンチシズムを完全に押し殺し、冷やかで突き放しの
リアリズムによって感傷のかけらすら見せずに人間の煩悩と運命の深渕を簡潔に描きあげ、全編鋭さで貫かれた運命的心理
サスペンスとなってカルネの代表的傑作となりました。
しかし、プレヴェールと別れたことで名匠カルネの神通力も衰え、それ以降の作品群にかつての鋭さも影をひそめ、1965年の
『マンハッタンの哀愁』でカルネの終焉を思い知ることになってしまいました。
【主要監督作品】
1936年『ジェニイの家』 Jenny
1937年『おかしなドラマ』 Drôle de drame
1938年『霧の波止場』 Le quai des brumes
1938年『北ホテル』 Hôtel du Nord
1939年『陽は昇る』 Le jour se lève
1942年『悪魔が夜来る』 Les visiteurs du soir
1944年『天井桟敷の人々』 Les enfants du paradis
1946年『夜の門』Les portes de la nuit
1950年『港のマリィ』 La Marie du port
1951年『愛人ジュリエット』 Juliette ou La clef des songes
1953年『嘆きのテレーズ』 Thérèse Raquin
1954年『われら巴里ッ子』 L'air de Paris
1956年『遥かなる国から来た男』 Le pays d'où je viens
1958年『危険な曲り角』 Les tricheurs
1960年『広場』 Terrain vague
1965年『マンハッタンの哀愁』 Trois chambres à Manhattan
1968年『若い狼たち』 Les jeunes loups
☆ラディスラオ・ヴァホダ Ladislao Vajda (1906.8.18~1965.3.25)
ハンガリー生まれで戦前のドイツ映画のシナリオ・ライター、後にスペインなどで活躍した映画監督です。
ハンガリーのブダペストに生まれました。1920年代からドイツでシナリオ・ライターとして活動をはじめ、G・W・パブスト
監督の1928年の『邪道』をはじめとして『三文オペラ』『炭坑』『アトランテイド』などの脚本を担当し、フランスなどでも
シナリオを書いた後、1943年にスペインに渡りました。フランコ政権下、映画不毛の地といわれたスペインで1950年代に
数本の作品を監督し、1955年に「奇跡の一作」といわれた『汚れなき悪戯』を監督しました。信仰ロマンスを率直に表現し
清澄で情感あふれる映像美で興行的にも大ヒットし、国際的にも認められるようになりました。
次いで1956年には闘牛士を扱ったセミ・ドキュメンタリー『鮮血の午後』、同じく闘牛士の人間愛の物語『広場の天使』を
発表しましたが、日本では観る機会もなく、1965年のイタリア映画 "La dama de Beirut" が遺作となりました。
【主要監督作品】
1955年『汚れなき悪戯』Marcelino Pan Y Vino
1956年『鮮血の午後』Tarde De Toros
1956年『広場の天使』Mi Tio Jacinto