マタイの福音書12章1~14節 「安息日の主」
そのころ、イエスとお弟子たちは、安息日に麦畑を通られました。「弟子たちは空腹だったので、穂を摘んで食べ始めました。」イスラエルでは、他人の畑で穂を摘むことは認められていました。ここで問題となったのは、安息日でした。当時は、日曜ではなく、土曜日でした。この日はすべての仕事を休んで神を礼拝する日と定められていたからです。パリサイ人たちは弟子たちが穂を摘んで食べているのを見て、(2)「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」とイエスに言いました。弟子たちが麦の穂を摘み、もみ殻を取り除いたことが、安息日にはしてはいけない仕事にあたると指摘したのです。本来安息日は、労働をやめて神を感謝して礼拝する日でありましたが、ユダヤ人は先祖からの言い伝えなど細かい禁則を加え、本来の安息日の精神とはかけ離れていました。3節から、イエス様はパリサイ人からの批判に対して、いくつかのことをあげて反論します。第一に、ダビデたちが空腹の時に神殿に供えられている、本来許されていないパンを食べたことを指摘し、緊急を要する時には、安息日を儀式的に守ることよりも、人間の緊急の必要を満たすことが優先すると主張しました。第二に、安息日に宮で奉仕している祭司の例を挙げ、安息日の本来の目的は、労働を禁止することではなく、神を礼拝することであり、(6)「ここに宮よりも大いなるものがあります。」とご自身を指して言われ、弟子たちはその宮よりも偉大な主イエスに仕える者であって違反にはならないと主張したのです。第三に、(7)イエスは「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。」という旧約聖書のことばを引用し、神が求めておられるのは、儀式のような形式ではなく、あわれみの心、他人に対するあわれみの心を持つことだを主張しました。(8)「人の子は安息日の主です。」とは、イエス様こそ、安息の本当の意味をご存知で、私たちに本当の安息を与えてくださるお方だということです。
イエスが安息日礼拝のために会堂に入られると、片手が不自由な人がいました。そこでパリサイ人たちはイエスに(10)「安息日に癒すのは律法にかなっていますか」と質問しました。それは明白な証拠をつかんでイエスを訴えるためでした。彼らは、命にかかわらない病気を癒すのは律法違反だと考えていたのです。主はここでも、律法の精神に基づいて答えます。(11~12)「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」それからイエスはその人に、(13)「手を伸ばしなさい。」と言われました。彼が手を伸ばすと、手は元通りになり、もう一方の手のように良くなりました。主はその人をあわれみ、手を癒されたのです。私たちは安息日をどのように過ごしているでしょうか?神様の恵み・あわれみに心から感謝し、主の安息・安らぎの中に守られていることを味わいながら過ごしたいものです。コロナ禍にあって先が見えず、重荷を抱えつぶれてしまいそうな時があります。しかし主は私たちをご自身のみことばによって強め支えてくださるのです。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ41:10)と主は語られます。またイエス様は「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と招いておられます。真の平安はイエス様のもとにあります。私たちは神様のもとで、あわれみを受け、憩うことができるのです。真の安らぎを与えてくださる主なるイエス様に身も魂もお委ねいたしましょう。
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