出エジプト記12章は最初の過越しについて記しています。神はイスラエルの民に過ぎ越しの祭りを行うように命じられました。初子の死によりエジプト中が泣き叫ぶ中イスラエルの民は平安が与えられ守られました。
Ⅰ:救いへの感謝
(21)「そこで、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び寄せて言った。『あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過ぎ越しのいけにえとしてほふりなさい。』
モーセは長老たちを呼び寄せて言われます。羊は家族ごとに一頭ほふりました。「ほふる」とは、殺して体などを切り裂くことです。羊一頭はだいたい男10人で食べる量ですが、家族の人数によっては、他の家族と分け合ったようです。羊は傷のない一歳の雄の羊でした。それは神の子羊イエス様のモデルであり、傷のない羊が「過越しのいけにえ」として捧げられました。
その後、過越しの祭りは、年に一度春に、歴史的出来事である出エジプトを記念して行われてきました。刈り入れの祭り、仮庵の祭りと合わせて3大祭りの一つです。祭りは8日間行われ、過越しの祭りが1日、種なしパンの祭りが7日で、通常二つを合わせて、過越しの祭りと呼ばれています。聖書には旧新約を問わず、この祭りのことが最も多く記されています。
イスラエル人はこの祭りをどうして毎年行い続けているのでしょうか?それは、神がイスラエルになされた出エジプトの出来事をいつも思い出し忘れないようにするためです。エジプトから救い出されたことを感謝し、それを記念して毎年行うのです。神からの祝福を感謝するとともに、神による救いを記念する重要な祭です。
詩篇103篇2節「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」主の良くしてくださったことを一つとして忘れないようにと言われます。人は忘れやすい者です。時には昨日したこと、今朝したことも忘れてしまうことがあります。自分が相手のためにしたことはよく覚えていても、自分がしてもらったことはつい忘れてしまうことがあります。
イスラエルの人たちは、過ぎ越しの祭りを祝い、神様がエジプトから救い出してくださったことを忘れないようにしました。クリスチャンであれば、一人ひとりエジプトから救い出された出エジプトの経験があります。私でしたら、1993年のクリスマスに受洗しました。今年でちょうど25年になります。どんなに信仰生活が長くなろうと、罪の中から救い出されたことを忘れないで、いつも感謝していたいものです。そこから新たな人生が始まったのですから。
Ⅱ:招き入れられている恵み
(22~23)「ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家に入って、打つことがないようにされる。」
「ヒソプ」とは、罪をきよめる儀式のたに用いられていた植物です。ヒソプを一束取って鉢の中の血に浸し、その血をかもいと二本の門柱につけました。「かもい」とは、二本の柱をつなぐ上部の横木のことです。家の入口にあるかもいと二本の門柱に血を塗りました。主はそれを見て、その家に災いが起こらず、過ぎ越すようにされました。
第10番目の災いはすべての初子が亡くなるという災いです。それは、エジプト人だけではなく、イスラエル人にも及ぶ可能性がありました。しかし、神の命令に従ったイスラエル人は災いから守られたのです。
そしてこの羊の血は、キリストの血の型・モデルを表しています。血が人々を救いました。血はいのちを表しています。私たちが贖い出されたのは、キリストの血によるのです。
私たちは罪があるゆえに自分で自分を救うことができません。少し良いことをしたからとか、人のために何かしたからということで、罪が帳消しになるものでもありません。
パウロは自分は何をしているのか分からないと言われました。
(ローマ7:15~20)「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」
また、ダビデは詩篇51篇で、(5)「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(7)「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめていください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」と言っています。
私自身を顧みる時に、25年信仰生活をしていますが、少しはましになってきているように思いますが、心の中を見ますと罪汚れは依然ありますし、今だに同じ過ちを繰り返したりもします。それでも「わたしはあなたを罪に定めない」と言ってくださいます。信仰ゆえに神の前に義と認めてくださるのは、本当にもったいないことだと感じます。かもいと二本の柱の血を見て、さばきが過ぎ越されたようにです。
「ちいろば」という本で有名な、榎本保郎という牧師は次のように言っています。
パウロは、(ローマ6:6)「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」と言っています。パウロは「私たちの古い人をキリストとともに十字架につけよう」とは言ってません。「つけられた」という過去形のことばを用いて、すでに赦しのうちに入れられている恵みを証ししています。私たちがどうであろうと、すでに、主は十字架にかかって血を流されたことによって、滅ぶべき古き人の赦しのしるしとなってくださいました。そのことを知り、そのことに感謝して生きることが信仰です。
またパウロは、「私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。」(ガラテヤ6:17)と語っていますが、かつてエジプトの国で、入口の二つの柱とかもいに子羊の血の塗られている家だけが、神の怒りから免れたように、主イエス・キリストのしるしをいただいている私たちは、もはや神の怒りから解放され、キリストとともに生きる望みを与えられているのです。
私自身、今回の説教準備をしている中で、私はすでに赦しの中に入れられていることに気づかされました。もっとこうしなければいけない、こうしてはいけないというのではなく、今のありのままの自分でキリストゆえに神に受け入れられ、赦されていることを改めて気付かされました。羊の血が塗ってあるのを見て、災いは過ぎ越していきました。エジプト中が泣き叫ぶなか、イスラエル人は平安が与えられ守られました。
主に信頼します。主の血に信頼していきたいものです。
Ⅲ:恵みへの応答
(24~27)「あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のためのおきてとして、永遠に守りなさい。また、主が約束どおりに与えてくださる地にはいるとき、あなたがたはこの儀式を守りなさい。あなたがたの子どもたちが、『この儀式はどういう意味ですか。』と言ったとき、あなたがたはこう答えなさい。『それは主への過越しのいけにえだ。主がエジプトを打ったとき、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。』すると民はひざまずいて、礼拝した。」
イスラエルの人は約束の地に入ってからも、子羊をほふりこの儀式を守りました。それは自分たちの子どもたちに伝えていくためです。彼らは代々この儀式を守りながら、偉大なる神の救いのみわざを子供たちに伝えました。やがて主イエスは、この過越しの夜に、新約時代に生きる私たちのために、新しく聖餐式という礼典を定められました。私たちはこの礼典を守る度に、主の死を告げ知らせるとともに、主の偉大なる救いの御業に感謝をささげます。
イエス様は食事の最中にパンを取って感謝してから、さいて弟子たちに一つ一つ分けてあげました。そして「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」次にぶどう酒のはいった杯を取り、「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」と言われました。
「私を覚えて、これを行いなさい。」という命令が付け加えられています。「覚えて」とは、私たちがいかに忘れやすい存在であるのでいつも主を覚えるべきことを示しています。そして聖餐式に参加し、パンを食し、杯を飲むことによって、主を覚え、また主が自分のような罪人のために十字架にかかられたことを確信させられるのです。
「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」このことばは、イエスのことばから直接出たのではなく、パウロの説明です。聖餐式を行なうたびに、終わりの日まで、主の死を告げ知らせるのです。
榎本保郎牧師は「ちいろば牧師」の愛称で知られています。三浦綾子さんの「ちいろば先生物語」で広く知られるようになりました。自らをイエスの乗り物、小さいロバとして生涯を伝道に捧げられました。聖書には小さなロバが用いられる箇所があります。
マタイの福音書21章2~3節「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」
イエス様は弟子たちを遣わし、向こうの村に小さな子ロバがつながれているので、それをほどいてご自身のもとに連れて来るように、そして誰かが何か言ったら「主がお入用なのです」と伝えるように言われました。イエス様は縄につながれているロバの子をほどいて、ご自身のために用いられました。同じように、イエス様は私たちを用いられます。縄につながれているならそれをほどいて用いられるのです。私たちは主を背中に乗せる小さなロバです。主の恵みにお応えし、主が再び来られる日まで主の救いを宣べ伝えていく者としてください。
Ⅰ:救いへの感謝
(21)「そこで、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び寄せて言った。『あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過ぎ越しのいけにえとしてほふりなさい。』
モーセは長老たちを呼び寄せて言われます。羊は家族ごとに一頭ほふりました。「ほふる」とは、殺して体などを切り裂くことです。羊一頭はだいたい男10人で食べる量ですが、家族の人数によっては、他の家族と分け合ったようです。羊は傷のない一歳の雄の羊でした。それは神の子羊イエス様のモデルであり、傷のない羊が「過越しのいけにえ」として捧げられました。
その後、過越しの祭りは、年に一度春に、歴史的出来事である出エジプトを記念して行われてきました。刈り入れの祭り、仮庵の祭りと合わせて3大祭りの一つです。祭りは8日間行われ、過越しの祭りが1日、種なしパンの祭りが7日で、通常二つを合わせて、過越しの祭りと呼ばれています。聖書には旧新約を問わず、この祭りのことが最も多く記されています。
イスラエル人はこの祭りをどうして毎年行い続けているのでしょうか?それは、神がイスラエルになされた出エジプトの出来事をいつも思い出し忘れないようにするためです。エジプトから救い出されたことを感謝し、それを記念して毎年行うのです。神からの祝福を感謝するとともに、神による救いを記念する重要な祭です。
詩篇103篇2節「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」主の良くしてくださったことを一つとして忘れないようにと言われます。人は忘れやすい者です。時には昨日したこと、今朝したことも忘れてしまうことがあります。自分が相手のためにしたことはよく覚えていても、自分がしてもらったことはつい忘れてしまうことがあります。
イスラエルの人たちは、過ぎ越しの祭りを祝い、神様がエジプトから救い出してくださったことを忘れないようにしました。クリスチャンであれば、一人ひとりエジプトから救い出された出エジプトの経験があります。私でしたら、1993年のクリスマスに受洗しました。今年でちょうど25年になります。どんなに信仰生活が長くなろうと、罪の中から救い出されたことを忘れないで、いつも感謝していたいものです。そこから新たな人生が始まったのですから。
Ⅱ:招き入れられている恵み
(22~23)「ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家に入って、打つことがないようにされる。」
「ヒソプ」とは、罪をきよめる儀式のたに用いられていた植物です。ヒソプを一束取って鉢の中の血に浸し、その血をかもいと二本の門柱につけました。「かもい」とは、二本の柱をつなぐ上部の横木のことです。家の入口にあるかもいと二本の門柱に血を塗りました。主はそれを見て、その家に災いが起こらず、過ぎ越すようにされました。
第10番目の災いはすべての初子が亡くなるという災いです。それは、エジプト人だけではなく、イスラエル人にも及ぶ可能性がありました。しかし、神の命令に従ったイスラエル人は災いから守られたのです。
そしてこの羊の血は、キリストの血の型・モデルを表しています。血が人々を救いました。血はいのちを表しています。私たちが贖い出されたのは、キリストの血によるのです。
私たちは罪があるゆえに自分で自分を救うことができません。少し良いことをしたからとか、人のために何かしたからということで、罪が帳消しになるものでもありません。
パウロは自分は何をしているのか分からないと言われました。
(ローマ7:15~20)「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」
また、ダビデは詩篇51篇で、(5)「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(7)「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめていください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」と言っています。
私自身を顧みる時に、25年信仰生活をしていますが、少しはましになってきているように思いますが、心の中を見ますと罪汚れは依然ありますし、今だに同じ過ちを繰り返したりもします。それでも「わたしはあなたを罪に定めない」と言ってくださいます。信仰ゆえに神の前に義と認めてくださるのは、本当にもったいないことだと感じます。かもいと二本の柱の血を見て、さばきが過ぎ越されたようにです。
「ちいろば」という本で有名な、榎本保郎という牧師は次のように言っています。
パウロは、(ローマ6:6)「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」と言っています。パウロは「私たちの古い人をキリストとともに十字架につけよう」とは言ってません。「つけられた」という過去形のことばを用いて、すでに赦しのうちに入れられている恵みを証ししています。私たちがどうであろうと、すでに、主は十字架にかかって血を流されたことによって、滅ぶべき古き人の赦しのしるしとなってくださいました。そのことを知り、そのことに感謝して生きることが信仰です。
またパウロは、「私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。」(ガラテヤ6:17)と語っていますが、かつてエジプトの国で、入口の二つの柱とかもいに子羊の血の塗られている家だけが、神の怒りから免れたように、主イエス・キリストのしるしをいただいている私たちは、もはや神の怒りから解放され、キリストとともに生きる望みを与えられているのです。
私自身、今回の説教準備をしている中で、私はすでに赦しの中に入れられていることに気づかされました。もっとこうしなければいけない、こうしてはいけないというのではなく、今のありのままの自分でキリストゆえに神に受け入れられ、赦されていることを改めて気付かされました。羊の血が塗ってあるのを見て、災いは過ぎ越していきました。エジプト中が泣き叫ぶなか、イスラエル人は平安が与えられ守られました。
主に信頼します。主の血に信頼していきたいものです。
Ⅲ:恵みへの応答
(24~27)「あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のためのおきてとして、永遠に守りなさい。また、主が約束どおりに与えてくださる地にはいるとき、あなたがたはこの儀式を守りなさい。あなたがたの子どもたちが、『この儀式はどういう意味ですか。』と言ったとき、あなたがたはこう答えなさい。『それは主への過越しのいけにえだ。主がエジプトを打ったとき、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。』すると民はひざまずいて、礼拝した。」
イスラエルの人は約束の地に入ってからも、子羊をほふりこの儀式を守りました。それは自分たちの子どもたちに伝えていくためです。彼らは代々この儀式を守りながら、偉大なる神の救いのみわざを子供たちに伝えました。やがて主イエスは、この過越しの夜に、新約時代に生きる私たちのために、新しく聖餐式という礼典を定められました。私たちはこの礼典を守る度に、主の死を告げ知らせるとともに、主の偉大なる救いの御業に感謝をささげます。
イエス様は食事の最中にパンを取って感謝してから、さいて弟子たちに一つ一つ分けてあげました。そして「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」次にぶどう酒のはいった杯を取り、「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」と言われました。
「私を覚えて、これを行いなさい。」という命令が付け加えられています。「覚えて」とは、私たちがいかに忘れやすい存在であるのでいつも主を覚えるべきことを示しています。そして聖餐式に参加し、パンを食し、杯を飲むことによって、主を覚え、また主が自分のような罪人のために十字架にかかられたことを確信させられるのです。
「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」このことばは、イエスのことばから直接出たのではなく、パウロの説明です。聖餐式を行なうたびに、終わりの日まで、主の死を告げ知らせるのです。
榎本保郎牧師は「ちいろば牧師」の愛称で知られています。三浦綾子さんの「ちいろば先生物語」で広く知られるようになりました。自らをイエスの乗り物、小さいロバとして生涯を伝道に捧げられました。聖書には小さなロバが用いられる箇所があります。
マタイの福音書21章2~3節「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」
イエス様は弟子たちを遣わし、向こうの村に小さな子ロバがつながれているので、それをほどいてご自身のもとに連れて来るように、そして誰かが何か言ったら「主がお入用なのです」と伝えるように言われました。イエス様は縄につながれているロバの子をほどいて、ご自身のために用いられました。同じように、イエス様は私たちを用いられます。縄につながれているならそれをほどいて用いられるのです。私たちは主を背中に乗せる小さなロバです。主の恵みにお応えし、主が再び来られる日まで主の救いを宣べ伝えていく者としてください。
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