ヨハネの福音書4章7~18節 「生ける水」
主イエスはユダヤからサマリアを通ってガリラヤへ向かいました。スカルというサマリヤの町に入ると、そこにはヤコブの井戸があり、旅の疲れで井戸の傍らに腰をおろしていました。時は正午頃でした。すると、その時一人のサマリヤの女が水を汲みにやって来ました。水汲みは普通、暑さを避けて日中は行わないのですが、この女性は正午に、それも一人で来ていました。人目を避けるように、他の人が来ない時間に水を汲みに来ていたのです。イエス様は彼女に、「わたしに水を飲ませてください。」と頼みました。イエス様は強い渇きを覚えていました。昼の12時にスカルに着くためには、深夜か夜明けに出発して、休む間もなく歩き続けなければならず、その疲れは相当だったに違いありません。イエス様は井戸の水をくむ物を持っていなかったので、この女性に水を求めたのです。この女性は驚いて言いました。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」なぜなら、ユダヤ人はサマリヤ人と関わりを持たなかったからです。
イエスは答えられました。(10)「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」しかし女性は、イエス様が汲むためのロープも桶も持っていないのに、どのようにして、深い井戸から水を手に入れるのかと聞き返します。そこでイエスはヤコブの井戸と生ける水を区別するために次のように言われました。 (13~14)「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」主の十字架と復活を信じるとき、「その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水」が湧き出るのです。イエスは話題を変えて、(16)「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と言われました。それは、彼女が信じるためには、人生の最も暗い部分に光が差し込まなければならなかったからです。女性は礼拝する場所の話を持ち出して、話をそらそうとしますが、イエスは真の礼拝について(24)「神は霊ですから、父を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」と言われます。それは、神は霊ですから形式的な礼拝ではなく、ありのままの自分をさらけ出し、私たちのうちに働く霊と真実をもって神を礼拝することです。彼女の目が開かれた時に、「あなたと話しているこのわたしがそれです。」と、ご自分がキリストであることを明らかにされました。
すると彼女は「水がめを置いたまま」町へ引き返し、(29)「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」と主のことを伝えました。人々との接触を避けていた彼女が、積極的に人々の中に入っていきました。このような行動をとったことは、いかに大きな感動に満たされていたかがうかがえます。彼女の心に、永遠のいのちへの水があふれ始めたのです。女性の証言を聞き、変えられた女性の姿を見て、多くのサマリヤ人がイエス様のもとにやって来て、救い主として信じました。一人のサマリヤの女性の上になされた神の御業は、サマリヤ全体へと広がっていきました。一度「いのちの水」を見出だしたなら、本人の力量を超えて、そのいのちの水は、多くの人々を潤す水となっていくのです。私たちもこの生ける水に活かされ、内からあふれ出る水が多くの人々を潤す水となっていきますように。
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