生き甲斐の心理学

自分は何の為に生きているのか? 生き甲斐とは何か、自分の魂と成育史と身体を大事にしているか、を思索していきます。

自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2025年02月02日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
よくある話です。母は嫌い、父は嫌い、と色々と、軽く、或は重く、友人と語り合います.
倫理的には両親を嫌うことは、あまり良い事ではない、と心の奥底では自分の批判を気にしています。これが普通の生身の人間でしょう。例えば、湧き出した感情の意味について、幼児時代、虐待されたから、この憎しみは当然のことだ、と解釈すると少しは心が落ち着きます。年老いた親を高齢者施設に見舞い、親から幼児時代虐待した反省と涙に触れますと、この解釈もまた変化します。体験の解釈について、時々、立ち止まり、自分の解釈の方向性、傾向について、再考したほうが、これからの人生が幸福になるようです。出来れば、生き甲斐の心理学の理論を勉強しながら、この体験の解釈を、どの方向へ変更したら過去のストレスが解消し、今後の指針について良い知恵が浮くでしょう。現実は少しずつ変化していきますので、構成概念、信念、思い込みが自分を縛っている事に気付かない事が多いのです。厳しい人生は信念がないと、ふらふらして正中線がなくなると自信を喪失し、生きにくくなりますので、信じる道は大事なのですが、激動する人生を明るく元気に爽やかに柔軟に生き抜く為に、時々、この領域を点検したほうが良さそうです。このところ何故か生きにくいなあとか、意味不明のストレスが蓄積されるなあとか、不快なストレス曲線を体感レヴェルで感じた時は、警鐘かもしれません。自分の体感の感覚を信じて、その体感を大事にして生きていきたいものです。自分の五感と体感を信じないと、いつも、ぐらぐらした生活をおくっていくことになります。反省はいつでも出来ますので先ずは自分を信じてみましょう。自分を信じた上で、その解釈の傾向を楽しく思索するのです。この思索は人生を豊かにしていきます。私は何時も同志である勉強仲間に、勉強かで相談しつつ生きています。学友は人生の宝物です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2025年02月01日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
世界の名画は色々ですが、何故か心理療法ではシャガールの絵が使用されます。理由は明白で彼の絵を見た患者さんが心の中の何かを刺激され、治療に当たる担当者が望む「言葉、意識、言語表現」を言ってくれる回数が非常に多いのです。もちろん他の絵でも刺激されますが心理療法では「混濁現象」を一番恐れていますが、このシャガールの絵には不思議な力が潜在していて、光と陰、理想と現実、私とあなた、の混濁を整理統合する作用があるようです。特に生育史の関係で自分を表現する事が苦手な人は沢山います。悶々とした言葉にならない感情の世界を周囲に的確に伝達する能力は案外、修行し勉強しないと出来ないものです。シャガールの絵を軽く見ないで、このように世界の名だたる名人の心理療法家が何故、シャガールを活用するのか、謙虚に研究していただきたい所です。自己の伝達が苦手だと悩む方は、一度、シャガールの絵を見ながら、その想いをノートに書きだしてみて下さい。思考と感情の伝達が上手になってくる自分に驚くでしょう。何故かといいますと、私もそうでしたが、心の中の感情が湧きだし、しかも、その感情を単純な好き、嫌いという言葉、意識で意識化出来たのです。もやもやした感情、しかも、何と表現したらいいか戸惑っていた自分の感情の内容を素直に意識化して、言葉に出来たのです。さて、自己の伝達を訓練していく時は、自己の伝達に欠けている場合を、低辺の状態、自己の伝達が増大する段階を中辺、豊かな自己意識が望むままに体験される、を上辺、として自己分析と他者分析をしていきます。自分を伝達する意味は自分とその周囲の人々を幸福にする為に、とても重要で必要な領域です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2025年01月31日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
男女の恋の話はここでは複雑で私の手に負えないので語れませんが「あなたは大嫌い」と表現されても、その言葉と裏腹で「大好きだ」という表現だったと、はた、と気づく事は日常茶飯事のようです。人の感情と言葉、意識は複雑で、五感と体感は嫌っているのに、意識の上では、好き、と思う事例もまた結構多いのです。身近な例ではデパートで店員が「いかがですか?」と声をかけても、知らんぷり、しかし魅力的な景品をお上品にちらつかせられると、少々、慾心が芽生え、どんな人でも、少し心が騒ぎます。私も綺麗な店員さんが優しい眼差しで「如何ですか?」と声をかけられるとふらふらする場合もあります。プロセススケールは、この事例を下記のように語ります。思考と感情の領域で「不一致」に気をつけよう、と。例えば、本音と建前の場合、特に本音の領域の場合、奥深くに本音があるのに、何故か、意識の上にあがってこない事例を「意識されない」として、この場合を低辺、本音の想いが少し増大してきた場合を中辺、口にしなくても心の中ではいつも本音を意識していて、時々は不一致の場合の人を高辺、と定義しています。心の奥底と意識と言葉は中々一致する訳にいかないのが、この世の哀しさですが、口にしなくても、心の中と意識だけは、出来るだけ一致させておかないと、いつか理想と現実、私とあなた、の混濁が始まり、悲劇が訪れます。私は私、と堂々と生きていきたいものです。しかも一致した現実生活でないと空しい人生になりそうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2025年01月30日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
健全な人は朝から寝るまで、その思考と感情は、どんどん水の流れのように変化していますが、どちらかと言うと健全でない人は、一つの事に固執して、寝ても覚めてもその恨みつらみ、怒り、復讐等、固執障害者のような一日を送っています。この傾向を意識化すると健全になるのですが、この流れに気付かないと身体症状が出てきます。個性と病理は紙一重のようなところがあり、健全な精神生活をする為には、自分の感情全体が川の流れのように変化しているか、或感情に固執して、じーっと、そこに停滞しているか、を先ず、識別し、意識してみましょう。健全な人の感情は新鮮な川の流れのように、どんどん変化していくものです。川の流れに一部が停滞すると、そこに藻が繁茂し、新鮮な水が流れなくなるイメージを持つと、案外、心が健康になる早道のようです。プロセススケールは、どう表現しているか、と言いますと、第二ストランズ:体験過程:底辺は「体験過程から離れている」、中辺は「遠隔感が減少する」。高辺は「体験する過程の中に生きる」と、表現していますが、上記の記事を参照して自分の生育史にあてはめながら、楽しく思索してみて下さい。深刻に考えないようにお願いいたします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2025年01月29日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
何が健全で、何が病理か、これは難しい識別問題です。変な人、と世間が騒いでも騒ぐ方が変な場合もあれば、聖人君子だと言われる人が実は本当に変な人であったりします。aさんには健全な人に見えてもbさんには明らかに病理に見えたりします。こうしている内に、自分自身の場合でもどこも悪くなく、健全なのに自分は変だ、おかしい、と錯覚したり、勘違いしたり、誤解して、暗い日々を送る場合もあります。生き甲斐の心理学ではこの識別を何を基準にして思索しているか、と言いますと、プロセススケールという世界的な基準を使用して判断していきます。健全な五感と病理的な五感をどう区別するか、この問題は数年前にすでにここで語りつくしましたが、別な視点から分かりやすく述べてみます。カールロジャースという学者は7つの視点から先ずは取り組みだします。その一つが「湧き出す感情」に注目します。本当の感情があるのに、生育史の関係で、その湧き出す感情が何者かにかくされていて、意識の上のあがってこない事例を心配しているわけです。感情には全て意味があるんだ、という哲学を教えようとしています。変な倫理観、宗教観があると、何故か自分で自分の感情を抑圧していて、素直に意識の上にあげない人が病理に追い込まれていきます。同じ抑圧でも健全な抑圧と病理的な抑圧があるのですが、ややこしくなるので、ここでは子供でも分かるように解説していきます。変だ、と思う場合の事例は80億の人類がいた場合、その一人一人の身辺に起きる事例を具体的に一つ一つ語り合ったら永久に語れませんので、ロジャースは抽象的に、その人全体が正常か異常かを識別させます。その7つの内の一つが今日の「湧き出す感情には一つ一つ深いいみがあるんだよ、その意味を冷静に五感と体感のレヴェルで意識し、知覚しなさい」と教えているわけです。本当の感情をあえて認めない、意識の上に表出してこない事例を(底辺)という言葉で説明していて、異常とはいいません。ここがロジャースの良い所です。底辺、中辺、高辺(本当は1から7段階に分類していますが、現場のカウンセラーが対応しやすいように3段階、低、中、高、としています)の3分類です。さて、今後、どうしたらいいか、と言いますと、言葉にする、しないはその人の所属するコミュニティで違います。病院勤務の人、学校の先生、学校の父母会での付き合い、永田町の政治家、団地の理事会等、その環境でどこまで言うかは、その人の教養とか考え方で違いますし、表現の自由は、その人の自由意思です。結果はその人におよぶだけの話ですが、ここでは心を健全に保持する為に、感情だけは、倫理道徳にとらわれずに、正直に、一旦、意識の上にあげないと、心を病みやすいよといいたいわけです。何が健全か、何が異常かの識別の第一が、抽象的ですが、感情を正直に意識出来るか、出来ないかにポイントを置いています。嫌なものは嫌い、好きなものは好き、怖いものは怖い、と見栄も外聞もなく、意識化するのが健全、ひたすら抑え込み意識の上のあげないのが異常という道を歩み出します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2025年01月28日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
「生き甲斐の心理学」を勉強していくと「自分の五感と体感」という概念が自分を幸せにしていく上で実に大事な概念だ、という事に改めて気づきます。以前、映画「バベットの晩餐会」という名画がありました。フランス革命時代の物語でパリの一流の女性シェフが名前は忘れましたが北欧の貧しい漁村に亡命し、そこで生活し始めますが村人のあまりにも荒れた心にハタと気付き、色々と考えます。彼女はイライラする村の人の心を幸せにする為に自費で豪華絢爛、かつ、美味な料理を振る舞うと人々の心が幸せを味覚から感じだし、心が幸福感を感じて、平和になっていく過程をこの映画は見事に演出していくのです。我が国・日本でも、かの西行法師ですら「人の一番の幸せは物を食べている時だ」という和歌も残しています。これから暫く自分を幸せにする五感、幸福感を感じるための「五感と体感」の話を皆様と共に思索していきたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2025年01月27日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
日本独自の四季折々の美しさと文化、習慣、行事は現代の日本人はあまり意識していないようですが、この24節気(春分、夏至、秋分、冬至を中心に1年を24の節気に分けています)は精神衛生にとても良い効果を現わします。異常気象だと、騒がれていましても、古代から現代に伝わるこの24節気を意識化し知覚すると、古代の人々が風の中に感じ取る微妙な季節の香りを感じ取れます。そんな意識を楽しむと、とても心が豊かになり、満たされますが、この24節気の感覚を是非、楽しんでみてください。忙しく厳しい毎日の中に、とても暖かい感動が流れ出します。暦の風景は日本人の生きる喜びと生き甲斐になること必定です。このように古い日本の美を改めて意識し知覚すると現代のとげとげしい風景に小さなオアシスが心地よい風のように流れ出します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2025年01月26日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
エリクソンと言う学者の偉い所は人々が幸せになる言葉、その言葉の群れを意識し、知覚すると、無駄なく、自己実現への道と、その幸せを自分の力で掴みやすいようにしてしまいます、そんな概念を彼は長年の研究で見つけました。この短いブログでは語りきれませんが、大事な言葉の一番大きな言葉を下記に書いておきます。
希望(基本的信頼、不信感)、意思力(自律性、恥辱・疑惑)、目的志向性(自発性、罪悪感)、技能(勤勉性、劣等感)、忠誠心(アイデンティティ、自己混乱感)、愛(親密性、孤立感)、世話(生殖性、停滞感)、知恵(自我統合性、絶望感)、という8つの重要概念とそれを構成、形成する(  )内の概念です。
めんどうくさいようですが、不安に悩む人々を明るく元気に爽やかにする為の心理療法にはこのような言葉の意味、概念を勉強していく必要があるわけです。この言葉の群れを万となる言葉の中でも大事にしておいて、時々、眺めては、その言葉を言霊のように大切に味わうと、なるほどなあ、とピーンとくるインスピレーションが湧きてきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2025年01月25日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
日々の不安感は人それぞれですが、不安感の意味を意識しておくと、厳しい問題に遭遇しても多少は慌てますが、恐れる事はありません。人間の本質は平安感だと誤解している人が多く、そこに大きな問題が潜在しています。人間の本質は宇宙を観察し、地球の誕生や人類の歴史を少しでも学べば子供にでも分かります。平安感に満たされた思い出を幾つか生育史から探し出し、その幸福な時間を回想するだけで、残念ながら、幸福感は永続性のないもの、人間の本質は平安感ではなく、不安感が本質らしい、と気づくものです。理想と現実、私とあなた、を混濁する人の悲劇と同様に、人間の本質は不安感だ、と腹をくくれば、あとは日々に何か良い事、嬉しい事がもたらされ心が平安を感じれば、それを恩寵と解釈し、感謝と喜びに涙することもありますが、愛や友情を当たり前のこととして感謝しない人の場合は、その人は、近い日、失望と哀しみと悲劇に遭遇しやすい、と言われています。自分の不安感を素直に認め、その不安感が自分の生育史上の理想と現実のギャップから生まれてくる仕組みを意識し、知覚すると、そこに、具体的な理由が判明し、具体的な平安感が必ず生まれてきます。不安感は、その人の将来の幸福を暗示する重要な指標です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2025年01月24日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
人生、のんびりと大らかに過ごしたいもんですが、のんびりしているように見えて、実は、キチンと考えている人もいれば、生まれつきのんびりと生きる遺伝的性格の人もいます。日々のストレスはその人の生育史で培われた理想と現実のギャップから生まれますが、そのストレスを意識化し、知覚出来る人は、人生の難問に遭遇した時に、その対処の仕方が上手に出来る、とも言われています。自然災害、事件、突然の危機への対処は、平素、この意識と知覚を考えている人といない人では、そうとう違います。自分の心に湧き出す感所を意識化したばかりにノイローゼになる場合は、その湧き出す感情の解釈にまだ慣れていないからでしょう。こういう私もいざ、という時は、この理屈を思い出すことなく、ひたすら慌てふためいています。つまり、錯乱していくわけです。あ、今、慌てていると意識出来ると、心がグーんと落ち着きますが、自分が慌てている事自体を意識化していないと、そのまま、ずるずると渦巻きの中に巻き込まれていきます。あ、怒っている、と意識出来ると、少々、冷静になります。感情の激流に巻き込まれていると、つまりその激流を知覚出来ないと、人はどんどん、流されていきます。平素は自然体がいいのですが、時々立ち止まり、この意識と知覚の効用を意識化しておきたいものです。ストレスの本質はもともと、人を幸せにする方向を示唆していますので、自分を駄目にするような方向、元気をなくすような解釈だけはしたくありません。しかし、生身の人間は時々、この解釈を間違い、自分を暗くしてしまいます。親しい人のアドヴァイスで再三、気付きます。学友は有難い存在です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2025年01月23日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
「生き甲斐の心理学」は自分と周囲の人々が手を携えて助け合い悔いの無い人生を歩もうと努力し、勉強していきます。まさに自分独特の「私らしい生きかた、世界に唯一つの道」を自分の生育史の中から探し出し、その答えが果して本物かどうかを模索しながら、生きようとしています。むかし、某女子大学のOBのカウンセリング勉強会で行いましたが、そこではシャガールの絵画を利用しました、その絵を楽しみながら、この生き甲斐の心理学を勉強していただいた事があります。自分は何処へ旅しようとしているのか、この永遠の課題を意識の上にあげたうえで、この課題を知覚し、勉強を深めました。臨床心理学ではこの「意識と知覚」という領域は非常に大事で、意識化していないものは大脳はうけつけません。例えば自分は何の為に生きているのか、今まで生きてこれたエネルギーと知恵はどこから生まれてきたのか、その理由を書け、という心理療法の試験問題に皆様はどう答案用紙に書いていくのでしょう?この理屈を意識化出来ている人は友人の悩みに対しても学問としてキチンと対応出来る人々です。確実な幸福曲線に生き抜く為にも、この意識と知覚というややこしい領域を研究してみます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2025年01月22日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
自由意思を持つ人間は、どんな生き方をしても、その人の問題なので周囲が胃癌になるくらい悩んでも、どうにもならないものです。暗いと批判された人が「暗くて何処が悪いか」と居直る事例があり、その気持ちも何となく推察は出来るのですが、本人がやはり一番気にしているようです。例えば友達がどんどん離れていくからです。あまりにも暗い面を見せつけられますと、こちらまで嫌になり、自然と電話もかけなくなり、おーい元気かあ、などと電話があっても愚痴ばかり言いだすし、人の悪口は言うし、強烈な社会批判もありで、ついつい居留守をしたくなる場合もあります。このように人間はそれでなくても生き抜く事が大変なので、互いに激励しあわないと幸福感を獲得出来ません。居直るのは自由なのですが、やはり友情、愛情、善意、さりげない優しさを大事にする人間にならないと結局は幸福曲線は得られません。どろどろした日常生活の中でも、それなりにジーンとするような愛情を互いにさりげなく感じ合える人間関係が幸福曲線の前提のようです。大変な苦労を伴いますが、共存共栄はとても大事な幸福曲線獲得の条件のようです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2025年01月21日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
自由意思を持つ人間は、どんな生き方をしても、その人の問題なので周囲が胃癌になるくらい悩んでも、どうにもならないものです。暗いと批判された人が「暗くて何処が悪いか」と居直る事例があり、その気持ちも何となく推察は出来るのですが、本人がやはり一番気にしているようです。例えば友達がどんどん離れていくからです。あまりにも暗い面を見せつけられますと、こちらまで嫌になり、自然と電話もかけなくなり、おーい元気かあ、などと電話があっても愚痴ばかり言いだすし、人の悪口は言うし、強烈な社会批判もありで、ついつい居留守をしたくなる場合もあります。このように人間はそれでなくても生き抜く事が大変なので、互いに激励しあわないと幸福感を獲得出来ません。居直るのは自由なのですが、やはり友情、愛情、善意、さりげない優しさを大事にする人間にならないと結局は幸福曲線は得られません。どろどろした日常生活の中でも、それなりにジーンとするような愛情を互いにさりげなく感じ合える人間関係が幸福曲線の前提のようです。大変な苦労を伴いますが、共存共栄はとても大事な幸福曲線獲得の条件のようです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2025年01月20日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
るんるん気分で、しかも、はしゃぎ過ぎる事もなく、日々充分感謝と満足をしながら生活している事例を心理療法の世界では幸福曲線に生きている人々と考えています。この感謝と満足の世界は人を統合していきます。統合されている人々の事例を分析すると、その方は幸福感もあり、多少、病気がありましても健康なほうだなあ、と自分の病気を気にしていません。周囲の友達にも明るく爽やかに、おはよう、と元気に声をかけます。心は平安です。このように明るい感情の領域を歩いていますと、幸福曲線を構成している重要な指標と言われている「統御感、幸福感、健康感、友好的な感情、平安感の5つ」は極めて健全なのです。この明るい感情は5つの車輪として微妙に深く関連しています。明るい感情の領域の言語表現は地球上の文化により相当違いますが、世界の学会の或会では、このように共通概念、共通言語を使用しながら人間の幸福をいかに創造していくか、鋭意、努力しているわけです。明るい感情の領域をたった5つで言語化するメリツトは子供でも高齢者でも、どんな環境の人でも、単純に幸せにする方法を明示できるからです。一度、自分の明るい感情の表現をこの5つの概念で単純表現してみると、生き甲斐の心理学の視点が見えてきて自他ともに心の整理が、しやすくなり、自分だけでなく、周囲の人々をも幸福にしていきます。この練習は自分の生き甲斐ともなります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2025年01月19日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とは良くいったもので一度あの人は変な人だと感じたら、その人がどんな好意を自分に投げかけても人はフィルターをかける傾向があるので、日々の人生が暗く、つまらないものに陥ります。愛情、友情、好意はこの世の宝物ですので、何とかこの生身の人間のフィルターを取り除きたいものです。嫌いなものは嫌い、と意識の世界では明確にする必要がありますが、嫌いな理由を倫理道徳なしに、正直に意識の上にあげる事が先決で、どろどろした嫌悪感の世界で、嫌いな理由が明確になると、不思議なことに、自己肯定他者肯定という道へ、人は何となく進んでいくようです。そしていつか、その二人の間に、平和が構築されるでしょう。嫌いなものを無理に好きになろうとすると人は発病しやすいもの、ですから嫌いな感情をそのままにしておき、残る手段、必殺の技はなんでしょう?答えは一つです。一つだけ自分にとり良いものを相当努力して相手の中に発見する努力です。一つだけ見つけるのに私は大学病院時代、苦手な婦長さんでしたが、見つけるのに約一年かかりましたが、その努力の過程で相手の態度がどんどん変化してくるのを感じました。その後、その婦長さんは私の陰の支援者となってくれていたようです。嫌悪感が友好的な感情にすこしずつ変化してきます。変化すると、相手の気に入らない表情が今では、可愛いえくぼ、だと解釈したり理解出来るようになります。段々と善意ある解釈に変化していくのを、相互に変化していく過程に何か、ほっとした暖かい人生を感じたのを、今は懐かしく思いだしています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする