大自然の前に、神仏の前に、頭を垂れていても、何故か傲慢で謙遜を感じさせない人がいます。傲慢になるように訓練して退院していく人、謙遜を気にして入院してくる人、不思議な現象です。謙遜という解釈の相違で何故人はこうまで人生模様が影響されるのでしょうか?それは人生で一番重要なものが愛の世界だからでしょう。本当の愛の世界には傲慢も謙遜もありません。ストレス曲線(不安、怒り、身体症状、鬱、錯乱)も無くなります。愛とは何かを思索すると、とても人生が楽しくなります。その思索から平和、自然環境問題、政治問題、倫理問題が解決していきます。愛とは何かを結論する必要はありません。自分の愛の世界、愛の原型を思索していくと面白い生き甲斐現象が生まれてきます。
心と魂と身体のバランスのお話。宇宙での引力のバランス、空気での酸素、窒素等の含有率のバランス、血液分析での健常者バランスがあるように、魂と心と身体のバランス哲学も存在していて、それを意識出来る人は、健全な人生を歩みます。魂と心と身体のバランスが健全ですと自己肯定、他者肯定のバランス度が健全なので、人々を愛し、人々から愛される人生を歩んでいます。魂とはもともと愛そのもの、永遠不変なもの、病むこともなく、老いることもないもの、臨終とともに身体から離脱する知的生命体のことです。この哲学はカトリツク神学として有名なものですので一度、勉強してみてください。厳しい人生に大きな希望を与えてくれます。宗教の押し売りではありません、世界の哲学学会の重要な課題です。
美人から癒される人、狂わせられる人のお話。自然治癒力とかホメオスターシスと言われる回復力を人は自然に与えられています。その自然治癒力を利用するのは簡単なようで難しい。自分のあるがままの感情や冷酷な社会の現実を一旦受け入れる哲学を持っている人は簡単ですが、現実が自分の理想とおり、願った通りでないという理由だけで受容できない人には無理です。受け入れるという意味は賛成する、ということではありません。現実を認める、だけの話。あるがままを一旦、受け入れる習慣をつけ、自分の感情を素直に受け入れる習慣ができてくると、知らない美人を見ただけで癒されますが、あの子を何しようと不埒なことを考える人は癒されません。なぜでしょう?自然治癒力は物凄い力を持っていますが治癒力が発動される場合は、真善美にかなっている必要があるようです。
<神のめぐみとは>は本の題名です。絶版になつていますが、ドン・ボスコ社からの名作でカトリツク神学者・ジーン・ドージャが書いたものです。私は1960年代の最初から世界の名作を殆ど読みましたがこんな名作に触れたことがありません。特にその54-58頁に書かれている思想は人々を安心させます。死後の魂について書かれていますが、その結論は人々を納得させ安心させます。ようするに不可知論の世界ではあるけれども死後は生きている時の視点ではなく、どんなに恥ずかしい罪深い人生を送ったとしても180度の価値観が変換された世界なので神様の懐に入った時、誰に天国で遭遇しても、愛と許しの世界なので安心して来なさい、という気分になる本です。この本に遭遇した人々は幸いです。
死んだ後、どうなるか、は死んでみないと分かりません。だからといって諦めたら学問は成立しません。不可知論の領域に入るか、入らないかの識別も相当の学識がないと判断できません。そうこうしている内にオックスフォード大学では約70年前くらいから<信じて見えてくるもの、見えなくなるもの>と言う宗教心理学が成立しその成果が上がりだします。天国、地獄の世界が不可知論ならば、信じて見えてくるもの、見えなくなるものを学問を使いながら研究しよう、と成立していきます。信じてこそ見えてきたものはありますか?自分で体験的に幾つか気付かないと、この理論は先に進めません。一番身近な例は自分の親、本当に自分の親なのか、そうでないのか、何を信じて、あなたはこれが自分の親だと信じましたか?
天国に到着し神様や父母に会った時、私はどんなになつているでしょう?神様や父母はどんな姿をしているのでしょう?何を互に語り合うのでしょう?父母ばかりでなく、会いたくない人々(親の敵、仕事上の恨みつらみの人々、私を怨んでいた人々、昔の恋人、都合の悪い人々、歴史上の人物=皇帝ネロ、ヒットラー、徳川家康、キリスト、釈迦、マホメット等等)とどんなふうに語り合うのでしょう?ネアンデルタール人は、人類のどの段階からの人々が天国に居るのだろう?このような疑問が次から次へと浮かんできます。このような自然な想い、質問を神学や哲学はどうこたえるのでしょう?不可知論と片付けるのは簡単ですが、素朴な人類の疑問を学問はどうこたえるのでしょう?
臨終も終わり、いよいよ自分の魂が天国にたどりついた時、あ、遂に来た!と喜ぶ人は少ないでしょう。殆どの人が、側に居る人に、ここはどこでしょう?と質問するのでは、とかねがね推察しています。高齢者福祉施設、終末治療で遭遇する質問<死んだらどうなるのですか?>に対して殆どのスタッフは答えていませんし、答える勉強もしていないようです。数年前、福知山線の大事故の時、私の知り合いの修道院で不思議な現象があったそうです。沢山の修道女(静寂と沈黙の生活をしているのに)何故かその日の雰囲気が異常にざわざわしていて、変だなあと感じていたそうですが、夕方のニュースでその大事故を知り、自分が死んだ事すら知らない事故死亡者の魂が身近にいたのを感じた話をあとで知り、さもありなん、と思いました。ここはどこですか?はい、ここは天国ですよ、と言われても驚かない修行を、生きている内にしておきましょう.
赤ちゃんが安定して美味しいお乳をお母さんから貰える時は心が安定しています。この姿が<人間の原型>です。大人になり異性を愛し、誠実な友と友情を結び、良くても悪くても父母の愛に感謝する年齢になり、そんな愛の喜びと感謝を知った後に、愛を喪失してしまうと、人は最悪自殺まで考えてしまうものです。愛を喪失した時の乱れは人生の危機でもあります。人間の愛は不安定な領域でもありますが、ここに信仰生活が入ると非常に安定してきます。人生のどんな試練においても神様の愛を信じられる人は幸せです。人間同士の愛は生涯乱れますし、時に虚しさを感じますが、その虚しさに気づき、虚しさを防ぐかのように、神の愛を意識出来るようになった人は非常に強く生き抜いていかれます。神の愛を知った上で、異性を愛するようになると、更に大きな愛の世界に生きられるようになります。
心理療法の勉強では事例研究は絶対に必要なものですが、あまりにも生々しい深刻な精神病の事例研究は実に憂鬱で危険な面もあります。深刻な事例研究は大学病院で患者さんを治療する専門家は欠かすことの出来ない勉強ですが、暮らしの中のカウンセラーとして勉強するときは、おもに源氏物語や神話を中心に教養を身に着けながら楽しく深めた方がいいようです。例えば源氏物語の夕顔が光源氏に抱擁されながら六条の御息所の生霊に殺される場面などは他者分析の良い事例となります。御息所の犠牲者も可哀そうですが、御息所の気持ちを思うと胸がつまります。この御息所を源氏物語から除外するとこの小説の面白さは半減するでしょう。御息所をめぐる詳細計画を分析すると紫式部は心理学の天才です。フロイドやユングがこの源氏物語を分析してくれていたら学問は相当進歩したでしょう。