大森第一小学校第40期卒業生同期会

卒業して幾星霜、さあ懐かしい面々と再会し、浮世の憂さも忘れて、思い出話に花を咲かせよう!

つぶやきの部屋61

2020-06-23 00:27:59 | Weblog



「若き日のお龍」

以前(「つぶやきの部屋4」)にもお龍の若い頃の顔立ち(飽く迄も想像したもの)を
掲載しましたが、そのときにはもととなったお龍の唯一現存する写真(明治32年、59歳
の頃)を載せなかったので、今回はその写真と再度チャレンジして慶応3年(1867年、
27歳)の頃のお龍を、これまた臆面もなく、再現してみました。

「辰」と云う名の芸者の写真が、お龍の若き日の写真であるとされた根拠は、龍馬暗殺
現場となった近江屋の子孫が所有していたアルバムに海援隊士や維新志士らとともに辰
の写真も混ざっていたことと、それを発見した龍馬研究家の西尾秋風氏が、お龍の夫と
なった西村松兵衛の姪で二人の養女となった西村ふさの孫にあたる兵蔵の証言「祖母(ふ
さ)が同じ写真を所有し、少年期に見た記憶がある」によるのですが、アルバムには龍
馬に関係するものだけがあった訳ではありませんし、子供の遠い日の記憶だって曖昧な
筈。同じようなポーズの写真を西尾氏の誘導もしくは彼のそうあって欲しいと願う気持
に叶う形で応じたのかも知れません。

いずれにせよ、今では写り込んだ背景から浅草大代地にあった内田九一のスタジオで撮
られた写真であることが分かっていますし、お龍がその地を訪れた記録は一切残されて
いませんし、第一お龍自身が、聞書きのためにお龍のもとを訪れていた安岡秀峰(重雄)
に語ったであろうことが、『続反魂香』の最終回(第五回、明治33年2月15日、「文庫」
連載14巻2号)の最後に「ひとまづ筆を措く事としました。がまだまだ材料は、充分ある
見込みで、今現に執筆中のもありますから、更に改題して、写真を加へ(現今のお良夫
人は、今回を以て初めて、写真したるなれば、是おそらく、天下の絶品ならむ)諸君に
御紹介しませう。」とありますし、同じく安岡秀峰の手になる『維新の残夢』の第一回
(明治33年3月15日、「文庫」連載14巻3号)にもその末尾に「お良女の写真は、都合に
依り、本編最後の討死際に、花々しく名乗を揚ぐばし。前号にも附記せし如く、今回初
めての写真なれば、天下の絶品と称するも、恐らく過誇ならずと信ず。昔唄はれしつづ
れの小町は、爾来三十有余年、茲に白髪温容の老女として、諸君にまみゆるの時あらむ、
其風姿、其面目、乞ふ刮目して待て!(作者)」とあるのですから、間違いなく上に掲
げた左画像しか残されていないのです。

これらの前に安岡秀峰は『反魂香』を第一回(明治32年2月11日)から第六回(明治32年8
月15日)まで「文庫」に連載していますが、いつ頃からお龍の許を訪ねていたかと云いま
すと、時代が大分下るのですが、安岡筆の『阪本龍馬の未亡人』(昭和6年、「実話雑誌」
一ノ六所蔵)という記事の中で明らかにしています。
「雨さへ降らなけねば、日暮前から、良人は荷を担いで商売に出掛ける。その留守を狙っ
て一升徳利を掲げて、私は足繁く女の許を訪ねた。(中略)時は明治三十年の晩春、場所
は神奈川県三浦郡豊島村字深田(今の横須賀市深田町)、もう其頃から横須賀とは軒続き
で、場末だけに、汚い貧乏長屋が軒を並べて居た。女の住居は海軍病院の塀に添つた奥ま
つた路次の中で、一棟二戸建の長屋であった。
屋根は茅葺、六尺の格子の裡側が三尺の土間で、障子を開けたところが三畳、その横が六
畳の居間、一間の押入があり、六畳の背後が一坪の台所になっていた。唯だそれだけの住
居で、唐紙に色紙が当ててあるのも、障子にツギハギがしてあるのも、お定まりの型であ
る。さうして古い箪笥と、鼠不入と、縁の欠けた長火鉢だけが、貧弱な世帯道具の中で目
に立つた。」
と貧しい所帯の有様をも伝え、女とはお良であり、こう書くのが正しいことを述べた後に
「その時、お良さんは五十七歳、多少、頭髪に白髪は交つて居たが、濃艶なお婆さんだつ
た。丸顔で、愛嬌があつて、魅力に富んだ涼しい瞳の持主であつたことを、私は今でも覚
えて居る。勿論裏長屋に住む貧乏人だから、着て居る物は洗ひ晒した双子の袷で、黄の色
の褪せたチャンチャンコを着て、右の足が少し不自由だつたらしく、立居の挙動が、達者
な口と反対に、鈍かつた。私は長火鉢を隔てて、お良さんと差向ひになつて、チビチビ酒
を飲みながら昔話を聴いた。お良さんはなかなかの大酒家だったから、私の持参した一升
は、松兵衛さんの帰る迄に、一雫も残らなかつた。」
と写真からでは伝わってこない、お龍のその頃の実像が浮かび上ってくる。

写真の撮られた時期は、写真の話を持ち出したのが明治33年2月であることから、そんなに
離れていない時期、つまり第4回『続反魂香』の明治33年1月15日から第5回の2月15日の間
に撮った可能性もあります。
いずれにせよ、その後の「文庫」にこの写真が掲載された記事が見つからないところをみ
ると、写真掲載予告を知ったお龍がうんと云わず、ずっとそのままお蔵入りとなったので
しょう。
そして、実際にこの写真が世間のひとの目に触れたのは、明治37年12月15日に「東京二六新
聞」で連載された「阪本龍馬未亡人龍子」の初回の稿でした。日露の開戦前夜に皇后美子の
夢枕に龍馬が現れたことが新聞に報じられて、お龍にもスポットライトが当てられた結果で
す。
ま、どうであれ、安岡秀峰が写真を遺してくれたお蔭で、辰のような贋者を峻別できるので
すから有り難い限りです。

さて、若き日のお龍を再現するに当って、着ている物をどうしようか、髪形をどうしようか
迷いに迷ったのですが、着物は羽織を同じにして袷は少し変えました。髪形は東国の丸髷で
は無く、江戸中期から明治にかけて京坂地方で流行したとされる両輪髷(りょうわわげ)に
してみました。この髷の結い方は髷を二つ作って笄を差し、余りの垂れ毛を巻き上げたもの
で、横から見ないとその特徴が分かり難いのです。それに両輪髷の形もちょっとした違いが
あって、お龍にはもっと似合ったものがあったのではと、ちょっぴり反省。(・へ・)

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