村田沙耶香さんは、「コンビニ人間」、で芥川賞を受賞したが。
あれには、矛盾があると僕は、思っている。
小説、「コンビニ人間」、の文学的価値は、
「自分を流れ作業の機械の一部にすること」、に、喜びを、感じられる、という、既存の価値観を、ひっくり返した、所に、あの作品の文学的価値がある、と、審査員は、評価しているが。
小説、「コンビニ人間」、を読んでみれば、わかるが。
あのラストで、わかるが。
コンビニ店員、の仕事は、色々と、細かい事に、自分で創意工夫する、余地、が、たくさんある、のである。
その点、コンビニ店員、という仕事は、「機械の部品」、とは、言い難いと思う。
マクドナルドの店員とか、牛丼屋の店員、とか、さらには、本当の、流れ作業の仕事は、忙しくて、とても、
「色々と、自分で創意工夫する、余地」
などない、と思うが。
だから。
あの作品では。
「自分を流れ作業の機械の一部にすること」、に、喜びを、感じられる、という、既存の価値観を、ひっくり返しては、いないのである。
と、僕は思っている。
実際、芥川賞の選考委員は、5人くらいいたが、選考委員の一人の、島田雅彦氏だけは、芥川賞に反対していた。
それに。
「自分を機械の一部にする=非人間的」
とは、思わない。
特に、今、コロナで、仕事がない。
会社を解雇されて、職を失い、ホームレスになりはしないかと、恐怖におびえている人が、やっとのことで、流れ作業の仕事が見つかって、その仕事をしている時、その人は、どんなに嬉しいことか。
また、愛する、妻子、を持っている人が、流れ作業の仕事をしている時、「ああ。仕事があって、収入があって、ありがたい。オレが今、こうして、働いていることで、愛する娘を育てることが出来る、病気の妻を養い、生きていくことが出来る」、と、思っている人は、多いはずである。
刑務所で、流れ作業の仕事をしている囚人だって、収入がなくたって、働くことに、喜びを感じている人は多いだろう。
「ああ。オレが働いていることが、社会に役立っている」、と思っている囚人は多いだろう。
間なのは、囚人に何もさせないことである。
あれには、矛盾があると僕は、思っている。
小説、「コンビニ人間」、の文学的価値は、
「自分を流れ作業の機械の一部にすること」、に、喜びを、感じられる、という、既存の価値観を、ひっくり返した、所に、あの作品の文学的価値がある、と、審査員は、評価しているが。
小説、「コンビニ人間」、を読んでみれば、わかるが。
あのラストで、わかるが。
コンビニ店員、の仕事は、色々と、細かい事に、自分で創意工夫する、余地、が、たくさんある、のである。
その点、コンビニ店員、という仕事は、「機械の部品」、とは、言い難いと思う。
マクドナルドの店員とか、牛丼屋の店員、とか、さらには、本当の、流れ作業の仕事は、忙しくて、とても、
「色々と、自分で創意工夫する、余地」
などない、と思うが。
だから。
あの作品では。
「自分を流れ作業の機械の一部にすること」、に、喜びを、感じられる、という、既存の価値観を、ひっくり返しては、いないのである。
と、僕は思っている。
実際、芥川賞の選考委員は、5人くらいいたが、選考委員の一人の、島田雅彦氏だけは、芥川賞に反対していた。
それに。
「自分を機械の一部にする=非人間的」
とは、思わない。
特に、今、コロナで、仕事がない。
会社を解雇されて、職を失い、ホームレスになりはしないかと、恐怖におびえている人が、やっとのことで、流れ作業の仕事が見つかって、その仕事をしている時、その人は、どんなに嬉しいことか。
また、愛する、妻子、を持っている人が、流れ作業の仕事をしている時、「ああ。仕事があって、収入があって、ありがたい。オレが今、こうして、働いていることで、愛する娘を育てることが出来る、病気の妻を養い、生きていくことが出来る」、と、思っている人は、多いはずである。
刑務所で、流れ作業の仕事をしている囚人だって、収入がなくたって、働くことに、喜びを感じている人は多いだろう。
「ああ。オレが働いていることが、社会に役立っている」、と思っている囚人は多いだろう。
間なのは、囚人に何もさせないことである。