純は、シンクロプールの隣の芝生にビニールを敷いて座った。京子も純の隣にチョコンと座った。
「わあ。嬉しいな。僕、ビキニの女性と、大磯ロングビーチに来るのが夢だったんです。しかも、京子さんのような綺麗な人と」
純は喜びをことさら声に出して言った。京子は、子供のような態度の純を見て、クスッと笑った。
「純さんは、付き合っていた彼女と、何かの理由で別れて、今、一人なんでしょう?」
京子が聞いた。
「いやあ。違いますよ」
純は即座に否定した。
「じゃあ、何かの理由で、彼女とケンカでもしているんですか?」
「いえ。僕には、彼女はいません」
「いつからですか?」
「生まれた時から今までです」
純は笑いながら答えた。
「ええー。本当ですか?」
京子は目を皿のようにして純を見た。
「ええ。本当ですよ」
純はあっさり答えた。
「本当に一度も女の人と付き合ったことがないんですか?」
信じられないという顔つきで京子は、純をじっと見つめた。
「ええ」
「不思議ですわ。純さんは、お医者様ですし、容姿もいいですし、それに優しいし・・・」
「性格が暗いからですよ。話題もないし、女の人といても、女の人を退屈させてしまいますし・・・。それに男の友達もいないですし。男の友達がいたら、合コンのように、女性をナンパするこもと出来るでしょうけれど、一人では恥ずかしくって、とても出来ませんからね」
「純さんは、真面目すぎて、遊ぶのが下手なんじゃないでしょうか」
「ええ。それは僕も自覚していることです」
「純さん。家賃、払って下さって本当に有難うございます」
京子はまた、あらたまって礼を言った。
「もう、そのことは言わないで下さい。僕は京子さんのような綺麗な女性と、大磯ロングビーチに来るのが夢だったんです。その夢がかなって、最高に幸せなんです」
純はニコッと笑った。
「私も幸せです」
京子もニコッと笑った。
「今日は大いに楽しみましょう」
「ええ」
だんだん入場客が増えてきた。本館の建物から出てくる女はみんな、ビキニ姿である。
「ほら。京子さん。女性はみんなビキニでしょう」
純は、そう言ってビキニ姿の女性達を指差した。
「ほんとだわ」
京子は純の指差した方を見て納得したように言った。
「京子さん。プールに入りませんか」
「ええ」
純は立ち上がって、京子とシンクロプールの縁に座った。二人はプールの縁に座ったまま、足をプールの中に入れ、ユラユラと足を動かして水を揺らした。
「京子さんは泳げますか?」
純が聞いた。
「え、ええ。一応。でも平泳ぎしか出来ませんし、速くは泳げません。純さんは?」
純は嬉しくなった。普通の人は、大抵その程度である。
「僕は、クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライなんででも泳げます」
「へー。凄いですね」
「それは、泳ぐのが好きですから」
「純さんの泳ぎ、見せて貰えないでしょうか」
「ええ」
純は大得意で、プールに入った。京子に、自分の得意な泳ぎを見せられるのだ。これ以上、爽快なことはない。
純はクロールで泳ぎ出した。いつもは、ゆっくり泳いでいるのだが、京子に見せるため、いつもより、速く泳いだ。一往復すると、今度は、背泳ぎ、次はバタフライ、最後に平泳ぎ、と個人メドレーのように泳いだ。そして、プールから上がって、元のように京子の隣に座った。
「凄いですね。まるで水泳の選手みたいです。高校か、大学では水泳部だったんですか?」
「いえー。一人で練習したんです」
「凄いですね。純さんの泳ぎって、すごく綺麗ですね。まるで芸術のようです」
純は、照れくさそうに笑った。それは純も意識していることだった。運動は、技術も大切だが、美しくなくてはならない、という強いこだわりが、純にはあった。一度、見せたので、もう見せるのは十分である。
「京子さん。一緒に泳ぎませんか」
純が誘った。
「ええ」
京子はニコッと笑った。京子も、泳げることを自慢したかったのだろう。そっとプールに入ると平泳ぎで、泳ぎ出した。純は、ゴーグルをして、平泳ぎで、京子の真後ろを泳いだ。水中から、ビキニに覆われた京子の尻や太腿が、もろに見える。尻や太腿は水の力によって、揺らいだ。平泳ぎで、足で蹴る時、両足が大きく開いて、ビキニに覆われた女の股間が丸見えになった。それはとても悩ましく、純は激しく興奮した。純の股間の一物は、すぐさま勃起した。京子の泳ぎは、極めてゆっくりだった。プールの壁につくと、ターンして、泳ぎつづけた。自分の泳力を見せるためだろう。純もターンして、京子の後を泳いだ。一往復して、元の場所に着くと、京子はプールから上がった。純もプールから出た。そして、二人はさっきと同じように、プールの縁に並んで座った。
「ああ。疲れた。泳ぐの久しぶりだわ。中学校の体育の授業の時、以来だわ」
京子が言った。
「でも、ちゃんと泳げるじゃないですか」
純は、チラッと京子の体を見た。ビキニが水に濡れて収縮し、股間と胸にピッタリと貼りついて悩ましい。体から滴り落ちる水滴も。それは、ただの水滴ではなく、京子の体についていた水なのである。
太陽は、かなり高く昇っていた。客もそうとう多くなっていた。流れるプールには、多くの男女や子供が、歓声を上げながら、水に流されながら泳いだり、ゴムボートに乗って、楽しんでいた。
「京子さん。今度は、流れるプールに入りませんか」
「ええ」
京子は、ニコッと笑って、答えた。
純と京子は、手をつないで、流れるプールに向かった。もう、京子にビキニを恥ずかしがる様子はなかった。入場客の女は、みんなビキニだからである。京子は、子供のようにウキウキしていた。流れるプールは、けっこう、速度がある。流れるプールでは、流れの方向に従って、泳がなくてはならない。純は、以前、そのことを知らないで、流れと逆方向に泳いだら面白いと思い、泳いでいたら、すぐに監視員がやってきて、「お客さん。規則を守っていただけないのでしたら退場していただきます」と、厳しく叱りつけらたのである。
流れるプールは陸上競技のトラックのような楕円形のプールである。
純は京子と一緒に流れるプールに入った。
流れるプールは、自力で泳がなくても、水に体をまかせていれば、水の流れによって、流されるので、泳いでいるような感覚になる。泳げば、流れる速度に泳ぐ速度が加わって、速く泳げているような感覚になる。そんなところが、流れるプールの面白さである。
純は、京子と手をつないで、しばらく流れにまかせて、歩いた。
「気持ちいいですね」
京子が、ニコッと微笑んで言った。
「ええ」
純は微笑んで答えた。
しばし水に押されながら歩いた後、京子が立ち止まった。
「純さん。ちょっと、ここで止まってて」
「え?」
純には、その意味がわからなかった。京子は、つないでいた手を放し、水を掻き分けながら歩き出した。水の速度と、水を掻き分けながら歩く速度で、京子は、どんどん進んでいき、二人の距離は、どんどん離れていった。純は、意味も分からず、京子に言われたように、立ち止まっていた。かなりの距離、離れてから、京子は、後ろを振り返って、純に手を振った。
「純さーん。私を捕まえてごらんなさい」
そう言うと、京子はまた、水を掻き分けながら、歩き出した。純は、京子の意図がわかって、ははは、と笑った。水中での鬼ごっこ、である。純は、ゴーグルをつけて、京子に向かって、泳ぎ出した。だが、人が多いため、ぶつかってしまい、泳げない。仕方なく、純も、京子と同じように、水を掻き分けながら歩き出した。条件は同じである。地上と違い、水の抵抗があるため、なかなか、速く進めない。これでは、男と女の違いはあっても、あまりそれが有利に働かない。京子も必死である。距離がなかなか縮まらない。しかし、そこはやはり、男の力の方が強い。だんだん距離が縮まっていった。京子は、捕まえられないよう、キャッ、キャッと、叫びながら、逃げた。幸い、近くに人があまりいなかったので、純は、クロールで全力で泳ぎ出した。どんどん京子との距離が縮まっていった。もう三メートル位になった。水の中から、必死で、逃げる、ビキニ姿の京子の体が、はっきりと見える。純は、可笑しくなって、ふふふ、と笑った。
「京子さん。つーかまえた」
そう言って、純は、タックルするように、京子の体を、ギュッと抱きしめた。京子の体に触れるのは、これが初めてである。それは、あまりにも柔らかい甘美な感触だった。捕まえられて、京子は、
「あーあ。つかまっちゃった」
と、口惜しそうに言った。
二人は顔を見合わせて、ははは、と笑った。
「じゃあ、今度は、京子さんが、捕まえる番です。僕をつかまえてごらんなさい」
純が言った。
「わかったわ」
京子は立ち止まった。純は、水を掻き分けて進み、京子から少し離れた。
「さあ。京子さん。もういいですよ」
京子は、ニコッと笑って、水を掻き分けて、純を追いかけ始めた。純もつかまらないよう、水を掻き分けて逃げた。だが、そこは、やはり男と女。本気で純が逃げると、京子との距離は、全く縮まらない。それどころか、どんどん離れていってしまう。これでは、京子は、いつまで経っても純をつかまえられない。なので、純は、手加減して、京子が何とか、つかまられる程度の速度で逃げた。二人の距離はだんだん縮まっていった。京子は嬉しそうである。ついに、京子は純をつかまえた。
「純さん。つーかまえた」
そう言って、京子は、後ろから純の体にヒシッと抱きついた。京子の柔らかい胸のふくらみの感触が、純の背中にピッタリとくっついた。それは、最高に気持ちのいい感触だった。
「京子さん。ちょっと、疲れましたね。少し、休みませんか」
「ええ」
二人は流れるプールから出た。
二人は、ビーチパラソルの下のリクライニングチェアに座った。京子の体からは、水が滴り落ちている。それはとても美しい姿だった。純には、京子が、陸に上がった人魚のように見えた。
「純さん。お腹空いてませんか?」
京子が聞いた。
「ええ」
「じゃあ、何か食べましょう。純さんは、何を食べたいですか?」
「僕は、何でもいいです。京子さんと同じ物を食べたいです」
「わかりました」
そう言うと彼女は、パタパタと小走りに食べ物売り場に走って行った。小走りに走る京子の後ろ姿は悩ましかった。
ビキニで覆われているセクシーな尻が揺れて、彼は頭がボーとしてきた。
京子はすぐに、焼き蕎麦を二包み、とオレンジジュースを二つ、買ってもどってきた。
そして、それをテーブルの上に置いた。
「焼き蕎麦とオレンジジュースにしちゃったけど、よかったかしら」
「は、はい。あ、ありがとうごさいます」
二人は、焼き蕎麦を食べ始めた。咽喉が渇いていたため、オレンジジュースが最高に美味しかった。
「京子さん。今日は僕にとって最高の日です」
食べ終わった後、純が言った。
「私にとってもそうですわ」
京子もニコッと笑って言った。純は、京子の横顔を、しばし真顔でじっと見つめた。
「あ、あの。京子さん。つかぬことをお伺いしてもよろしいでしょうか」
急に純の顔が真剣になった。
「はい。何でしょうか」
京子はキョトンとして聞き返した。
「あ、あの。京子さんは、結婚してるんですか?」
「・・・そ、それは・・・」
京子は言いためらった。京子の顔も真剣になった。
「もし、結婚しているんでしたら、京子さんと会うのは今日限りにします。だって、これは不倫ですから。ご主人に悪いです」
言いためらっている京子に純はきっぱりと言った。だが京子は黙っている。純はつづけて言った。
「僕は京子さんが好きです。京子さんは僕のことをどう思っているのでしょうか?」
「私も純さんが好きですわ」
京子は、強い語調で、ためらうことなく即座に答えた。この発言は純を喜ばせ、安心させた。
「もし、京子さんが結婚していたり、好きな人がいるのなら、僕は、いさぎよくあきらめます。でも、もし、そうでないのなら僕と、結婚を前提として、友達になっていただけないでしょうか」
いきなりの無粋で唐突なプロポーズだった。純は強い語調で京子にせまった。だが、京子は黙っている。京子の明るかった表情が、純の真剣な質問によって、困惑した表情に変わってしまった。しばし時間がたっても、京子は返事をしようとしなかった。純は、京子には何か複雑な事情がある、のだと思った。
「すみません。京子さん。無理に問い詰めてしまって。何か、言いにくい事情があるみたいですね。もう、そのことは聞きません」
「あ、ありがとうございます」
京子は、肩の荷がおりて、ほっとしたようのだろう。ペコペコと頭を下げた。
京子には、何か言いたくない事情があるのだ。と純は確信した。しかし、それを問い詰めても詮無いことである。純は無粋な質問をしてしまったことを後悔した。純は、頭を切り替えて、ニコッと微笑みかけた。
「ごめんなさい。京子さん。昨日、会って、いきなり翌日、結婚を申し込むなんて、おかしいですよね。今の質問はなかったことにして下さい」
「あ、ありがとうございます」
京子はほっとしたように答えた。純も嬉しくなった。
「ともかく、今の質問はなかったことにして、今日はうんと楽しみましょう」
純が笑顔でそう言うと、京子も満面の笑顔になって、
「ええ。ありがとうございます。ぜひ、そうしましょう」
と、嬉しそうに言った。京子の顔に再び笑顔がもどった。
ちょうど、その時、ダイビングプールの前で、賑やかなアトラクションが始まるところだった。コミニュケーション・パフォーマンスである。純は、これが好きだった。
「あっ。京子さん。面白いアトラクションが始まりますよ。行ってみませんか?」
「ええ」
京子は即座に答えて立ち上がった。
二人は手をつないで、ダイビングプール前の広場に行った。多くの入場客が、すでに集まっていた。純と京子は、人垣の後ろに手をつないで並んだ。元気な音楽と共に、チアガールのようなミニスカートを履いた五人の若い女性達が元気に出てきた。彼女達は少し音楽に合わせて踊った。一番元気なのがリーダーである。彼女がアトラクションの司会をした。彼女は五人の名前を紹介した。そして、水の一杯入った、水位が透けて見える五つのバケツを、少しずつ間隔を空けて、横一列に並べた。
「みんな、元気かなー。コミニュケーション・パフォーマンスの時間ですよー」
とリーダーが元気に言った。
「小学生以下の子供、五人出てくれないかなー。水掻き競争をするよー。ルールは簡単。用意スタートで、バケツの水を掻き出し、三分で終わり。バケツの水を一番多く、掻き出した子が勝ちだよー」
子供達が、五人出てきた。自分の意志で、というより、親に勧められたり、司会の女性に、
「君、やらないかなー」
と勧められたりしてである。小学生以下の子供では、まだ、おどおどしてて、自分から出てくる勇気はない。だが、ともかく、五人の幼児が出てきた。
「君。名前は?」
と聞かれて、子供達は、たどたどしく、自分の名前を言った。五人は、それぞれ、バケツの前に立たされた。グループの五人の女が、それぞれの子供の応援者のように、子供の後ろに立った。
「それじゃあ、始めるよー。用意―」
と言うと、子供達は、腰を屈め、手を出して構えた。
「スタート」
合図と共に、子供達は、せっせとバケツの水を掻き出し始めた。みんな一生懸命である。バケツの水がどんどん掻き出されていった。
「ストップ」
の合図と共に、子供達は、水を掻き出すのを止めた。バケツが隣り合うように集められた。水位の一番、下がっているバケツが勝者である。バケツの中の水が透けて見えるので水位の下がりの程度は、近くで並べれば、一目瞭然だった。
勝った子供は、名前を聞かれ、子供は、たどたどしく答えた。五人には参加賞として、風船が渡された。他にも、同様の簡単なゲームが行われた。
純は、これが好きだった。子供というよりも、コミニュケーション・パフォーマンスの司会の女の人が、綺麗で、子供っぽく振舞う仕草が面白くて好きだったのである。それは演じられた仕草ではあったが、ともかく明るく、楽しい。根にそういう性格がなければ、子供のように演じることは出来ないだろう。純は彼女に話しかけたかったが、出来なかった。彼女が、明るく振舞えるのは、ゲームの中だけであり、大人が、個人的に話しかけたら、彼女は、途端に良識ある大人にもどってしまうだろう。
そして、アトラクションでは女性達のビキニの後ろ姿を間近でじっくり見れるのが、よかった。女性達は、アトラクションを見ているため、前を向いて立ったまま動かない。純は、女性達に気づかれることなく、彼女達の、ビキニの後ろ姿を見ることが出来た。そして手をつないで見ているカップルを純は羨望の眼差しで見た。自分にも、手をつないで横にいてくれる女性がいたらどんなに幸せなことか。だが、女性のいない純は、さびしくハアと溜め息をつくだけだった。
だが、今日は違う。京子という綺麗な女性が、間違いなく純と手をつないで横にいるのである。まさに夢、かなったりである。純は最高に幸せだった。京子は横で、微笑みながら楽しそうに、アトラクションを見ていた。純は、そっと京子の背中に手を回して、京子とピタリとくっついた。柔らかい女性の体の感触はたとえようもなく心地よかった。
アトラクションが終わった。
「楽しいアトラクションですね」
京子は、そう言って笑顔を純に向けた。
「そうですね」
純も笑顔で答えた。京子の笑顔には、さっきの暗い陰など、全く無くなっていた。純は、京子と手をないで歩いた。
「今度は波のプールに行きませんか?」
「ええ」
そうして踵を返した時、目の前で、若いカップルが、ピースサインをしてニッコリ笑っていた。その二人を、SHOUNANと書かれた青いTシャツを着た男が、デジカメを向けている。「大磯でカシャ」である。土曜と日曜は、大磯ロングビーチは入場客がたくさん来て混む。よく言えば賑やか、である。それで、土曜日と日曜日に、入場客の写真を撮って、大磯ロングビーチのホームページに、その日のうちにアップしていた。これは、土曜日と日曜日だけ行われていた。平日はない。写真を撮って欲しければ、「撮って下さい」と一言いうだけで、撮ってもらえるのである。
「京子さん。一緒に、写真、撮ってもらいましょうか」
「ええ」
京子は嬉しそうに返事した。
「でも、ネットにアップされますよ。大丈夫ですか?」
「ええ。大丈夫です」
京子は笑顔で、あっさり言った。これは記念のためでもあるが、探りのためでもあった。もし、京子が結婚していたり、本命の彼氏がいたりしたら、二人一緒に楽しそうにしている写真を撮られるのは、夫や彼氏に見つかるリスクを恐れて出来ないはずである。だか、それは京子は大丈夫らしい。なら、京子は、結婚しておらず、本命の彼氏もいない可能性の方が強くなる。仮に本人に見つからなくても、友達や知人に見つかれば、本人に報告されて知られてしまう危険がある。ならば、さっき京子に唐突にプロポーズして、京子が困ったのは何故なのか。やはり、自分に好意を持ってくれてはいるが、結婚までは、決めかねている、ということなのではないか、と純は思った。
「すみません。写真、撮って下さい」
純は、カメラを持っている、青いTシャツの男に言った。
「はい。わかりました」
と言って、男は、カメラを覗きながら、少し後ずさりした。純は京子とピッタリとくっついて、右手を京子の腰に回した。京子は、左手を純の腰に回した。そして、お互い、反対の手で、ピースサインをした。
「では、撮りますよー」
男が言った。京子は笑顔をつくった。純も笑顔をカメラに向けた。
カシャ。
写真が撮られた。
男は、近づいてきて、撮った写真を二人に見せた。ピッタリくっついたアツアツの写真が撮れていた。
「お二人の関係は?」
男が聞いた。純は京子の顔を見た。
「恋人です」
京子が嬉しそうに答えた。純は驚いた。
「京子さん。アップされる写真には、間柄と来た場所が写真の下に載りますよ。恋人で本当に、いいんですか?」
「ええ。いいです」
京子は躊躇いなく言った。
「お住まいはどちらですか?」
男が聞いた。
「藤沢市です」
京子が答えた。堂々と住んでいる所まで答える京子に純はまた驚いた。
「では、今日中にアップします。どうもありがとうございました」
そう言って男は去っていった。
「京子さん。じゃあ、波のプールに行きましょう」
「ええ」
純が誘うと京子は嬉しそうに返事した。
「京子さん。間柄は恋人で、藤沢市在住なんて言って本当にいいんですか?写真の下に書かれますよ」
純は眉間を寄せて京子に聞いた。
「ええ。大丈夫ですよ」
京子はあっけらかんと答えた。純は京子が何を思っているのか、さっぱり分らなかった。京子に夫や彼氏がいるのなら、写真は公開されない方がいいに決まっている。仮に公開されても、似ている他人と思われて気づかれない可能性もある。しかし、住んでいる所が分ってしまえば、確実に不利になる。夫や彼氏がいて、知られたくないなら、住んでいる所は、埼玉県とか、ウソを言っておいた方がいいはずである。そんなことは京子も分っているはずである。純は何が何だかさっぱり分らなくなった。
波のプールについた。
純は波のプールには、全く入らなかった。ここでは泳げない。ここは、親子や友達が、海の波の寄せたり引いたりする感覚を楽しむためのプールである。そもそも純は、大磯ロングビーチでは、シンクロプールでしか泳がなかった。市営プールと違って、一時間に10分の休憩というものがないから、いくらでも続けて泳げる。しかも水深2mだから、浅いプールよりずっと面白かった。朝9時から泳ぎ出して、ずっと泳ぎ続けて、気づいたら12時を過ぎていたということも、ザラだった。
純は京子と手をつないで、波のプールに入っていった。
適度な力を持った波が、やって来ては、足に当たり、そして引いていく反復を何度も続けていた。それは人工的に作り出された潮の満ち引きだった。やってくる波は、適度なエネルギーを持っていて、足に当たる波の攻撃には軽いスリルがあって、それが心地いい。
「気持ちいいわ。何だか海に来たみたい。こうやって、波に入っていくの、久しぶりだわ」
「京子さんは、夏は海には行きますか?」
「全く行きません。中学校の時に海水浴に行って以来、全く行ってません」
「どうしてですか?」
「そうですね。やっぱり日焼けするのが嫌なので・・・」
二人は、手をつないで、どんどん深みに入って行った。
「純さんは、海にはよく行くでしょう」
京子が聞いた。
「ははは。海には行きますけど、海にはほとんど入りません」
「どうしてですか?」
「海では、体が浮くんで、面白くないんです。ブイで仕切られた小さな囲いの中を泳いでいても、面白くありません。それに・・・」
「それに、何ですか?」
「それに京子さんのような素敵な彼女がいませんから。海は泳ぐ所ではなく、友達と一緒に行って遊ぶ所です」
「・・・ふふふ。じゃあ、今度いつか一緒に海に行きませんか?」
純は驚いた。京子は純とまた会いたい、と思っているのか。だが本気ではなく言葉だけかもしれない。本心で京子が何を思っているのかは、さっぱり分らなかった。
二人は手をつないで、さらに、どんどん深みに入って行った。もう水が胸の所まで来ていた。足をしっかり踏ん張っていないと波に押されてしまう。波がくる度、京子は、キャッ、キャッと嬉しそうに叫んだ。波に負けないためには、波がくる前に、波の方に向かっていくくらいでなくてはならない。
「あっ」
大きな一波に京子は、波にさらわれそうになった。
「純さん。助けてー」
ふざけてか本気か、京子は咄嗟にぐっと純の手を力強く握った。純はぐっと京子の手を握り締めた。だが京子は、力が弱いのか、バランスが悪いのか、波に流されてしまいそうだった。
純は、京子の背後に回り、背中から京子の体をしっかり抱きしめた。
「もう大丈夫ですよ。京子さん」
「ありがとう。純さん」
純は京子を背後から抱きしめて、足をぐっと踏ん張った。こうすれば確実に京子を支えられる。だが波はそんなに強い力ではない。し、京子もそんなに非力とも思えない。平泳ぎで50m泳げるほどの泳力はあるのだから。結局、京子は、純に抱きしめられたいため、わざと力を抜いているのだと思った。純はしばし、京子を背後から抱きしめ続けた。京子が倒れないため、というより、抱擁するように。京子も、純の抱擁に身を任せているかのようだった。「支え」ではなく「抱擁」と純が意識を切り替えると、それはとても気持ちのいいものになった。純はこんなことをするのは生まれて初めてだった。京子は抱きしめている純の腕をしっかりつかんだ。しばし、二人は、そうやって、波に揺られていた。
時計を見ると、もう五時近くになっていた。ちらほらと人々は帰り支度をしていた。
「京子さん。もう、出ましょう」
京子を抱きしめていた純が言った。
「はい」
二人は手をつないで、波に押されながら、波のプールを出た。
「京子さん。もう、帰りましょう。今日は最高に楽しかったです」
「私も」
そう言って京子はニコッと笑った。
二人は手をつないで、本館の建物に向かった。
純と京子は更衣室とロッカーのある本館に入った。コインロッカーに入れていた、二人分の荷物を出して、二人は、それぞれ男性更衣室と女性更衣室の前で別れた。
純はシャワーを浴び、ドライヤーで髪を乾かして、服を着て、更衣室を出た。そして、京子が出てくるのを待った。五分くらいして、京子は、着てきた薄いブラウスとフレアースカートを着て出てきた。二人は手をつないで大磯ロングビーチの建物を出た。
二人は駐車場に止めておいた車の所に来た。
「京子さん。また運転しますか?」
と純が聞くと、京子は、
「はい」
と嬉しそうに答えた。それで京子が運転席に乗り、純は隣の助手席に乗った。京子はエンジンをかけ、車を出した。もと来た道を帰るだけなので、帰りは楽である。
「いやあ。今日は人生で最高の一日でした」
純が言うと、京子も、
「私もそうです」
と言ってニコッと笑った。純は真顔になり、興ざめになるのを覚悟の上で、昼間した質問を京子をじっと見据えて言った。
「京子さんは、結婚しているか、付き合っている彼氏がいるのですか?」
「・・・そ、それは・・・」
急に京子の顔が青ざめた。
「京子さん。教えて下さい」
純は強気に迫った。
「もし、結婚しているんでしたら、今日限りにします。だって、これは不倫ですから。ご主人に悪いです」
だが京子は黙っている。
「京子さん。率直に言います。僕と結婚して下さい」
このプロポーズはあまりに唐突であり、京子は唇を噛みしめて眉間を寄せた。京子は黙ったまま返事をしなかった。京子が純に好意を持っているのは、今日の京子の嬉しそうな態度で明らかである。結婚していたり、将来を誓い合った彼氏がいるのなら、ハッキリそう言えばいいではないか。何が問題だというのだ。純には全く分らなかった。しばし時間が経った。
「何か、言いにくい事情があるみたいですね」
純は答えられない京子をそれ以上、問い詰めるのをやめた。
京子のアパートに近くなっていった。
「純さん。昨日のお礼に、家にすき焼きの具を二人分、用意しておいたんです。どうか食べていって下さい」
京子が言った。
「そうですか。ありがとうございます。それではご馳走になります」
このまま家に帰るものだと思っていた純は、思いがけない京子のもてなしに嬉しくなった。しかも京子は昨日から、すき焼きの具を買って用意していたのだから、京子が純に好意を持っていることは明らかである。
やがて車は京子の家に着いた。
「はい。純さん」
車を止めてエンジンを切ると、京子はエンジンキーを純に渡した。純はそれを受け取って財布の中に入れた。京子はアパートの鍵を開けた。
「はい。どうぞ。狭い部屋ですがお入り下さい」
京子に言われて純は京子の部屋に入った。京子の部屋は、六畳が一つで、あと風呂と台所だけの狭いアパートだった。家賃三万円では無理もない。京子は純を六畳の部屋に通し、座布団を純にすすめた。
「すぐに、すき焼きの用意をします。待っていて下さい」
純は座布団に座った。純は部屋を見回した。だが男が一緒に住んでいるようには見られない。
『ここで二人暮らしは、きついだろう。では、結婚しているとすれば別居だろうか』
純はそんなことを考えた。どうしても思考が京子の男関係のことに行ってしまう。
やがてグツグツ煮える音がしてきた。京子は、茹であがった白菜の入った、熱くなったすき焼きの鍋と、焜炉を六畳の部屋に持ってきた。
「おまたせしました」
そう言って、焜炉を座卓の上に乗せ、その上に、熱くなった鍋を置いた。
京子は台所にもどって、牛肉や豆腐、白滝、葱、饂飩など、すき焼きの具を座卓の上に乗せた。そして、純にご飯と生卵と、小鉢と箸を渡した。
京子は牛肉や具をどんどん入れていった。
「さあ。召し上がって下さい。はやく食べないと肉が硬くなってしまいますから」
京子が言った。
「うわー。美味しそうだ。いただきます」
そう言って純は、小鉢に卵を割って入れて、すき焼きを食べ始めた。
肉は横にたくさん置いてあるので、純はどんどん食べていった。
「お味はいかがですか?」
京子が、箸で、具を入れながら聞いた。
「美味しいです。でも、もうちょっと砂糖を入れてもらえないでしょうか。甘いのが好きなんで」
「はい。わかりました」
そう言って京子は、砂糖を鍋に継ぎ足した。
純は、すき焼きをおかずにして、温かいご飯をハフハフいいながら食べた。京子は嬉しそうに純を見守っている。自分は用意するだけで食べようとしない。純にうんと食べて欲しいという思いからだろう。
「京子さんも食べて下さい。一緒に食べた方が美味しいですから」
「はい。わかりました」
京子はニコッと笑って、すき焼きを食べ出した。だが純を思ってか、肉はあまり食べなかった。食事が終わった。京子が肉をほとんど食べないので、純が肉を二人分食べたようなものである。
「あー。おいしかったでした。どうもありがとうございました」
純は丁寧にお礼を言った。京子は、ニコッと笑って、食器を台所に下げ出した。
ふと、横を見ると、ノートパソコンがあった。純は、ネットを開いて、大磯ロングビーチを開いた。「大磯でカシャ」には、純とビキニ姿の京子が、ピッタリとくっついて、お互いに腰に手を回し、笑顔でピースサインをしている写真が綺麗に写っていた。
「京子さん。見て御覧なさい。昼間、撮った写真が写ってますよ」
純に言われて京子は純の横に座った。
「本当だわ。まるで夫婦みたいですね」
そう言って京子はニコッと笑った。純はこの発言の意味もわからなかった。
「京子さんのビキニ姿、凄くセクシーです。きっと多くの人が見ていると思いますよ」
言われて京子は顔を紅潮させた。
「ちょっと、待っていて下さい。シャワーを浴びてきます」
そう言うと、京子は立ち上がって風呂場に入った。シャワーがタイルを打つ音が聞こえてきた。大磯ロングビーチのシャワーだけでは、まだ不十分で、家に帰ってから、石鹸でシャワーを浴びないとプールの水は完全には落ちない。純は今まで、大磯ロングビーチに行った時は、必ず、家でもう一度、石鹸でシャワーを浴びていた。京子もそれなのだろうと純は思った。やがてシャワーの音がピタリと止まった。
出てきた京子を見て、純は驚いた。京子は白いバスタオルを一枚だけを体に巻いて胸の上で縒って、とめてあるだけだったからである。京子はその姿のまま、寄り添うように純に体を寄せてきた。
「あ、あの。純さん。どうか好きにして下さい」
京子の発言に純は胸がはち切れんほどの思いがした。これはセックスの誘いである。純は京子の肩をそっとつかんだ。純はしばし迷った。そして、重い口を開いて言った。
「京子さん。何度も言いますが、京子さんが結婚しているのであれば、僕は京子さんを抱けません。ご主人に悪いですので。僕は、ちょっとカタイ男で、そういう性格なんです」
純はそう言った。京子は黙っている。だが、女の方から誘ってきたのに、女を抱かないなんていうのは、女に恥をかかせることになる。デリケートな純はそれも嫌だった。そのため、あくまでバスタオルの上から、ギュッと京子を抱きしめた。そして、それだけにとどめた。しばしの時間が経った。純は京子から離れた。
「今日はもう遅くなりましたから、帰ります。色々とありがとうございました。今日は僕にとって最高の一日でした」
そう言って純は立ち上がろうとした。
「あ、あの。純さん」
京子が引きとめるように純に声をかけた。
「何ですか?」
「あ、あの・・・」
と言って京子は言いためらった。
「何でしょうか?」
純が促すように再び聞いた。
「あ、あの。もう一度、合って頂けないでしょうか?」
京子の顔は真剣だった。純には京子が何を考えているのか、さっぱり分らなかった。どう考えてもわからなかった。
「何か、複雑な事情があるみたいですね」
純は重たい口調で言った。
「わかりました。僕も京子さんとまた会えるのは嬉しいですから」
「あ、ありがとうございます」
京子は涙を浮かべんばかりに、ペコペコ頭を下げた。本当に感謝している様子だった。
「で、いつ、どこで会う予定にしましょうか?」
「純さん。明日の仕事は何時に終わりますか?」
「そうですね。午後五時には終わります」
「では、明日の純さんが仕事が終わった後に会って頂けないでしょうか?」
今日、会って、また明日とは、早いものだと純は首を傾げた。
「で、場所はどこにします?」
駅の東口のロータリーの近くに喫茶店、××がありますね」
「ええ」
「あそこで会ってもらえないでしょうか?」
「わかりました」
そう言って純は、京子のアパートを出て、車で家に帰った。
家に着くと、純はすぐにノートパソコンを開けて、再度、「大磯でカシャ」の京子のビキニ姿の写真をしみじみと眺めた。それはあまりにもセクシーで美しく、いつまで見ていても見厭きなかった。純はシャワーを浴びて、パジャマに着替え、歯を磨いて、床についた。そしてまた京子のセクシーなビキニ姿の写真を眺めた。そうしているうちに純は今日一日、遊んだ疲れから、泥のように眠った。
☆ ☆ ☆
翌日になった。
純はいつもの通り、カジュアルな格好で、車で病院に出勤した。月曜は結構、外来が混むが、今日はそれほどでもなかった。医者なんて八百屋とたいして変わりない。と純は思っていた。し、実際そうである。慣れで、誰でも出来る仕事である。昼休みは、医師の全員は、医局でテレビを観ながらくつろぐのだが、純だけは、医局のテレビの音や医者同士の会話はうるさい雑音でしかなかった。それで純は昼休み、誰もいなくなった静かな診察室で一人カリカリと小説を書いていた。そのためもあって、また酒も飲めなく、人付き合いも苦手で、飲み会にも出ないため、純は親しい医者の友達があまりいなかった。
その日は、仕事が終わった後、京子と会うことが気になって、純は、そのことばかり考えていた。
五時になって仕事が終わった。純は京子に携帯で電話した。
「京子さん。いま、仕事が終わりました。今、どこにいますか?」
「喫茶店××にいます」
京子が小さく返事した。
「そうですか。それでは、急いでそちらに向かいます」
そう言って、純は携帯をきった。そして、車に乗って、急いで車を飛ばした。
☆ ☆ ☆
純は駅前の駐車場に車を停めた。そして、急いで喫茶店に入った。京子は、奥の窓際の席に座っていた。昨日と同じブラウスとスカートだった。
「いやあ。待たせてしまってすみません」
「い、いえ」
純は京子とテーブルを挟んで、向き合うように座った。
ウェイターが来た。純はアイスティーを注文した。京子もアイスティーを注文していたからである。京子のアイスティーは、半分くらい減っていた。かなり待ったのだろう。京子は何か今までになく緊張した様子だった。
「あ、あの。純さん。突然、呼び出してしまってごめんなさい」
そう言って京子はペコリと頭を下げた。
「いや。気にしないで下さい。僕は京子さんと会えるのが幸せなんですから」
純は笑いながら言った。京子は真剣な顔になった。
「純さん。昨日、純さんが、色々聞いてきたのに、答えなくってすみませんでした」
京子は深く頭を下げた。
「いやー。僕も無理に聞き出そうとしてしまって、すみませんでした」
「あ、あの。私、純さんが好きです」
京子は、あらたまった真剣な表情で純を直視して言った。
「そう言ってもらえると僕も嬉しいです。僕も京子さんが好きです」
純は微笑んで言った。
「でも・・・」
と言って京子はいいためらった。
「でも、何です?」
純は京子を促した。
「あ、あの。純さんは、バツイチの女なんて、嫌でしょう?」
純は京子が黙っていた理由がわかって少しほっとした。
「なあんだ。そんなことですか。バツイチだの何だのなんて、全然、気になりませんよ」
純は京子を慰めるように言った。
「でも・・・」
と言って京子は再びいいためらった。
「でも、何です?」
純は強気の口調で京子を促した。
「でも、連れ子がいたりしたら・・・絶対、嫌でしょうね」
京子が言った。
「いるんですか?」
これには純も驚いた。
「え、ええ」
京子が答えた。
「男の子ですか。女の子ですか?」
「お、男です」
「どうして離婚したんですか?」
「前の夫は、バーのホステスを好きになってしまって・・・」
「そうですか」
そう言って純はアイスティーを一口、啜った。
「なるほど。そのことで迷っていたんですか」
純は慰めるように言った。
「ダメですよね。こんな女と結婚なんて・・・」
京子は自分に言い聞かせるように言った。言って肩の荷が降りたように、ハアと溜め息をついた。
純は、気抜けした京子の顔を、しばし、じっと見つめた。そして重たい口を開いた。
「いや。そんなことないですよ」
純は自信に満ちた強い口調で言った。
「どうしてですか?」
瞬時に京子が聞き返してきた。京子はまくし立てるように続けて言った。純があっさり答えたのが疑問だったのだろう。
「どうしてですか?血のつながらない他人の子ですよ。純さんは、お医者様で、収入も社会的地位も高いですし。いいところのお嬢様か、女医さんと結婚するのが、ふさわしいのではありませんか。子供だって、当然、自分の子供が欲しいはずですよね」
「いや。そうとも限りませんよ」
焦っている京子に対し、純は落ち着いて話した。
「『人生の悲劇の第一幕は親子となったことにはじまっている』という、芥川龍之介の格言、知っていますか?」
「いえ。知りません。どういう意味ですか?」
京子は身を乗り出すようにして聞いた。
「つまり、自分の血をひいているから、子供は他人ではなくなるということです。子供は自分の分身、自分の所有物のような気持ちになりますよね。そこから、親の愛情がエゴとなり、子供は自分の思い通りに出来るものという親の驕りが起こります。自分の思い通りの人間にする資格がある。そして、そうならないと不快になる、という、いやらしいネチネチした関係になるということです。自分の物だという気持ちから、自分の思い通りにならないと、かえって嫌いになってしまいます。親のエゴの愛というものは。僕は、そういうドロドロした関係より、血のつながらない他人の子供の方が本当に愛せるからです。僕は生きることにドライですから、自分の血をひいた子供を、そして子孫を、残したい、という執着心がないんです。むしろ、逆に自分の血をひいた人間を死後に残したくないとさえ、思っているんです」
「ほ、本当ですか?」
京子は目を皿のようにして聞いた。
「ええ。天に誓って本当です」
純はニッコリ笑って言った。
「で、でも、あの子を気に入ってもらえるか・・・」
京子は不安げな様子だった。
「それは、僕も見てみたいですね」
「では、すぐに来るよう言いますわ」
京子は携帯を取り出すと、すぐに電話した。
「もしもし」
子供とつながったのだろう。京子は話し出した。
「ケンちゃん。今すぐ、駅前にある××喫茶店に来てくれない。タクシー使っていいから」
話し終わって、京子は携帯をきった。
京子は純に振り向いた。そして、真顔になって、重たそうに口を開いた。
「あ、あの。純さん。もう一つ言わなくてはならない事があるんです」
「何ですか?」
「前の夫は、事業を始めるから、銀行から融資を受けるため、資金が必要だと言いました。私は疑わず保証人になりました。しかし・・・」
「しかし、どうしたんですか?」
「夫は資金を、先物取引で膨らましてから、資金を大きくしようとしたのです。それを私は知りませんでした。でも・・・」
「でも、先物取引で失敗して、借金を作ってしまった、ということですね」
「ええ」
「それで借金はいくらあるんですか?」
「い、一千万円です」
純はニコッと笑った。
「わかりました。僕が払います」
「あ、ありがとうございます」
京子はまた目を潤ませた。
☆ ☆ ☆
やがて喫茶店の前にタクシーが着いた。京子は急いで、外に出て、財布から1000円札を数枚、取り出して、タクシーの運転手に渡した。京子は、男の子を連れて、喫茶店の中に入った。京子と男の子は、純と向かい合わせに席に着いた。
「あのね。ケンちゃん。この人はね・・・」
京子が息子を紹介しようとした時、男の子は、いきなり大きな声を出した。
「あっ。おにいさん」
男の子が純を見て言った。
「やあ。健太。君か」
純は笑顔で言った。
「えっ。知っているんですか?」
京子は戸惑った目を純と息子に交互に向けた。
「うん。前、野球を教えてくれる親切なおにいさんがいるって、言ったじゃない」
健太は母親に向かって元気に答えた。
純は健太をじっと見た。
「ははあ。健太。プロ野球選手になりたいのは、契約金と高額な年棒のためだな」
「う、うん」
「それで、お母さんを楽させたいと、思っていたんだろう」
「う、うん」
「親孝行だな。健太は」
純は笑顔で言った。
「よかったわ」
京子はほっとしたように胸を撫で下ろした。そして健太を見た。
「あのね。ケンちゃん。この方が私と結婚して下さると、おっしゃって下さったの。だからこの方が健太の新しいお父さんになるの」
「うわー。嬉しいな」
健太は満面の喜びで叫んだ。
「ケンちゃん。何がそんなに嬉しいの?」
健太があまりに嬉しそうにはしゃいでいるので京子が聞いた。
「だって、そりゃー。野球を教えてもらえるもん」
健太は無邪気に答えた。
「ケンちゃん。この方は、お医者様なのよ」
京子が言った。
「へー。そうだったんですか」
健太は興味深そうに純を見た。
「健太。じゃあ、これからは、今まで以上にみっちり野球を教えてやるからな」
純は笑顔で言った。
「ありがとう。おとうさん」
京子はニコッと笑った。健太が、もう純のことを、おとうさんと言ったからであろう。そして、純が息子と親しい仲だったことが、わかって、純と息子がうまくやっていけるかどうか、という心配が吹き飛んだからであろう。
純は真顔になってじっと京子を見つめた。
「京子さん。僕と結婚していただけないでしょうか?」
純は恭しくプロポースして京子の手をとった。
「あ、ありがとうございます」
京子の目頭は熱くなっていた。京子は思わず、ハンカチを口に手を当てた。
今度は京子が純を真顔で見返した。
「純さん。一言、いわせて下さい」
京子の口調は、急に真剣になった。
「何でしょうか?」
「純さん。私には確かに純さんが、お医者様で、収入が高い、という、よこしまな気持ちがあるんです。でも、でも、決して、お金目当て、だけではありません。私、本当に純さんを愛してるんです」
京子は訴えるように語気を強めて言った。
「ははは。そんなこと気にしないで下さい。そんなことで悩まないで下さい。僕は京子さんが僕を愛してくれていることを信じていますし、僕も京子さんを愛してます」
純は軽くあしらうように言った。
「あ、ありがとうございます」
そう言って、京子はまた目頭を熱くしてハンカチで口を押さえた。
☆ ☆ ☆
それから二週間後、近くの小さな教会でしめやかな結婚式が行われた。出席者はお互い、誰も呼ばなかった。純は派手な結婚式が嫌いだったからからである。そう提案すると京子も賛成した。
京子と健太は純のアパートに移った。純のアパートは、六畳が二間あり、ほとんど使っていない、ダイニングもあって三人暮らしにはちょうど良かった。
☆ ☆ ☆
結婚式の後の最初の日曜日。
純は朝、起きてから小説を書き始めた。昼食を三人で食べ、その後、三時まで一心不乱に小説を書いた。そして、三時から、息抜きも兼ねて、健太と公園でキャッチボールをした。健太は熱心で、丁寧に指導すれば、健太の野球の技術は、そうとう上手くなると純は確信した。
夕方近くまで、純と健太は熱心に野球の練習をした。
京子がやって来た。
「あなたー。健太―。もう夕御飯よー」
京子に呼ばれて、純と健太は家に戻った。
その日の夕食はビフテキだった。
「健太。これから野球はどうする。もう、プロ野球選手にならなくてもいいぞ。学費は出すから、一流大学に進学して、一流企業に就職した方が無難だぞ。どうする?」
純は健太に聞いた。
「僕、プロ野球選手になる」
健太は決然と答えた。
「どうして?」
「だって、一度、決めたことだもん」
純は微笑んだ。
「よし。俺も必ず小説家になってやる。どっちが夢を実現できるか、親子で競争だ」
そう言って純はビフテキを切って口に入れた。
京子が嬉しそうに二人を眺めていた。
平成23年10月11日(火)擱筆
「わあ。嬉しいな。僕、ビキニの女性と、大磯ロングビーチに来るのが夢だったんです。しかも、京子さんのような綺麗な人と」
純は喜びをことさら声に出して言った。京子は、子供のような態度の純を見て、クスッと笑った。
「純さんは、付き合っていた彼女と、何かの理由で別れて、今、一人なんでしょう?」
京子が聞いた。
「いやあ。違いますよ」
純は即座に否定した。
「じゃあ、何かの理由で、彼女とケンカでもしているんですか?」
「いえ。僕には、彼女はいません」
「いつからですか?」
「生まれた時から今までです」
純は笑いながら答えた。
「ええー。本当ですか?」
京子は目を皿のようにして純を見た。
「ええ。本当ですよ」
純はあっさり答えた。
「本当に一度も女の人と付き合ったことがないんですか?」
信じられないという顔つきで京子は、純をじっと見つめた。
「ええ」
「不思議ですわ。純さんは、お医者様ですし、容姿もいいですし、それに優しいし・・・」
「性格が暗いからですよ。話題もないし、女の人といても、女の人を退屈させてしまいますし・・・。それに男の友達もいないですし。男の友達がいたら、合コンのように、女性をナンパするこもと出来るでしょうけれど、一人では恥ずかしくって、とても出来ませんからね」
「純さんは、真面目すぎて、遊ぶのが下手なんじゃないでしょうか」
「ええ。それは僕も自覚していることです」
「純さん。家賃、払って下さって本当に有難うございます」
京子はまた、あらたまって礼を言った。
「もう、そのことは言わないで下さい。僕は京子さんのような綺麗な女性と、大磯ロングビーチに来るのが夢だったんです。その夢がかなって、最高に幸せなんです」
純はニコッと笑った。
「私も幸せです」
京子もニコッと笑った。
「今日は大いに楽しみましょう」
「ええ」
だんだん入場客が増えてきた。本館の建物から出てくる女はみんな、ビキニ姿である。
「ほら。京子さん。女性はみんなビキニでしょう」
純は、そう言ってビキニ姿の女性達を指差した。
「ほんとだわ」
京子は純の指差した方を見て納得したように言った。
「京子さん。プールに入りませんか」
「ええ」
純は立ち上がって、京子とシンクロプールの縁に座った。二人はプールの縁に座ったまま、足をプールの中に入れ、ユラユラと足を動かして水を揺らした。
「京子さんは泳げますか?」
純が聞いた。
「え、ええ。一応。でも平泳ぎしか出来ませんし、速くは泳げません。純さんは?」
純は嬉しくなった。普通の人は、大抵その程度である。
「僕は、クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライなんででも泳げます」
「へー。凄いですね」
「それは、泳ぐのが好きですから」
「純さんの泳ぎ、見せて貰えないでしょうか」
「ええ」
純は大得意で、プールに入った。京子に、自分の得意な泳ぎを見せられるのだ。これ以上、爽快なことはない。
純はクロールで泳ぎ出した。いつもは、ゆっくり泳いでいるのだが、京子に見せるため、いつもより、速く泳いだ。一往復すると、今度は、背泳ぎ、次はバタフライ、最後に平泳ぎ、と個人メドレーのように泳いだ。そして、プールから上がって、元のように京子の隣に座った。
「凄いですね。まるで水泳の選手みたいです。高校か、大学では水泳部だったんですか?」
「いえー。一人で練習したんです」
「凄いですね。純さんの泳ぎって、すごく綺麗ですね。まるで芸術のようです」
純は、照れくさそうに笑った。それは純も意識していることだった。運動は、技術も大切だが、美しくなくてはならない、という強いこだわりが、純にはあった。一度、見せたので、もう見せるのは十分である。
「京子さん。一緒に泳ぎませんか」
純が誘った。
「ええ」
京子はニコッと笑った。京子も、泳げることを自慢したかったのだろう。そっとプールに入ると平泳ぎで、泳ぎ出した。純は、ゴーグルをして、平泳ぎで、京子の真後ろを泳いだ。水中から、ビキニに覆われた京子の尻や太腿が、もろに見える。尻や太腿は水の力によって、揺らいだ。平泳ぎで、足で蹴る時、両足が大きく開いて、ビキニに覆われた女の股間が丸見えになった。それはとても悩ましく、純は激しく興奮した。純の股間の一物は、すぐさま勃起した。京子の泳ぎは、極めてゆっくりだった。プールの壁につくと、ターンして、泳ぎつづけた。自分の泳力を見せるためだろう。純もターンして、京子の後を泳いだ。一往復して、元の場所に着くと、京子はプールから上がった。純もプールから出た。そして、二人はさっきと同じように、プールの縁に並んで座った。
「ああ。疲れた。泳ぐの久しぶりだわ。中学校の体育の授業の時、以来だわ」
京子が言った。
「でも、ちゃんと泳げるじゃないですか」
純は、チラッと京子の体を見た。ビキニが水に濡れて収縮し、股間と胸にピッタリと貼りついて悩ましい。体から滴り落ちる水滴も。それは、ただの水滴ではなく、京子の体についていた水なのである。
太陽は、かなり高く昇っていた。客もそうとう多くなっていた。流れるプールには、多くの男女や子供が、歓声を上げながら、水に流されながら泳いだり、ゴムボートに乗って、楽しんでいた。
「京子さん。今度は、流れるプールに入りませんか」
「ええ」
京子は、ニコッと笑って、答えた。
純と京子は、手をつないで、流れるプールに向かった。もう、京子にビキニを恥ずかしがる様子はなかった。入場客の女は、みんなビキニだからである。京子は、子供のようにウキウキしていた。流れるプールは、けっこう、速度がある。流れるプールでは、流れの方向に従って、泳がなくてはならない。純は、以前、そのことを知らないで、流れと逆方向に泳いだら面白いと思い、泳いでいたら、すぐに監視員がやってきて、「お客さん。規則を守っていただけないのでしたら退場していただきます」と、厳しく叱りつけらたのである。
流れるプールは陸上競技のトラックのような楕円形のプールである。
純は京子と一緒に流れるプールに入った。
流れるプールは、自力で泳がなくても、水に体をまかせていれば、水の流れによって、流されるので、泳いでいるような感覚になる。泳げば、流れる速度に泳ぐ速度が加わって、速く泳げているような感覚になる。そんなところが、流れるプールの面白さである。
純は、京子と手をつないで、しばらく流れにまかせて、歩いた。
「気持ちいいですね」
京子が、ニコッと微笑んで言った。
「ええ」
純は微笑んで答えた。
しばし水に押されながら歩いた後、京子が立ち止まった。
「純さん。ちょっと、ここで止まってて」
「え?」
純には、その意味がわからなかった。京子は、つないでいた手を放し、水を掻き分けながら歩き出した。水の速度と、水を掻き分けながら歩く速度で、京子は、どんどん進んでいき、二人の距離は、どんどん離れていった。純は、意味も分からず、京子に言われたように、立ち止まっていた。かなりの距離、離れてから、京子は、後ろを振り返って、純に手を振った。
「純さーん。私を捕まえてごらんなさい」
そう言うと、京子はまた、水を掻き分けながら、歩き出した。純は、京子の意図がわかって、ははは、と笑った。水中での鬼ごっこ、である。純は、ゴーグルをつけて、京子に向かって、泳ぎ出した。だが、人が多いため、ぶつかってしまい、泳げない。仕方なく、純も、京子と同じように、水を掻き分けながら歩き出した。条件は同じである。地上と違い、水の抵抗があるため、なかなか、速く進めない。これでは、男と女の違いはあっても、あまりそれが有利に働かない。京子も必死である。距離がなかなか縮まらない。しかし、そこはやはり、男の力の方が強い。だんだん距離が縮まっていった。京子は、捕まえられないよう、キャッ、キャッと、叫びながら、逃げた。幸い、近くに人があまりいなかったので、純は、クロールで全力で泳ぎ出した。どんどん京子との距離が縮まっていった。もう三メートル位になった。水の中から、必死で、逃げる、ビキニ姿の京子の体が、はっきりと見える。純は、可笑しくなって、ふふふ、と笑った。
「京子さん。つーかまえた」
そう言って、純は、タックルするように、京子の体を、ギュッと抱きしめた。京子の体に触れるのは、これが初めてである。それは、あまりにも柔らかい甘美な感触だった。捕まえられて、京子は、
「あーあ。つかまっちゃった」
と、口惜しそうに言った。
二人は顔を見合わせて、ははは、と笑った。
「じゃあ、今度は、京子さんが、捕まえる番です。僕をつかまえてごらんなさい」
純が言った。
「わかったわ」
京子は立ち止まった。純は、水を掻き分けて進み、京子から少し離れた。
「さあ。京子さん。もういいですよ」
京子は、ニコッと笑って、水を掻き分けて、純を追いかけ始めた。純もつかまらないよう、水を掻き分けて逃げた。だが、そこは、やはり男と女。本気で純が逃げると、京子との距離は、全く縮まらない。それどころか、どんどん離れていってしまう。これでは、京子は、いつまで経っても純をつかまえられない。なので、純は、手加減して、京子が何とか、つかまられる程度の速度で逃げた。二人の距離はだんだん縮まっていった。京子は嬉しそうである。ついに、京子は純をつかまえた。
「純さん。つーかまえた」
そう言って、京子は、後ろから純の体にヒシッと抱きついた。京子の柔らかい胸のふくらみの感触が、純の背中にピッタリとくっついた。それは、最高に気持ちのいい感触だった。
「京子さん。ちょっと、疲れましたね。少し、休みませんか」
「ええ」
二人は流れるプールから出た。
二人は、ビーチパラソルの下のリクライニングチェアに座った。京子の体からは、水が滴り落ちている。それはとても美しい姿だった。純には、京子が、陸に上がった人魚のように見えた。
「純さん。お腹空いてませんか?」
京子が聞いた。
「ええ」
「じゃあ、何か食べましょう。純さんは、何を食べたいですか?」
「僕は、何でもいいです。京子さんと同じ物を食べたいです」
「わかりました」
そう言うと彼女は、パタパタと小走りに食べ物売り場に走って行った。小走りに走る京子の後ろ姿は悩ましかった。
ビキニで覆われているセクシーな尻が揺れて、彼は頭がボーとしてきた。
京子はすぐに、焼き蕎麦を二包み、とオレンジジュースを二つ、買ってもどってきた。
そして、それをテーブルの上に置いた。
「焼き蕎麦とオレンジジュースにしちゃったけど、よかったかしら」
「は、はい。あ、ありがとうごさいます」
二人は、焼き蕎麦を食べ始めた。咽喉が渇いていたため、オレンジジュースが最高に美味しかった。
「京子さん。今日は僕にとって最高の日です」
食べ終わった後、純が言った。
「私にとってもそうですわ」
京子もニコッと笑って言った。純は、京子の横顔を、しばし真顔でじっと見つめた。
「あ、あの。京子さん。つかぬことをお伺いしてもよろしいでしょうか」
急に純の顔が真剣になった。
「はい。何でしょうか」
京子はキョトンとして聞き返した。
「あ、あの。京子さんは、結婚してるんですか?」
「・・・そ、それは・・・」
京子は言いためらった。京子の顔も真剣になった。
「もし、結婚しているんでしたら、京子さんと会うのは今日限りにします。だって、これは不倫ですから。ご主人に悪いです」
言いためらっている京子に純はきっぱりと言った。だが京子は黙っている。純はつづけて言った。
「僕は京子さんが好きです。京子さんは僕のことをどう思っているのでしょうか?」
「私も純さんが好きですわ」
京子は、強い語調で、ためらうことなく即座に答えた。この発言は純を喜ばせ、安心させた。
「もし、京子さんが結婚していたり、好きな人がいるのなら、僕は、いさぎよくあきらめます。でも、もし、そうでないのなら僕と、結婚を前提として、友達になっていただけないでしょうか」
いきなりの無粋で唐突なプロポーズだった。純は強い語調で京子にせまった。だが、京子は黙っている。京子の明るかった表情が、純の真剣な質問によって、困惑した表情に変わってしまった。しばし時間がたっても、京子は返事をしようとしなかった。純は、京子には何か複雑な事情がある、のだと思った。
「すみません。京子さん。無理に問い詰めてしまって。何か、言いにくい事情があるみたいですね。もう、そのことは聞きません」
「あ、ありがとうございます」
京子は、肩の荷がおりて、ほっとしたようのだろう。ペコペコと頭を下げた。
京子には、何か言いたくない事情があるのだ。と純は確信した。しかし、それを問い詰めても詮無いことである。純は無粋な質問をしてしまったことを後悔した。純は、頭を切り替えて、ニコッと微笑みかけた。
「ごめんなさい。京子さん。昨日、会って、いきなり翌日、結婚を申し込むなんて、おかしいですよね。今の質問はなかったことにして下さい」
「あ、ありがとうございます」
京子はほっとしたように答えた。純も嬉しくなった。
「ともかく、今の質問はなかったことにして、今日はうんと楽しみましょう」
純が笑顔でそう言うと、京子も満面の笑顔になって、
「ええ。ありがとうございます。ぜひ、そうしましょう」
と、嬉しそうに言った。京子の顔に再び笑顔がもどった。
ちょうど、その時、ダイビングプールの前で、賑やかなアトラクションが始まるところだった。コミニュケーション・パフォーマンスである。純は、これが好きだった。
「あっ。京子さん。面白いアトラクションが始まりますよ。行ってみませんか?」
「ええ」
京子は即座に答えて立ち上がった。
二人は手をつないで、ダイビングプール前の広場に行った。多くの入場客が、すでに集まっていた。純と京子は、人垣の後ろに手をつないで並んだ。元気な音楽と共に、チアガールのようなミニスカートを履いた五人の若い女性達が元気に出てきた。彼女達は少し音楽に合わせて踊った。一番元気なのがリーダーである。彼女がアトラクションの司会をした。彼女は五人の名前を紹介した。そして、水の一杯入った、水位が透けて見える五つのバケツを、少しずつ間隔を空けて、横一列に並べた。
「みんな、元気かなー。コミニュケーション・パフォーマンスの時間ですよー」
とリーダーが元気に言った。
「小学生以下の子供、五人出てくれないかなー。水掻き競争をするよー。ルールは簡単。用意スタートで、バケツの水を掻き出し、三分で終わり。バケツの水を一番多く、掻き出した子が勝ちだよー」
子供達が、五人出てきた。自分の意志で、というより、親に勧められたり、司会の女性に、
「君、やらないかなー」
と勧められたりしてである。小学生以下の子供では、まだ、おどおどしてて、自分から出てくる勇気はない。だが、ともかく、五人の幼児が出てきた。
「君。名前は?」
と聞かれて、子供達は、たどたどしく、自分の名前を言った。五人は、それぞれ、バケツの前に立たされた。グループの五人の女が、それぞれの子供の応援者のように、子供の後ろに立った。
「それじゃあ、始めるよー。用意―」
と言うと、子供達は、腰を屈め、手を出して構えた。
「スタート」
合図と共に、子供達は、せっせとバケツの水を掻き出し始めた。みんな一生懸命である。バケツの水がどんどん掻き出されていった。
「ストップ」
の合図と共に、子供達は、水を掻き出すのを止めた。バケツが隣り合うように集められた。水位の一番、下がっているバケツが勝者である。バケツの中の水が透けて見えるので水位の下がりの程度は、近くで並べれば、一目瞭然だった。
勝った子供は、名前を聞かれ、子供は、たどたどしく答えた。五人には参加賞として、風船が渡された。他にも、同様の簡単なゲームが行われた。
純は、これが好きだった。子供というよりも、コミニュケーション・パフォーマンスの司会の女の人が、綺麗で、子供っぽく振舞う仕草が面白くて好きだったのである。それは演じられた仕草ではあったが、ともかく明るく、楽しい。根にそういう性格がなければ、子供のように演じることは出来ないだろう。純は彼女に話しかけたかったが、出来なかった。彼女が、明るく振舞えるのは、ゲームの中だけであり、大人が、個人的に話しかけたら、彼女は、途端に良識ある大人にもどってしまうだろう。
そして、アトラクションでは女性達のビキニの後ろ姿を間近でじっくり見れるのが、よかった。女性達は、アトラクションを見ているため、前を向いて立ったまま動かない。純は、女性達に気づかれることなく、彼女達の、ビキニの後ろ姿を見ることが出来た。そして手をつないで見ているカップルを純は羨望の眼差しで見た。自分にも、手をつないで横にいてくれる女性がいたらどんなに幸せなことか。だが、女性のいない純は、さびしくハアと溜め息をつくだけだった。
だが、今日は違う。京子という綺麗な女性が、間違いなく純と手をつないで横にいるのである。まさに夢、かなったりである。純は最高に幸せだった。京子は横で、微笑みながら楽しそうに、アトラクションを見ていた。純は、そっと京子の背中に手を回して、京子とピタリとくっついた。柔らかい女性の体の感触はたとえようもなく心地よかった。
アトラクションが終わった。
「楽しいアトラクションですね」
京子は、そう言って笑顔を純に向けた。
「そうですね」
純も笑顔で答えた。京子の笑顔には、さっきの暗い陰など、全く無くなっていた。純は、京子と手をないで歩いた。
「今度は波のプールに行きませんか?」
「ええ」
そうして踵を返した時、目の前で、若いカップルが、ピースサインをしてニッコリ笑っていた。その二人を、SHOUNANと書かれた青いTシャツを着た男が、デジカメを向けている。「大磯でカシャ」である。土曜と日曜は、大磯ロングビーチは入場客がたくさん来て混む。よく言えば賑やか、である。それで、土曜日と日曜日に、入場客の写真を撮って、大磯ロングビーチのホームページに、その日のうちにアップしていた。これは、土曜日と日曜日だけ行われていた。平日はない。写真を撮って欲しければ、「撮って下さい」と一言いうだけで、撮ってもらえるのである。
「京子さん。一緒に、写真、撮ってもらいましょうか」
「ええ」
京子は嬉しそうに返事した。
「でも、ネットにアップされますよ。大丈夫ですか?」
「ええ。大丈夫です」
京子は笑顔で、あっさり言った。これは記念のためでもあるが、探りのためでもあった。もし、京子が結婚していたり、本命の彼氏がいたりしたら、二人一緒に楽しそうにしている写真を撮られるのは、夫や彼氏に見つかるリスクを恐れて出来ないはずである。だか、それは京子は大丈夫らしい。なら、京子は、結婚しておらず、本命の彼氏もいない可能性の方が強くなる。仮に本人に見つからなくても、友達や知人に見つかれば、本人に報告されて知られてしまう危険がある。ならば、さっき京子に唐突にプロポーズして、京子が困ったのは何故なのか。やはり、自分に好意を持ってくれてはいるが、結婚までは、決めかねている、ということなのではないか、と純は思った。
「すみません。写真、撮って下さい」
純は、カメラを持っている、青いTシャツの男に言った。
「はい。わかりました」
と言って、男は、カメラを覗きながら、少し後ずさりした。純は京子とピッタリとくっついて、右手を京子の腰に回した。京子は、左手を純の腰に回した。そして、お互い、反対の手で、ピースサインをした。
「では、撮りますよー」
男が言った。京子は笑顔をつくった。純も笑顔をカメラに向けた。
カシャ。
写真が撮られた。
男は、近づいてきて、撮った写真を二人に見せた。ピッタリくっついたアツアツの写真が撮れていた。
「お二人の関係は?」
男が聞いた。純は京子の顔を見た。
「恋人です」
京子が嬉しそうに答えた。純は驚いた。
「京子さん。アップされる写真には、間柄と来た場所が写真の下に載りますよ。恋人で本当に、いいんですか?」
「ええ。いいです」
京子は躊躇いなく言った。
「お住まいはどちらですか?」
男が聞いた。
「藤沢市です」
京子が答えた。堂々と住んでいる所まで答える京子に純はまた驚いた。
「では、今日中にアップします。どうもありがとうございました」
そう言って男は去っていった。
「京子さん。じゃあ、波のプールに行きましょう」
「ええ」
純が誘うと京子は嬉しそうに返事した。
「京子さん。間柄は恋人で、藤沢市在住なんて言って本当にいいんですか?写真の下に書かれますよ」
純は眉間を寄せて京子に聞いた。
「ええ。大丈夫ですよ」
京子はあっけらかんと答えた。純は京子が何を思っているのか、さっぱり分らなかった。京子に夫や彼氏がいるのなら、写真は公開されない方がいいに決まっている。仮に公開されても、似ている他人と思われて気づかれない可能性もある。しかし、住んでいる所が分ってしまえば、確実に不利になる。夫や彼氏がいて、知られたくないなら、住んでいる所は、埼玉県とか、ウソを言っておいた方がいいはずである。そんなことは京子も分っているはずである。純は何が何だかさっぱり分らなくなった。
波のプールについた。
純は波のプールには、全く入らなかった。ここでは泳げない。ここは、親子や友達が、海の波の寄せたり引いたりする感覚を楽しむためのプールである。そもそも純は、大磯ロングビーチでは、シンクロプールでしか泳がなかった。市営プールと違って、一時間に10分の休憩というものがないから、いくらでも続けて泳げる。しかも水深2mだから、浅いプールよりずっと面白かった。朝9時から泳ぎ出して、ずっと泳ぎ続けて、気づいたら12時を過ぎていたということも、ザラだった。
純は京子と手をつないで、波のプールに入っていった。
適度な力を持った波が、やって来ては、足に当たり、そして引いていく反復を何度も続けていた。それは人工的に作り出された潮の満ち引きだった。やってくる波は、適度なエネルギーを持っていて、足に当たる波の攻撃には軽いスリルがあって、それが心地いい。
「気持ちいいわ。何だか海に来たみたい。こうやって、波に入っていくの、久しぶりだわ」
「京子さんは、夏は海には行きますか?」
「全く行きません。中学校の時に海水浴に行って以来、全く行ってません」
「どうしてですか?」
「そうですね。やっぱり日焼けするのが嫌なので・・・」
二人は、手をつないで、どんどん深みに入って行った。
「純さんは、海にはよく行くでしょう」
京子が聞いた。
「ははは。海には行きますけど、海にはほとんど入りません」
「どうしてですか?」
「海では、体が浮くんで、面白くないんです。ブイで仕切られた小さな囲いの中を泳いでいても、面白くありません。それに・・・」
「それに、何ですか?」
「それに京子さんのような素敵な彼女がいませんから。海は泳ぐ所ではなく、友達と一緒に行って遊ぶ所です」
「・・・ふふふ。じゃあ、今度いつか一緒に海に行きませんか?」
純は驚いた。京子は純とまた会いたい、と思っているのか。だが本気ではなく言葉だけかもしれない。本心で京子が何を思っているのかは、さっぱり分らなかった。
二人は手をつないで、さらに、どんどん深みに入って行った。もう水が胸の所まで来ていた。足をしっかり踏ん張っていないと波に押されてしまう。波がくる度、京子は、キャッ、キャッと嬉しそうに叫んだ。波に負けないためには、波がくる前に、波の方に向かっていくくらいでなくてはならない。
「あっ」
大きな一波に京子は、波にさらわれそうになった。
「純さん。助けてー」
ふざけてか本気か、京子は咄嗟にぐっと純の手を力強く握った。純はぐっと京子の手を握り締めた。だが京子は、力が弱いのか、バランスが悪いのか、波に流されてしまいそうだった。
純は、京子の背後に回り、背中から京子の体をしっかり抱きしめた。
「もう大丈夫ですよ。京子さん」
「ありがとう。純さん」
純は京子を背後から抱きしめて、足をぐっと踏ん張った。こうすれば確実に京子を支えられる。だが波はそんなに強い力ではない。し、京子もそんなに非力とも思えない。平泳ぎで50m泳げるほどの泳力はあるのだから。結局、京子は、純に抱きしめられたいため、わざと力を抜いているのだと思った。純はしばし、京子を背後から抱きしめ続けた。京子が倒れないため、というより、抱擁するように。京子も、純の抱擁に身を任せているかのようだった。「支え」ではなく「抱擁」と純が意識を切り替えると、それはとても気持ちのいいものになった。純はこんなことをするのは生まれて初めてだった。京子は抱きしめている純の腕をしっかりつかんだ。しばし、二人は、そうやって、波に揺られていた。
時計を見ると、もう五時近くになっていた。ちらほらと人々は帰り支度をしていた。
「京子さん。もう、出ましょう」
京子を抱きしめていた純が言った。
「はい」
二人は手をつないで、波に押されながら、波のプールを出た。
「京子さん。もう、帰りましょう。今日は最高に楽しかったです」
「私も」
そう言って京子はニコッと笑った。
二人は手をつないで、本館の建物に向かった。
純と京子は更衣室とロッカーのある本館に入った。コインロッカーに入れていた、二人分の荷物を出して、二人は、それぞれ男性更衣室と女性更衣室の前で別れた。
純はシャワーを浴び、ドライヤーで髪を乾かして、服を着て、更衣室を出た。そして、京子が出てくるのを待った。五分くらいして、京子は、着てきた薄いブラウスとフレアースカートを着て出てきた。二人は手をつないで大磯ロングビーチの建物を出た。
二人は駐車場に止めておいた車の所に来た。
「京子さん。また運転しますか?」
と純が聞くと、京子は、
「はい」
と嬉しそうに答えた。それで京子が運転席に乗り、純は隣の助手席に乗った。京子はエンジンをかけ、車を出した。もと来た道を帰るだけなので、帰りは楽である。
「いやあ。今日は人生で最高の一日でした」
純が言うと、京子も、
「私もそうです」
と言ってニコッと笑った。純は真顔になり、興ざめになるのを覚悟の上で、昼間した質問を京子をじっと見据えて言った。
「京子さんは、結婚しているか、付き合っている彼氏がいるのですか?」
「・・・そ、それは・・・」
急に京子の顔が青ざめた。
「京子さん。教えて下さい」
純は強気に迫った。
「もし、結婚しているんでしたら、今日限りにします。だって、これは不倫ですから。ご主人に悪いです」
だが京子は黙っている。
「京子さん。率直に言います。僕と結婚して下さい」
このプロポーズはあまりに唐突であり、京子は唇を噛みしめて眉間を寄せた。京子は黙ったまま返事をしなかった。京子が純に好意を持っているのは、今日の京子の嬉しそうな態度で明らかである。結婚していたり、将来を誓い合った彼氏がいるのなら、ハッキリそう言えばいいではないか。何が問題だというのだ。純には全く分らなかった。しばし時間が経った。
「何か、言いにくい事情があるみたいですね」
純は答えられない京子をそれ以上、問い詰めるのをやめた。
京子のアパートに近くなっていった。
「純さん。昨日のお礼に、家にすき焼きの具を二人分、用意しておいたんです。どうか食べていって下さい」
京子が言った。
「そうですか。ありがとうございます。それではご馳走になります」
このまま家に帰るものだと思っていた純は、思いがけない京子のもてなしに嬉しくなった。しかも京子は昨日から、すき焼きの具を買って用意していたのだから、京子が純に好意を持っていることは明らかである。
やがて車は京子の家に着いた。
「はい。純さん」
車を止めてエンジンを切ると、京子はエンジンキーを純に渡した。純はそれを受け取って財布の中に入れた。京子はアパートの鍵を開けた。
「はい。どうぞ。狭い部屋ですがお入り下さい」
京子に言われて純は京子の部屋に入った。京子の部屋は、六畳が一つで、あと風呂と台所だけの狭いアパートだった。家賃三万円では無理もない。京子は純を六畳の部屋に通し、座布団を純にすすめた。
「すぐに、すき焼きの用意をします。待っていて下さい」
純は座布団に座った。純は部屋を見回した。だが男が一緒に住んでいるようには見られない。
『ここで二人暮らしは、きついだろう。では、結婚しているとすれば別居だろうか』
純はそんなことを考えた。どうしても思考が京子の男関係のことに行ってしまう。
やがてグツグツ煮える音がしてきた。京子は、茹であがった白菜の入った、熱くなったすき焼きの鍋と、焜炉を六畳の部屋に持ってきた。
「おまたせしました」
そう言って、焜炉を座卓の上に乗せ、その上に、熱くなった鍋を置いた。
京子は台所にもどって、牛肉や豆腐、白滝、葱、饂飩など、すき焼きの具を座卓の上に乗せた。そして、純にご飯と生卵と、小鉢と箸を渡した。
京子は牛肉や具をどんどん入れていった。
「さあ。召し上がって下さい。はやく食べないと肉が硬くなってしまいますから」
京子が言った。
「うわー。美味しそうだ。いただきます」
そう言って純は、小鉢に卵を割って入れて、すき焼きを食べ始めた。
肉は横にたくさん置いてあるので、純はどんどん食べていった。
「お味はいかがですか?」
京子が、箸で、具を入れながら聞いた。
「美味しいです。でも、もうちょっと砂糖を入れてもらえないでしょうか。甘いのが好きなんで」
「はい。わかりました」
そう言って京子は、砂糖を鍋に継ぎ足した。
純は、すき焼きをおかずにして、温かいご飯をハフハフいいながら食べた。京子は嬉しそうに純を見守っている。自分は用意するだけで食べようとしない。純にうんと食べて欲しいという思いからだろう。
「京子さんも食べて下さい。一緒に食べた方が美味しいですから」
「はい。わかりました」
京子はニコッと笑って、すき焼きを食べ出した。だが純を思ってか、肉はあまり食べなかった。食事が終わった。京子が肉をほとんど食べないので、純が肉を二人分食べたようなものである。
「あー。おいしかったでした。どうもありがとうございました」
純は丁寧にお礼を言った。京子は、ニコッと笑って、食器を台所に下げ出した。
ふと、横を見ると、ノートパソコンがあった。純は、ネットを開いて、大磯ロングビーチを開いた。「大磯でカシャ」には、純とビキニ姿の京子が、ピッタリとくっついて、お互いに腰に手を回し、笑顔でピースサインをしている写真が綺麗に写っていた。
「京子さん。見て御覧なさい。昼間、撮った写真が写ってますよ」
純に言われて京子は純の横に座った。
「本当だわ。まるで夫婦みたいですね」
そう言って京子はニコッと笑った。純はこの発言の意味もわからなかった。
「京子さんのビキニ姿、凄くセクシーです。きっと多くの人が見ていると思いますよ」
言われて京子は顔を紅潮させた。
「ちょっと、待っていて下さい。シャワーを浴びてきます」
そう言うと、京子は立ち上がって風呂場に入った。シャワーがタイルを打つ音が聞こえてきた。大磯ロングビーチのシャワーだけでは、まだ不十分で、家に帰ってから、石鹸でシャワーを浴びないとプールの水は完全には落ちない。純は今まで、大磯ロングビーチに行った時は、必ず、家でもう一度、石鹸でシャワーを浴びていた。京子もそれなのだろうと純は思った。やがてシャワーの音がピタリと止まった。
出てきた京子を見て、純は驚いた。京子は白いバスタオルを一枚だけを体に巻いて胸の上で縒って、とめてあるだけだったからである。京子はその姿のまま、寄り添うように純に体を寄せてきた。
「あ、あの。純さん。どうか好きにして下さい」
京子の発言に純は胸がはち切れんほどの思いがした。これはセックスの誘いである。純は京子の肩をそっとつかんだ。純はしばし迷った。そして、重い口を開いて言った。
「京子さん。何度も言いますが、京子さんが結婚しているのであれば、僕は京子さんを抱けません。ご主人に悪いですので。僕は、ちょっとカタイ男で、そういう性格なんです」
純はそう言った。京子は黙っている。だが、女の方から誘ってきたのに、女を抱かないなんていうのは、女に恥をかかせることになる。デリケートな純はそれも嫌だった。そのため、あくまでバスタオルの上から、ギュッと京子を抱きしめた。そして、それだけにとどめた。しばしの時間が経った。純は京子から離れた。
「今日はもう遅くなりましたから、帰ります。色々とありがとうございました。今日は僕にとって最高の一日でした」
そう言って純は立ち上がろうとした。
「あ、あの。純さん」
京子が引きとめるように純に声をかけた。
「何ですか?」
「あ、あの・・・」
と言って京子は言いためらった。
「何でしょうか?」
純が促すように再び聞いた。
「あ、あの。もう一度、合って頂けないでしょうか?」
京子の顔は真剣だった。純には京子が何を考えているのか、さっぱり分らなかった。どう考えてもわからなかった。
「何か、複雑な事情があるみたいですね」
純は重たい口調で言った。
「わかりました。僕も京子さんとまた会えるのは嬉しいですから」
「あ、ありがとうございます」
京子は涙を浮かべんばかりに、ペコペコ頭を下げた。本当に感謝している様子だった。
「で、いつ、どこで会う予定にしましょうか?」
「純さん。明日の仕事は何時に終わりますか?」
「そうですね。午後五時には終わります」
「では、明日の純さんが仕事が終わった後に会って頂けないでしょうか?」
今日、会って、また明日とは、早いものだと純は首を傾げた。
「で、場所はどこにします?」
駅の東口のロータリーの近くに喫茶店、××がありますね」
「ええ」
「あそこで会ってもらえないでしょうか?」
「わかりました」
そう言って純は、京子のアパートを出て、車で家に帰った。
家に着くと、純はすぐにノートパソコンを開けて、再度、「大磯でカシャ」の京子のビキニ姿の写真をしみじみと眺めた。それはあまりにもセクシーで美しく、いつまで見ていても見厭きなかった。純はシャワーを浴びて、パジャマに着替え、歯を磨いて、床についた。そしてまた京子のセクシーなビキニ姿の写真を眺めた。そうしているうちに純は今日一日、遊んだ疲れから、泥のように眠った。
☆ ☆ ☆
翌日になった。
純はいつもの通り、カジュアルな格好で、車で病院に出勤した。月曜は結構、外来が混むが、今日はそれほどでもなかった。医者なんて八百屋とたいして変わりない。と純は思っていた。し、実際そうである。慣れで、誰でも出来る仕事である。昼休みは、医師の全員は、医局でテレビを観ながらくつろぐのだが、純だけは、医局のテレビの音や医者同士の会話はうるさい雑音でしかなかった。それで純は昼休み、誰もいなくなった静かな診察室で一人カリカリと小説を書いていた。そのためもあって、また酒も飲めなく、人付き合いも苦手で、飲み会にも出ないため、純は親しい医者の友達があまりいなかった。
その日は、仕事が終わった後、京子と会うことが気になって、純は、そのことばかり考えていた。
五時になって仕事が終わった。純は京子に携帯で電話した。
「京子さん。いま、仕事が終わりました。今、どこにいますか?」
「喫茶店××にいます」
京子が小さく返事した。
「そうですか。それでは、急いでそちらに向かいます」
そう言って、純は携帯をきった。そして、車に乗って、急いで車を飛ばした。
☆ ☆ ☆
純は駅前の駐車場に車を停めた。そして、急いで喫茶店に入った。京子は、奥の窓際の席に座っていた。昨日と同じブラウスとスカートだった。
「いやあ。待たせてしまってすみません」
「い、いえ」
純は京子とテーブルを挟んで、向き合うように座った。
ウェイターが来た。純はアイスティーを注文した。京子もアイスティーを注文していたからである。京子のアイスティーは、半分くらい減っていた。かなり待ったのだろう。京子は何か今までになく緊張した様子だった。
「あ、あの。純さん。突然、呼び出してしまってごめんなさい」
そう言って京子はペコリと頭を下げた。
「いや。気にしないで下さい。僕は京子さんと会えるのが幸せなんですから」
純は笑いながら言った。京子は真剣な顔になった。
「純さん。昨日、純さんが、色々聞いてきたのに、答えなくってすみませんでした」
京子は深く頭を下げた。
「いやー。僕も無理に聞き出そうとしてしまって、すみませんでした」
「あ、あの。私、純さんが好きです」
京子は、あらたまった真剣な表情で純を直視して言った。
「そう言ってもらえると僕も嬉しいです。僕も京子さんが好きです」
純は微笑んで言った。
「でも・・・」
と言って京子はいいためらった。
「でも、何です?」
純は京子を促した。
「あ、あの。純さんは、バツイチの女なんて、嫌でしょう?」
純は京子が黙っていた理由がわかって少しほっとした。
「なあんだ。そんなことですか。バツイチだの何だのなんて、全然、気になりませんよ」
純は京子を慰めるように言った。
「でも・・・」
と言って京子は再びいいためらった。
「でも、何です?」
純は強気の口調で京子を促した。
「でも、連れ子がいたりしたら・・・絶対、嫌でしょうね」
京子が言った。
「いるんですか?」
これには純も驚いた。
「え、ええ」
京子が答えた。
「男の子ですか。女の子ですか?」
「お、男です」
「どうして離婚したんですか?」
「前の夫は、バーのホステスを好きになってしまって・・・」
「そうですか」
そう言って純はアイスティーを一口、啜った。
「なるほど。そのことで迷っていたんですか」
純は慰めるように言った。
「ダメですよね。こんな女と結婚なんて・・・」
京子は自分に言い聞かせるように言った。言って肩の荷が降りたように、ハアと溜め息をついた。
純は、気抜けした京子の顔を、しばし、じっと見つめた。そして重たい口を開いた。
「いや。そんなことないですよ」
純は自信に満ちた強い口調で言った。
「どうしてですか?」
瞬時に京子が聞き返してきた。京子はまくし立てるように続けて言った。純があっさり答えたのが疑問だったのだろう。
「どうしてですか?血のつながらない他人の子ですよ。純さんは、お医者様で、収入も社会的地位も高いですし。いいところのお嬢様か、女医さんと結婚するのが、ふさわしいのではありませんか。子供だって、当然、自分の子供が欲しいはずですよね」
「いや。そうとも限りませんよ」
焦っている京子に対し、純は落ち着いて話した。
「『人生の悲劇の第一幕は親子となったことにはじまっている』という、芥川龍之介の格言、知っていますか?」
「いえ。知りません。どういう意味ですか?」
京子は身を乗り出すようにして聞いた。
「つまり、自分の血をひいているから、子供は他人ではなくなるということです。子供は自分の分身、自分の所有物のような気持ちになりますよね。そこから、親の愛情がエゴとなり、子供は自分の思い通りに出来るものという親の驕りが起こります。自分の思い通りの人間にする資格がある。そして、そうならないと不快になる、という、いやらしいネチネチした関係になるということです。自分の物だという気持ちから、自分の思い通りにならないと、かえって嫌いになってしまいます。親のエゴの愛というものは。僕は、そういうドロドロした関係より、血のつながらない他人の子供の方が本当に愛せるからです。僕は生きることにドライですから、自分の血をひいた子供を、そして子孫を、残したい、という執着心がないんです。むしろ、逆に自分の血をひいた人間を死後に残したくないとさえ、思っているんです」
「ほ、本当ですか?」
京子は目を皿のようにして聞いた。
「ええ。天に誓って本当です」
純はニッコリ笑って言った。
「で、でも、あの子を気に入ってもらえるか・・・」
京子は不安げな様子だった。
「それは、僕も見てみたいですね」
「では、すぐに来るよう言いますわ」
京子は携帯を取り出すと、すぐに電話した。
「もしもし」
子供とつながったのだろう。京子は話し出した。
「ケンちゃん。今すぐ、駅前にある××喫茶店に来てくれない。タクシー使っていいから」
話し終わって、京子は携帯をきった。
京子は純に振り向いた。そして、真顔になって、重たそうに口を開いた。
「あ、あの。純さん。もう一つ言わなくてはならない事があるんです」
「何ですか?」
「前の夫は、事業を始めるから、銀行から融資を受けるため、資金が必要だと言いました。私は疑わず保証人になりました。しかし・・・」
「しかし、どうしたんですか?」
「夫は資金を、先物取引で膨らましてから、資金を大きくしようとしたのです。それを私は知りませんでした。でも・・・」
「でも、先物取引で失敗して、借金を作ってしまった、ということですね」
「ええ」
「それで借金はいくらあるんですか?」
「い、一千万円です」
純はニコッと笑った。
「わかりました。僕が払います」
「あ、ありがとうございます」
京子はまた目を潤ませた。
☆ ☆ ☆
やがて喫茶店の前にタクシーが着いた。京子は急いで、外に出て、財布から1000円札を数枚、取り出して、タクシーの運転手に渡した。京子は、男の子を連れて、喫茶店の中に入った。京子と男の子は、純と向かい合わせに席に着いた。
「あのね。ケンちゃん。この人はね・・・」
京子が息子を紹介しようとした時、男の子は、いきなり大きな声を出した。
「あっ。おにいさん」
男の子が純を見て言った。
「やあ。健太。君か」
純は笑顔で言った。
「えっ。知っているんですか?」
京子は戸惑った目を純と息子に交互に向けた。
「うん。前、野球を教えてくれる親切なおにいさんがいるって、言ったじゃない」
健太は母親に向かって元気に答えた。
純は健太をじっと見た。
「ははあ。健太。プロ野球選手になりたいのは、契約金と高額な年棒のためだな」
「う、うん」
「それで、お母さんを楽させたいと、思っていたんだろう」
「う、うん」
「親孝行だな。健太は」
純は笑顔で言った。
「よかったわ」
京子はほっとしたように胸を撫で下ろした。そして健太を見た。
「あのね。ケンちゃん。この方が私と結婚して下さると、おっしゃって下さったの。だからこの方が健太の新しいお父さんになるの」
「うわー。嬉しいな」
健太は満面の喜びで叫んだ。
「ケンちゃん。何がそんなに嬉しいの?」
健太があまりに嬉しそうにはしゃいでいるので京子が聞いた。
「だって、そりゃー。野球を教えてもらえるもん」
健太は無邪気に答えた。
「ケンちゃん。この方は、お医者様なのよ」
京子が言った。
「へー。そうだったんですか」
健太は興味深そうに純を見た。
「健太。じゃあ、これからは、今まで以上にみっちり野球を教えてやるからな」
純は笑顔で言った。
「ありがとう。おとうさん」
京子はニコッと笑った。健太が、もう純のことを、おとうさんと言ったからであろう。そして、純が息子と親しい仲だったことが、わかって、純と息子がうまくやっていけるかどうか、という心配が吹き飛んだからであろう。
純は真顔になってじっと京子を見つめた。
「京子さん。僕と結婚していただけないでしょうか?」
純は恭しくプロポースして京子の手をとった。
「あ、ありがとうございます」
京子の目頭は熱くなっていた。京子は思わず、ハンカチを口に手を当てた。
今度は京子が純を真顔で見返した。
「純さん。一言、いわせて下さい」
京子の口調は、急に真剣になった。
「何でしょうか?」
「純さん。私には確かに純さんが、お医者様で、収入が高い、という、よこしまな気持ちがあるんです。でも、でも、決して、お金目当て、だけではありません。私、本当に純さんを愛してるんです」
京子は訴えるように語気を強めて言った。
「ははは。そんなこと気にしないで下さい。そんなことで悩まないで下さい。僕は京子さんが僕を愛してくれていることを信じていますし、僕も京子さんを愛してます」
純は軽くあしらうように言った。
「あ、ありがとうございます」
そう言って、京子はまた目頭を熱くしてハンカチで口を押さえた。
☆ ☆ ☆
それから二週間後、近くの小さな教会でしめやかな結婚式が行われた。出席者はお互い、誰も呼ばなかった。純は派手な結婚式が嫌いだったからからである。そう提案すると京子も賛成した。
京子と健太は純のアパートに移った。純のアパートは、六畳が二間あり、ほとんど使っていない、ダイニングもあって三人暮らしにはちょうど良かった。
☆ ☆ ☆
結婚式の後の最初の日曜日。
純は朝、起きてから小説を書き始めた。昼食を三人で食べ、その後、三時まで一心不乱に小説を書いた。そして、三時から、息抜きも兼ねて、健太と公園でキャッチボールをした。健太は熱心で、丁寧に指導すれば、健太の野球の技術は、そうとう上手くなると純は確信した。
夕方近くまで、純と健太は熱心に野球の練習をした。
京子がやって来た。
「あなたー。健太―。もう夕御飯よー」
京子に呼ばれて、純と健太は家に戻った。
その日の夕食はビフテキだった。
「健太。これから野球はどうする。もう、プロ野球選手にならなくてもいいぞ。学費は出すから、一流大学に進学して、一流企業に就職した方が無難だぞ。どうする?」
純は健太に聞いた。
「僕、プロ野球選手になる」
健太は決然と答えた。
「どうして?」
「だって、一度、決めたことだもん」
純は微笑んだ。
「よし。俺も必ず小説家になってやる。どっちが夢を実現できるか、親子で競争だ」
そう言って純はビフテキを切って口に入れた。
京子が嬉しそうに二人を眺めていた。
平成23年10月11日(火)擱筆