小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

大磯ロングビーチ物語(上)

2015-08-31 13:43:11 | 小説
大磯ロングビーチ物語

「人生の悲劇の第一幕は親子となったことに始まっている」
(芥川龍之介)

それは夏のある日だった。
純は、総合病院に勤める内科医である。医学部を卒業して医師となり、今年で10年になる。前回、床屋に行ってから二ヶ月経ち、髪がだんだん伸びきて、わずらわしくなったので今日は床屋に行くことにした。だが、純は床屋が嫌いだった。それは純は髪が短くなると格好悪くなる顔型だったからである。自分で床屋に行った後で鏡を見てもそう思ったし、学校の時も友達に、髪を切った後は、「あーあ。格好悪くなっちゃったな」とからかわれた。だからこれは主観的な思い込みではない。純は以前は、散髪は中目黒にある、女だけの理容店にわざわざ、電車で一時間半かけて行っていた。どうせ髪を切るなら女に切って貰いたかったからである。しかし、歳とともに、だんだん面倒くさくなってきて、最近では、ほとんど家の近くの床屋で切ってもらっていた。
一年前から、最寄の駅の地下モールに料金一律1000円の床屋が出来た。純はそこに行くようになった。顔剃りもシャンプーもない。経費を最大限切り詰めた理容店である。カットも時間が短く、10分以内でテキパキと済ましてしまう。
純が行くと、二人の客が調髪椅子に乗って、男の理容師と女の理容師の整髪をうけていた。そこの床屋の調髪椅子は二台だけだった。客は、首から下をシーツで巻かれ、まるで、てるてる坊主のようである。客は二人とも老人の男である。純は自動販売機で1000円の領収書を買って座って待っていた。純はドキンとした。純は密かに思った。
「あの女の人に切ってもらえたらなあ」
それは純にとって熱烈な思いだった。二人の客の内、早く終わった方の理容師に切ってもらうことになる。二人の客の内、どっちが先に来たのだろう、と純は様子をうかがった。だが、よくわからない。
「女の理容師の方の客、早くおわれ」
と、純は祈るように願った。しかし、女の理容師の方の客は早く終わりそうな感じだった。
「あーあ。男の理容師になっちゃうのか」
と純はガッカリした。
「さあ。出来ました」
と男の理容師が客に声を掛けて背後で合わせ鏡を開いて頭の後ろの刈り具合を確認させた。男の客はちょっと、神経質そうに後ろ髪を見ていたが、
「もうちょっと、切ってくれないかね」
と男の理容師に言った。
「どこら辺を、ですか?」
「横をもうちょっと切ってくれ。私は横の髪が伸びるのが速いんだ」
「わかりました」
そう言って、男の理容師は、側頭部の髪を切り出した。純の心に、もしかすると女の理容師に切ってもらえるのではないかという一抹の希望が起こってきた。女の理容師が客の髪を切り終わって、
「さあ。出来ました。どうですか?」
と客に声を掛けた。そして背後で鏡を開いて後ろの刈り具合を確認させた。男は、
「ああ。いいよ。ありがとう」
と答えた。彼女は、吸引器を男の頭に当て、ズーと頭全体を吸引した。それがシャンプーのかわりだった。男は立ち上がって去って行った。純はドキンとした。
「さあ。次の方どうぞ」
彼女はそっけない口調で言った。
『やった』
純は思わず狂喜した。純は椅子に座った。これでもう、誰はばかることなく女の理容師に切ってもらえるのだ。わずか10分程度の時間ではあるが、純は女の優しさに餓えているのである。
「どのくらいにしますか?」
女の理容師が聞いた。
「全体的に2センチほど切って下さい」
「耳は出しますか?」
「耳は出さないで少しかかる程度にして下さい。それと揉み上げは切っちゃって下さい」
「後ろは刈り上げますか?」
「いえ。刈り上げないで下さい」
「はい。わかりました」
そう言って女の理容師は純の髪を切り出した。純は、女の理容師に髪を切ってもらう時は、女の顔は見ない方針だった。見ると、失望してしまう可能性があるからだ。純が求めているのは、女のやさしさという精神的なものだった。顔を見なければ、聞こえてくる声から、いくらで女の容姿を美しく想像することが出来た。だが純は勇気を出してチラッと前の鏡で彼女を見た。物凄い美人だった。純は以前、一度、彼女を見たことがあり、いつか彼女に髪を切ってもらいたいと、切実に思っていたのである。純は飛び上がらんほどに嬉しくなった。
その時、隣の男の客が終わった。吸引器でズーと頭を吸引した。
「使った櫛いりますか?」
男の理容師が聞いた。
「いや。いらん」
客は無愛想に答えた。そして立ち上がって去って行った。
男の理容師は床に散らばった髪を掃除機でズーと吸いとった。
「じゃあ、オレは、帰るから。30分くらいしたらD君が来るから」
「わかったわ」
そう言って男の理容師は店を出て行った。交代制でやっているようである。
店には女の理容師と純だけになった。
女の理容師はチョキ、チョキと手際よく髪を切っていった。
「あ、あの・・・」
純は勇気を出して声をかけた。
「はい。なんでしょうか?」
彼女は、カットする手を止めずに聞き返した。
「理容師と美容師の違いって何なんですか?」
「そうですね。いくつかありますが、一番大きな違いは、理容師は顔剃りの時、剃刀を使えますが、美容師は剃刀は使えないことの違いでしょうね」
「なるほど」
純はもっともらしく言ったが、その事は知っていた。
「あの。理容師の給料ってどのくらいなんですか?」
これはちょっと、ぶっきらぼうな質問だった。こんな質問は普通しないものである。
「時給、1000円で、月17万円くらいです」
「それではちょっと生活が苦しくないですか?」
「それは苦しいですわ。欲しい服も買えませんし、食費も、いつも出来るだけ節約するよう、スーパーが閉まる間際に行って、見切り品を買っています」
彼女は早口で言って、はー、と溜め息をついた。純がぶっきらぼうな質問をしたのには計算があった。1000円カットの給料が低いことは、ネットで調べて知っていた。だからきっと彼女は、生活が苦しいことを吐き出したいと思っていると、確信していたのである。
「車は持っているのですか?」
「持っていませんわ。とても車なんて買うお金ありませんもの」
「免許は持っているのですか?」
「ええ。18歳になった時、とりました。いつかは車に乗りたいと思っていましたので。どうせ、いつか取るんだから、早い内に免許とった方がいいと思って。それで表示価格10万円の車を買ったんです」
「その車はどうしたんですか?」
「友人に売りました。表示価格10万円と書いてありますけど、諸経費に10万円くらいかかりますし、それに激安の車は、色々な部分が古くなっていて、修理しなければならなくて、修理代も高いですし、ガソリン代や駐車代や自動車保険、自動車税なども合わせると、私の少ない給料では、とても維持できないとわかりました」
彼女は寂しそうに言った。
「そうですか」
「お客さんは車は持っていますか?」
今度は彼女が切り返して聞いてきた。話しているうちに彼女も気持ちが打ち解けてきたのだろう。
「ええ」
「車種は何ですか?」
「BMWです」
「うわー。すごいですね。じゃあ、お客さんは、すごい高収入なんですね」
「いえ。そんなことないです」
「あ、あの。お客さんのお仕事は何ですか?」
彼女はおずおずと聞いた。
「医者です」
「うわー。すごいですね」
「いえ。そんなことないです」
「そうですか。お医者様なんてすごいじゃないですか」
「そうでしょうか。世間では医者というと、すごいと言われますが、僕にはどうしても医者がすごい仕事という実感が沸かないんです。毎日、同じ事の繰り返しですし」
「お医者様って、みんな、そう思ってるんですか」
「他の人はどうか分りません。僕は小説家とか作曲家とか漫画家とか、そういう芸術家をすごいと思っています。佐々木さんは、どう思いますか」
純は彼女を、佐々木さん、と呼んだ。胸のプレートに、佐々木と書いてあるからである。
「私もそういう人達はすごいと思いますわ」
「医者と比べると、どっちの方が凄いと思いますか?」
純はちょっと意地悪な質問をした。
「・・・そ、それは・・・」
彼女は言い躊躇った。
「はは。やっぱり芸術家の方が凄いですよね。だって、医者なんて、いくらでもいますが、芸術家には並大抵のことではなれませんからね」
純は笑って言った。
「・・・・」
彼女は答えず、少し恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「でも、僕も少し小説を書いています」
「ええー。すごいですね」
彼女は、目をパチクリさせて言った。
「いや。たいした物じゃないですよ。プロでもありませんし」
「でも、すごいです。やりたい事を実行しようとする意志が。どんなジャンルの物を書いているんですか?」
「そうですね。ラブ・コメディー的なものですね」
「へー。凄いですね」
彼女は、一々、凄い、凄いと言う。
「じゃあ、よかったらホームページ見て下さい。岡田純、で検索すればすぐ出てきます」
「じゃあ、今日、家に帰ったら、さっそく読ませて頂きます」
彼女は活き活きと答えた。純は少し恥ずかしかった。純の書く小説はSM的なエロチックなものが多いからである。純の、ラブ・コメディーは、ラブ・エロティックと言った方がふさわしいようなものである。
「僕は推理作家の方が凄いと思っています。よく、あんな奇抜なストーリーやトリックを思いつけるなー、と感心しています。僕にはとても推理小説は書けません」
「でも、恋愛小説も難しいと思いますわ。男女の心の微妙な琴線を感じやすい人でなければ恋愛小説は書けないと思います」
彼女は、一々、もちあげる。
「では、今日のことも小説にしてもいいでしょうか?あなたをモデルにして」
「そ、それは構いませんわ。でも私なんかで小説のモデルになるのでしょうか?」
彼女は赤面して言った。
「おおいになりますとも」
「・・・・」
彼女は恥ずかしそうに顔を火照らした。彼女は鋏を持つ手もうわの空のようだった。ただジーとバリカンで後ろ髪の襟足を切るため、機械のように手を動かしていた。
「ああっ」
彼女は、突然、驚きの声を上げた。
「どうしたんですか?」
純が聞いた。
「ご、ごめんなさい。うわの空で、切っていたので、バリカンで頭の後ろをほとんど全部、切ってしまいました」
彼女は、急いで、開き鏡を持ってきて、純の頭の後ろで開いて、前の鏡に映させた。純もそれを見て驚いた。頭の後ろの部分がほとんど、芝生のように刈り上げられている。そういう変則的な髪型を好んでする若者もいるが、純には、それは全然、不似合いだった。極めて格好悪い。純もこれには焦った。
「ご、ごめんなさい。刈り上げないで下さい、と言われたのに、こんな事をしてしまって。一体、どうたらいいか。お詫びのしようがありません」
彼女はペコペコ頭を下げて謝った。彼女は、しばし思案気に顔をしかめていたが、
「ちょっと待っていて下さい」
と言って店を出た。彼女は、三分で戻ってきた。
「あ、あの。これで許していただけないでしょうか?これしか私には方法が思いつかないんです」
そう言って、彼女は五万円、差し出した。駅ビルの地下のカットハウスのすぐ近くには、コンビニがあり、そこのATMでおろしてきたのだろう。
「い、いえ。いいです。過ちは誰にでもありますから」
純は手を振った。月給17万円の彼女にとっては、五万は相当きついだろう、と純は思ったからである。
「で、でも。その髪型では・・・」
彼女はうろたえていた。彼女は責任をとろうと、どうしても譲らない。
「では、一つお願いしても、いいでしょうか?」
「はい。何でも」
「今度、あなたが都合のいい日に、一日、一緒に大磯ロングビーチに行ってもらえないでしょうか」
これは唐突な要求だった。だが彼女は、
「はい。わかりました」
と、純の突飛な要求を気軽に受けた。
「佐々木さん。いつが都合がいいですか?」
純が聞いた。
「明日、休みなので、それでいかがでしょうか?」
翌日は日曜である。
「ええ。明日でいいです」
「ありがとうございます。でも私なんかでいいんでしょうか?」
彼女は申し訳なさそうに言った。
「もちろんですとも。やったー。夢、実現!!」
純は叫んだ。
「実を言うと僕は、以前、あなたを一度見てから、あなたに憧れていたんです。一度でいいから僕はあなたと大磯ロングビーチに行きたいと思っていたんです」
「・・・・」
彼女は赤面した。
「あの。この髪型では、ちょっと都合が悪いので、いっそのこと、五分刈りの丸坊主にしてもらえないでしょうか?」
「よろしいんでしょうか?そんなことして」
「ええ。かまいません。髪なんて、また伸びてきます。別に死ぬわけじゃなし。丸坊主にすれば、稲のように全体がバランスよく、伸びてきますから」
この場合、それしか他に方法がない。そのことは、彼女もわかっているはずである。
彼女は、納得したように、純の髪をバリカンで刈りだした。
すぐに純は坊主刈りになった。
「いやー。さっぱりしたな。夏ですからね。坊主刈りはサッパリします。僕は中学、高校と坊主刈りが校則の学校で過ごしましたから、なんだか昔にもどったような気分です」
純は鏡を見ながらそんなことを言った。だが彼女は、申し訳なさそうな表情である。額が広い人は、坊主刈りでも結構、さまになるのだが、彼は額が狭く、坊主刈りでは、明らかに見栄えが悪くなった。それを察するように彼女は、
「すみませんでした」
と小さな声で謝った。
彼女は純の頭を吸引器で、ズズズーと吸った。そして、シーツカバーをとった。これで散髪が終わった。純は立ち上がった。
「あ、あの。携帯、持ってますか?」
「ええ」
彼女は答えて、ポケットから携帯電話を取り出した。
「あの。僕の携帯番号とメールアドレス、入力させてもらってもいいでしょうか?」
「ええ」
彼女は小声で答えて、純に携帯電話を渡した。
純は携帯電話を受けとると、ピピピッと操作した。
「はい。僕の携帯番号とメールアドレスを登録させてもらいました」
そう言って純は携帯を彼女に返した。
「あの。純さんの携帯にも私の携帯番号を登録させて貰えないでしょうか?」
「ええ」
純はポケットから携帯電話を取り出した。
彼女は携帯電話を受けとると、ピピピッと操作して純に渡した。
これでお互いに連絡がとれるようになった。
「では明日の朝、迎えにうかがいます」
純はニッコリ笑って言った。その時、一人の男が慌てて入ってきた。
「やあ。佐々木さん。遅れてしまってすみません」
男はハアハアと息を切らしながら言った。
男は丸坊主の純をチラリと一瞬、見た。純は、この男に以前、二回髪を切ってもらったことがあった。
純は、何もなかったように装うように、そそくさとカットハウスを出た。
純は、店を出た後、しゃがみ込んで靴の紐を結ぶ仕草をしているように見せかけて、聞き耳を立てた。耳に神経を集中した。
「今の人、今日は坊主刈りって言ったの?俺、あの人、二回カットしたことがあるけど、二回とも、全体的に2cm切って下さい、って言ったよ」
「な、夏は暑いから、坊主刈りにして下さいって言ったの」
「ふーん。そう。でもあの人、額が狭いから坊主刈りは全然、似合わないね」
そんな会話が聞こえてきた。
純はすぐに立ち上がって、早足に地下を出た。
自転車に乗って、アパートに帰ると、純はすぐに、携帯を開けてみた。さっそく彼女からのメールが来ていた。名前は佐々木京子と書かれてあった。携帯番号とメールアドレスの他に、住所も書かれてあった。藤沢市××町××荘と書かれてある。純は、嬉しくなって、すぐ地図を開いて、彼女の家を調べた。純は、すぐに返事のメールを書いた。
「佐々木京子さん。今日はどうも有難うございました。明日は、車で迎えにうかがいます。何時がいいでしょうか。岡田純」
そう書いて純はメールを送った。
すぐに彼女からメールが返ってきた。それには、こうかかれてあった。
「何時でもいいです。今日はすみませんでした。明日は楽しみにしています。佐々木京子」
純は小躍りして喜んだ。結構、彼女も純に好意をもってくれているように思われたからである。
純は用心深いので、急いで車に乗って、カーナビに京子の住所を入力し、京子のアパートに向かった。20分で京子のアパートに着いた。あまりきれいとはいえない。築年数がかなり経っているだろう。裏は雑木林で寂しい所である。表札には、「佐々木」とだけ書かれてあった。
純は、踵をかえして帰ろうとした。その時。一台の車がやって来て、一人の女性が、降りた。彼女は、京子の部屋をドンドンドンとノックした。
「佐々木さーん」
彼女は、大声で呼んだ。だが返事がない。
「居留守じゃないみたいね。仕方ないわね」
そう言って、何か紙をポストの中に入れた。
「あ、あの。その部屋の人に何か用ですか?」
純が聞いた。
「あなたは誰ですか?」
彼女は訝しそうに純を見た。
「ここの人とちょっと、縁のある者です」
「どんな関係ですか。兄弟とか親戚ですか?」
「ま、まあ。そんな所です」
「じゃあ、言ってもいいでしょう。私はこのアパートの不動産屋の者です。彼女は、家賃をもう10ヶ月も支払っていないので、その催促に来たのです。今回も払えなかったら、もう出て行ってもらおうと思っているんです」
「滞納分は、いくらですか?」
「家賃は月、三万円ですから、合計30万円ですわ」
「では僕が払います。手持ちには無いので、近くのコンビニまで行きましょう」
「わかりました」
彼女は車に乗った。純も自分の車に乗った。
彼女はエンジンをかけて車を出した。純はその後を追った。
少しして、コンビニが見えてきた。彼女は車を左折してコンビニの駐車場に入った。純も左折してコンビニの駐車場に入った。純はコンビニに入ってATMの前でピピピッと操作して金をおろした。
「はい。60万円です。今までの滞納分と、これから10ヶ月分の家賃です」
そう言って、純は女の人に60万円、渡した。女性は銀行員のように札束をパラパラとめくり、それを三度繰り返して確かめた。
「確かに60万円受け取りました」
「領収書を下さい」
「はい」
彼女は、領収書に、「佐々木京子様。×月~×月までの家賃30万円と、これから先の10ヶ月分の家賃30万円、受け取りました。××不動産」と書いて、印鑑を押して、純に渡した。純はそれを受け取ると、
「それでは、さようなら」
と言って、車に戻り、駐車場を出た。

帰りの道で、純はバッティングセンターに寄った。
「やあ。いらっしゃい。めずらしいですね。坊主刈りにしたんですね」
バッティングセンターの親爺がニコニコしながら言った。
「ええ。暑いものですから」
そう言って純は、バッティングを始めた。
純は子供の頃から野球が好きだった。中学では野球部に入った。子供の頃から野球をやっていたので、技術が高く、ピッチャーで四番だった。中学の時、ストレートは、すでに100km/hを越していた。だが人をまとめることが苦手で、一人で黙々と努力するタイプだったので、三年になってもキャプテンにはならなかった。県大会でも優勝した。これも、ひとえに純の剛速球と四割を超えるバッティングのおかげである。中学三年の夏が終わると、純は、将来はプロ野球選手になろうかと、本気で考え出すようになった。そのためには、甲子園に出場回数の多い野球の強豪校に進むのが、当然、有利だった。しかし純は、学科の成績もよかった。何事に対しても熱心なのである。迷いに迷ったあげく、純は、家から通える近くの高校に進学した。ここは、進学校だったが、野球部も、レベルが高く、過去、数回、甲子園にも出場していた。純は野球部に入った。中学時代同様、一年で、エースとなった。二年の時は、地区予選で、決勝まで勝ち進んだが、惜しくも敗れ、甲子園出場の夢は叶わなかった。この学校では甲子園出場は無理だと思った。この頃から、将来は、プロ野球選手ではなく。国立の医学部に入ろうと志が変わっていった。それで一心に受験勉強に打ち込むようになった。そのため野球部の練習量は減っていった。三年の夏も、準決勝で落ちた。これでもう、プロ野球選手の夢はあきらめた。しかし、地区予選を見ていた地元のプロ野球の球団のスカウトマンの目にとまっていたのである。純はドラフトで三位で、指名された。これには、驚き、また、喩えようもなく嬉しかった。しかし、模擬試験では、国立の医学部に入れるほどの成績にもなっていた。迷った挙句、純は、医学部に落ちたら、六大学野球の大学に進もうと思った。しかし、幸運にも医学部に合格できたのである。純は合格した医学部に入学した。プロ野球選手になっても、一軍の一流選手でいられるという保障はない。さらに、プロ野球選手は、運よく長く活躍できても20歳から40歳までの20年間である。賭けである。それに比べれば、医者は70歳を超えても、一生できる。もちろん、医学部に入学した純はもちろん野球部に入った。だが、二年の時、腓骨を骨折して、しばらく部活が出来なくなってしまった。そんな時、文芸部の友人に、文集をつくるから、何か書いてくれないか、と頼まれた。純は、高校の時の思い出を書いた。何事にも熱心なので、丁寧に書いた。文芸部の友達は、面白い、君には文才がある、と誉めてくれた。純は嬉しかった。文芸部の友達は小説を書いた。純も小説を書いてみたくなって、短い小説を書いた。純は何事にもハマッてしまう性格なのである。いくつか、小説を書いているうちに、だんだん、小説を書くことにハマッてしまった。野球より小説を書く方がはるかに面白くなった。野球部は、退部はしないが、所属しているだけにして、試合の時だけ出て、他の時間は小説を書くようになった。将来は小説家になろうとまで決意するようになった。そして医学部を卒業して、医者になり、休日は、一日中、小説を書くような生活になった。幸い、バッティングセンターが近くにあったので、息抜きに一日一回は、行って、ボールを打った。
「こんにちは。おにいさん」
声をかけられて純は後ろを振り返った。
「やあ」
健太だった。このバッティングセンターの裏には小学校があって、健太は、野球部だった。健太もバッティングセンターに、しょっちゅう来ていたので、純と顔見知りになっていた。健太は子供の頃から野球が好きで、将来はプロ野球選手になりたいと本気で思っていた。純は健太に正しいバッティングフォームを教えてやった。だんだん親しくなっていった。純は、近くの公園で、健太とキャッチボールをして、正しいストレートの投げ方や、スライダー、カーブなどの変化球の投げ方も教えてやった。
「この前の対抗試合、五割打って、勝ちました」
健太が言った。
「ははは。それは凄いな」
「おにいさんが教えてくれたおかげです」
そう言って健太はペコリと頭を下げた。
「いや。君が努力して練習したからさ」
健太はニコッと笑って、バッターボックスに入った。健太は、90km/hのボールを、ほとんど全部、芯でとらえて、きれいに打った。赤ランプが消えて、ピッチングマシンが止まった。
「もうちょっと、脇をしめた方がいいな」
純がアドバイスした。
「はい」
健太は、ペコリと頭を下げた。
健太は、200円、入れた。赤ランプがついて、マシンが動き出した。
「じゃあ、僕は今日は、もう帰るから」
そう言って純は立ち上がった。
「また、時間のある時、変化球の投げ方、教えて下さい」
「ああ。いいよ」
そう言うと、純は踵を返し、バッティングセンターを出て、家に向かって車を出した。


帰りにコンビニに寄って、弁当を買った。純の買う弁当はいつも同じである。398円の幕の内弁当で、ハンバーグ、鮭、コロッケ、エビフライ、卵焼き、ソーセージ、ひじき、が少ない量であり、あとはご飯である。純は家にもレンジがあったが、いつも温めてもらっていた。740kCalと書かれている。純は、大学を卒業しても体力を衰えさせないためテニススクールに入っていた。野球は土日しか出来ない。という制限がある。しかし休みの日はどうしても一日中、小説を書きたい。近くにあるインドアのテニスクラブなら、雨の日でも、夜遅くでも、好きな時に自分の都合のいい時間に出来る。さらに、もはや出来るようになっている野球より、まだ出来ない未知の運動を身につけたいという進取の精神も純にはあった。純は熱心にテニスを練習し、どんどん上手くなっていった。しかしテニスをしているんだから、運動しているんだから、と思って食生活は、いい加減になっていた。甘い物や果物や焼き肉など好きな物を腹一杯食べていた。しかし、そんなことでは、駄目で、体調が悪くなり、恐る恐る体重計に乗ってみたら、標準体重より3kgも増えていた。これではまずいと純は、少しウェートを落とそうとダイエットすることにしたのである。昼に、この幕の内弁当一食と、晩はカロリーメイト一箱と、0kCalの寒天ゼリーが純の食生活の習慣になっていた。純は万年床に寝転がって、幕の内弁当をゆっくり味わいながら食べた。その時、携帯の着信音が鳴った。京子だった。
「じゅ、純さん。今日はどうもありがとうございました。少し前に仕事が終わって、家に着きました。家賃滞納の催促状がポストの中にあったので、不動産にお詫びの電話をしたんです。そしたら、見知らぬ男の人が滞納分30万円と、さらにこれから先の、10ヶ月分の家賃を払ってくれた、と言いました。私がどんな人ですか、と聞いたら、五部刈りの人だと言ったので、純さんに間違いないと思いました。本当にどうもありがとうございました」
「いえ。いいです。気にしないで下さい」
「いえ。払います、払います、と言い続けて、もう今回滞納したら、出て行くことまで約束していたんです。本当に困っていたんです。五部刈りにしてしまった上、家賃まで払っていただいて、本当にありがとうございました」
「はは。気にしないで下さい。明日は楽しみましょう」
いささか金持ちが貧乏人を憐れんで優越感に浸っているような気がして純は自己嫌悪した。

自分は医師である。医者の給料は、いい。医師になるには、青春を犠牲にして、勉強、勉強の毎日で、医学部に入り、医学部の勉強量も並大抵ではない。それをしてきて医者になったのだから、誰にも何も言われる筋合いはない。とは純は思っていなかった。
純は絶えず何か目標に向かって、一心に努力していないと罪悪感さえ起こる性格だった。楽しみのためテレビを見ていてさえ罪悪感が起こった。純が医学部に入ったのは金のためではない。病人を救おうという崇高な目的でもない。どうせ大学に行くなら、一番難易度が高い国公立の医学部にしようと思った。のが動機である。純は理系人間で、英語、数学、理科が得意だった。医学部に行くということは医者になることを意味していたが、純にはあまりその自覚はなかった。しかし大学二年の時、文芸部の友人と親しくなって、小説を書き出してから、小説を書くことにハマッてしまい、それ以来、純は今日にいたるまで小説を書き続けてきたのである。それは何も無理して根性で続けているわけではない。純は、内向的な性格で人付き合いが苦手。現実より自分の夢想の世界を楽しむのが好き。デリケートで表現するのが好き。他人と一緒に何かをするより、一人でコツコツと何かをする方が好き。とくれば、小説家に向いた性格そのものである。創作したいというのは純の潜在意識の中に、それ以前からあったのだ。それをもっと早く自覚して決断していれば、よかったと純はつくづく後悔した。出来たら小学生の頃から。そうすれば純の人生は変わっていたかもしれない。


純は運動用ズボンとシャツを着て、車で市民体育館のトレーニングジムに行った。ここは300円で、朝9時から夜の9時まで、トレーニングが出来る。
『今日は三時間やろう』
そう思って純はトレーニングを始めた。トレーニングを始めた頃は、単調で面白くなかったが、二時間なり、三時間なり、時間を決めてやれば、結構つづけられるようになった。少し前に、座って、体を左右に捻るマシンが入り、それは、腹筋をあまり疲れずに鍛えられるので、やりがいがあった。純はそれをメインにしてやり、他に背筋や上腕筋、大体筋、などを鍛えた。そして、ランニングマシンで4km走った。走った、というより、時速6.5km/hなので、速めのウォーキングである。その後マットでストレッチをした。純は筋力も持久力もあまりなかったが、体は柔らかかった。マシントレーニング、ランニング、ストレッチを繰り返しているうちに、三時間はすぐに経った。純は市民体育館を出て、家にもどった。途中でコンビニでカロリーメイト一箱とカロリーゼロの寒天ゼリーと野菜ジュースを買った。それが純の今夜の夕食だった。カロリーメイトは400kCalで、400kCalならもっと何か、牛肉豆腐とか、蕎麦とかでも同じカロリー数で、食べられるが、何となくカロリーメイトの方が、消化がいいように感じられたのである。

純は寝転がってカロリーメイトを食べながら、村上春樹の小説を読み出した。純は以前、村上春樹の本を読んだことがあるが、あまり面白いとは感じられなく、それ以後、読まなかった。しかし、図書館でリサイクル図書として、「神の子はみな踊る」という阪神淡路大震災から、震災をヒントにした小説集をたまたま読んで、その文体を気に入ってしまったのである。これは、自分の小説創作の勉強になると思い、村上春樹の小説を読み出したのである。純は長編ではなく短編を読んだ。短編の方が、長編より小説創作の勉強になるからである。村上春樹は、長編にせよ、短編にせよ、シュールである。ノーベル文学賞候補にも上がった、とか、外国の大学で文学部の教授をしたとか、世界各国で翻訳されているなどと、その文学の評価は高い。日本でも、人気があり、ベストセラーになったものもある。しかし、村上春樹は、賛否が分かれている作家でもある。好きな人もいれば、嫌う人もいる。純は村上春樹を基本的には好きになった。文体がしっかりしているからである。文体がしっかりしている作家というのは、作品を手抜きしないで書いているという点で、誠実だと思っているからである。小説を読んで、それなりに読み応えという腹もふくれる。しかし、起承転結のうち、「結」が無い。読んでいる内に、どういう結末になるのか、期待する気持ちが起こってくるが、「結末」が無い。どの小説でもそうである。阿部公房もシュールな作家であるが、阿部公房に批判者はいない。それは聞いたことがない。それは阿部公房が小説を書くことに於いて、手抜きしないで、思考の限界で書いていて、それが伝わってくるからである。阿部公房の小説は、「意味に至る前のある実体」であり、「無限の情報を持った一つの世界」であり、「大意を述べることが出来ない」小説である。しかし、村上春樹の小説は、大意を述べることの出来る小説も多い。たとえは、「眠り」という、眠れなくなった歯科医の妻が、眠れないので夜中にトルストイの本を読む、という短編があるが、あの小説では、「大意」や「意味」が簡単に言える。つまり、それは、「結婚生活が長く続くことによる現実のマンネリ化に嫌気がさして、若かった頃のように、小説を一心に読むことで充実して生きていた昔の自分にもどりたくなった女の話」と、簡単に「大意」を述べられる。他の小説でも、もどかしげでも、読んでいるうちに、「大意」、つまり、「何を言いたいか」が分るものが多い。文章を書くことについては誠実だが、内容は、軽い気持ち、や、思いつきで書いているように感じられ、はたして文学的価値がノーベル賞に値するほどのものか、と純は疑問に思っている。村上春樹は、日本文学は読まず、カフカのように、ノーベル賞候補になったようなシュールな外国文学ばかり読んでいて、それに影響され、文体を持っていたから、読者の腹を満足させることが出来て、日本という国籍に関係なく普遍的、抽象的だから外国人にも人気がある小説が書けただけに過ぎないのでは、とも純は思っていた。そして、読者は、シュールな小説を読むことに自分の読書能力の高さに満足感を得るものである。ただ村上春樹に、狡猾さはなく、自分の書きたい感覚的なものが、うまい具合に読者の要求に合った、と純は思っていた。純は村上春樹の文学を、そのように解釈していた。だが、長編では、村上春樹が、表現しようと思っている感覚的なものには、何か文学的価値があるのかもしれない、とも思っていた。どうして表現したいと強く思うものが無くて長編小説が書けよう。純は自分に解らないものは、すぐに否定しない誠実さは持っていた。

純は村上春樹の小説を30ページほど読むと、附箋を読んだところに貼った。時計を見るともう、11時だった。純は歯を磨き、パジャマに着替え床に就いた。目覚まし時計は7時30分にセットした。すぐに睡魔が襲ってきて純は眠りについた。

   ☆   ☆   ☆

翌日。
アラームのけたたましい音によって純は目を覚めさせられた。7時30分だった。純は、スポーツバッグに、水泳用トランクスと水泳帽とゴーグルと、タオルとコパトーンを入れた。そして京子に電話した。
「もしもし。京子さん」
「はい」
「おはようございます。今からうかがいます。よろしいでしょうか?」
「はい」
純はジーパンに半袖シャツで、スポーツバッグを持って車に乗った。空は雲一つない晴天である。吸い込まれそうな無限の青空の中で、早朝の太陽が今日も人間をいじめつけるように、激しく照りつけていた。昨日の天気予報では、今日の降水確率10%の晴れ、であった。

純はエンジンをかけて車を出し、京子の家に向かった。暑いためクーラーを全開にした。京子のアパートが見えてきた。薄いブラウスにフレアースカートでサンダル履きの京子が、バッグを持って純を待っていた。純を見つけると京子は笑顔で手を振った。純も笑顔で手を振った。純は京子の横に車をとめてドアを開いた。
「おはようございます。純さん」
「おはよう。京子さん」
「うわー。BMWですね。凄いですねー」
純は、ははは、と笑って、ドアを開いて京子を助手席に乗せた。
「純さん。昨日は、滞納している家賃を払って下さって本当に有難うございました」
京子は丁寧に言って頭をペコリと下げた。
「いえ。いいんです。お礼は一回言えば十分です。もう忘れて下さい」
純はエンジンをかけた。
「それじゃあ、行きましょう」
そう言って純はアクセルを踏んで車を出した。
「暑いですね」
純は運転しながら言った。
「ええ。そうですね」
京子が相槌をうった。
少し行くとコンビニが見えてきた。
「何か冷たい飲み物を買ってきます」
そう言って純は、コンビニの駐車場に車をとめて、コンビニに入って、オレンジジュースを二缶買って、車に戻ってきた。そして一つを京子に渡した。
「あ、ありがとうございます」
京子はペコリと頭を下げた。
純は、缶を開けて、ゴクゴクとオレンジジュースを飲んだ。京子も、純と同じように缶を開けて、ジュースを飲んだ。
「いい車ですね」
京子が、柔らかいシートに深くもたれかかりながら言った。
「いやあ。そんなことないですよ。もう6万キロも走っている中古車ですから」
純は、京子が車の免許は持っているが、車は持っていないことに気がついた。
「京子さん。よかったら、運転してみませんか?」
「えっ」
京子は一瞬、たじろいだ。
「京子さん。運転したいでしょう。免許を持っていても車を持ってない人は運転したがっているはずです。そうでしょう」
「え、ええ」
京子は小声で少し頬を紅潮させて遠慮がちに答えた。
「じゃあ、席を交代しましょう」
そう言って、純は車から降り、助手席のドアを開けて、京子を降ろし、京子を運転席に移して、ドアを閉め、自分は助手席に乗ってドアを閉めた。そして、カーナビを操作して、目的地を大磯ロングビーチに設定した。
「では出発して下さい」
「大丈夫かしら。もし万一事故を起こしてしまったら大変です」
「はは。大丈夫ですよ。僕が、人間カーナビになりますから」
純はゆとりの口調で言った。
「で、では。運転します」
そう言って彼女は、そっとエンジンキーを回した。エンジンがブルブルと力強く振動しだした。彼女は緊張した面持ちでハンドルをギュッと握りしめた。
「で、では、発車します」
そう言って彼女は、サイドブレーキを降ろし、ハンドルをきってアクセルペダルをゆっくり踏んだ。
車が動き出した。知った場所で、以前に運転していたこともあるので、彼女の運転は何の問題もなかった。
国道一号線に出て、少し走った後、西湘バイパスに入った。
「あとは、大磯西出口まで一直線です」
車は、ポツン、ポツンと少なく、二車線の高速道路は、気持ちよく空いている。
「運転するの、久しぶりだわ。しかもBMWなんて。ああ。最高に気持ちいいわ」
そう言って彼女はアクセルペダルをグンと踏んだ。車がググーと加速した。
相模川を渡った。相模川を渡ると神奈川県の西である。もうあと10分程度である。左には相模湾の海が広がっている。
大磯西出口の標識が見えてきた。彼女はスピードを落として、右折して高速道路を出た。
もう目の前は、大磯ロングビーチである。9時開館で、今は8時50分で、まだあと10分時間があるが、駐車場には、もう何台もの車が並び、入場客がチケット売り場の前に並んでいる。京子は、スタッフの誘導に従い、車を止めた。そしてエンジンをきって、サイドブレーキを引いた。
「どうもありがとうございました。久しぶりに運転できて気持ちよかったです」
そう言って、京子はエンジンキーを抜いて、純に渡した。
純は微笑んでキーを受けとった。
二人は、それぞれバッグを持って、入場客の列の後ろに並んだ。
「あっ。京子さん。水着はもってきましたか?」
純は思い出したように聞いた。
「ええ」
「ビキニですか?」
「い、いえ」
「では、どんなのですか?」
純は、興味津々の目つきで、京子のバックを覗き込もうとした。
「普通の競泳用の水着です」
「では、ワンピースですね」
「ええ」
純は顔をしかめた。
「それはよくありません。ここでは女の人はみんな、ビキニですよ。売店でビキニを売っていますから、ビキニを買いましょう」
「ええっ。ビキニですか?」
京子は困惑した口調で言った。
「どうしたんですか?」
「は、恥ずかしいです」
彼女は顔を赤らめて言った。
「それは逆ですよ。女の人は、みんなビキニですから、一人だけワンピースだとかえって、目立っちゃいますよ」
「そうですか?」
彼女は半信半疑の様子だった。
彼女は、夏の大磯ロングビーチに来たことがないのだろう。
その時、正面の時計が9時をさした。切符売り場の窓が開いて、客達は切符を買って、ビーチの建物に入り出した。純と京子も、それぞれ3500円の大人一日券の切符を買って、ビーチの建物に入った。
建物の中には、南国風の売店があり、色とりどりの水着がたくさん並んでいる。純が言った通り、全部セクシーなビキニばかりである。
「さあ。京子さん。どれがいいですか?」
純に聞かれ、京子は顔を赤らめた。京子は、しばらく恥ずかしそうに水着を選んでいたが、なかなか決められない。
「もう。京子さん。それじゃあ、僕が選びます」
純は、じれったそうに言って、ピンク色の揃いのビキニをとって、レジに持っていって買った。
「はい。京子さん」
そう言って純は京子に、買ったビキニを渡した。
「あ、ありがとうございます」
京子は恥ずかしそうに礼を言った。

純は京子と手をつないで、芝生をわたって、更衣室のある本館に入った。本館の建物の前には、注意事項が書かれた看板が立っていた。それには、こう書かれてあった。

「飲酒されている方。暴力団関係の方。刺青をされた方、の入場を禁止します。
(注)なお入場客の女性達をジーと見る男一人の方の入場は控えてください。女性達が怖がりますので」

以前は、飲酒と、暴力団と、刺青の客の禁止だけだった。だが、純が前回、行った時から、四つ目の注意事項がつけ加えられるようになったのである。これは、明らかに純に対するあてつけだった。純は、大磯ロングビーチが開く七月から、客がたくさん来る土日は、毎回、行っていた。客は多いが、男一人は純だけだった。純が大磯ロングビーチに行くのは、泳ぎに行くためでもあったが、ビキニの女性を見るためでもあった。純はビーチのビキニの女は全員、見て回った。そして、気に入った女性が見つかると、そのセクシーな姿を頭に焼きつけるようにジーと眺めていたのである。できるだけ相手に気づかれないように、しかし、できるだけ近くで。前々回、行った時、純が、一人の綺麗なビキニ姿の女性の胸や尻を、食い入るように見つめていると、パッと女性と目が合ってしまったのである。純は急いで目をそらした。しかし、女性は急いでプール監視員のところに走っていった。そして、純を指差してボソボソと監視員に何かを告げた。監視員は純をジロリと厳しい目で見ると、おもむろに純の所にやって来た。純は逃げようかと思ったが、蛇ににらまれた蛙のように竦んでしまった。
「お客さん。あんまりジロジロとビキニの女性を見るのは控えていただけないでしょうか。気味が悪いという女性がいますので」
それは小麦色に焼けた体格の逞しい監視員だった。
「は、はい」
純は、おどおどした口調で答えた。だが、それは脳天を刺し抜かれるようなショックだった。すぐに立ち去りたかったが、それはかえってばつが悪いし、目立ってしまう。純は、きれいなクロールで長時間、泳げたので、シンクロプールに行って、一時間ほど泳いでから帰った。しかしこれはショックだった。これからは大磯ロングビーチに行きにくくなる。純にとって、夏の大磯ロングビーチは、小説創作の次に、大事なほどの、生きがいであった。純は目の前が真っ暗になった。ほとんど、うつ病に近くなった。翌週の土日は、大磯ロングビーチには行けず布団の中で寝たきりで落ち込んで過ごした。その次の週の土曜日、純は勇気を出してロングビーチに行ってみた。純は泳げるので、泳ぐために自分は行っているのだと思わせるためだった。女性はもう、あんまりジロジロ見ないことにした。だが、注意事項に、
「(注)なお入場客の女性達をジーと見る男一人の方の入場は控えてください。女性達が怖がりますので」
という一行がつけ加えられていた。それを見た時、純は、脳天を突き刺されるようなショックを受けた。シンクロプールへ行く時、前回、注意した監視員が純を見て、ニヤッと笑った。純はひたすら泳いだ。もう今年の夏は、大磯ロングビーチには、行くのはやめようと思った。
だが、今回、純は得意だった。京子という絶世の美女と一緒なのである。前回のリベンジが出来る。

純と京子は更衣室とロッカーのある本館に入った。客はまだあまりいない。
「それじゃあ、着替えましょう」
男性更衣室と女性更衣室の前で、二人は別れた。純は、慣れているので、すぐにトランクス一枚になって、バッグに洋服を詰め、更衣室を出てきた。京子はまだいなかった。純は胸をワクワクさせながら京子が出てくるのを待った。五分くらいして、京子が女子更衣室から出てきた。
「は、恥ずかしいです」
京子は横紐のピッチリのビキニである。京子は人目を気にしてソワソワしているような様子だった。
「似合ってますよ。京子さん」
純は笑いながら言った。
「は、恥ずかしいです。何だか裸になったみたいな感じです」
確かに、ビキニは女の体を僅かに覆うだけの物であり、女の体の隆起をあられもなくクッキリと浮き出してしまう。
「京子さん。ビキニ着るの、初めてでしょう」
「え、ええ」
京子は顔を赤らめて言った。
初めてビキニを着た女が恥ずかしがるのは当然のことである。ブラジャーとパンティーで、町の中を歩くようなものであるのだから。
「でも、そのうち、慣れてきますよ」
純と京子は本館を出た。雲一つない夏の青空を純は思わず見上げた。客はまだ、パラパラとまばらである。二人は並んでビーチサイドを歩いた。
その時、向こうから、以前、純を注意した監視員がやって来た。監視員は純を見つけるとニヤリと笑った。純はジロリと監視員をにらみつけた。監視員は、すぐに純の横を歩いているセクシーなビキニ姿の京子に目を移した。その抜群のプロポーションとセクシーなビキニ姿に、監視員は、あっけにとられたように、立ち止まって見入った。
京子は、裸同然の姿をジロジロ見られて、怖くなったのだろう。
「こ、こわい」
と言って、すぐに純の背中に回って、純の手をギュッと握った。
「おい。あんた。監視員が客の女をジロジロ見るのはいいのかよ」
純は叱りつけるように叱りつけた。
「す、すみません」
監視員は、真っ赤になって、(といっても日焼けしているので茶色なので)、真っ赤茶になって、小走りに去って行った。
純は大得意だった。純は心の中で、勝ち誇った。
『ざまあみろ。てめえらなんぞ、時給1000円の、アッパラパーの頭カラッポどもじゃねえか。小麦色に日焼けしていているのもバカの象徴だぜ。泳力だってオレの方が遥かに上だぜ』
と純は、心の中でカラカラと高笑いした。

純は大得意だった。純は大磯ロングビーチの監視員が嫌いだった。偉そうな態度で、プールの休憩時間にちょっとでも、プールの縁でふざけたり、足を入れただけでも厳しく叱りつける。事故が起こらないようにとの細心の思いからだろうが、いつの間にか厳しく叱っている内に自分が権力欲を満喫するようになってしまっているのである。もし純が監視員だったら、少年達が休憩時間にふざけていたら、「ボクたちー。ふざけちゃダメだよー」と笑顔で優しく注意しただろう。彼らはまさに権力を傘にきた警察官そのものだった。休憩時間には、誰もいないプールに監視員の特権を見せつけるようにザブンと入って悠々と泳ぐのも癇に障った。しかし、今回、監視員を叱りつけてやり、京子という絶世の美女を連れてきたことで、これからは何の躊躇もなく堂々と大磯ロングビーチに来ることが出来るようになった。そう思うと純は、大声で笑い出したいほどの爽快な気分になった。

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