武道雑感
ドラゴンへの道
ブルース・リーの映画の中では、「ドラゴンへの道」が、一番良く出来ている。
ラストで、リーが黄仁植とボブ・ウォールと、コロシアムの前で戦う場面がある。
二人はチャック・ノリスほどの技量はないが、相当の腕である。
黒帯に近い。
ブルース・リーは、、ボブ・ウォールには、情け容赦ないが、同じ東洋人という事でか、黄仁植には、武道家として敬意を払っている。
しかし、ボブ・ウォールと黄仁植ではあの映画の時点では、ボブ・ウォールの方が、武術家として、優れている。
それは、ボブ・ウォールが、一つの策略を完成させているからだ。
ボブ・ウォールの策略とは、リード足の連続蹴りで、自分は安全で、相手にダメージを与える。そして、相手が、パンチを打ってきた時、その腕をトラップして、膝を梃子にして、相手を倒し、とどめのパンチを打つ、という、一つの完成された策略である。
ボブ・ウォールは、この戦い方しか、使わない。しかし、それでいいのである。格闘は、技のショーではない。一つの強力な策略を持っている方が、いいのである。格闘に、こだわり、や、無意味な夾雑物を、入れない点、格闘家として、優れている。
こういう武術家を頭能的ファイターという。
一方、黄仁植は、やたら、後ろ回し蹴り、や、連続技を繰り出している。しかし、それらは、使い方を間違えている。相手が、技量の落ちる者に、高度な技を使う事はナンセンスである。素人には、ストレート攻撃が鉄則である。ストレート攻撃が、自分も安全であり、相手に確実にダメージを与えられる。無意味に、後ろ回し蹴りを、多用する事はナンセンスであり、燕旋脚は、フェイント技であり、いきなり、使う事も無意味である。自分が、身につけた技を全部みせたい、という邪念にとらわれてしまっている。
だが、それでも黄仁植には、力量があるから、相手は、倒せるが。
しかし、黄仁植を見た時、この人は、将来伸びるな、と思った。実際、後のジャッキー・チェンとの共演作、「ヤング・マスター」では、神業の達人になっている。武道は、難しい面がある。こだわり、のある人は、将来、伸びる可能性がある。一方、早くから、一つの策略を完成させてしまうと、それ以上、伸びない可能性がある。初心者は、こだわりを持っていた方が、いいように思われる。
リーも、黄仁植が、将来伸びる事を感じていたから、敬意を払ったのだろう。
リーの戦闘シーンは、武術の正しい戦い方を示している。
ボブ・ウォールとの戦いでは。ボブ・ウォールが、トラップ(相手の体の一部を掴む)して、倒す、という戦い方を見ているため、その用意をして、手を掴まれてた時、すぐに後ろに逃げ、逆にボブ・ウォールの手をねじりあげ、後ろから蹴っている。また、燕旋脚の使い方も、実に見事である。燕旋脚とは、前蹴りのフェイントからの回し蹴り、である。まず、前蹴りを数回出して、相手に、学習させてしまっている。自分は前蹴りをするんだ、という先入観を植えつけた。そして前蹴りのフェイントからの燕旋脚である。これが、燕旋脚の正しい使い方だ。この前蹴りの布石があるため、燕旋脚が、見事にヒットしている。
映画では、あるが、現実の格闘でも、燕旋脚は、こういう使い方をすべきなのだ。
黄仁植の後ろ回し蹴りも、黄仁植が後ろ回し蹴りを多用しているのを見ているから、黄仁植が放った後ろ回し蹴りを、後ろにさがって、かわすのではなく、逆に入り込んで、足と体を捕まえ、すくい上げて地面に落としている。
また、黄仁植の連続蹴りの攻撃に対し、同じ連続蹴りで攻撃した後、激しいトラップで、前蹴り、飛び蹴りをしている。リーのトラップは、蹴りを確実にヒットさせるため、というより。トラップそれ自身が、攻撃である。戦闘とは、狂気の状態で戦うものであり、リーはそれを象徴的に表現している。リーは美しいパンチとキックのファイターではない。リーのパンチとキックは戦闘の一つの手段に過ぎない。リーの武器とは体全部である。
チャック・ノリスは、さすがに達人であり、あらゆる技を身につけている上、多くの攻撃パターンを持っている。黄仁植を最初に倒した時の、パンチの連続からの後ろ回し蹴り。パンチの連続からの巴投げ。リーに対しては、パンチの連続からの背負い投げ。
空手と柔道を身につけているため、それを連動させた見事な攻撃パターンをつくり上げている。
リーがノリスに倒された後、リーが軽やかなフットワークを使い出した。スローモーションで、ノリスが、蹴りでリーに攻撃するが、全て、あしらわれてしまう。(実際の戦いでは、こんなロングの間合いから、蹴ったりはしない。もっと近づいて、相手との距離をつめて攻撃する。しかし、それでは、映画の戦いとして美しく見えない、から、離れて蹴りを出しているのだ)リーは、サークリングテクニックによって、真後ろにさがらずに、横にずらしながら、身を引いている。チャック・ノリスのキックに、軽く手で払っている。これは、完全に手を触れずに後退する事は、敵を有利にしてしまうからだ。絶えず、相手の蹴りに、触れる事によって、相手の感触を感じつつ、間合いが、感じとれ。また、蹴りに対して、手が反射的に出るのだろう。ボクシングのパーリング的である。
チャック・ノリスは、全力で放った蹴りが、全て、かわされ、これでは疲労してしまう。
リーは、前足でのマシンガンキックで、ノリスを倒す。このリーの片足マシンガンキックは、リーのオリジナルテクニックかと思ったが、おそらくムエタイからヒントを得たのだろう。ムエタイでは、前足での片足連続キックは、練習の基本である。
リーは、毎日、10キロ走りこむ、というほど、基本体力に心がけた。鉄の心臓をつくりあげた。これは、格闘では、小器用な技より、体力の重要性を重んじたからである。そして、事実、格闘では、その通りである。
また、リーは、無我の境地、オートマティズム、を言っている。
「自分の意志でパンチを打つのではなく、パンチが自分の意志ではなく無意識に打ち込まれるのだ」
と言っている。ここまでいくと、インド哲学の梵我一如である。無我の境地である。
現象は自由意志ではなく、自分というものが無くなり、世界との一体化である。自分が世界と一体化するのである。
もし基礎体力がなく、すぐに息が上がってしまっては。息があがると、頭に意識がもどってしまう。それも、リーが基礎体力を心がけ、鉄の心臓を持つ必要を重要視したからであろう。
リーは、テクニックは完璧に完成されているのだから、別に基礎体力の訓練をしななくても、見事な、いいアクション映画はつくれた。それなのに、基礎体力の訓練を怠らなかったのは、リーが本当の武術家だからだ。リーは映画でアクションだけ、上手いが、実戦では、映画通り、ほど、強くない、などという分離を嫌ったのだ。自分は、実戦でも映画通り強い武術家である、という誇り、ファンに対する誠実さゆえだろう。
また、リーは映画で成功しても、最期まで武術家を貫き通す性格だった。
リーは、アクションスターだけではなく、本当の武術家気質を持った武術家なのだ。
そこらへんもリーの魅力なのだろう。
リーは、「技はコントロールされなくては、ならない、が、コントロールされ過ぎても良くない」と言っている。この意味は、
「コントロールされる」とは、体のバランスをしっかり、保ったまま、突き、や、蹴りを繰り出す戦い方である。敵に攻められるスキをつくらない、守りがしっかりしたスタンスである。そのかわり、パンチやキックの破壊力は、その分、おちる。
一方、「コントロールされ過ぎていない戦い方」とは、体のバランスは、考えず、パンチやキックを思い切り出す戦い方である。これは、パンチやキックが外れれば、体のバランスをくずして、守りにスキができてしまう。
どちらにも偏らず、これを調節する事が大切なのである。
空手や拳法の戦いでは、達人同士では、なかなか勝負がつかず、持久戦になることが多い。
なので、達人同士の戦いでは、「コントロールされた戦い方」になりやすい。
カンフー映画での戦いは、「コントロールされた戦い」である。これは当然である。映画では、戦いは、美しく見えなくてはならない。パンチやキックが乱れては、アクションがきたなくなる。
また、以前、芦原空手の「サバキ」というビデオを観たが、これも「コントロールされた戦い方」である。そもそも、芦原空手は、「コントロールされた戦い方」である。いい例が、芦原空手の後ろ回し蹴り、である。芦原カラテの後ろ回し蹴りは、体の軸を一直線に保って、いる。コマ送りで、見たが、インパクトのギリギリ直前まで膝が開かれていない。
これが、本来の後ろ回し蹴り、であり、後ろ回し蹴りの訓練で、ゆっくりやる時には、このようになる。後ろ回し蹴りの原理がよくわかる。しかし、実戦では、普通、スピードを思い切りつけて、体を回すから、膝はインパクトのかなり前から開いてしまう。しかし、後ろ回し蹴りの原理は、同じである。
しかし、芦原カラテの後ろ回し蹴り、は、インパクトの直前まで膝が開かれていない、極度にコントロールされた蹴りである。だが、破壊力は落ちていないのである。そして、体のバランスがしっかり保たれているから、蹴りが当たらなくてもスキができず、相手に攻撃されることがない。安全な後ろ回し蹴り、である。
後ろ回し蹴り、に限らず、芦原カラテのパンチやキックは、全て、体の軸をしっかり保ったコントロールされたものである。しかし、破壊力は、まったく落ちていない。
芦原カラテでは、サバキの研究に徹しているため、体のバランスが崩れないコントロールされたスタイルなのである。
一方、「コントロールされていない蹴り」つまり、守りを考えず、力の限り蹴る蹴り、で、いい例は、「ドラゴンへの道」で、チャックノリスとブルース・リーとの戦いで、スローモーションで、チャックノリスが、リーを追いつめる蹴り、が、そうである。といってもいいと思う。あの蹴りでは、チャックノリスは、守りというものを考えず、力の限り、思いきり蹴っている。
ブルース・リャン
ブルース・リャンは、技だけ見ればブルース・リー以上にダイナミックである。ありとあらゆる連続技が出来る。第一、ブルース・リーの蹴り技に、飛び後ろ回し蹴りは、ないが、リャンは、ものすごい華麗な飛び後ろ回し蹴りが出来る。
しかし、倉田保昭と戦った、「帰ってきたドラゴン」を見ると、華麗な技の見せ合い、という感じで、その点、リーのアクションは、見ると、まさに戦っている、という感じがして、その点でリーの方が人気があるのだろう。リーのアクションは、戦い、それ自身がドラマであり、リーの主義、や、主張があった。
リャンは、倉田のような達人との一対一の戦いより、複数の敵を相手にした戦いのアクションの方が素晴らしい。
大変、疑問に思う事なのだが、リーは、拳法を身につけただけでは満足できず、なぜ、ああまで武術家であろうとする欲求にこだわったのであろうか。そして武術の研究をしつづけたのであろうか。
現代において武術家であることは、ナンセンス極まりない。戦国時代のように、無法の時代なら、武術を研究する必然性はあるが。柔道の元である柔術は戦国時代の必要性から生まれた。現代は、法治国家である。もちろん無法者に襲われる可能性はあるが。ああまで、武術を研究する必然性があるのであろうか。拳法および、他の多くの格闘技の技を身につけただけで、十分自分を守れるではないか。
現代における、武道の最も有意義な目的は、ルールをきめたスポーツとしての発展にある。
やはり、実戦カンフーファイターの具一寿氏が、言っているように、武術家とは、狂気の精神状態を維持している一種の病的人間としか、思われない。
絶対、世界中のどんな強い男に襲われても、自分を守り抜いてみせる、という大変なプライドからだろう。
実際、リーは、世界中のどんな強い男に襲われても、自分を守り抜けるだろう。
自分の強さに自信を持って、リーに戦いを挑んだ男は多い。
しかし、そういう人は、武術の意味がわかっていない。
そういう人はリーほど武術を深く研究しているだろうか。
リーは、武術に関する本は孫子の兵法まで全部、読んでいる。
そういう人はどんなに強くても、リーをノックアウトする事は、出来ない。
リーは、プロレスラー、体重200キロ以上の格闘家に襲われても、ノックアウトされることはないだろう。そもそもリーをノックアウト出来る男など、まずこの世にいない。もし剛の男がリーに決闘を申し込んで、意気揚々と決闘に赴いたとする。しかし、彼は己れの悲鳴を聞くだけだろう。なぜなら、おそらくリーはピストルを持っているから。(ドラゴン危機一髪、では、リーはナイフを使って戦っている)武術はスポーツではない。卑怯もへったくれもない。
技が華麗なアクションスターは多い。しかし、リーほど、武術の研究をしているアクションスターは、いないだろう。そもそもリーの生活は武術の研究が、大半を占めた。
大山倍達、は、なぜ、手刀によるビールのビン切断の研究にこだわったか
大山倍達は、手刀によるビール瓶切断の研究を熱心にした。
彼は空手家であり、空手を武器とした格闘家である。彼は様々な格闘家と戦った。
彼のような人は、ビール瓶の切断の技術より、人間との戦い方を研究した方が、ずっと有益である。しかし大山倍達は、手刀によるビール瓶の切断の研究を熱心にした。
これはなぜか。それは、もちろん、人に見せて得意になるためではない。
実は、ここに空手の目的が象徴的に示されている。
氏ほどの技量に達すると、ビール瓶を切断できる感覚が起こってくるのである。
これは、何も氏だけではなく、空手家の試割り、において、全ての空手家に共通して起こる感覚である。「切れる」、「割れる」という感覚が技の上達時に起こるのである。
人間は、「出来る」と感じられる事は、やらずにはいられないのである。どうしても、やってしまうのである。そして、ここに、空手の目的もはっきり示されている。
つまり、空手は、動く人間を相手として、考え出された拳ではないのである。
それは、ボクシングやタイ式ボクシングのパンチである。
空手の拳は、動かない物体を破壊するために、考え出された拳なのである。
また、試割り、は、巻き藁で、拳を鍛えている、以上に、手首の固定が出来ているため、安全、という面がある。初心者は、安易に試割り、をすると、手を怪我する危険があるので、やめた方がいい。
段位について
私は大学は関西の医科大学に入った。空手部もあった。関東では、松涛館流だったが、関西では糸東流だった。もちろん、運動系のクラブなんかに入る気は全くなかったので、入らなかった。
ただ、過敏性腸症候群がひどく、健康のため、近くの空手道場に数回、行ってみた。健康に効果がないので、数回でやめてしまった。そこの先生は、そこの大学出身の開業医だった。先生はそれほど、上手くはなかった。その道場に、一人の黒帯の指導者がいた。彼は黒帯だが、手先から力を出し、腰から力を出せていなかった。しかし彼は性格がとても、誠実だった。空手を身につけたい、という気持ちからではなく、何でもいいから、武道を訓練して、心身を鍛えようという気持ちから、入門したのだろう。私は、こういう人に段をあげて、全然悪くないと思う。その人は技術は、黒帯とは言いにくいが、小手先の技術が、ちょっと、うまい、だの、なんだの、なんて、くだらない事だ。その人は、休むこともなく、指導も熱心で、武道精神はしっかり身についている。人間で大切なのは、技術うんぬんではなく、精神だ。実際、その人は、何か有事の時には、空手家として、最も適切な対応をするだろう。
同じ道場に、技の見事な黒帯が二人いた。二人は、陰で、先生を莫迦にしていた。私はこういう人間をつまらない人間だと思う。
私の尊敬する、医学者の池見酉次郎先生も、本の中で書いている。
「一芸を極めた人間は、非常に偉大になっていくか、非常につまらなくなっていくかのどちらかである」
空手の組織は日本に数多くあるが。私は初段は、基本が、特別、上手くなくても、出来て、ちゃんと休まず道場に通いつづけ、武道精神を身につけているなら、初段を与えるべきだと思う。
なかには、初段の技術レベルをやたら高くして、自分らの×級は他の道場の黒帯レベルなどと、他の道場を莫迦にして、自分らのレベルの高さを自慢している所もある。大人気ないことだ。
だいたい、武道の段位は、初段か二段で、技術は頭打ちになってしまうものだ。
一般の人は、誤解している人もいるが。武道の段位の数は力量の比例ではない。初段以降は経験年数である。三段は技術が、初段の三倍うまいのではない。段位は長くつづけた実績によってあがっていく。
私は関東で空手を始めた時、いくつかの道場を見学した。なかには、ひどいのもあった。師は技は上手いが、道着も着ず、でっぷり突き出た太鼓腹。刀を置き、テレビに出た写真をけばけばしく飾り立てている。指導などせず、下手な者を頭を叩いて莫迦にしている。
指導者は、自分の技が完全でなくても、自分も道場生と汗を流さなくてはならない。
なぜなら、生徒は師の技術レベルなど簡単に超えるからだ。
優れた師につけば、すぐれた技術が、身につくなんて事は全くない。
自分は、そう上手くなくても、優れた指導力のある師についた者の方が上手くなりうる。
空手は一人でも訓練できる。
道場に通う意味は、気合いを入れるためと。指導者が見せる、技のイメージを頭に焼きつける事にある。
また、どんなスポーツでも、指導者の上手い技だけ見るべきではない。下手な人の技も見るべきである。というのは、上手い人の技だけ見ていても、なかなか、運動の要素がつかめにくいことがあるからだ。上手い人の動きは自然だから、見てても素通りしてしまって、運動の本質的な要素が見えにくい事があるのである。下手な人と上手い人との違いをともに、見る事によって、運動に必要な要素、が、見えてくるのである。上達の研究のために見比べるのである。
また、有段者でなくても、ある程度、技が身についている人なら、その人の動きを見る事によって、運動の要の要素を学ぶ事はできる。
世の中のスポーツ指導者に、自分はオリンピックの金メダリストでも、指導能力、つまり他人を上手くさせる能力、の無い人は、いくらでもいる。彼らはスポーツの世界における、天下りのようなものである。
なお、下手な人を優越感や、バカにする目的でみる人は対象外。
気合い、について
まだ、技が出来ていないのに、大きな気合をかける人がいる。
これはよくない。なぜなら、技が上達すれば、正しい筋肉の引き締めから、自然と腹から気合を出せるようになるからである。初心者のうちは、気合はかけない方がいい。気合をかける事に気をとられて、基本の動作の訓練が、おろそかになる可能性がある。
もっとも、気合は、武道精神を鍛える、という目的もあるから、絶対してはならないものではない。
スピンキックについて。
ブルース・リーの映画を観ると、複数の敵に囲まれた時、後ろから攻撃してくる敵にはスピンキックで、攻撃している。しかし、それは映画の中での見栄えのよさ、からだ。ストリートファイトで、複数の敵に囲まれた時には、後ろから攻めてくる敵にも、向き直って相対と向き合って戦うものである。
後ろ回し蹴りについて。
芦原カラテの後ろ回し蹴りは、スキがないので、そのまま使っても問題はないだろう。
しかし、一般に後ろ回し蹴りは、スキが出来やすいし、クリーンヒットなど、まず望めるものではない。頭脳的なファイターなら、相手が後ろ回し蹴りを放った後に出来るスキの瞬間に、踏み込んでパンチを打つ戦術を練習して完成させている人もいるかもしれない。
後ろ回し蹴りのような、大技も、使い方の研究によって、有効な蹴りとなりうる。スピンキックでも、そうであるが。スキの出来てしまいやすい蹴りは、かえって、それを誘いのスキとして、使う事ができる。無考えに蹴りっぱなし、ではダメである。わざとスキをつくって、相手に入り込ませ、インファイトの戦いに持ち込む、というような、戦闘パターンを日ごろの訓練で、完成させてしまう、というのも、とても有効な方法だ。
空手に先手なし
「空手に先手なし」とは、空手にとって一番有名な格言である。
これを、多くの人は、空手家からは攻撃しない、という道徳的な意味と、とらえている。
確かに、それもあるだろう。松涛二十訓の中でも、「血気の勇をいましめるべし」とある。
しかし私はそれ以外の意味もあると思う。空手家の方から手を出すな、など、あたりまえ過ぎる。私は、これには、技術的な意味もあるのではないかと思う。
空手は、物を破壊するため、手足を武器化するために生まれた。空手は、人間を相手にした格闘スポーツとして生まれたのではない。そのため、物を壊す破壊力はあっても、動く相手に、戦うフットワークは、はじめから、ない。そのため、空手は実戦で戦うには難がある。そのため、もし戦う事があるならば、相手に攻めさせ、そのカウンターをとって反撃するのが、空手の戦い方である、という技術的な意味も、あるように思える。
実際、伝統空手の寸止めの試合では、先に攻撃をしかけるより、相手の攻撃を待って、相手が攻撃してきた時、そのカウンターをとって反撃する、方が有利なため、寸止めの試合では、膠着状態になる事が多い。
そもそも空手の開祖者の、船越義珍氏、は、自由組手は、技が乱れるから、と言って、自由組手に反対した。
フルコンタクト系の実戦系の空手では、伝統空手を身につけただけでは、戦いにくいから、どの流派も、フットワークやキック、受け、を、実戦で使えるよう、に、創意工夫している。
ストリートファイト
今では、フルコンタクト空手が、最強で、伝統空手や寸止め、を、空手ダンス、などと莫迦にする風潮は、ないだろう。(一部の人では、あるだろう)
空手や格闘技では、今は、組織によって、実に多くの組織に、わかれていてる。
極真空手のように、素手で顔面パンチなし、のルール。
ムエタイのように、グローブをつけての顔面パンチあり、のルール。
掴み、組技あり、つまり何でもあり、のルール。
テコンドー。
南郷継正氏の流派。
芦原カラテのように、掴み、倒し、あり、で、空手をスポーツではなく、武術として研究している流派。
伝統空手でも、寸止めの試合、と、マスクとグローブをつけて、顔面パンチあり、のルールの試合がある。
倉田保昭氏のような、アクション空手。
組手はせず、型のみを極度に研ぎ澄ます伝統空手の人。
ブルース・リーのように、グローブ、とマスクをつけ、戦い方を研究する流派。
太極拳のように、破壊力を追求するもの。
など、他にも、無数に、あるだろう。
それぞれ、何を求めているか、である。
(ちなみに、初代タイガーマスクの佐山聡は、技が見事なだけではなく、格闘技に対する見解は天才である)
才能のある人とは、自分が何を求めているか、を、しっかりと見極めている人である。
伝統空手について。
フルコンタクト空手では、伝統空手の寸止め試合をケンカでは、使えないと思っている人もいるのではないだろうか。しかし、それは違う。確かにケンカでは、フルコンタクト空手の方が強い。しかし、素人が街でケンカすると、当然、顔の殴り合いになる。が、腕に力が入ってしまうため、フックぎみになり、また、両方とも狂気の精神状態だからクリーンヒットなど、まず決まらない。
ここで、寸止め空手で有利な点がある。
それは寸止め試合に慣れてる人は、遠くの間合いから、踏み込んでのストレートパンチが打てる。という点だ。
柔道について。
また、ストリートファイトでは、殴る、蹴る、が主だからといって、柔道は、ストリートファイトでは、空手より劣ると思ってる人もいるだろう。南郷継正氏は著書「武道の理論」の中で、柔道家を空手家より、低く見て批判している。私は南郷氏の柔道家に対する見解を間違っていると思う。確かに、柔道の試合では、技がきれいに決まるという事はない。それは、両者、柔道の実力が互角にあるからだ。柔道は、掴みあい、お互い、必死で、防御しようとするから、きれいに技は決まらないのだ。これをもって、技が身についていない、と解釈するのは間違いだ。もし、柔道家と空手家が、柔道の試合をしたら、絵に描いたような美しい一本背負いが決まるだろう。これに対し、空手は掴み合う事が無く、相手に触れる事がないから、出す技は、形が崩れる事はないのだ。
確かにストリートファイトでは、相手の顔を殴る事が主だ。だから、ストリートファイトに強くなりたければ、ボクシングを習えばいい。ボクサーは確実にストリートファイトで強い。
では柔道はストリートファイトでは、身につけていても、あまり効果が無いであろうか。
私はそうは思わない。ケンカは、いきなり、真剣勝負として、始まる事は少ない。口喧嘩から始まり、掴み合いになり、だんだん、怒りが激しく煮えたっていき、殴り合いになっていく。
国会での政治家どうしの喧嘩が、いい例である。また、いきなりの真剣勝負でも同じである。柔道家は、掴んで、相手の足を刈る事によって、相手を地面に倒す事ができる。喧嘩において、相手を地面に倒す事が出来る事ほど有利な事はない。顔面パンチなんかより、相手をアスファルトの地面に尻や背を打ちつけられる事の方が、ずっと大きなダメージを相手に与える事が出来る。そして、もちろん、柔道家はパンチが打てないのではない。人間なら、誰でも人を殴る事は出来る。殴る、という動作は、生まれつき、身につけているものだからだ。殴る事ができない人がいるだろうか。柔道家は、柔道の試合では、ルールで、殴らないだけであって、喧嘩になったら、当然、殴る。しかし、そのパンチは素人の殴り方では、あるが。ストリートファイトでは、柔道家は、足を刈って、敵をアスファルトの地面に倒し、殴る。蹴る。それゆえ、柔道家は、ストリートファイトでも強いだろう。
ブルース・リーの、「ドラゴンへの道」でも、チャック・ノリスとの戦いで、ラストの方で、リーが、掃腿で、チャック・ノリスの足を刈って、チャック・ノリスが、地に叩きつけられるシーンがあるではないか。なまじのパンチやキックより、相手を倒せる事の方がどれだけ、相手にダメージを与えられることか。
南郷継正氏に対する疑問。
私は氏の著書から、多くを学んだ。氏は空手家であり空手指導者であり、まず、氏の流派に入れば、空手を身につける事は出来る。氏の流派に入門した生徒で、落ちこぼれる人はまず、いないだろう。論理というものを持っている人は南郷氏くらいだろう。
しかし、南郷氏の見解にも間違いはある。
一番は、柔道に対する見解の誤りである。また、氏はブルース・リーを嫌っており、靴が技のまずさをカバーする。などと言っている。空手は、滑らない床で素足で蹴る。そのため、空手家は、靴を履くより、素足で蹴った方が、蹴りやすい。氏の流派は、空手をスポーツというより、武道と考えている。ストリートファイトで、わざわざ靴を脱いで戦うというのだろうか。靴、特に固い革靴は、爪先蹴りしても、突き指する事なく、とても有利である。基本的に靴を履く、履かない、は、空手に関係ない。むしろ、ストリートファイトということを考えれば、靴を履いての蹴り、というものも研究すべきだ。
また中国拳法に対する見方にも誤りがある。
しかし氏は偉大な人間であり、かなり、不遜な言い方もしているが、氏の論理的能力、多くの優れた指導者をつくりあげた功績、多くの著書で、運動の本質を文章で論理化した功績を考えれば、多少の誤り、や、偏見は、とるにたらないものである。
執念を持った素人のおそろしさ。
戦いの勝敗を決めるのは、技でもウェートでも武道の経験年数でもない。
執念の強い方が勝つのである。ある武道など全く無縁なひ弱なサラリーマンがいたとする。
そして、その人の最愛の子を殺した強靭な格闘家がいたと、仮定しよう。
その場合、サラリーマンは、必ず、格闘家を倒す、か、殺すか、する。
執念が違うからである。サラリーマンは、用意周到な計画を立て、ピストルか、ライフルを暴力団から手に入れるだろう。サラリーマンは、相手を殺す気であり、自分の死もおそれていないからである。
あるいは、殺し屋に金を払って、殺し屋が、格闘家を殺したり、生け捕りにして、リンチする事もあるだろう。格闘家は、はたして暴力団の凄惨なリンチに雄々しく耐え抜けるだろうか。格闘家は、強くなると、精神も不遜になりがちだが、人間の精神は弱い、という事実を根本でしっかり、自覚していなくてはならない。
ある道場に行ったら、昔は、道場主が門下生に街でチンピラを数人叩きのめしてこい、とか、言った、とか、言ってたが、こんなのは莫迦もいいとこ、である。
チンピラやヤクザが、殴られっぱなしで、泣き寝入りするだろうか。
必ず、お礼参りが来て、木刀で叩きのめされて、道場はつぶれる。
プロ野球選手、スポーツマンは強い。
解りきった事だが、どんなスポーツでも、スポーツやランニング、体を鍛えることを日課にしている人は、ケンカにおいても強い。
小手先のテクニックだけ、身につけているだけの者は、毎日、4キロかかさず、ランニングしている者に必ずやぶれる。
ルパン三世、対、石川五右衛門
真の武術家とは、どういうものかを示すいい例がある。テレビアニメの「ルパン三世」で、ルパンと石川五右衛門の決闘がいい例である。石川五右衛門は、居合い抜きの達人で、鉄まで簡単に切れる。まさに、五右衛門の方が武術家である。一方、ルパンは何の武術も身につけていない。しかし、実際にはルパンの方が武術家的である。ルパンは五右衛門との二回の決闘で、あらかじめ決闘の場所に、大きな落とし穴を掘っておいて、五右衛門は二度とも、それに落ちてしまうのである。
どんなに技が達人でも、「正々堂々」、だの、「卑怯」たの、五右衛門は武道の意味がわかっていない。武道に、「卑怯」も、「正々堂々」も無い。頭のいい人間、用意周到な人間で、負けない人間こそが武道家である。
ボクシングについて。
空手を身につけた後に、ボクササイズを4回やった。たまたま、近くの体育館で、その講習会が、あったからだ。空手の突きを身につけているので、ボクシングは、色々な点で、非常に興味があった。空手を身につけた後でもボクシングのパンチを身につける事は出来る。ジャブ、と、ストレートは、容易だが、フックやアッパーは、少し難しかった。
ボクシングにおいて、大切な事は、拳の握り方である。ボクシンングでは、指一本、握れるくらい、隙間を空けて拳を握る。こうすると拳に力を入れられなくなるので、腰の回転の力によって、打つという、ボクシングの打ち方が出来るようになる。
スポーツチャンバラ一日体験参加。
昔、カルチャー教室で、スポーツチャンバラに一日体験してみた。先生は、「武道の目的は勝つ事ではなく、負けない事」と言ったが、武道の本質をよくわかっている人である。と思った。参加者に、剣道の有段者がいた。剣道は武器を使い、重たい防具を身につけねばならない。空手は、いつでも、どこでも一人で練習できるが、剣道はそうはいかない。基本的に学生のスポーツという面が強い。そこで剣道家はスポーツチャンバラに参加したのだろう。自信満々だった。試合は勝ち抜きで、剣道家は簡単に三人抜きした。しかし私は彼の精神にスキを見出した。彼は、いささか、得意になって、なめていた。私は彼のうぬぼれの鼻をへし折ってやろうと思った。私は相手と同様、剣道らしく中段に構え、上段の面打ち、をするよう見せかけた。そして、「はじめ」で、お互い、飛びこむと同時に、私は面打ちの構えから、相手の足を刈ったのだ。きれいな、一本勝ちが決まった。これは、もちろんフェイント攻撃である。そして、二度は使えないものである。やぶれた三人も剣道の感覚で、誰も足を狙おうとはしていなかった事も幸いしている。やぶれた剣道家のくやしそうな顔といったらなかった。
クセについて。
どんなに優れた指導者の組織に入って練習しても、どうしてもクセは、多かれ少なかれ、出来てしまう。もし、クセが、全く無い人がいたら、その人は達人になっていく。
クセは、どうして出来てしまうのか。私が思うに、一番の理由は、その人の性格だと思う。
「突きは腰から力を出さなくてはならない」とか、「技は大きくつくらなくてはならない」とか、「空突きの練習では、力は80%くらい入れて反復練習しなくてはならない」とか、運動の本質的な事が、わかるかどうか、だと思う。また、師の教えに盲従するだけの人もよくない。「今、自分は何をすべきなのか」を考えなくてはならない。
独創性、や、創造性とは、達人になってから、はじめて発揮するものではない。
練習の過程において、どうしたら自分は上手くなれるか、を、考え、練習法を自分なりに工夫する事は、独創性、創造性、以外の何物でもない。
サルトルは、「人間は自分がつくったところのものになる」と言っているが、まさにその通りである。
三島由紀夫に対する疑問。
三島由紀夫は、スポーツは、ボディービル、剣道、ボクシング、乗馬、空手、などを大人になってからやった。氏の自らを鍛えようとする意志の強さには、敬服する。特にボディービルは凄い。氏は90キロのベンチプレスを持ち上げられる。あの上腕の物凄い事。全共闘と論戦した時の、画像がYou―Tubuで、あるが、いったい、どっちが学生だかわからない。
ただ三島自身は、運動はあまり上手くはなれなかったようだ。三島は、これを運動神経の一言でかたずけているが、それは違う。運動が上達するには、自分で考え、創意工夫しなくてはならない。
また、三島は、小説の中で、スポーツをやる人間は莫迦、と何度も言っているが、これも違う。スポーツが上達しない人は、考えないから、上達しないのである。逆に言えば、考える人は、上達するのである。南郷継正氏の多くの著書を読めば、いかに運動の上達において考える事の大切さがわかる。
プロレス
プロレス八百長説を、今時、むきになって言う人は少ないと思う。
だからといって、プロレスは真剣勝負ではない。
柔道家の木村政彦は、プロレスを何度もやって、プロレスの内部事情を知っているが、氏は著書で、プロレスは八百長、としっかり書いている。
しかし昔と今とでは違う。
プロレスは八百長ではない。
もしプロレスが八百長だったら、レスラーは練習などしなくなるはずである。結果、プロレスラーは、弱くなるはずである。しかし、プロレスラーは、他の強靭な格闘家と戦っても互角に戦えるのである。そもそも、プロレスラーの練習は、あらゆるスポーツの中で一番、ハードなものである。ヒンズースクワット3000回だの、プロ野球の比ではない。
一言でいうと、プロレスは、学校で、生徒のする、ケンカのようなものである。もし、本気のケンカだったら、顔の殴り合いになるだろう。
生徒のケンカは真剣勝負ではない。お互い、相手の出方を見ていて、相手の出方によって、こちらの出方も自然と決まってくる。筋書きなどない。その場の流れで、戦っている。
プロレスもそれと同じなのだ。100%の真剣勝負ではないが、80%くらいの力で、相手の力加減に応じて、その場の流れで、戦っているのだ。
金沢弘和先生について。
私は一度、松涛館流の金沢弘和先生に会った事がある。ある夜、岡田有希子さんに縁のある四ツ谷を歩いていたら、意気のいいかけ声が聞こえてきた。松涛館流の本部道場だった。金沢弘和先生が、いた。氏は型が日本一上手いと評価されていた。氏は連続写真の型の本、「空手型全集、上、下」を出しており、それは三ヶ国語くらいで解説が書かれている。国内の本というより、海外で売られている本である。確かに、実に技がきれいだ。氏は日本の空手家というより、世界の金沢である。あらゆる国を回って空手を指導してきた。
私も空手を始めた時、氏のコンパクトな本を買った。氏はチャック・ノリスに顔が似てる。
氏は引き締まった、痩せ型の体で、会った時は、60才を越していた。が、技も柔軟性も全く、落ちていない。先生と、二言、三言、話したが、氏の体を見てびっくりした。巻き藁で鍛えた手のがっしりしたこと。空手着の奥に垣間見えた胸板のがっしりしたこと。その骨格の頑丈さ。無駄な贅肉など全くない。18才の肉体だと思った。
戦後、沖縄で、GHQが、若者の体格を検査したところ、空手をやっている者はおどろくほど体格がいいので、びっくりした、という事だ。
私も、人を見て、その人が何かスポーツをやっているか、どうかは、体格や、歩き方で直ぐわかる。
私が始めに空手を習ったのは、松涛館流の道場である。家から少し離れていたが、誠実な人格の先生だったので、そこにした。師は金沢先生の事も知っていて、話してくれた。それによると、金沢先生は、拓殖大学に入ってから、空手を始めたそうだ。空手部の先輩や同期には、もう空手をマスターしている者も多くいて、からかわれた事もあった、ということだ。前歯をバキバキ折られた、そうだ。だが、夜中に一人で道場に来て、練習した、とも聞いた。
私も一度、型はたくさん覚えたが、空手の型は、平安の五つの型が、きちんと出来るなら、他の型は、全て簡単に出来る。平安の五つの型に、全ての型の要素が含まれている。
だが、私は金沢氏より技の見事な達人を知っている。空手を始める前、近くの空手道場をいくつか見学した。私の家に一番、近い道場も、はじめに見学した。氏の手刀受け、と、前蹴り、を見てびっくりした。特に前蹴りの美しさにびっくりした。普通、空手では、横蹴り、や、後ろ回し蹴り、が、華麗でダイナミックな蹴りで、前蹴りは、あまり見栄えの華麗な蹴りではない。しかし、膝を曲げた姿勢からビシーンと、物凄い前蹴りが決まっていた。気合のように、その音が道場中に鳴り響いた。あの蹴りを見ただけで、誰でも圧倒されてしまうだろう。まず、幼少の頃から、空手を始めた人に違いない。
その人は人格もしっかりした人だったが、いささか硬派で、あまりにも技が優れすぎているので、ちょっと敬遠した。
格闘技の科学「突きは、肩を出す」の、誤り。
以前、「格闘技の科学」というようなタイトルの本を、読んだ。著者は、物理学系の学者で、運動を科学的に研究していた。パンチの強さを数値で、測ったり、体の各部に測定器具を取り付けたりして体の動きを、測ったりしていた。著者は、自ら少林寺拳法や、サイクリングをして、自らも運動好きである。
その中で、一つ疑問に思った。空手の実際の試合では、パンチは、肩を出すのに、空手の型では、肩を出さない、のを、氏が疑問に思っている事である。これは簡単に説明できる。一言でいえば、「技をつくる」と、「技を使う」の違いである。空手で、空突き、や、型で、「技をつくる」時の練習では、パンチで肩を出す事は厳禁である。初心者では、肩が出てしまいやすい。肩を出さない空突きの練習をする事が、空手のパンチの訓練の基本である。これは、一番重要な事で、パンチの訓練で、肩を出していたら、いつまでたっても、上達しない危険がある。
一方、実際に試合で相手と戦ったり、試割りで、板などを突く時、つまり、何か実際に物を殴る時は、肩は、出るものである。
これは、ひとえに、「技をつくる」と、「技を使う」の違いである。
これは、何も空手だけではなく、多くのスポーツで、いえることである。
野球では、バッターにとって素振り、は、練習の基本である。素振りは、どんなに上手くなっても、する練習である。フォームの研究、実際に打つ前の、ウォーミングアップのため。プロ野球の選手でもしている。「素振り」のフォームは、それ自身、完成したフォームであるが、当然、実際に打つ時のフォームとは違う。実際に打つ時は、バットにスピードのある球の反動が、返ってくる事を想定して振るから、思い切り振る。そのため、空振りすると、振った後、体のバランスが崩れる。「素振り」は、「技をつくる」方の振り方なのである。
これは、野球だけではなく、テニス、ゴルフ、他、球技のスポーツでみな、当てはまる。
ブルース・リーは、一つの流派の戦い方に拘束されるな、と、口を酸っぱくして力説した。
その理由は、実はブルース・リーが、一つの流派を完全に身につけてしまったからだ。それは、詠春拳である。つまり、リーは、一つの流派を極めてしまったから、一つの流派を極めることの、裏にある危険性も痛感しているからだ。リーは、戦いは、いかなる拘束からも、自由でなくてはならない、と言っている。
どんな例でもいいが、ボクシングを例にしよう。
何年もかけてボクシングの戦い方の体系を極めて戦術も身につけてプロにまでなった人がいるとしよう。
ボクシングは、ケンカでも、一番有効な格闘技である。
だから、その人は、ケンカになったら、ボクシングのパンチのみの戦闘法が、出てしまうだろう。
もし、その人が、そののち、空手やキックボクシングを学んだとしても、やはり、ケンカでは、ボクシングのパンチが、出てしまうだろう。
机上の勉強と違って、体で一度、覚えたものは、忘れたくても、忘れられないのである。消したくても、元に戻す事は出来ないのである。
これはどんなスポーツでも、言える事である。一度、スキーなり、テニスなり、どんなスポーツでも、身につけてしまったら、それを出来ない、元の状態に戻す事は出来ないのである。
もちろん、これは、スポーツにおいて、とてもいい事である。机上の頭で覚えた勉強は、時間がたてば、忘れてしまう。しかし、体で覚えたものは、忘れないのである。幼少の時、自転車に乗れるようになるには、みな、かなり、てこずったろうが、一度、自転車にのれるようになったら、もう自転車は乗れるようになる。乗れなくなるようにする事など、不可能である。これは、一般のスポーツにおいては、いい事、というより、素晴らしい事である。頭で覚えたものは、忘れてしまうが、体で覚えたものは、一生、忘れないのである。
しかし、それがかえって、問題になる事もあるのである。
空手を身につけてしまった人は、そのあと、キックボクシングに転向すると、支障が出てしまうのである。どうしても、空手のパンチやキックが、出てしまいやすいのである。
ボクシングを身につけてしまった人が、その後キックボクシングを身につけるのも、支障が出るのである。キックボクシングのパンチとキックのコンビネーションより、完成されたボクシングのパンチが出てしまいやすのである。
そういう事は、スポーツにおいて、いくらでもある。軟式テニスと硬式テニス。
非常に似ているスポーツの場合があぶないのである。身についているスポーツに引きずられてしまう可能性があるからである。似ているスポーツでは、かえって、やらないで、白紙の方がいいのである。
空手を身につけてしまった人は、カンフーを身につける事は困難ではないか、と思う。
パンチやキックが、どうしても空手のパンチやキックに引きずられてしまうからである。
空手の達人の笠尾恭二さんは、そののち、中国拳法に惹かれて、中国拳法を、一心に習い、多くの中国拳法の本を出している。しかし、どうしても、体の動きが空手に引かれてしまい、中国拳法や発剄を身につけるのは、とても困難だ、と言っている。
武術の才能は、あるのだから、はじめに中国拳法から習ったなら、中国拳法の達人になっていた事は間違いない。
始めに空手を身につけてしまってから、そののち、中国拳法を身につける事は難しい。
しかし、逆はそうではない。始めに中国拳法を身につけた人が、その後、空手を身につける事は困難ではない。ブルース・リーの蹴りだって、空手の蹴りである。
空手の型を実際に見た事がある人なら知ってるが、空手は岩のように固く、強い幾何学的な動きである。それに比べ中国拳法は動きが、柔らかい。やはり、運動の難度という点において、空手より、中国拳法の方が上なのだろう。
ブルース・リーは、型や、流派の戦い方にとらわれるな、と力説した。
これは、実はリーが、詠春拳という、一つの流派を極めてしまったから、である。もちろん、武術の達人になるには、一つの流派に身をおいて、それを極めなくてはならない。しかしリーは、流派を極める事の裏にある弊害をも知っていた。流派を極めれは、もはや、流派の拘束から、抜け出る事が出来なくなるのである。そののち、リーは、様々な格闘技、武術、を研究したが、やはり一つの流派を極めてしまうと、もはや自由な戦いというものは、困難になる。しかし、武術を極めるには、何かの流派に属し、その流派を極めねばならない。これは武術が持つ根本的な矛盾といえるだろう。
しかし私はリーの発言にも、疑問を感じる。
確かに、ボクシングならば、ケンカになった時、試合の感覚のまま戦って、何ら問題はないだろう。確実に勝ちをおさめるだろう。しかし拳法において、一つの流派を極めた者は、ケンカにおいて、流派の戦い方に、拘束されてしまうだろうか。
突きと、蹴りの応酬が主で、掴み、や、倒し、のない流派を極めた人が、ケンカにおいて、流派とおりの戦い方をするだろうか。
要は、その人の精神の持ち方、次第で、流派に拘束される事は無いように思われる。
自分を白紙に出来る人は、身につけた流派の技はケンカにおいて、有利に利用する事が出来る事こそあれ、流派に拘束される事はないように思う。
リーが、流派にとらわれる事を批判した理由。
リーは、アメリカ時代、流派というものを、批判している。そのため、自分の截拳道こそが、優れていて、他の流派は、駄目だと、うぬぼれている、という誤解、中傷をされた。リーはかなり、これによって、非難された。しかし、リーの考えは、ちがうのである。
そもそも截拳道という流派の武術など存在しないのである。
一言で言えば、リーは、武術家であり、ストリートファイトにおける戦いを想定していたのである。その時、つまり、ストリートファイトの時、自分の流派の戦い方のみで、戦ったのでは、危険だぞ、と言っているのである。
わかりやすい例が、ストリートファイトにおいて、棒を持っていたら、棒を使った戦いになってしまう。何か、武器を持っていると、武器に拘束されてしまうのである。その人が柔道を身につけていても、棒を持ちながら、柔道の一本背負いをする事など不可能である。もはや、自由な戦い方は出来なくなる。リーは、そういう事を主張したのである。
リーは、いかなる流派も、非難も否定もしていない。そもそも、武術を身につけるには、何か一つの流派に属し、徹底的にその流派を極めなくては武術は身につけられない。
世に習い事は、多くあるが、そして、多くある流派によって、若干の考え方、の、違いはあるが、何かを身につけようと思ったら、どれか一つの流派を選び、それに属し、徹底的に自分をその流派の型にはめなくてはならない。能、華道、茶道、書道、その他、すべてにおいて言える。
倉田保昭氏は、空手、柔道、合気道、という三つの武術を完全に身につけている武術家である。
リーは詠春拳の達人であるが、そののち、空手やボクシングなど、様々な格闘技を研究し、技を身につけたが、他の流派の武術を極めるまでには至っていない。他流派の研究というところ、だろう。
しかし、倉田保昭氏は、三つの異なる武術を完全に身につけている、という点で、リーより、はるかに条件がいい。しかし倉田はリーのように、自分の戦い方というものを、つきつめて完成させようとはしなかった。これは倉田に才能がない、という事ではない。
倉田は自分の戦い方というものを何が何でも完成させようとする必要を感じなかったに過ぎない。そして現代においては、それが普通である。戦国時代ならともかく、現代において、そんな事をむきになって研究する必要などないのである。自分の戦い方を完成させようと思っているリーのような人間の方が変わり者なのである。何のために、そんな事をしなくてはならないのだ。
倉田氏は何より、人格が優れている。氏は、誠実で、人を莫迦にしたりせず、それでいて硬派で、厳しい武道精神を持っている。
型の意味について
真の拳法家は、技が身について実戦で、戦えるようになっても、基本の型の訓練を一生する。これは、真の拳法家は型を訓練する意味を知っているからである。
そして型を訓練する必要性を知っているからである。
ブルース・リーにしても、型を訓練する意味を知っている。
ブルース・リーは、ロサンゼルスのロングビーチ国際空手トーナメントの演武試合で、ハリウッドに目をつけられた。
ブルース・リーは、ハリウッドのアクションスターとしての採用面接テストで、フィンガージャブ、バックフィスト、回し蹴り、をみせた。そして、そのあと、見事な、「鶴の型」と「虎の型」を演じて見せた。リーは、真の拳法家であり、型を訓練する意味を知っているからである。
また、実戦カンフーの具一寿氏にしても、型の訓練の意味を知っている。
もちろん、実戦では、型は全く役にたたない。それなのに、真の拳法家は、型の訓練をするのである。
これは、空手にせよ、拳法にせよ、それを格闘スポーツとしてしている人より、武術家的気質の人の方が型の訓練をするのである。武道を、自分の流派のルールの試合で勝つ事を目的としている人は、古い型の訓練など、熱心にしても技術はあがらない。だから、型を訓練する意味もわからないのである。また、試合で勝つ事を目的としている人は、古い型の訓練などするより、組手で、技の研究をした方が、ずっといい。古い型の訓練など試合では全く役に立たない。
ではなぜ、武術家は、型を訓練するか。
武術は、スポーツと違い、一切のルールがない。敵は一人ではなく、複数であることもある。掴んでくる事もあるし、武器で攻めてくる事もある。武術家は、それに対応しなくてはならない。武術は、一言でいって、護身術であり、その目的は、敵を叩きのめす事ではなく、自分を守る事である。
まず、そもそも型というのは、敵が一人ではなく、複数の敵に取り囲まれた状況を想定して、つくられたものである。
そして敵が手を掴んできたり、棒で、突いてきたりした時に、それをどう、受けて、どう反撃するか、という事を想定して、つくられたものである。
しかしストリートファイトの多くは、一対一、であり、また、ケンカでは、まず、お互い、素手で戦うケースがほとんどである。
しかし、武術家は、武器を持った複数の敵に取り囲まれた事態を想定してしまうから、そのため、型の訓練をしてしまうのである。もちろん、武器をもった複数の敵に取り囲まれた時に、型通りに戦う事などありえない。
下段払いをした時、手を掴まれ、振り払って、鉄槌で反撃する(平安初段)
など、型通りになど戦えるわけがない。
しかし、武術家は、型を訓練していくうちに、その意味と味が、わかってくるので、実戦では、使えない、と、わかっていても、つい、型の訓練をしてしまうのである。
そして、型は、その、個々の動作は、実戦では、役立たないが、全体として見るならば、複数の敵に囲まれた時の精神的な準備として、役に立たないとは、言えないのである。
その実感があるから、武術家は、古式の型の訓練をするのである。
およそ、格闘スポーツマンは、実戦においての、古式の型の意味を考えてしまうから、型は無意味だ、という結論に達してしまうのである。しかし、ある流派の戦い方を極めた者は、その流派の戦い方の意味を理解しているから、そしてその流派の戦い方の技術は、型の中に含まれているから、型の練習をするのである。
およそ、格闘スポーツ家は、精神的にも体力的にも、剛の者が多いが、武術家は、弱者、被害妄想的な傾向の人間が多い。
実戦カンフー具一寿氏の「中国拳法戦闘法」について
氏は、この本で実に多くの手わざ、足わざ、を演じ、解説している。
氏は、実戦派であり、あんなに多くの複雑な手わざ、足技、が、はたして実戦で使えるものだろうか、と、疑問に思う人も多いだろう。
普通に考えてみても、実戦では、キックボクシング的であり、パンチと回し蹴りくらい、になるだろう。これは、氏においても、そうなるだろう。
では、なぜ、まず、実戦では、使わないし、使えない、ような、技まで、全部、解説するかというと。
これは、空手を考えてみれば、わかるだろう。空手も、実に多くの手わざ、足技がある。
手わざでは、手刀。鉄槌。抜き手。裏拳。これらは、はたして実戦で使うだろうか。
足技では、横蹴りは、実戦で使うだろうか。
しかし、空手家で横蹴りの訓練をしない者はないだろう。
実戦の戦いは、当然の事ながら、相手と向き合って戦う。
だから、蹴りでは、前蹴り、回し蹴り、が、ほとんどになる。
横蹴りは、敵に対して体を横にするので、スキができ、動作も、読まれてしまうので、まず、使わない。しかし空手家は、横蹴りの訓練をするではないか。
横蹴りは、空手の蹴りの中で、破壊力のある蹴りなので、試割りなどては、よく使う。
しかし実戦では、回し蹴りが一番多い。
横蹴りにしても、手刀、裏拳にしても、実戦で、使おうと思えば使えるのである。
もし、空手の試合で、裏拳だけで戦え、というルールの試合をつくったら、そういう試合は、ちゃんと成り立つだろう。横蹴りでも、手刀でも、そうである。
空手の試合では、全ての技を認めてしまうから、畢竟、一番、威力があって、使いやすく、スキも出来ない、正拳突き、と、回し蹴り、になっているのに過ぎない。正拳突き、や、回り蹴り、は、相手と向き合った、構えの姿勢から、そのまま出せる。
ちょうど、水泳で自由型はクロールになるのと同じ事である。自由型は、どんな泳ぎ方をしてもいいのだから、平泳ぎ、で、泳いでもいいのだ。しかし、自由型で平泳ぎをするスイマーは、いない。それと同じ理屈である。
もし、横蹴りだけで戦うという練習や試合をしたら、実戦でも横蹴りを使えるようになりうるだろう。技は使わねば、どんどん使えなくなり、逆に、意識して使っていれば、使えるようになる。テコンドーでは、極度に蹴りが発達しているではないか。また、本人の意識も関係している。ブルース・リャンは、足技に対する、こだわりがあったからこそ、ああまで足技が熟達したのだ。
三年殺し、について。
これは、梶原一騎の漫画で、有名になって、名前を知ってる人は多いだろう。
空手の秘技で、大山倍達、が、アメリカで使った、とか書かれてあるが、頭部への攻撃によって、はじめは、痛みはないが、一年、二年、三年、とだんだん症状が出てきて、三年後に狂い死ぬ、恐ろしい技だそうだ。そして、よほどの達人なら、その技が出来るらしい。
私は医者であり、医学部では、脳外科も勉強したが、おそらくこれは、硬膜下血腫ではないか、と思われる。これは、頭部の軽微な外傷で、脳の架橋静脈というのが切れて血腫が、でき、受傷後、症状は無いが、年とともに、血腫が拡大していって、徐々に痴呆症状が出てきて、ついには脳ヘルニアから、呼吸停止に至る疾患である。
また、最近は児童虐待が問題になっていて、母親が幼い子の頭をひっぱたいている光景も時に見られる。しかし、ささいな打撃でも脳の架橋静脈というのは、容易に切れて脳出血を起こし、硬膜下血腫が起こるのである。無知な母親は、まさか、頭をひっぱたいたくらいで脳出血が起こりうる、とは、思っていないから、育児のストレスから容易に子供の頭をひっぱたく。非常に危険である。また、武術や、格闘技の試合でも、軽微な打撃で脳の架橋静脈が切れて、硬膜下血腫が起こる事があるのである。武術の試合をする人は、こういう事もある、ということを知っておいてほしいと思う。
ブルース・リー語録は、多くあるが、一つあげておこう。
これは、何も武術家だけではなく、全ての人に言える当たり前のことである。
「Martial Artist have to take responsibility for himself and face the cosequences of his own doings 」
(武術家は自分のとった行動の責任をとり、自分のおこなった行為の全ての結末を直視しなくてはならない)
ドラゴンへの道
ブルース・リーの映画の中では、「ドラゴンへの道」が、一番良く出来ている。
ラストで、リーが黄仁植とボブ・ウォールと、コロシアムの前で戦う場面がある。
二人はチャック・ノリスほどの技量はないが、相当の腕である。
黒帯に近い。
ブルース・リーは、、ボブ・ウォールには、情け容赦ないが、同じ東洋人という事でか、黄仁植には、武道家として敬意を払っている。
しかし、ボブ・ウォールと黄仁植ではあの映画の時点では、ボブ・ウォールの方が、武術家として、優れている。
それは、ボブ・ウォールが、一つの策略を完成させているからだ。
ボブ・ウォールの策略とは、リード足の連続蹴りで、自分は安全で、相手にダメージを与える。そして、相手が、パンチを打ってきた時、その腕をトラップして、膝を梃子にして、相手を倒し、とどめのパンチを打つ、という、一つの完成された策略である。
ボブ・ウォールは、この戦い方しか、使わない。しかし、それでいいのである。格闘は、技のショーではない。一つの強力な策略を持っている方が、いいのである。格闘に、こだわり、や、無意味な夾雑物を、入れない点、格闘家として、優れている。
こういう武術家を頭能的ファイターという。
一方、黄仁植は、やたら、後ろ回し蹴り、や、連続技を繰り出している。しかし、それらは、使い方を間違えている。相手が、技量の落ちる者に、高度な技を使う事はナンセンスである。素人には、ストレート攻撃が鉄則である。ストレート攻撃が、自分も安全であり、相手に確実にダメージを与えられる。無意味に、後ろ回し蹴りを、多用する事はナンセンスであり、燕旋脚は、フェイント技であり、いきなり、使う事も無意味である。自分が、身につけた技を全部みせたい、という邪念にとらわれてしまっている。
だが、それでも黄仁植には、力量があるから、相手は、倒せるが。
しかし、黄仁植を見た時、この人は、将来伸びるな、と思った。実際、後のジャッキー・チェンとの共演作、「ヤング・マスター」では、神業の達人になっている。武道は、難しい面がある。こだわり、のある人は、将来、伸びる可能性がある。一方、早くから、一つの策略を完成させてしまうと、それ以上、伸びない可能性がある。初心者は、こだわりを持っていた方が、いいように思われる。
リーも、黄仁植が、将来伸びる事を感じていたから、敬意を払ったのだろう。
リーの戦闘シーンは、武術の正しい戦い方を示している。
ボブ・ウォールとの戦いでは。ボブ・ウォールが、トラップ(相手の体の一部を掴む)して、倒す、という戦い方を見ているため、その用意をして、手を掴まれてた時、すぐに後ろに逃げ、逆にボブ・ウォールの手をねじりあげ、後ろから蹴っている。また、燕旋脚の使い方も、実に見事である。燕旋脚とは、前蹴りのフェイントからの回し蹴り、である。まず、前蹴りを数回出して、相手に、学習させてしまっている。自分は前蹴りをするんだ、という先入観を植えつけた。そして前蹴りのフェイントからの燕旋脚である。これが、燕旋脚の正しい使い方だ。この前蹴りの布石があるため、燕旋脚が、見事にヒットしている。
映画では、あるが、現実の格闘でも、燕旋脚は、こういう使い方をすべきなのだ。
黄仁植の後ろ回し蹴りも、黄仁植が後ろ回し蹴りを多用しているのを見ているから、黄仁植が放った後ろ回し蹴りを、後ろにさがって、かわすのではなく、逆に入り込んで、足と体を捕まえ、すくい上げて地面に落としている。
また、黄仁植の連続蹴りの攻撃に対し、同じ連続蹴りで攻撃した後、激しいトラップで、前蹴り、飛び蹴りをしている。リーのトラップは、蹴りを確実にヒットさせるため、というより。トラップそれ自身が、攻撃である。戦闘とは、狂気の状態で戦うものであり、リーはそれを象徴的に表現している。リーは美しいパンチとキックのファイターではない。リーのパンチとキックは戦闘の一つの手段に過ぎない。リーの武器とは体全部である。
チャック・ノリスは、さすがに達人であり、あらゆる技を身につけている上、多くの攻撃パターンを持っている。黄仁植を最初に倒した時の、パンチの連続からの後ろ回し蹴り。パンチの連続からの巴投げ。リーに対しては、パンチの連続からの背負い投げ。
空手と柔道を身につけているため、それを連動させた見事な攻撃パターンをつくり上げている。
リーがノリスに倒された後、リーが軽やかなフットワークを使い出した。スローモーションで、ノリスが、蹴りでリーに攻撃するが、全て、あしらわれてしまう。(実際の戦いでは、こんなロングの間合いから、蹴ったりはしない。もっと近づいて、相手との距離をつめて攻撃する。しかし、それでは、映画の戦いとして美しく見えない、から、離れて蹴りを出しているのだ)リーは、サークリングテクニックによって、真後ろにさがらずに、横にずらしながら、身を引いている。チャック・ノリスのキックに、軽く手で払っている。これは、完全に手を触れずに後退する事は、敵を有利にしてしまうからだ。絶えず、相手の蹴りに、触れる事によって、相手の感触を感じつつ、間合いが、感じとれ。また、蹴りに対して、手が反射的に出るのだろう。ボクシングのパーリング的である。
チャック・ノリスは、全力で放った蹴りが、全て、かわされ、これでは疲労してしまう。
リーは、前足でのマシンガンキックで、ノリスを倒す。このリーの片足マシンガンキックは、リーのオリジナルテクニックかと思ったが、おそらくムエタイからヒントを得たのだろう。ムエタイでは、前足での片足連続キックは、練習の基本である。
リーは、毎日、10キロ走りこむ、というほど、基本体力に心がけた。鉄の心臓をつくりあげた。これは、格闘では、小器用な技より、体力の重要性を重んじたからである。そして、事実、格闘では、その通りである。
また、リーは、無我の境地、オートマティズム、を言っている。
「自分の意志でパンチを打つのではなく、パンチが自分の意志ではなく無意識に打ち込まれるのだ」
と言っている。ここまでいくと、インド哲学の梵我一如である。無我の境地である。
現象は自由意志ではなく、自分というものが無くなり、世界との一体化である。自分が世界と一体化するのである。
もし基礎体力がなく、すぐに息が上がってしまっては。息があがると、頭に意識がもどってしまう。それも、リーが基礎体力を心がけ、鉄の心臓を持つ必要を重要視したからであろう。
リーは、テクニックは完璧に完成されているのだから、別に基礎体力の訓練をしななくても、見事な、いいアクション映画はつくれた。それなのに、基礎体力の訓練を怠らなかったのは、リーが本当の武術家だからだ。リーは映画でアクションだけ、上手いが、実戦では、映画通り、ほど、強くない、などという分離を嫌ったのだ。自分は、実戦でも映画通り強い武術家である、という誇り、ファンに対する誠実さゆえだろう。
また、リーは映画で成功しても、最期まで武術家を貫き通す性格だった。
リーは、アクションスターだけではなく、本当の武術家気質を持った武術家なのだ。
そこらへんもリーの魅力なのだろう。
リーは、「技はコントロールされなくては、ならない、が、コントロールされ過ぎても良くない」と言っている。この意味は、
「コントロールされる」とは、体のバランスをしっかり、保ったまま、突き、や、蹴りを繰り出す戦い方である。敵に攻められるスキをつくらない、守りがしっかりしたスタンスである。そのかわり、パンチやキックの破壊力は、その分、おちる。
一方、「コントロールされ過ぎていない戦い方」とは、体のバランスは、考えず、パンチやキックを思い切り出す戦い方である。これは、パンチやキックが外れれば、体のバランスをくずして、守りにスキができてしまう。
どちらにも偏らず、これを調節する事が大切なのである。
空手や拳法の戦いでは、達人同士では、なかなか勝負がつかず、持久戦になることが多い。
なので、達人同士の戦いでは、「コントロールされた戦い方」になりやすい。
カンフー映画での戦いは、「コントロールされた戦い」である。これは当然である。映画では、戦いは、美しく見えなくてはならない。パンチやキックが乱れては、アクションがきたなくなる。
また、以前、芦原空手の「サバキ」というビデオを観たが、これも「コントロールされた戦い方」である。そもそも、芦原空手は、「コントロールされた戦い方」である。いい例が、芦原空手の後ろ回し蹴り、である。芦原カラテの後ろ回し蹴りは、体の軸を一直線に保って、いる。コマ送りで、見たが、インパクトのギリギリ直前まで膝が開かれていない。
これが、本来の後ろ回し蹴り、であり、後ろ回し蹴りの訓練で、ゆっくりやる時には、このようになる。後ろ回し蹴りの原理がよくわかる。しかし、実戦では、普通、スピードを思い切りつけて、体を回すから、膝はインパクトのかなり前から開いてしまう。しかし、後ろ回し蹴りの原理は、同じである。
しかし、芦原カラテの後ろ回し蹴り、は、インパクトの直前まで膝が開かれていない、極度にコントロールされた蹴りである。だが、破壊力は落ちていないのである。そして、体のバランスがしっかり保たれているから、蹴りが当たらなくてもスキができず、相手に攻撃されることがない。安全な後ろ回し蹴り、である。
後ろ回し蹴り、に限らず、芦原カラテのパンチやキックは、全て、体の軸をしっかり保ったコントロールされたものである。しかし、破壊力は、まったく落ちていない。
芦原カラテでは、サバキの研究に徹しているため、体のバランスが崩れないコントロールされたスタイルなのである。
一方、「コントロールされていない蹴り」つまり、守りを考えず、力の限り蹴る蹴り、で、いい例は、「ドラゴンへの道」で、チャックノリスとブルース・リーとの戦いで、スローモーションで、チャックノリスが、リーを追いつめる蹴り、が、そうである。といってもいいと思う。あの蹴りでは、チャックノリスは、守りというものを考えず、力の限り、思いきり蹴っている。
ブルース・リャン
ブルース・リャンは、技だけ見ればブルース・リー以上にダイナミックである。ありとあらゆる連続技が出来る。第一、ブルース・リーの蹴り技に、飛び後ろ回し蹴りは、ないが、リャンは、ものすごい華麗な飛び後ろ回し蹴りが出来る。
しかし、倉田保昭と戦った、「帰ってきたドラゴン」を見ると、華麗な技の見せ合い、という感じで、その点、リーのアクションは、見ると、まさに戦っている、という感じがして、その点でリーの方が人気があるのだろう。リーのアクションは、戦い、それ自身がドラマであり、リーの主義、や、主張があった。
リャンは、倉田のような達人との一対一の戦いより、複数の敵を相手にした戦いのアクションの方が素晴らしい。
大変、疑問に思う事なのだが、リーは、拳法を身につけただけでは満足できず、なぜ、ああまで武術家であろうとする欲求にこだわったのであろうか。そして武術の研究をしつづけたのであろうか。
現代において武術家であることは、ナンセンス極まりない。戦国時代のように、無法の時代なら、武術を研究する必然性はあるが。柔道の元である柔術は戦国時代の必要性から生まれた。現代は、法治国家である。もちろん無法者に襲われる可能性はあるが。ああまで、武術を研究する必然性があるのであろうか。拳法および、他の多くの格闘技の技を身につけただけで、十分自分を守れるではないか。
現代における、武道の最も有意義な目的は、ルールをきめたスポーツとしての発展にある。
やはり、実戦カンフーファイターの具一寿氏が、言っているように、武術家とは、狂気の精神状態を維持している一種の病的人間としか、思われない。
絶対、世界中のどんな強い男に襲われても、自分を守り抜いてみせる、という大変なプライドからだろう。
実際、リーは、世界中のどんな強い男に襲われても、自分を守り抜けるだろう。
自分の強さに自信を持って、リーに戦いを挑んだ男は多い。
しかし、そういう人は、武術の意味がわかっていない。
そういう人はリーほど武術を深く研究しているだろうか。
リーは、武術に関する本は孫子の兵法まで全部、読んでいる。
そういう人はどんなに強くても、リーをノックアウトする事は、出来ない。
リーは、プロレスラー、体重200キロ以上の格闘家に襲われても、ノックアウトされることはないだろう。そもそもリーをノックアウト出来る男など、まずこの世にいない。もし剛の男がリーに決闘を申し込んで、意気揚々と決闘に赴いたとする。しかし、彼は己れの悲鳴を聞くだけだろう。なぜなら、おそらくリーはピストルを持っているから。(ドラゴン危機一髪、では、リーはナイフを使って戦っている)武術はスポーツではない。卑怯もへったくれもない。
技が華麗なアクションスターは多い。しかし、リーほど、武術の研究をしているアクションスターは、いないだろう。そもそもリーの生活は武術の研究が、大半を占めた。
大山倍達、は、なぜ、手刀によるビールのビン切断の研究にこだわったか
大山倍達は、手刀によるビール瓶切断の研究を熱心にした。
彼は空手家であり、空手を武器とした格闘家である。彼は様々な格闘家と戦った。
彼のような人は、ビール瓶の切断の技術より、人間との戦い方を研究した方が、ずっと有益である。しかし大山倍達は、手刀によるビール瓶の切断の研究を熱心にした。
これはなぜか。それは、もちろん、人に見せて得意になるためではない。
実は、ここに空手の目的が象徴的に示されている。
氏ほどの技量に達すると、ビール瓶を切断できる感覚が起こってくるのである。
これは、何も氏だけではなく、空手家の試割り、において、全ての空手家に共通して起こる感覚である。「切れる」、「割れる」という感覚が技の上達時に起こるのである。
人間は、「出来る」と感じられる事は、やらずにはいられないのである。どうしても、やってしまうのである。そして、ここに、空手の目的もはっきり示されている。
つまり、空手は、動く人間を相手として、考え出された拳ではないのである。
それは、ボクシングやタイ式ボクシングのパンチである。
空手の拳は、動かない物体を破壊するために、考え出された拳なのである。
また、試割り、は、巻き藁で、拳を鍛えている、以上に、手首の固定が出来ているため、安全、という面がある。初心者は、安易に試割り、をすると、手を怪我する危険があるので、やめた方がいい。
段位について
私は大学は関西の医科大学に入った。空手部もあった。関東では、松涛館流だったが、関西では糸東流だった。もちろん、運動系のクラブなんかに入る気は全くなかったので、入らなかった。
ただ、過敏性腸症候群がひどく、健康のため、近くの空手道場に数回、行ってみた。健康に効果がないので、数回でやめてしまった。そこの先生は、そこの大学出身の開業医だった。先生はそれほど、上手くはなかった。その道場に、一人の黒帯の指導者がいた。彼は黒帯だが、手先から力を出し、腰から力を出せていなかった。しかし彼は性格がとても、誠実だった。空手を身につけたい、という気持ちからではなく、何でもいいから、武道を訓練して、心身を鍛えようという気持ちから、入門したのだろう。私は、こういう人に段をあげて、全然悪くないと思う。その人は技術は、黒帯とは言いにくいが、小手先の技術が、ちょっと、うまい、だの、なんだの、なんて、くだらない事だ。その人は、休むこともなく、指導も熱心で、武道精神はしっかり身についている。人間で大切なのは、技術うんぬんではなく、精神だ。実際、その人は、何か有事の時には、空手家として、最も適切な対応をするだろう。
同じ道場に、技の見事な黒帯が二人いた。二人は、陰で、先生を莫迦にしていた。私はこういう人間をつまらない人間だと思う。
私の尊敬する、医学者の池見酉次郎先生も、本の中で書いている。
「一芸を極めた人間は、非常に偉大になっていくか、非常につまらなくなっていくかのどちらかである」
空手の組織は日本に数多くあるが。私は初段は、基本が、特別、上手くなくても、出来て、ちゃんと休まず道場に通いつづけ、武道精神を身につけているなら、初段を与えるべきだと思う。
なかには、初段の技術レベルをやたら高くして、自分らの×級は他の道場の黒帯レベルなどと、他の道場を莫迦にして、自分らのレベルの高さを自慢している所もある。大人気ないことだ。
だいたい、武道の段位は、初段か二段で、技術は頭打ちになってしまうものだ。
一般の人は、誤解している人もいるが。武道の段位の数は力量の比例ではない。初段以降は経験年数である。三段は技術が、初段の三倍うまいのではない。段位は長くつづけた実績によってあがっていく。
私は関東で空手を始めた時、いくつかの道場を見学した。なかには、ひどいのもあった。師は技は上手いが、道着も着ず、でっぷり突き出た太鼓腹。刀を置き、テレビに出た写真をけばけばしく飾り立てている。指導などせず、下手な者を頭を叩いて莫迦にしている。
指導者は、自分の技が完全でなくても、自分も道場生と汗を流さなくてはならない。
なぜなら、生徒は師の技術レベルなど簡単に超えるからだ。
優れた師につけば、すぐれた技術が、身につくなんて事は全くない。
自分は、そう上手くなくても、優れた指導力のある師についた者の方が上手くなりうる。
空手は一人でも訓練できる。
道場に通う意味は、気合いを入れるためと。指導者が見せる、技のイメージを頭に焼きつける事にある。
また、どんなスポーツでも、指導者の上手い技だけ見るべきではない。下手な人の技も見るべきである。というのは、上手い人の技だけ見ていても、なかなか、運動の要素がつかめにくいことがあるからだ。上手い人の動きは自然だから、見てても素通りしてしまって、運動の本質的な要素が見えにくい事があるのである。下手な人と上手い人との違いをともに、見る事によって、運動に必要な要素、が、見えてくるのである。上達の研究のために見比べるのである。
また、有段者でなくても、ある程度、技が身についている人なら、その人の動きを見る事によって、運動の要の要素を学ぶ事はできる。
世の中のスポーツ指導者に、自分はオリンピックの金メダリストでも、指導能力、つまり他人を上手くさせる能力、の無い人は、いくらでもいる。彼らはスポーツの世界における、天下りのようなものである。
なお、下手な人を優越感や、バカにする目的でみる人は対象外。
気合い、について
まだ、技が出来ていないのに、大きな気合をかける人がいる。
これはよくない。なぜなら、技が上達すれば、正しい筋肉の引き締めから、自然と腹から気合を出せるようになるからである。初心者のうちは、気合はかけない方がいい。気合をかける事に気をとられて、基本の動作の訓練が、おろそかになる可能性がある。
もっとも、気合は、武道精神を鍛える、という目的もあるから、絶対してはならないものではない。
スピンキックについて。
ブルース・リーの映画を観ると、複数の敵に囲まれた時、後ろから攻撃してくる敵にはスピンキックで、攻撃している。しかし、それは映画の中での見栄えのよさ、からだ。ストリートファイトで、複数の敵に囲まれた時には、後ろから攻めてくる敵にも、向き直って相対と向き合って戦うものである。
後ろ回し蹴りについて。
芦原カラテの後ろ回し蹴りは、スキがないので、そのまま使っても問題はないだろう。
しかし、一般に後ろ回し蹴りは、スキが出来やすいし、クリーンヒットなど、まず望めるものではない。頭脳的なファイターなら、相手が後ろ回し蹴りを放った後に出来るスキの瞬間に、踏み込んでパンチを打つ戦術を練習して完成させている人もいるかもしれない。
後ろ回し蹴りのような、大技も、使い方の研究によって、有効な蹴りとなりうる。スピンキックでも、そうであるが。スキの出来てしまいやすい蹴りは、かえって、それを誘いのスキとして、使う事ができる。無考えに蹴りっぱなし、ではダメである。わざとスキをつくって、相手に入り込ませ、インファイトの戦いに持ち込む、というような、戦闘パターンを日ごろの訓練で、完成させてしまう、というのも、とても有効な方法だ。
空手に先手なし
「空手に先手なし」とは、空手にとって一番有名な格言である。
これを、多くの人は、空手家からは攻撃しない、という道徳的な意味と、とらえている。
確かに、それもあるだろう。松涛二十訓の中でも、「血気の勇をいましめるべし」とある。
しかし私はそれ以外の意味もあると思う。空手家の方から手を出すな、など、あたりまえ過ぎる。私は、これには、技術的な意味もあるのではないかと思う。
空手は、物を破壊するため、手足を武器化するために生まれた。空手は、人間を相手にした格闘スポーツとして生まれたのではない。そのため、物を壊す破壊力はあっても、動く相手に、戦うフットワークは、はじめから、ない。そのため、空手は実戦で戦うには難がある。そのため、もし戦う事があるならば、相手に攻めさせ、そのカウンターをとって反撃するのが、空手の戦い方である、という技術的な意味も、あるように思える。
実際、伝統空手の寸止めの試合では、先に攻撃をしかけるより、相手の攻撃を待って、相手が攻撃してきた時、そのカウンターをとって反撃する、方が有利なため、寸止めの試合では、膠着状態になる事が多い。
そもそも空手の開祖者の、船越義珍氏、は、自由組手は、技が乱れるから、と言って、自由組手に反対した。
フルコンタクト系の実戦系の空手では、伝統空手を身につけただけでは、戦いにくいから、どの流派も、フットワークやキック、受け、を、実戦で使えるよう、に、創意工夫している。
ストリートファイト
今では、フルコンタクト空手が、最強で、伝統空手や寸止め、を、空手ダンス、などと莫迦にする風潮は、ないだろう。(一部の人では、あるだろう)
空手や格闘技では、今は、組織によって、実に多くの組織に、わかれていてる。
極真空手のように、素手で顔面パンチなし、のルール。
ムエタイのように、グローブをつけての顔面パンチあり、のルール。
掴み、組技あり、つまり何でもあり、のルール。
テコンドー。
南郷継正氏の流派。
芦原カラテのように、掴み、倒し、あり、で、空手をスポーツではなく、武術として研究している流派。
伝統空手でも、寸止めの試合、と、マスクとグローブをつけて、顔面パンチあり、のルールの試合がある。
倉田保昭氏のような、アクション空手。
組手はせず、型のみを極度に研ぎ澄ます伝統空手の人。
ブルース・リーのように、グローブ、とマスクをつけ、戦い方を研究する流派。
太極拳のように、破壊力を追求するもの。
など、他にも、無数に、あるだろう。
それぞれ、何を求めているか、である。
(ちなみに、初代タイガーマスクの佐山聡は、技が見事なだけではなく、格闘技に対する見解は天才である)
才能のある人とは、自分が何を求めているか、を、しっかりと見極めている人である。
伝統空手について。
フルコンタクト空手では、伝統空手の寸止め試合をケンカでは、使えないと思っている人もいるのではないだろうか。しかし、それは違う。確かにケンカでは、フルコンタクト空手の方が強い。しかし、素人が街でケンカすると、当然、顔の殴り合いになる。が、腕に力が入ってしまうため、フックぎみになり、また、両方とも狂気の精神状態だからクリーンヒットなど、まず決まらない。
ここで、寸止め空手で有利な点がある。
それは寸止め試合に慣れてる人は、遠くの間合いから、踏み込んでのストレートパンチが打てる。という点だ。
柔道について。
また、ストリートファイトでは、殴る、蹴る、が主だからといって、柔道は、ストリートファイトでは、空手より劣ると思ってる人もいるだろう。南郷継正氏は著書「武道の理論」の中で、柔道家を空手家より、低く見て批判している。私は南郷氏の柔道家に対する見解を間違っていると思う。確かに、柔道の試合では、技がきれいに決まるという事はない。それは、両者、柔道の実力が互角にあるからだ。柔道は、掴みあい、お互い、必死で、防御しようとするから、きれいに技は決まらないのだ。これをもって、技が身についていない、と解釈するのは間違いだ。もし、柔道家と空手家が、柔道の試合をしたら、絵に描いたような美しい一本背負いが決まるだろう。これに対し、空手は掴み合う事が無く、相手に触れる事がないから、出す技は、形が崩れる事はないのだ。
確かにストリートファイトでは、相手の顔を殴る事が主だ。だから、ストリートファイトに強くなりたければ、ボクシングを習えばいい。ボクサーは確実にストリートファイトで強い。
では柔道はストリートファイトでは、身につけていても、あまり効果が無いであろうか。
私はそうは思わない。ケンカは、いきなり、真剣勝負として、始まる事は少ない。口喧嘩から始まり、掴み合いになり、だんだん、怒りが激しく煮えたっていき、殴り合いになっていく。
国会での政治家どうしの喧嘩が、いい例である。また、いきなりの真剣勝負でも同じである。柔道家は、掴んで、相手の足を刈る事によって、相手を地面に倒す事ができる。喧嘩において、相手を地面に倒す事が出来る事ほど有利な事はない。顔面パンチなんかより、相手をアスファルトの地面に尻や背を打ちつけられる事の方が、ずっと大きなダメージを相手に与える事が出来る。そして、もちろん、柔道家はパンチが打てないのではない。人間なら、誰でも人を殴る事は出来る。殴る、という動作は、生まれつき、身につけているものだからだ。殴る事ができない人がいるだろうか。柔道家は、柔道の試合では、ルールで、殴らないだけであって、喧嘩になったら、当然、殴る。しかし、そのパンチは素人の殴り方では、あるが。ストリートファイトでは、柔道家は、足を刈って、敵をアスファルトの地面に倒し、殴る。蹴る。それゆえ、柔道家は、ストリートファイトでも強いだろう。
ブルース・リーの、「ドラゴンへの道」でも、チャック・ノリスとの戦いで、ラストの方で、リーが、掃腿で、チャック・ノリスの足を刈って、チャック・ノリスが、地に叩きつけられるシーンがあるではないか。なまじのパンチやキックより、相手を倒せる事の方がどれだけ、相手にダメージを与えられることか。
南郷継正氏に対する疑問。
私は氏の著書から、多くを学んだ。氏は空手家であり空手指導者であり、まず、氏の流派に入れば、空手を身につける事は出来る。氏の流派に入門した生徒で、落ちこぼれる人はまず、いないだろう。論理というものを持っている人は南郷氏くらいだろう。
しかし、南郷氏の見解にも間違いはある。
一番は、柔道に対する見解の誤りである。また、氏はブルース・リーを嫌っており、靴が技のまずさをカバーする。などと言っている。空手は、滑らない床で素足で蹴る。そのため、空手家は、靴を履くより、素足で蹴った方が、蹴りやすい。氏の流派は、空手をスポーツというより、武道と考えている。ストリートファイトで、わざわざ靴を脱いで戦うというのだろうか。靴、特に固い革靴は、爪先蹴りしても、突き指する事なく、とても有利である。基本的に靴を履く、履かない、は、空手に関係ない。むしろ、ストリートファイトということを考えれば、靴を履いての蹴り、というものも研究すべきだ。
また中国拳法に対する見方にも誤りがある。
しかし氏は偉大な人間であり、かなり、不遜な言い方もしているが、氏の論理的能力、多くの優れた指導者をつくりあげた功績、多くの著書で、運動の本質を文章で論理化した功績を考えれば、多少の誤り、や、偏見は、とるにたらないものである。
執念を持った素人のおそろしさ。
戦いの勝敗を決めるのは、技でもウェートでも武道の経験年数でもない。
執念の強い方が勝つのである。ある武道など全く無縁なひ弱なサラリーマンがいたとする。
そして、その人の最愛の子を殺した強靭な格闘家がいたと、仮定しよう。
その場合、サラリーマンは、必ず、格闘家を倒す、か、殺すか、する。
執念が違うからである。サラリーマンは、用意周到な計画を立て、ピストルか、ライフルを暴力団から手に入れるだろう。サラリーマンは、相手を殺す気であり、自分の死もおそれていないからである。
あるいは、殺し屋に金を払って、殺し屋が、格闘家を殺したり、生け捕りにして、リンチする事もあるだろう。格闘家は、はたして暴力団の凄惨なリンチに雄々しく耐え抜けるだろうか。格闘家は、強くなると、精神も不遜になりがちだが、人間の精神は弱い、という事実を根本でしっかり、自覚していなくてはならない。
ある道場に行ったら、昔は、道場主が門下生に街でチンピラを数人叩きのめしてこい、とか、言った、とか、言ってたが、こんなのは莫迦もいいとこ、である。
チンピラやヤクザが、殴られっぱなしで、泣き寝入りするだろうか。
必ず、お礼参りが来て、木刀で叩きのめされて、道場はつぶれる。
プロ野球選手、スポーツマンは強い。
解りきった事だが、どんなスポーツでも、スポーツやランニング、体を鍛えることを日課にしている人は、ケンカにおいても強い。
小手先のテクニックだけ、身につけているだけの者は、毎日、4キロかかさず、ランニングしている者に必ずやぶれる。
ルパン三世、対、石川五右衛門
真の武術家とは、どういうものかを示すいい例がある。テレビアニメの「ルパン三世」で、ルパンと石川五右衛門の決闘がいい例である。石川五右衛門は、居合い抜きの達人で、鉄まで簡単に切れる。まさに、五右衛門の方が武術家である。一方、ルパンは何の武術も身につけていない。しかし、実際にはルパンの方が武術家的である。ルパンは五右衛門との二回の決闘で、あらかじめ決闘の場所に、大きな落とし穴を掘っておいて、五右衛門は二度とも、それに落ちてしまうのである。
どんなに技が達人でも、「正々堂々」、だの、「卑怯」たの、五右衛門は武道の意味がわかっていない。武道に、「卑怯」も、「正々堂々」も無い。頭のいい人間、用意周到な人間で、負けない人間こそが武道家である。
ボクシングについて。
空手を身につけた後に、ボクササイズを4回やった。たまたま、近くの体育館で、その講習会が、あったからだ。空手の突きを身につけているので、ボクシングは、色々な点で、非常に興味があった。空手を身につけた後でもボクシングのパンチを身につける事は出来る。ジャブ、と、ストレートは、容易だが、フックやアッパーは、少し難しかった。
ボクシングにおいて、大切な事は、拳の握り方である。ボクシンングでは、指一本、握れるくらい、隙間を空けて拳を握る。こうすると拳に力を入れられなくなるので、腰の回転の力によって、打つという、ボクシングの打ち方が出来るようになる。
スポーツチャンバラ一日体験参加。
昔、カルチャー教室で、スポーツチャンバラに一日体験してみた。先生は、「武道の目的は勝つ事ではなく、負けない事」と言ったが、武道の本質をよくわかっている人である。と思った。参加者に、剣道の有段者がいた。剣道は武器を使い、重たい防具を身につけねばならない。空手は、いつでも、どこでも一人で練習できるが、剣道はそうはいかない。基本的に学生のスポーツという面が強い。そこで剣道家はスポーツチャンバラに参加したのだろう。自信満々だった。試合は勝ち抜きで、剣道家は簡単に三人抜きした。しかし私は彼の精神にスキを見出した。彼は、いささか、得意になって、なめていた。私は彼のうぬぼれの鼻をへし折ってやろうと思った。私は相手と同様、剣道らしく中段に構え、上段の面打ち、をするよう見せかけた。そして、「はじめ」で、お互い、飛びこむと同時に、私は面打ちの構えから、相手の足を刈ったのだ。きれいな、一本勝ちが決まった。これは、もちろんフェイント攻撃である。そして、二度は使えないものである。やぶれた三人も剣道の感覚で、誰も足を狙おうとはしていなかった事も幸いしている。やぶれた剣道家のくやしそうな顔といったらなかった。
クセについて。
どんなに優れた指導者の組織に入って練習しても、どうしてもクセは、多かれ少なかれ、出来てしまう。もし、クセが、全く無い人がいたら、その人は達人になっていく。
クセは、どうして出来てしまうのか。私が思うに、一番の理由は、その人の性格だと思う。
「突きは腰から力を出さなくてはならない」とか、「技は大きくつくらなくてはならない」とか、「空突きの練習では、力は80%くらい入れて反復練習しなくてはならない」とか、運動の本質的な事が、わかるかどうか、だと思う。また、師の教えに盲従するだけの人もよくない。「今、自分は何をすべきなのか」を考えなくてはならない。
独創性、や、創造性とは、達人になってから、はじめて発揮するものではない。
練習の過程において、どうしたら自分は上手くなれるか、を、考え、練習法を自分なりに工夫する事は、独創性、創造性、以外の何物でもない。
サルトルは、「人間は自分がつくったところのものになる」と言っているが、まさにその通りである。
三島由紀夫に対する疑問。
三島由紀夫は、スポーツは、ボディービル、剣道、ボクシング、乗馬、空手、などを大人になってからやった。氏の自らを鍛えようとする意志の強さには、敬服する。特にボディービルは凄い。氏は90キロのベンチプレスを持ち上げられる。あの上腕の物凄い事。全共闘と論戦した時の、画像がYou―Tubuで、あるが、いったい、どっちが学生だかわからない。
ただ三島自身は、運動はあまり上手くはなれなかったようだ。三島は、これを運動神経の一言でかたずけているが、それは違う。運動が上達するには、自分で考え、創意工夫しなくてはならない。
また、三島は、小説の中で、スポーツをやる人間は莫迦、と何度も言っているが、これも違う。スポーツが上達しない人は、考えないから、上達しないのである。逆に言えば、考える人は、上達するのである。南郷継正氏の多くの著書を読めば、いかに運動の上達において考える事の大切さがわかる。
プロレス
プロレス八百長説を、今時、むきになって言う人は少ないと思う。
だからといって、プロレスは真剣勝負ではない。
柔道家の木村政彦は、プロレスを何度もやって、プロレスの内部事情を知っているが、氏は著書で、プロレスは八百長、としっかり書いている。
しかし昔と今とでは違う。
プロレスは八百長ではない。
もしプロレスが八百長だったら、レスラーは練習などしなくなるはずである。結果、プロレスラーは、弱くなるはずである。しかし、プロレスラーは、他の強靭な格闘家と戦っても互角に戦えるのである。そもそも、プロレスラーの練習は、あらゆるスポーツの中で一番、ハードなものである。ヒンズースクワット3000回だの、プロ野球の比ではない。
一言でいうと、プロレスは、学校で、生徒のする、ケンカのようなものである。もし、本気のケンカだったら、顔の殴り合いになるだろう。
生徒のケンカは真剣勝負ではない。お互い、相手の出方を見ていて、相手の出方によって、こちらの出方も自然と決まってくる。筋書きなどない。その場の流れで、戦っている。
プロレスもそれと同じなのだ。100%の真剣勝負ではないが、80%くらいの力で、相手の力加減に応じて、その場の流れで、戦っているのだ。
金沢弘和先生について。
私は一度、松涛館流の金沢弘和先生に会った事がある。ある夜、岡田有希子さんに縁のある四ツ谷を歩いていたら、意気のいいかけ声が聞こえてきた。松涛館流の本部道場だった。金沢弘和先生が、いた。氏は型が日本一上手いと評価されていた。氏は連続写真の型の本、「空手型全集、上、下」を出しており、それは三ヶ国語くらいで解説が書かれている。国内の本というより、海外で売られている本である。確かに、実に技がきれいだ。氏は日本の空手家というより、世界の金沢である。あらゆる国を回って空手を指導してきた。
私も空手を始めた時、氏のコンパクトな本を買った。氏はチャック・ノリスに顔が似てる。
氏は引き締まった、痩せ型の体で、会った時は、60才を越していた。が、技も柔軟性も全く、落ちていない。先生と、二言、三言、話したが、氏の体を見てびっくりした。巻き藁で鍛えた手のがっしりしたこと。空手着の奥に垣間見えた胸板のがっしりしたこと。その骨格の頑丈さ。無駄な贅肉など全くない。18才の肉体だと思った。
戦後、沖縄で、GHQが、若者の体格を検査したところ、空手をやっている者はおどろくほど体格がいいので、びっくりした、という事だ。
私も、人を見て、その人が何かスポーツをやっているか、どうかは、体格や、歩き方で直ぐわかる。
私が始めに空手を習ったのは、松涛館流の道場である。家から少し離れていたが、誠実な人格の先生だったので、そこにした。師は金沢先生の事も知っていて、話してくれた。それによると、金沢先生は、拓殖大学に入ってから、空手を始めたそうだ。空手部の先輩や同期には、もう空手をマスターしている者も多くいて、からかわれた事もあった、ということだ。前歯をバキバキ折られた、そうだ。だが、夜中に一人で道場に来て、練習した、とも聞いた。
私も一度、型はたくさん覚えたが、空手の型は、平安の五つの型が、きちんと出来るなら、他の型は、全て簡単に出来る。平安の五つの型に、全ての型の要素が含まれている。
だが、私は金沢氏より技の見事な達人を知っている。空手を始める前、近くの空手道場をいくつか見学した。私の家に一番、近い道場も、はじめに見学した。氏の手刀受け、と、前蹴り、を見てびっくりした。特に前蹴りの美しさにびっくりした。普通、空手では、横蹴り、や、後ろ回し蹴り、が、華麗でダイナミックな蹴りで、前蹴りは、あまり見栄えの華麗な蹴りではない。しかし、膝を曲げた姿勢からビシーンと、物凄い前蹴りが決まっていた。気合のように、その音が道場中に鳴り響いた。あの蹴りを見ただけで、誰でも圧倒されてしまうだろう。まず、幼少の頃から、空手を始めた人に違いない。
その人は人格もしっかりした人だったが、いささか硬派で、あまりにも技が優れすぎているので、ちょっと敬遠した。
格闘技の科学「突きは、肩を出す」の、誤り。
以前、「格闘技の科学」というようなタイトルの本を、読んだ。著者は、物理学系の学者で、運動を科学的に研究していた。パンチの強さを数値で、測ったり、体の各部に測定器具を取り付けたりして体の動きを、測ったりしていた。著者は、自ら少林寺拳法や、サイクリングをして、自らも運動好きである。
その中で、一つ疑問に思った。空手の実際の試合では、パンチは、肩を出すのに、空手の型では、肩を出さない、のを、氏が疑問に思っている事である。これは簡単に説明できる。一言でいえば、「技をつくる」と、「技を使う」の違いである。空手で、空突き、や、型で、「技をつくる」時の練習では、パンチで肩を出す事は厳禁である。初心者では、肩が出てしまいやすい。肩を出さない空突きの練習をする事が、空手のパンチの訓練の基本である。これは、一番重要な事で、パンチの訓練で、肩を出していたら、いつまでたっても、上達しない危険がある。
一方、実際に試合で相手と戦ったり、試割りで、板などを突く時、つまり、何か実際に物を殴る時は、肩は、出るものである。
これは、ひとえに、「技をつくる」と、「技を使う」の違いである。
これは、何も空手だけではなく、多くのスポーツで、いえることである。
野球では、バッターにとって素振り、は、練習の基本である。素振りは、どんなに上手くなっても、する練習である。フォームの研究、実際に打つ前の、ウォーミングアップのため。プロ野球の選手でもしている。「素振り」のフォームは、それ自身、完成したフォームであるが、当然、実際に打つ時のフォームとは違う。実際に打つ時は、バットにスピードのある球の反動が、返ってくる事を想定して振るから、思い切り振る。そのため、空振りすると、振った後、体のバランスが崩れる。「素振り」は、「技をつくる」方の振り方なのである。
これは、野球だけではなく、テニス、ゴルフ、他、球技のスポーツでみな、当てはまる。
ブルース・リーは、一つの流派の戦い方に拘束されるな、と、口を酸っぱくして力説した。
その理由は、実はブルース・リーが、一つの流派を完全に身につけてしまったからだ。それは、詠春拳である。つまり、リーは、一つの流派を極めてしまったから、一つの流派を極めることの、裏にある危険性も痛感しているからだ。リーは、戦いは、いかなる拘束からも、自由でなくてはならない、と言っている。
どんな例でもいいが、ボクシングを例にしよう。
何年もかけてボクシングの戦い方の体系を極めて戦術も身につけてプロにまでなった人がいるとしよう。
ボクシングは、ケンカでも、一番有効な格闘技である。
だから、その人は、ケンカになったら、ボクシングのパンチのみの戦闘法が、出てしまうだろう。
もし、その人が、そののち、空手やキックボクシングを学んだとしても、やはり、ケンカでは、ボクシングのパンチが、出てしまうだろう。
机上の勉強と違って、体で一度、覚えたものは、忘れたくても、忘れられないのである。消したくても、元に戻す事は出来ないのである。
これはどんなスポーツでも、言える事である。一度、スキーなり、テニスなり、どんなスポーツでも、身につけてしまったら、それを出来ない、元の状態に戻す事は出来ないのである。
もちろん、これは、スポーツにおいて、とてもいい事である。机上の頭で覚えた勉強は、時間がたてば、忘れてしまう。しかし、体で覚えたものは、忘れないのである。幼少の時、自転車に乗れるようになるには、みな、かなり、てこずったろうが、一度、自転車にのれるようになったら、もう自転車は乗れるようになる。乗れなくなるようにする事など、不可能である。これは、一般のスポーツにおいては、いい事、というより、素晴らしい事である。頭で覚えたものは、忘れてしまうが、体で覚えたものは、一生、忘れないのである。
しかし、それがかえって、問題になる事もあるのである。
空手を身につけてしまった人は、そのあと、キックボクシングに転向すると、支障が出てしまうのである。どうしても、空手のパンチやキックが、出てしまいやすいのである。
ボクシングを身につけてしまった人が、その後キックボクシングを身につけるのも、支障が出るのである。キックボクシングのパンチとキックのコンビネーションより、完成されたボクシングのパンチが出てしまいやすのである。
そういう事は、スポーツにおいて、いくらでもある。軟式テニスと硬式テニス。
非常に似ているスポーツの場合があぶないのである。身についているスポーツに引きずられてしまう可能性があるからである。似ているスポーツでは、かえって、やらないで、白紙の方がいいのである。
空手を身につけてしまった人は、カンフーを身につける事は困難ではないか、と思う。
パンチやキックが、どうしても空手のパンチやキックに引きずられてしまうからである。
空手の達人の笠尾恭二さんは、そののち、中国拳法に惹かれて、中国拳法を、一心に習い、多くの中国拳法の本を出している。しかし、どうしても、体の動きが空手に引かれてしまい、中国拳法や発剄を身につけるのは、とても困難だ、と言っている。
武術の才能は、あるのだから、はじめに中国拳法から習ったなら、中国拳法の達人になっていた事は間違いない。
始めに空手を身につけてしまってから、そののち、中国拳法を身につける事は難しい。
しかし、逆はそうではない。始めに中国拳法を身につけた人が、その後、空手を身につける事は困難ではない。ブルース・リーの蹴りだって、空手の蹴りである。
空手の型を実際に見た事がある人なら知ってるが、空手は岩のように固く、強い幾何学的な動きである。それに比べ中国拳法は動きが、柔らかい。やはり、運動の難度という点において、空手より、中国拳法の方が上なのだろう。
ブルース・リーは、型や、流派の戦い方にとらわれるな、と力説した。
これは、実はリーが、詠春拳という、一つの流派を極めてしまったから、である。もちろん、武術の達人になるには、一つの流派に身をおいて、それを極めなくてはならない。しかしリーは、流派を極める事の裏にある弊害をも知っていた。流派を極めれは、もはや、流派の拘束から、抜け出る事が出来なくなるのである。そののち、リーは、様々な格闘技、武術、を研究したが、やはり一つの流派を極めてしまうと、もはや自由な戦いというものは、困難になる。しかし、武術を極めるには、何かの流派に属し、その流派を極めねばならない。これは武術が持つ根本的な矛盾といえるだろう。
しかし私はリーの発言にも、疑問を感じる。
確かに、ボクシングならば、ケンカになった時、試合の感覚のまま戦って、何ら問題はないだろう。確実に勝ちをおさめるだろう。しかし拳法において、一つの流派を極めた者は、ケンカにおいて、流派の戦い方に、拘束されてしまうだろうか。
突きと、蹴りの応酬が主で、掴み、や、倒し、のない流派を極めた人が、ケンカにおいて、流派とおりの戦い方をするだろうか。
要は、その人の精神の持ち方、次第で、流派に拘束される事は無いように思われる。
自分を白紙に出来る人は、身につけた流派の技はケンカにおいて、有利に利用する事が出来る事こそあれ、流派に拘束される事はないように思う。
リーが、流派にとらわれる事を批判した理由。
リーは、アメリカ時代、流派というものを、批判している。そのため、自分の截拳道こそが、優れていて、他の流派は、駄目だと、うぬぼれている、という誤解、中傷をされた。リーはかなり、これによって、非難された。しかし、リーの考えは、ちがうのである。
そもそも截拳道という流派の武術など存在しないのである。
一言で言えば、リーは、武術家であり、ストリートファイトにおける戦いを想定していたのである。その時、つまり、ストリートファイトの時、自分の流派の戦い方のみで、戦ったのでは、危険だぞ、と言っているのである。
わかりやすい例が、ストリートファイトにおいて、棒を持っていたら、棒を使った戦いになってしまう。何か、武器を持っていると、武器に拘束されてしまうのである。その人が柔道を身につけていても、棒を持ちながら、柔道の一本背負いをする事など不可能である。もはや、自由な戦い方は出来なくなる。リーは、そういう事を主張したのである。
リーは、いかなる流派も、非難も否定もしていない。そもそも、武術を身につけるには、何か一つの流派に属し、徹底的にその流派を極めなくては武術は身につけられない。
世に習い事は、多くあるが、そして、多くある流派によって、若干の考え方、の、違いはあるが、何かを身につけようと思ったら、どれか一つの流派を選び、それに属し、徹底的に自分をその流派の型にはめなくてはならない。能、華道、茶道、書道、その他、すべてにおいて言える。
倉田保昭氏は、空手、柔道、合気道、という三つの武術を完全に身につけている武術家である。
リーは詠春拳の達人であるが、そののち、空手やボクシングなど、様々な格闘技を研究し、技を身につけたが、他の流派の武術を極めるまでには至っていない。他流派の研究というところ、だろう。
しかし、倉田保昭氏は、三つの異なる武術を完全に身につけている、という点で、リーより、はるかに条件がいい。しかし倉田はリーのように、自分の戦い方というものを、つきつめて完成させようとはしなかった。これは倉田に才能がない、という事ではない。
倉田は自分の戦い方というものを何が何でも完成させようとする必要を感じなかったに過ぎない。そして現代においては、それが普通である。戦国時代ならともかく、現代において、そんな事をむきになって研究する必要などないのである。自分の戦い方を完成させようと思っているリーのような人間の方が変わり者なのである。何のために、そんな事をしなくてはならないのだ。
倉田氏は何より、人格が優れている。氏は、誠実で、人を莫迦にしたりせず、それでいて硬派で、厳しい武道精神を持っている。
型の意味について
真の拳法家は、技が身について実戦で、戦えるようになっても、基本の型の訓練を一生する。これは、真の拳法家は型を訓練する意味を知っているからである。
そして型を訓練する必要性を知っているからである。
ブルース・リーにしても、型を訓練する意味を知っている。
ブルース・リーは、ロサンゼルスのロングビーチ国際空手トーナメントの演武試合で、ハリウッドに目をつけられた。
ブルース・リーは、ハリウッドのアクションスターとしての採用面接テストで、フィンガージャブ、バックフィスト、回し蹴り、をみせた。そして、そのあと、見事な、「鶴の型」と「虎の型」を演じて見せた。リーは、真の拳法家であり、型を訓練する意味を知っているからである。
また、実戦カンフーの具一寿氏にしても、型の訓練の意味を知っている。
もちろん、実戦では、型は全く役にたたない。それなのに、真の拳法家は、型の訓練をするのである。
これは、空手にせよ、拳法にせよ、それを格闘スポーツとしてしている人より、武術家的気質の人の方が型の訓練をするのである。武道を、自分の流派のルールの試合で勝つ事を目的としている人は、古い型の訓練など、熱心にしても技術はあがらない。だから、型を訓練する意味もわからないのである。また、試合で勝つ事を目的としている人は、古い型の訓練などするより、組手で、技の研究をした方が、ずっといい。古い型の訓練など試合では全く役に立たない。
ではなぜ、武術家は、型を訓練するか。
武術は、スポーツと違い、一切のルールがない。敵は一人ではなく、複数であることもある。掴んでくる事もあるし、武器で攻めてくる事もある。武術家は、それに対応しなくてはならない。武術は、一言でいって、護身術であり、その目的は、敵を叩きのめす事ではなく、自分を守る事である。
まず、そもそも型というのは、敵が一人ではなく、複数の敵に取り囲まれた状況を想定して、つくられたものである。
そして敵が手を掴んできたり、棒で、突いてきたりした時に、それをどう、受けて、どう反撃するか、という事を想定して、つくられたものである。
しかしストリートファイトの多くは、一対一、であり、また、ケンカでは、まず、お互い、素手で戦うケースがほとんどである。
しかし、武術家は、武器を持った複数の敵に取り囲まれた事態を想定してしまうから、そのため、型の訓練をしてしまうのである。もちろん、武器をもった複数の敵に取り囲まれた時に、型通りに戦う事などありえない。
下段払いをした時、手を掴まれ、振り払って、鉄槌で反撃する(平安初段)
など、型通りになど戦えるわけがない。
しかし、武術家は、型を訓練していくうちに、その意味と味が、わかってくるので、実戦では、使えない、と、わかっていても、つい、型の訓練をしてしまうのである。
そして、型は、その、個々の動作は、実戦では、役立たないが、全体として見るならば、複数の敵に囲まれた時の精神的な準備として、役に立たないとは、言えないのである。
その実感があるから、武術家は、古式の型の訓練をするのである。
およそ、格闘スポーツマンは、実戦においての、古式の型の意味を考えてしまうから、型は無意味だ、という結論に達してしまうのである。しかし、ある流派の戦い方を極めた者は、その流派の戦い方の意味を理解しているから、そしてその流派の戦い方の技術は、型の中に含まれているから、型の練習をするのである。
およそ、格闘スポーツ家は、精神的にも体力的にも、剛の者が多いが、武術家は、弱者、被害妄想的な傾向の人間が多い。
実戦カンフー具一寿氏の「中国拳法戦闘法」について
氏は、この本で実に多くの手わざ、足わざ、を演じ、解説している。
氏は、実戦派であり、あんなに多くの複雑な手わざ、足技、が、はたして実戦で使えるものだろうか、と、疑問に思う人も多いだろう。
普通に考えてみても、実戦では、キックボクシング的であり、パンチと回し蹴りくらい、になるだろう。これは、氏においても、そうなるだろう。
では、なぜ、まず、実戦では、使わないし、使えない、ような、技まで、全部、解説するかというと。
これは、空手を考えてみれば、わかるだろう。空手も、実に多くの手わざ、足技がある。
手わざでは、手刀。鉄槌。抜き手。裏拳。これらは、はたして実戦で使うだろうか。
足技では、横蹴りは、実戦で使うだろうか。
しかし、空手家で横蹴りの訓練をしない者はないだろう。
実戦の戦いは、当然の事ながら、相手と向き合って戦う。
だから、蹴りでは、前蹴り、回し蹴り、が、ほとんどになる。
横蹴りは、敵に対して体を横にするので、スキができ、動作も、読まれてしまうので、まず、使わない。しかし空手家は、横蹴りの訓練をするではないか。
横蹴りは、空手の蹴りの中で、破壊力のある蹴りなので、試割りなどては、よく使う。
しかし実戦では、回し蹴りが一番多い。
横蹴りにしても、手刀、裏拳にしても、実戦で、使おうと思えば使えるのである。
もし、空手の試合で、裏拳だけで戦え、というルールの試合をつくったら、そういう試合は、ちゃんと成り立つだろう。横蹴りでも、手刀でも、そうである。
空手の試合では、全ての技を認めてしまうから、畢竟、一番、威力があって、使いやすく、スキも出来ない、正拳突き、と、回し蹴り、になっているのに過ぎない。正拳突き、や、回り蹴り、は、相手と向き合った、構えの姿勢から、そのまま出せる。
ちょうど、水泳で自由型はクロールになるのと同じ事である。自由型は、どんな泳ぎ方をしてもいいのだから、平泳ぎ、で、泳いでもいいのだ。しかし、自由型で平泳ぎをするスイマーは、いない。それと同じ理屈である。
もし、横蹴りだけで戦うという練習や試合をしたら、実戦でも横蹴りを使えるようになりうるだろう。技は使わねば、どんどん使えなくなり、逆に、意識して使っていれば、使えるようになる。テコンドーでは、極度に蹴りが発達しているではないか。また、本人の意識も関係している。ブルース・リャンは、足技に対する、こだわりがあったからこそ、ああまで足技が熟達したのだ。
三年殺し、について。
これは、梶原一騎の漫画で、有名になって、名前を知ってる人は多いだろう。
空手の秘技で、大山倍達、が、アメリカで使った、とか書かれてあるが、頭部への攻撃によって、はじめは、痛みはないが、一年、二年、三年、とだんだん症状が出てきて、三年後に狂い死ぬ、恐ろしい技だそうだ。そして、よほどの達人なら、その技が出来るらしい。
私は医者であり、医学部では、脳外科も勉強したが、おそらくこれは、硬膜下血腫ではないか、と思われる。これは、頭部の軽微な外傷で、脳の架橋静脈というのが切れて血腫が、でき、受傷後、症状は無いが、年とともに、血腫が拡大していって、徐々に痴呆症状が出てきて、ついには脳ヘルニアから、呼吸停止に至る疾患である。
また、最近は児童虐待が問題になっていて、母親が幼い子の頭をひっぱたいている光景も時に見られる。しかし、ささいな打撃でも脳の架橋静脈というのは、容易に切れて脳出血を起こし、硬膜下血腫が起こるのである。無知な母親は、まさか、頭をひっぱたいたくらいで脳出血が起こりうる、とは、思っていないから、育児のストレスから容易に子供の頭をひっぱたく。非常に危険である。また、武術や、格闘技の試合でも、軽微な打撃で脳の架橋静脈が切れて、硬膜下血腫が起こる事があるのである。武術の試合をする人は、こういう事もある、ということを知っておいてほしいと思う。
ブルース・リー語録は、多くあるが、一つあげておこう。
これは、何も武術家だけではなく、全ての人に言える当たり前のことである。
「Martial Artist have to take responsibility for himself and face the cosequences of his own doings 」
(武術家は自分のとった行動の責任をとり、自分のおこなった行為の全ての結末を直視しなくてはならない)