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かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 323(トルコ)

2019-09-04 20:26:20 | 短歌の鑑賞
   馬場あき子旅の歌44(11年10月実施)
    【コンヤにて】『飛種』(1996年刊)P146~
     参加者:泉可奈・N・I、K・I、崎尾廣子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:T・H 司会とまとめ:鹿取 未放
                     

323 神学校の屋内に瞑想の泉ありて苦しめるものは耳を休めき
             
      (レポート)
 イスラム教の神学校の内部であるから、「瞑想の泉」と称されるものがあるのは分かる。ただ、瞑想の森で休めるのが、どうして頭でなく耳なのであろうか。イスラムの祈りを捧げる時、信者は皆耳に手を当てている。このことと何か関係があるのだろうか。(T・H)


     (当日意見)
★今はこの泉に水はない。325番歌(水涸れし瞑想の泉に膝つきてかの日いもうとがみしものを
 見む)に水が涸れていると詠われている。(藤本)
★三句目十一音にもなるのに泉ありてと「て」を入れているのはわざと。また、「き」は過去の助
 動詞だから耳を休めたのは昔の話。(鹿取)


      (まとめ)
 神学校の屋内には今も瞑想の泉の跡が残っているのであろう。しかし水はもう涸れているのだ。はるか昔、その神学校で学び、生の苦しみを取り去りたくてそこで瞑想していた者たちは、その泉の音に耳を休め、心をなぐさめられたのだろうなあ、と想像している。(鹿取)

コメント
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