かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 2の203

2019-09-28 21:14:04 | 短歌の鑑賞
   ブログ用渡辺松男研究2の27(2019年9月実施)
     Ⅳ〈蟬とてのひら〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P133~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆、渡部慧子    司会と記録:鹿取未放

  ◆5年以上の長きにわたって共に学んできたT・Sさんが
   9月5日急逝されました。感謝してご冥福をお祈りします。
  ◆秋田の菅原あつ子さんが、紙上参加で加わってくれました。


203 わが内に墓掘るおとこ墓を掘り墓穴ふかく夏日をそそぐ

     (レポート①)
 「墓掘るおとこ墓を掘り」という繰り返しのあるフレーズから墓掘りを当たり前のこととしてひたすら墓を掘っているらしい様子がうかがえる。そして下の句の「墓穴ふかく夏日をそそぐ」の行為の主体が上の句と同じでこれが不思議だ。おそらく「ひたすら墓を掘っているともう没我のような状態になり、対称性を抜けるのだろう。それもこれも自身のうちのこととなる。これが表現上の律にも及び2句3句と4句5句とが主体を同じくする並列表現となって美しい。ところでわがうちに墓掘るおとこがいるというこの設定は、作者にとって生と死とはひとつづき、いや生は死をはらんでいる、そのような死生観のゆえだろう。(慧子)

          (レポート②)
 自分にもいつか死神がやってくる。それは日々着々と進められている。「墓を掘り墓穴ふかく」と文字に詠まれると、暗く深い穴に突き落とさせれるような恐怖を感じる。そこへ作者は「夏日をそそぐ」と締めくくる。「夏日をそそぐ」から喚起されるのは、万緑に燦々とふりそそぐ生命力や、命への賛歌といった肯定的なニュアンスだ。いづれ作者の入るであろう墓穴を掘っている男が、その墓穴へ夏日を注いでいる。陽に満たされた墓穴は、墓穴の土の湿り気も蒸発させるような感触があり、死は逃れられないごく自然の掟なのだとという作者のおおらかな諦観を思う。(真帆)

      (レポート③)(紙上参加意見)
 誰の墓だろう。たぶんその墓は親しい人の墓で、何度もともに楽しい夏を過ごしたのかもしれない。その人の死を、その人の思い出とともに、大切にあたためながら受入れようとしているのだろう。「夏日をそそぐ」がいい。こんな明るくてあたたかな墓穴に葬られる人は幸せだなと思う。(菅原)
    
     (当日意見)
★墓を掘っているのは作者自身なんでしょうか。全く他者なんでしょうかね。それによ
  って解釈が違ってきますよね。自分が掘っている方がわかりやすいでしょうかね。でも、
 生の中に死があるでは誰もがそう思っていてあまりに当たり前ですよね。それから「夏
 日がそそぐ」ではなく「夏日をそそぐ」で受け身じゃないんですよね。墓を掘るのが 
 自分だと、自分は同時にその墓穴に夏日をそそいでいるんですね。夏日をそそぐをど
 う解釈するかですよね。(A・K)
★私は死に神みたいな時間のようなものがあって、夏日をそそそいでいるのは大いなる
 もののような気がしましたけど。(真帆)
★「夏日がそそぐ」だったらそれでいいんです。「夏日をそそぐ」だから難しいですね。
 私は分からないのでものすごく単純に死から遠い感覚かと解釈してみました。秋風や
 凩が吹きすぎるのでもなく、霜や雪を降らせるのでもなく夏日の乾いた感じ。(鹿取)
★人間というのは通常は自分の死をどこかで意識しているけど実感としては感じていな 
 い。死が遠い感覚という鹿取さんのおっしゃるようなことかな。(A・K)

コメント
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