渡辺松男研究27(15年5月)
【非想非非想】『寒気氾濫』(1997年)91頁~
参加者:石井彩子、泉真帆、かまくらうてな、M・K、崎尾廣子、M・S、曽我亮子、
渡部慧子、鹿取未放
レポーター:石井 彩子 司会と記録:鹿取未放
◆「非想非非想」の一連は、『寒気氾濫』の出版記念会の折、塚本邦雄氏が絶賛された。
全ての歌に固有名詞が入っていて全て秀歌、「敵愾心を覚える」とスピーチされた。
218 土屋文明をわれは思えり幹黒き樹は空間に融けゆかぬなり
(レポート)(石井)
両者は以外と接点がある。まず同郷人であること。(注1) 同じ大学(「東京大学)では、ともに哲学を専攻したこと。万葉学者の文明に対し、渡辺松男氏が愛読書として『万葉集』(注2)をあげており、氏が「土屋文明記念文学館」で勤務したことがある、などである。
作風は大きく異なっている。文明は戦後歌壇の最大勢力で、地方にも結社を広げ、写実主義を提唱する『アララギ』の支柱的存在である。文化勲章を受章した郷土の偉大な存在であった。文明から、六十五年後に生まれた氏にとって、時代は大きく変わり、人口は都市に集中し、核家族化し、個人は伝統的つながりから疎外されて、農村や自然をモチーフとする写実的詠法は、時代錯誤と映ったのに違いない。が、写実的リアリズムは衰えなかった。実生活に即した歌や写実は歌の基本であり、それ以外の、前衛短歌などはあまり顧みられなかった。幹が黒くなった老獪な木は、その全盛期を終えても、根を張り、周囲が変化しようとも、環境に融和しないアナクロニズム的な様相をしている、写実的リアリズム、生活密着的歌風が、いつまでもこの郷土に根を生やしていることの違和感を示している。
注1 土屋文明: 群馬県高崎市生1890年(明治二三年)~1990年(平成二年)
渡辺松男: 同県伊勢原市生1955年(昭和三〇年)~
注2 「渡辺松男の嗜好」尾崎朗子編 『短歌』2014年、10月号
(参考)(鹿取)
名誉県民土屋文明知事室の廊下の額から我を見据える (「かりん」94年1月号)
土屋文明さえも知らざる大方のひとりなる父鉄工に生く 『寒気氾濫』
寒の幹輪郭硬く直立し内側から漲りてくる黒
いわば観念的黒樹「かりん」93年5月号
黙は黒 なにもなき地に伸びていく存在感は樹の黒にあり
春雪よ桜は大きなる黒衣 樹の外側へ溢れだす黒
無といわず無無ともいわず黒き樹よ樹内にゾシマ長老ぞ病む
黒という何者なるぞ樹自体になりきり果てて樹から抜け出す
形而上学的予感満ち空閑(くうげん)を黒というもの歩み出すなり
黒というふしぎないろのかがよいに税理士も黒きクルマで来たる『寒気氾濫』
(当日意見)
★(参考)としていくつかの黒とか樹の歌を挙げました。渡辺さん、「樹の歌人」と言われたりし
ますが、93年の歌は樹をどんなふうに詠い始めたのか参考になると思います。題が「いわば観
念的黒樹」で、まさに直(ちょく)なので分かりやすいと思うのですが、ゾシマ長老など深淵な
思想を扱った秀歌だと思います。(鹿取)
★鹿取さんの引用の3首め「黒衣」があって思い出しましたが、裁判所の人が着る黒衣は何者にも
染まらないため、ということをどこかで読んだことを思い出しました。だから「空間に融けゆか
ぬなり」が身に沁みて気高く感じられました。(真帆)
★そうすると土屋文明が気高いと言っている歌になりますけど、そうですか?(鹿取)
★いや、これマイナスのイメージですよね。(石井)
★歌集の中で黒はいろんなイメージに使われていて、さっき挙げたゾシマ長老の歌は自分の心に近
しいかあこがを感じていると思いますが、税理士が黒い車で来る歌などは権威の象徴として黒が
使われています。前回の217番歌(沈黙を守らんとする冬の木のなかにひともと紅梅ひらく)
は冬の木にさきがけて紅梅が咲く歌で、石井さんがナルシストとかいわれたけど、この歌の関連
で言うとあながち間違いでもないなあと思うようになりました。217番歌は冬の木の中で突出
した紅梅で、今回の歌は周囲に融け込まな いで聳えて威厳を示している黒い樹です。(鹿取)
★スタンダールに「赤と黒」って小説がありますね。(石井)
★スタンダールの黒は僧衣ですよね。歌に戻ると、写実主義の短歌が地方では根を張っていてゆる
ぎない中で渡辺さんのような作風はやりにくいでしょうね。まあ、この歌は短歌の問題だけに狭
める必要もないでしょうが。私は作風の違いを超えて作者が文明の偉大さを認めている反面、違
和感もあるのかなと思います。あるいはライバル意識もあるのでしょうか。(鹿取)
★単純に文明の頑固さを言っている。だから違和感をうたっているとは思いません。(慧子)
★融けゆかないというのは否定的な発想だと思うのですが。(石井)
★私もマイナスのイメージです。ある心理学の本で谷崎は黒をプラス、川端はマイナスと分析され
ていましたが。(うてな)
★慧子さん、頑固さというのは写実主義に徹するという頑固さですか?(鹿取)
★そうではない。文明は茂吉とは距離を取って、確か生活の何メートルの範囲だけを詠うと宣言し
た。つまり自分の寄ってたつところを定めた訳です。だから融けてゆかないことが違和感にはな
っていないと思います。(慧子)
★整理すると慧子さんの意見は、文明が茂吉や他の写実主義の人々とは一線を画して自分の信条を
守っていた、そういう矜恃を周囲に「融けゆかぬ」という表現で渡辺松男がプラス評価している
ってことですね。真帆さんは別の観点からですけどプラス評価ですね。石井さんは文明が大家で
地方にその主義が根を張っていることに対して作者が違和感を抱いているということでしょう
か。私はあくまで土屋文明個人(もちろん写実の風土やその地位などひっくるめてですが)に対
する尊敬と違和、相反する感慨をを抱いているように思えます。意見がさまざまに割れましたが、
先に進みます。(鹿取)
【非想非非想】『寒気氾濫』(1997年)91頁~
参加者:石井彩子、泉真帆、かまくらうてな、M・K、崎尾廣子、M・S、曽我亮子、
渡部慧子、鹿取未放
レポーター:石井 彩子 司会と記録:鹿取未放
◆「非想非非想」の一連は、『寒気氾濫』の出版記念会の折、塚本邦雄氏が絶賛された。
全ての歌に固有名詞が入っていて全て秀歌、「敵愾心を覚える」とスピーチされた。
218 土屋文明をわれは思えり幹黒き樹は空間に融けゆかぬなり
(レポート)(石井)
両者は以外と接点がある。まず同郷人であること。(注1) 同じ大学(「東京大学)では、ともに哲学を専攻したこと。万葉学者の文明に対し、渡辺松男氏が愛読書として『万葉集』(注2)をあげており、氏が「土屋文明記念文学館」で勤務したことがある、などである。
作風は大きく異なっている。文明は戦後歌壇の最大勢力で、地方にも結社を広げ、写実主義を提唱する『アララギ』の支柱的存在である。文化勲章を受章した郷土の偉大な存在であった。文明から、六十五年後に生まれた氏にとって、時代は大きく変わり、人口は都市に集中し、核家族化し、個人は伝統的つながりから疎外されて、農村や自然をモチーフとする写実的詠法は、時代錯誤と映ったのに違いない。が、写実的リアリズムは衰えなかった。実生活に即した歌や写実は歌の基本であり、それ以外の、前衛短歌などはあまり顧みられなかった。幹が黒くなった老獪な木は、その全盛期を終えても、根を張り、周囲が変化しようとも、環境に融和しないアナクロニズム的な様相をしている、写実的リアリズム、生活密着的歌風が、いつまでもこの郷土に根を生やしていることの違和感を示している。
注1 土屋文明: 群馬県高崎市生1890年(明治二三年)~1990年(平成二年)
渡辺松男: 同県伊勢原市生1955年(昭和三〇年)~
注2 「渡辺松男の嗜好」尾崎朗子編 『短歌』2014年、10月号
(参考)(鹿取)
名誉県民土屋文明知事室の廊下の額から我を見据える (「かりん」94年1月号)
土屋文明さえも知らざる大方のひとりなる父鉄工に生く 『寒気氾濫』
寒の幹輪郭硬く直立し内側から漲りてくる黒
いわば観念的黒樹「かりん」93年5月号
黙は黒 なにもなき地に伸びていく存在感は樹の黒にあり
春雪よ桜は大きなる黒衣 樹の外側へ溢れだす黒
無といわず無無ともいわず黒き樹よ樹内にゾシマ長老ぞ病む
黒という何者なるぞ樹自体になりきり果てて樹から抜け出す
形而上学的予感満ち空閑(くうげん)を黒というもの歩み出すなり
黒というふしぎないろのかがよいに税理士も黒きクルマで来たる『寒気氾濫』
(当日意見)
★(参考)としていくつかの黒とか樹の歌を挙げました。渡辺さん、「樹の歌人」と言われたりし
ますが、93年の歌は樹をどんなふうに詠い始めたのか参考になると思います。題が「いわば観
念的黒樹」で、まさに直(ちょく)なので分かりやすいと思うのですが、ゾシマ長老など深淵な
思想を扱った秀歌だと思います。(鹿取)
★鹿取さんの引用の3首め「黒衣」があって思い出しましたが、裁判所の人が着る黒衣は何者にも
染まらないため、ということをどこかで読んだことを思い出しました。だから「空間に融けゆか
ぬなり」が身に沁みて気高く感じられました。(真帆)
★そうすると土屋文明が気高いと言っている歌になりますけど、そうですか?(鹿取)
★いや、これマイナスのイメージですよね。(石井)
★歌集の中で黒はいろんなイメージに使われていて、さっき挙げたゾシマ長老の歌は自分の心に近
しいかあこがを感じていると思いますが、税理士が黒い車で来る歌などは権威の象徴として黒が
使われています。前回の217番歌(沈黙を守らんとする冬の木のなかにひともと紅梅ひらく)
は冬の木にさきがけて紅梅が咲く歌で、石井さんがナルシストとかいわれたけど、この歌の関連
で言うとあながち間違いでもないなあと思うようになりました。217番歌は冬の木の中で突出
した紅梅で、今回の歌は周囲に融け込まな いで聳えて威厳を示している黒い樹です。(鹿取)
★スタンダールに「赤と黒」って小説がありますね。(石井)
★スタンダールの黒は僧衣ですよね。歌に戻ると、写実主義の短歌が地方では根を張っていてゆる
ぎない中で渡辺さんのような作風はやりにくいでしょうね。まあ、この歌は短歌の問題だけに狭
める必要もないでしょうが。私は作風の違いを超えて作者が文明の偉大さを認めている反面、違
和感もあるのかなと思います。あるいはライバル意識もあるのでしょうか。(鹿取)
★単純に文明の頑固さを言っている。だから違和感をうたっているとは思いません。(慧子)
★融けゆかないというのは否定的な発想だと思うのですが。(石井)
★私もマイナスのイメージです。ある心理学の本で谷崎は黒をプラス、川端はマイナスと分析され
ていましたが。(うてな)
★慧子さん、頑固さというのは写実主義に徹するという頑固さですか?(鹿取)
★そうではない。文明は茂吉とは距離を取って、確か生活の何メートルの範囲だけを詠うと宣言し
た。つまり自分の寄ってたつところを定めた訳です。だから融けてゆかないことが違和感にはな
っていないと思います。(慧子)
★整理すると慧子さんの意見は、文明が茂吉や他の写実主義の人々とは一線を画して自分の信条を
守っていた、そういう矜恃を周囲に「融けゆかぬ」という表現で渡辺松男がプラス評価している
ってことですね。真帆さんは別の観点からですけどプラス評価ですね。石井さんは文明が大家で
地方にその主義が根を張っていることに対して作者が違和感を抱いているということでしょう
か。私はあくまで土屋文明個人(もちろん写実の風土やその地位などひっくるめてですが)に対
する尊敬と違和、相反する感慨をを抱いているように思えます。意見がさまざまに割れましたが、
先に進みます。(鹿取)
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