22年改訂版 渡辺松男研究2の12(2018年6月実施)
【ミトコンドリア・イブ】『泡宇宙の蛙』(1999年)P60~
参加者:泉真帆、K・O(紙上参加)、T・S、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉真帆 司会と記録:鹿取未放
89 おばあちゃんお寺なんてみな嘘ですねミトコンドリア・イブのおばあちゃん
※今の時代に突然「おばあちゃん」と語り出す神経、感性の奇異さと、図太さ。カチャカチャ
と言葉が流れていたんだけれど、気がついてみたらわれわれはそういうおばあちゃんととも
に生きていたんじゃないかというところ。しかもそのおばあちゃんが引き連れている背景の
文化に「お寺なんてみな嘘ですね」とあえてまた語りかける。そこでまたおばあちゃんの世
界に深入りするわけです。そのうえで過酷な現代性をおばあちゃんの世界に突き付ける。
「ミトコンドリア・イブ」というところに突き付けていく。そんな世界の揺れの大きさを渡辺
さんの歌には感じています。そのあたりも言葉の深さとして、ひとつ頼もしく感じています。
【「かりん」二十周年記念座談会(Ⅱ)「新しい短歌の深みと感触」】における川野里子
氏の発言(「かりん」1998年5月号)
(A)ミトコンドリア・イブは、この歌の中では厳密な意味は持たないだろう。人類の祖先
と言われる少数の女性たち、その一人に例えられるおばあちゃんだが、ミトコンドリア
まで遡ることで歴史も記憶も無効となるところまでおばあちゃんを追いかけ追い詰める
執着が印象的だ。〈お寺なんてみな嘘ですね〉と語りかけられたおばあちゃんはこのとき、
お寺や歴史などより遥かに大きな存在と化している。(川野里子)
(C)(……)「お寺なんてみな嘘ですね」という苦い問いに思いが及んだとき、目の前のお
ばあちゃんを飛びこえて、人類の祖先であるミトコンドリア・イブに作者は呼びかけざ
るをえない。そこでは作者の問いの真摯さによって、時代を超えたダイアローグが成立
するのだ。死は人類の祖先であるミトコンドリア・イブその人から、冷厳な事実であり
続けてきた。そして古来からお寺という制度は、死を受け入れやすくするための人類の
知恵の一面をもっていたのだろう。だがおそらく、目の前にいるおばあちゃんに「お寺な
んてみな嘘ですね」という問いを松男が実際に突き付けることはないであろう。そういう
制度によって救済される人間の存在を、彼は静かに受け入れるだろう。(鹿取)
(D)人類の遺伝(正確には細胞の中のミトコンドリアの遺伝)を遡行するとただ一人の女
性に行きつく。ミトコンドリア・イブと呼ばれるこのご先祖の女性に、渡辺は幼児のよ
うに「おばあちゃん」と呼びかける。宗教は全部嘘で、遺伝の連鎖だけ、物理現象だけ
が真実だと。しかし、この呼びかけは冷えた科学者のものではなく、もっとも人間らし
い人間のものである。科学で全てが説明されても、やわらかさ、あたたかさに満ちた世
界はあるのだ、といいたげである。(坂井修一)
(レポート)
連作「ミトコンドリア・イブ」で、「おばあちゃん」をはじめ作者の祖母のように感じて読み進んだが、ここへきてぐっと遠くの祖先となった。「お寺なんてみな嘘」というのは、お寺の墓誌に記載されている故人との繫がりのことか。墓石に刻まれた、目の前にみえる私達の知り得る血縁なんかより、もっと大きなはるかな距離感で一首は詠まれ、昔へ心寄せしているのだ。(真帆)
(当日意見)
★坂井さんの評は、「おばあちゃん」にも作者にもとても暖かいですね。私の評論は死と関連づけ
たので、「お寺は個別の死、哲学的な死というものをオブラートでくるんでいる装置」という見
方です。川野さんの評論は「ミトコンドリアまで遡ることで歴史も記憶も無効となるところま
でおばあちゃんを追いかけ追い詰める執着」という意見です。「追い詰める」「執着」というの
が、ほんと、松男さんの作歌の特徴だと思います。
【ミトコンドリア・イブ】『泡宇宙の蛙』(1999年)P60~
参加者:泉真帆、K・O(紙上参加)、T・S、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉真帆 司会と記録:鹿取未放
89 おばあちゃんお寺なんてみな嘘ですねミトコンドリア・イブのおばあちゃん
※今の時代に突然「おばあちゃん」と語り出す神経、感性の奇異さと、図太さ。カチャカチャ
と言葉が流れていたんだけれど、気がついてみたらわれわれはそういうおばあちゃんととも
に生きていたんじゃないかというところ。しかもそのおばあちゃんが引き連れている背景の
文化に「お寺なんてみな嘘ですね」とあえてまた語りかける。そこでまたおばあちゃんの世
界に深入りするわけです。そのうえで過酷な現代性をおばあちゃんの世界に突き付ける。
「ミトコンドリア・イブ」というところに突き付けていく。そんな世界の揺れの大きさを渡辺
さんの歌には感じています。そのあたりも言葉の深さとして、ひとつ頼もしく感じています。
【「かりん」二十周年記念座談会(Ⅱ)「新しい短歌の深みと感触」】における川野里子
氏の発言(「かりん」1998年5月号)
(A)ミトコンドリア・イブは、この歌の中では厳密な意味は持たないだろう。人類の祖先
と言われる少数の女性たち、その一人に例えられるおばあちゃんだが、ミトコンドリア
まで遡ることで歴史も記憶も無効となるところまでおばあちゃんを追いかけ追い詰める
執着が印象的だ。〈お寺なんてみな嘘ですね〉と語りかけられたおばあちゃんはこのとき、
お寺や歴史などより遥かに大きな存在と化している。(川野里子)
(C)(……)「お寺なんてみな嘘ですね」という苦い問いに思いが及んだとき、目の前のお
ばあちゃんを飛びこえて、人類の祖先であるミトコンドリア・イブに作者は呼びかけざ
るをえない。そこでは作者の問いの真摯さによって、時代を超えたダイアローグが成立
するのだ。死は人類の祖先であるミトコンドリア・イブその人から、冷厳な事実であり
続けてきた。そして古来からお寺という制度は、死を受け入れやすくするための人類の
知恵の一面をもっていたのだろう。だがおそらく、目の前にいるおばあちゃんに「お寺な
んてみな嘘ですね」という問いを松男が実際に突き付けることはないであろう。そういう
制度によって救済される人間の存在を、彼は静かに受け入れるだろう。(鹿取)
(D)人類の遺伝(正確には細胞の中のミトコンドリアの遺伝)を遡行するとただ一人の女
性に行きつく。ミトコンドリア・イブと呼ばれるこのご先祖の女性に、渡辺は幼児のよ
うに「おばあちゃん」と呼びかける。宗教は全部嘘で、遺伝の連鎖だけ、物理現象だけ
が真実だと。しかし、この呼びかけは冷えた科学者のものではなく、もっとも人間らし
い人間のものである。科学で全てが説明されても、やわらかさ、あたたかさに満ちた世
界はあるのだ、といいたげである。(坂井修一)
(レポート)
連作「ミトコンドリア・イブ」で、「おばあちゃん」をはじめ作者の祖母のように感じて読み進んだが、ここへきてぐっと遠くの祖先となった。「お寺なんてみな嘘」というのは、お寺の墓誌に記載されている故人との繫がりのことか。墓石に刻まれた、目の前にみえる私達の知り得る血縁なんかより、もっと大きなはるかな距離感で一首は詠まれ、昔へ心寄せしているのだ。(真帆)
(当日意見)
★坂井さんの評は、「おばあちゃん」にも作者にもとても暖かいですね。私の評論は死と関連づけ
たので、「お寺は個別の死、哲学的な死というものをオブラートでくるんでいる装置」という見
方です。川野さんの評論は「ミトコンドリアまで遡ることで歴史も記憶も無効となるところま
でおばあちゃんを追いかけ追い詰める執着」という意見です。「追い詰める」「執着」というの
が、ほんと、松男さんの作歌の特徴だと思います。
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