※既にアップした『泡宇宙の蛙』2の1~2の5までの鑑賞を大幅に変更した歌について、
改訂版を1首ずつ載せてゆきます。
この後、本日2回目になる通常の鑑賞を載せます。
改訂版 渡辺松男研究2の4(2017年9月実施)
『泡宇宙の蛙』(1999年)【大雨覆】P24~
参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、渡部慧子、A・Y、鹿取未放
レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取未放
30 地に落ちしわれ人間となりきりて夕鶴のごと生きたかりしを
(レポート)
夕鶴のように身の羽を一本一本抜きながら愛しい者へ贖罪しながら生きてゆきたいというのだろうか。空をとぶ鳥は尊いが、自分は原罪を負う人となり地に在るのだ、と詠っているのだろうか。(真帆)
(当日意見)
★贖罪ではないような気がしますね。むしろ逆じゃないですか。自分を犠牲にして生きられるだろ
うかという問いかけの歌でもあるんですね。(A・Y)
★そうですね、鶴は罪を犯したわけではないので、贖罪は違いますよね。(鹿取)
★罪深い人間として生まれてきたので、せめて他人のために生きたかったがそれも出来なかった。
(真帆)
(まとめ)
この一連、全て鳥の歌で、今までの4首(26 ひかりより繊きおもいというものを鳥は知りつつ天翔るらん)(27 鳥と呼びはてしなき空見上ぐればきらきらと神の花粉は飛べり)(28 呼びかけてかならず寒くなるわれに茜の雲よ鳥消えてゆく)(29 やすらぎのなきことを地に庇いあい鳥はひろげる大雨覆(おおあまおおい))は、人間の視点から鳥を見てうたっている。でも30番歌の主体は「人間となりきりて」というんだから、もともとは鳥である。「神の花粉」のように愛らしい鳥であったものが、神の怒りを買うような罪を犯して人間界に落ちてきたのだろうか。人間になったからには、誰かのために尽くしたいと思ったけれど、結局人間にはなりきれなかったし、相手の為に自分を捧げ尽くすことは出来なかった。終わってしまった生を俯瞰しているような歌だ。(鹿取)
改訂版を1首ずつ載せてゆきます。
この後、本日2回目になる通常の鑑賞を載せます。
改訂版 渡辺松男研究2の4(2017年9月実施)
『泡宇宙の蛙』(1999年)【大雨覆】P24~
参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、渡部慧子、A・Y、鹿取未放
レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取未放
30 地に落ちしわれ人間となりきりて夕鶴のごと生きたかりしを
(レポート)
夕鶴のように身の羽を一本一本抜きながら愛しい者へ贖罪しながら生きてゆきたいというのだろうか。空をとぶ鳥は尊いが、自分は原罪を負う人となり地に在るのだ、と詠っているのだろうか。(真帆)
(当日意見)
★贖罪ではないような気がしますね。むしろ逆じゃないですか。自分を犠牲にして生きられるだろ
うかという問いかけの歌でもあるんですね。(A・Y)
★そうですね、鶴は罪を犯したわけではないので、贖罪は違いますよね。(鹿取)
★罪深い人間として生まれてきたので、せめて他人のために生きたかったがそれも出来なかった。
(真帆)
(まとめ)
この一連、全て鳥の歌で、今までの4首(26 ひかりより繊きおもいというものを鳥は知りつつ天翔るらん)(27 鳥と呼びはてしなき空見上ぐればきらきらと神の花粉は飛べり)(28 呼びかけてかならず寒くなるわれに茜の雲よ鳥消えてゆく)(29 やすらぎのなきことを地に庇いあい鳥はひろげる大雨覆(おおあまおおい))は、人間の視点から鳥を見てうたっている。でも30番歌の主体は「人間となりきりて」というんだから、もともとは鳥である。「神の花粉」のように愛らしい鳥であったものが、神の怒りを買うような罪を犯して人間界に落ちてきたのだろうか。人間になったからには、誰かのために尽くしたいと思ったけれど、結局人間にはなりきれなかったし、相手の為に自分を捧げ尽くすことは出来なかった。終わってしまった生を俯瞰しているような歌だ。(鹿取)
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