かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

清見糺の一首鑑賞 222

2022-10-06 11:28:25 | 短歌の鑑賞
     ブログ版 清見糺の短歌鑑賞    
                  鎌倉なぎさの会  鹿取 未放


222 すがるべきカミもホトケもあらざればメスをとるべき医師の手を見る
            2003年5月作

 こういうとき祈る神や仏を心に持つ人は幸せだろう。しかし、作者はそれらに縁のない人であった。あるいは、潔くそれらを拒否する人であった。(それが「カミもホトケも」とカタカナ表記にしたゆえんであろう。)だから、医師の技術に賭けてその手を見るだけである。
 ただ、以下のことは作者のあずかり知らぬことであるが、作者の主治医であり手術を担当したI医師は、その分野では世界的な権威で、手術の鮮やかさから「神の手を持つ男」と称されているそうである。「カミ」というものなしで病いに挑もうとしていた作者が、医術に賭けたところが、もうひとつの「神」の手であったということは皮肉というべきであろうか。その「神」の手にも救済されることなく、作者は死んでいったのである。
 ちなみに、高見順も神を持たない人であった。昭和38年10月、高見は食道がんを宣告され、遠からず来る死をなんとか受け入れようと苦闘した。その様は1年半以上に及ぶ『闘病日記』に刻まれている。高見は病床にたくさんの本を取り寄せ、仏教、キリスト教、マルクス主義等々いろんな書物を読みながら何とか死の意味を見出そうとした。そしてその思考の過程を宣告当初から日記に書きつけていったが、昭和40年7月、死の1か月程前に突然筆が止まった。肉体の苦痛で書けなくなったようである。筆を絶ってからの高見の意識が安らかであったら……読者としても嬉しいのだが。

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