欠陥建築バスターズ

土地・建物の調査研究が専門。日本の地震や災害に備えた建築や、不動産市場や世界経済の未来鳥瞰について述べています。

織田信長の性加害問題を検証【ジャニー織田?】

2024年05月27日 16時07分16秒 | 建築のうんちく

戦国武将で日本で一番人気が高いのが、織田信長ではないでしょうか。敵将の頭蓋骨で酒をのむような怖いイメージもありますが、男色愛好者の隠れた一面もあった様です。

織田信長は、義理の父親である斎藤道三から稲葉山城を得て、ここを岐阜城と改名しました。それで、今は岐阜と言う地名になった訳です。


さて、この岐阜城は標高370メールもある山の頂上に有りました。普通、山城と言うものは大人数が常駐することは、まずありません。理由は簡単で、いきなり戦が始まる事はありませんし、侍の飲む水さえ確保しにくいからです。

ところが、織田信長の岐阜城には、城のすぐ側に台所と呼ばれる場所が有りました。これは現在の炊事場と言う意味ではなくて、高い場所の平たい場所の事です。

その台所には、宣教師のルイス・フロイスによれば、三棟の建物が有り、織田信長家臣の侍の息子ばかり100人が常駐していた様です。ルイス・フロイスの記述を直訳すれば100人の貴人が居て、年齢は12歳から15歳とあります。

これは、平たく言えば、100人の美少年が岐阜城には常駐していたと言う事です。

ここで思い出されるのは、某芸能プロダクションの社長が美少年ばかりを集め、合宿させた上で、社長自身が美少年に性加害した事件です。

この時タレントの美少年達は、当然に嫌がるのですが、社長から「君が芸能界で活躍するのを君のお父さんお母さんは楽しみにしてるんだよ❗」と言われて、気の毒にこの社長のホモプレーに付き合わされた例の一件です。

きっと、織田信長も誰も来ない山の上の合宿所で思う存分に男色行為にふけったのではないでしょうか。そして、織田信長の家来の侍の子も、タレントの美少年と同じで親の事を考えて嫌々信長のホモプレーに付き合った事でしょう。

織田信長がホモと言うかバイセクシャルであった証拠は、これだけではありません。

明智光秀に織田信長が本能寺で討たれた際、信長の側に居たのは、これまた美少年の森蘭丸でした。

この森蘭丸は、男子であるにもかかわらず、女子の髪型で女子しか着る事のない振り袖を着て居ました。

しかも、森蘭丸は自身が信長の恋人である事を良い事に織田信長の家臣の大名にすら横柄な態度をとったと文献では伝えられて居ます。

また、森蘭丸のみならず、家臣の前田利家とも恋人関係だった様で、信長自身が利家と添い寝した話を自慢げに家臣に話して居ます。

戦国時代に他の武将と添い寝する行為は、自殺行為に近く、いつ討たれるかわからない危険性を秘めて居ます。もし、添い寝するような無防備な事が出来るとすれば、やはり、信長と利家は恋人だったのでしょう。

ここで疑問なのが、信長には多くの子供が居る事です。信長はホモですが、戦国時代は子孫を絶やさない事が重要で、信長としては、ある種の義務で子作りしたと考えられます。

信長には、斎藤道三の娘で帰蝶と言う正式な妻が居ましたが、二人の間には子供がないばかりか、帰蝶さんが信長の元に嫁いで来た日に、わざと男友達と遊びに出て朝まで戻らなかった様です。

きっと、これも信長の恋人である男友達への配慮ではなかったかと私は考えます。

私は建築の専門家として、岐阜城の中に美少年侍が100人も常駐して居た事を不自然に感じました。しかし、信長がホモだと仮定して、周辺状況を検証してみると、合点がゆく事ばかりなのです。

最後に、私の勝手な大胆な推理ですが、織田信長に謀反を企てたとされる明智光秀は、政治的な事や軍事的な問題で信長と対立し本能寺を攻めたのではないように考えます。

明智光秀はくそ真面目な武将であったと伝え聞きます。ですから、織田信長の男色趣味のような特殊な性趣向に嫌悪感を持ったのではないでしょうか。

私が気になるのは、信長の発した最後の言葉の意味です。

「是非に及ばず」…現代語で翻訳するなら「光秀の奴か、しょうがねえな」と言った感じでしょうか。
光秀はくそ真面目でしょうがねえや…とでも言いたかったのではないでしょうか。

現代に於いては、ホモもバイセクシュアルも世の中に受け入れられて居ますが、織田信長や明智光秀が生きた時代は今とは随分違って居たのでしょう。

 


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