東北・上越新幹線東京-上野開業工事開始前まで東京駅と上野駅は回送線が結ばれ、一日2往復の品川客車区と尾久客車区との客車回送列車が設定されていました。東北。上越東京開業工事開始後は品川-東大宮-尾久間の列車が1往復が設定され、さらにそれでも対応できないときのために8000代の臨時回送列車も設定されました。東北・上越新幹線東京-上野開業工事開始前までの仕業番号はA24運用で一応はEF58の運用になっいました。走行距離が距離が短いため全検上がりの足慣らとして使われたり、突然76年3月に宇都宮区を経由して広島区から転属して、処遇に苦慮していたEF5811号機や12号機などが充当され、さらにはEF58が不足するとなんとEF65Pが充当されることもあり、われわれにとっては目の話せない列車でした。この回1941レは高校の授業が正規時間で終わっても間に合う列車だったので撮影はしなくても良く見かける列車でもありました。 76,02,02 回1941レ
仕事の日になぜか早起きをしてしまいました。天気はよさそうだしブルトレ(当時東京7時前後の到着だけでも出雲・瀬戸・あさかぜ2の3本体制)でも撮ってからから出勤しようとカメラを持って家を出ました。川崎あたりでブルトレを撮影してふと手元の資料を見ると創臨8345レがあると言うことに気づき、京浜東北線に一度乗ったものの蒲田で降りて、線路の東側に出て待つとなんと61号機牽引の8345レがやってきました。当時、61号機は特別な存在ではなく大窓のゴハチの1両といった感じでした。この頃はまだ小窓ながら原型の可動式スノーブローを装着していた124号機が着てくれたほうが燃えたのも事実でした。 77,09,13 蒲田 8345レ
今でこそ年始名物のの成田参拝臨(成田臨)は電車となってしまいましたが、当時は品川・尾久そして沼津の12系・14系を総動員して成田臨に対応していました。1月は創臨が設定の少ない月なので機関車は南局(東京機関区)だけで十分に対応できましたが、どうしても不足する場合は静岡局に頭を下げて浜松のゴハチ牽引の列車で対応する事もありました。
だいたいは日に1往復体制でしたが、日によっては2往復体制の日もありました。この頃になると成田臨を撮る仲間の姿も見受けられる様になりましたが、それでも三脚など立てずに皆さん手持ち1台で撮影するのが主流でした。 83,01,12 函南 9346レ
最近の様にいつも磨き上げられたロクイチもそれはそれで魅力的ですが、普段は普通の運用に入って少し薄汚れているロクイチが、ある日、鉄道車両としてあり得ない位に磨き上げられて我々の前にその姿を現すと言うのもたまらない魅力でした。この当時になるとお召列車と言えば前日からの場所取りが当たり前になり、それが嫌で撮影に出掛けなかった事が何度かあります。この日は上越線沼田までの運用でしたが津久田の鉄橋で場所取りのテントが張っているとか、三脚がすでに三重になっているとの情報を得ていたので、そんな中での撮影は嫌だと出勤し、手待ち時間で大崎に向かうロクイチを撮影しました。 82,05,21 品川
職場で情報通のM君が「185系で運転している”踊り子”が臨時として客車で運転されるらしい」との情報を持ってきました。聞いた瞬間はガセネタだなと取り合いもしなかったのですが後日、当時の国鉄からヘッドマークの受注を受けていた千葉製作所にも”踊り子”のヘッドマーク作成の依頼が当局からあったと言う話を聞き、これはガセではないと情報収集にはいりました。
運転報もなかなか出ないのでやはり”ガセ?”と思い始めました。だいたい伊東線に電気機関車はしばらく経験が無く(伊豆急がまだ貨物扱いをしていた頃は新鶴見機関区のEF15が入線していました。)試運転もしないでぶっつけ本番?などといろいろ交錯していると、南局の列車課から青コピーの資料をもらうことが出来、そこには82年12月31日のみ臨時”踊り子”として14系で臨時列車を運転する事が記載されていました。これは凄い!と小躍りしたものの、列車の設定が東京駅を14時と遅く、冬至の頃ではせっかくの伊東線内が真っ暗になってしまうのがなんとも悔やまれました。仕方なく間違いなく太陽が射す大井町で撮影することにしました。
82,12,31 大井町 9023レ
今回は70年代後半から80年代前半までの作品をご紹介しました。また機会がありのしたらこれ以降の作品もご紹介したいと思っております。
(なので…続く)
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