DT200Aの庫 (goo-blg)

40年前の6月 国府津機関区のD52


 今はこの跡地は住宅地になり、その面影はほとんどありません。ただ電関が居た庫は現在JR東日本の社宅になっており、僅かながら面影が残っています。   71,06,02 国府津機関区  Nikon COOLSCAN ⅣED

 40年前の6月は当時の国府津機関区を訪れています。さすがに40年前ですのでどう言う経緯で国府津機関区へ向かったのかは全く記憶がありませんがかすかな記憶をたどれば当時、国府津機関区に配置されていたEF11を学校の友達と撮りに行ったと思われます。ただネガを見ると電関(当時はELなどと言う洒落た言葉は無く、電関と言っていました。)は1枚も写っておらず、ラウンドハウスのD52の写真しか残っていません。この時のかすかな記憶では運転当直で許可を取る際に、何かに落胆した事だけが残っています。ひょっとしたらお目当てのEF11が居なくてガッカリしたのかもしれませんが、どうしてかは今は謎です。


 ランドハウスに留置されたD52は主連棒が取り付けられたままでした。この様な場合は外すのが通例ですが、どうしてこの様な姿で留置つれていたかは不明です。本線の向こう側に松ノ木がありますが、そちらも今は住宅地になって面影はほとんどありません。 71,06,02 国府津機関区  Nikon COOLSCAN ⅣED

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コメント一覧

DT200A@P905i
水郡線故郷様
ご投稿、ありがとうございますm(__)m

〉優雅な造りの扇形庫は車窓の楽しみでした。

 私も幼少期、鶴見で高島貨物線のD51と共に国府津で煙を上げているD52を見るのが楽しみでした。

〉現存していれば鉄博ができたかもしれませんね!?

 当時は鉄道構造物に関してその価値を見いだす人もなく、今思えば非常に残念でなりません。
水郡線故郷
優雅な造りの扇形庫は車窓の楽しみでした。57年3月、正面左側の2庫を残し解体の重機が横に置いてあったのが最後に見た姿となりました。現存していれば鉄博ができたかもしれませんね!?
DT200A@P905i
ひだ号様
ご投稿、ありがとうございますm(__)m

〉国府津のラウンドハウスは、フランス人技師が設計したものらしく~歴史的に価値がありましたが、海風による風化が早かったのでしょうか、解体されましたね。

 当時から保存運動があったみたいですが、当時は文化遺産に対する価値観が乏しく呆気なく解体されてしまいました。現在まで現存していたのなら状況は異なったかもしれません。それだけに大震災で使用停止となった会津若松のラウンドハウスの今後が気がかりです。
ひだ号
数年前までは、ラウンドハウスの跡地だけ草むらだったので、なんとなくイメージ出来ましたが今では、宅地化され、外周する生活道路が半円を描いているのが、微かな証拠です。
国府津のラウンドハウスは、フランス人技師が設計したものらしく、なんとなくヨーロッパ調でした。しかも、日本で二番目の鉄筋コンクリート建造物として、歴史的に価値がありましたが、海風による風化が早かったのでしょうか、解体されましたね。
このD5272は、御殿場の湯沢平公園に保存されていましたが、昨年秋に、御殿場駅横に移動、再び綺麗に整備され大切に保存されています。御殿場駅に行けば再会できますよ。
DT200A@P905i
つばめ鮨の常連様
いつもご投稿、ありがとうございますm(__)m

〉国鉄末期61年10月、全国の機関区が、一斉に運転区と名称を変えましたが、100周年を控えていた。沼津機関区だけは、当時の静岡鉄道管理局運転部長に直談判し、全国で、唯一12月まで、機関区で通したそうです。

 なかなか貴重なお話しに興味津々です。ぜひ、続きの話を伺いたいと思います。
つばめ鮨[[EE:AEAB8]]の常連
御殿場線の担当は、国府津機関区と沼津機関区でしたが、丁度昨日、沼津機関区100年誌を編纂し、御殿場線D52の写真で有名なY梨さんに、会い国府津、山北、沼津機関区の話を聞いたばかりでした。その中で、国鉄末期61年10月、全国の機関区が、一斉に運転区と名称を変えましたが、100周年を控えていた。沼津機関区だけは、当時の静岡鉄道管理局運転部長に直談判し、全国で、唯一12月まで、機関区で通したそうです。
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