
現:東戸塚駅付近の清水谷戸隋道を抜ける159系”こまどり”です。この時は日曜日で小学生の身の私は午後から今で言うコンパクトカメラを手に、のんびりと品濃町界隈(現在の東戸塚駅周辺)で撮影をしていると清水谷戸隋道の出口付近で一眼レフを持った大人がいました。何を撮ってるんだろう?と思い、聞いてみると「”こまどり”が今来るヨ!」と教えてくれたのですが、その意味がわからずとりあえずカメラを出して待っていると159系の”こまどり”のヘッドマーク付の列車がやって来たのです。その後もほぼ同じ時刻で159系がやって来るのですがヘッドマーク付の列車はこの時だけでした。
この列車は大垣電車区担当で159系廃車後も153系(165系)に引き継がれ存続していました。主に新幹線駅の利用が不便な岐阜・岡崎周辺の中学生に利用されていましたが東海道新幹線三河安城駅開業により西三河地区の中学生の修学旅行が新幹線へ急速にシフトしたことから平成に入って廃止となっています。 71,10,03 現:東戸塚(信濃町) 159系こまどり COOLSCANⅤ
7月に入りひと段落しましたが、6月は修学旅行専用臨時列車が東海道新幹線に多く運転されました。多い日で3往復体制。さらにはそれ以上の修学旅行専用臨時列車が運転され、定期列車利用の修学旅行を含めると一日1万人以上の児童・生徒を輸送している事になります。
この様に現在は修学旅行輸送が新幹線主体となっていますが、昭和の時代には岐阜県岐阜周辺や愛知県岡崎周辺の学校では新幹線停車駅までの移動と乗換の手間から修学旅行は新幹線をあえて使わずかなり晩年まで在来線が利用されていました。そのため東海道線(在来線)には新幹線開業後も相当の間(平成に入るまで)、品川ー大垣間に修学旅行専用の臨時列車が予定臨として設定され、頻繁に運転されていました。この列車には大垣電車区の159系が長く充当されていたと記憶しています。(このほかに修学旅行専用としては東海道線-東北線経由で湘南地区と日光を結ぶ修学旅行専用列車などが設定されていた事が有名で、こちらは今も189系で健在です。)

修学旅行のoffシーズンとなる季節には海水浴臨やスキー臨として借り出されていました。通常は2M2Tを2組組み合わせて8両編成にして充当されていました。写真は田町電車区の155系で品川(たぶん)―伊豆急下田間に運転された臨時”おくいず”です。冷房が大衆化される以前ですから155系に限らず真夏と言えば窓全開が当たり前でした。今ではこんな窓全開の列車なんてもう絶対に見られません。 76,07,30 戸塚 155系
いかにも日本らしい修学旅行という旅行形態は、実は結束力を養うために日本軍が行った催事が発祥だと言われています。戦前には目的地の近い、遠いの違いはあれど修学旅行は学校行事としてメジャーな存在となっていたそうです。そして戦後すぐに修学旅行は復活するものの、当時の食料状態から現地での食事が保証できないと言う理由から生徒・児童自ら主食となる米を持参して旅行先に向かったと言う話を聞いた事があります。
当時の交通機関といえば新幹線や高速道路もなく、各地の国道も未改良区間・未舗装区間があったために(国道1号線でさえ未舗装区間があったほどです。)一般大衆が利用することのできる実用的な交通機関は鉄道に限られていました。したがって修学旅行=列車旅行と言う時代でした。しかし当時の国鉄は輸送力が逼迫していて、修学旅行専用列車運転のためにやっと捻出した車両もオハ61やスハ33等戦前車や戦後復興車でけして修学旅行にとって良い環境ではなかった様です。そしてその苦情の声は大きくなるばかりでそれは後に修学旅行専用車両新製という機運に変わっていたのでした。
そして1958年に期待の155系”きぼう”型電車の登場となります。この155系は「特別鉄道債券」(利用債)を利用して新製されたために国鉄の懐を痛める事無く新製された車両です。この時代は20系電車(後の151系)の成功後、新幹線開業前の少し余裕のある時代だったために、国鉄設計陣は世界初の修学旅行専用電車開発と言う事で随所に憎いばかりの創意工夫を施しています。少しでも安価に車両を製造するために153系と同等性能でありながら台車は空気バネではなくコイルバネのDT21系を使用し製造費を押さえ、さらに定員確保のために横1列4人ではなく5人が座れる座席を開発し定員確保に貢献しています。さらに、旅客の乗降駅が限定されているためにドア幅も狭くして、その分を定員確保に捻出しています。更に男女が一番お互いを意識する世代が乗る車両と言う事でデッキの僅かなスペースに男性専用の便所を確保し、さらにその便器は国鉄設計陣自ら市販の便器を街で購入してきて、車両メーカーに持ち込むなど涙ぐましい努力の末に完成しています。
この様に経費を節約して造られた155系ですが、けして手を抜いた車両ではありませんでした。網棚はレール方向ではなく、枕木方向に設けられ帰りに多くのお土産を買っても網棚に乗り切れない様に工夫がなされています。また急病人が発生した場合の休養用のベットに早変わりする座席や自らが汚した車内は、自らが清掃すると言う高い教育理念から車内には箒と塵取りまで備え付けられていて新製直後視察した教員関係者がその配慮に感嘆の声を上げたと言う逸話が今でも残っています。このように随所の設計の卓抜さは、国鉄新性能電車のうち隠れた名車と言っても過言ではないと思っています。(まったくの余談ですが車内に備えられている箒と塵取にもしクハ155―1と書かれいるのを見たら、私なんかそのままお持ち帰りしてしまいそうですが、当時はそんな不届者等いなかったのでしょうか?…(i_i)\バシッ!~汗)

159系は塗装を東海色に変えてもしばらくは修学旅行専用臨時列車に充当されていました。たしか大垣駅を朝出て、昼前に品川駅に到着し、一旦、田町電車区に入区して14時頃に品川駅を発車して大垣へ戻る運用でした。 82,05,17 品川159系 8311M
当時の修学旅行専用電車は田町電車区に155系と167系が、大垣電車区に159系が、そして宮原電車区に167系が配置されていたと記憶しているのですが、年月が経ち過ぎ記憶も曖昧で確証を得られる資料も得られていません。たぶん記憶とほぼ間違いないと思っています。
生活水準向上に伴い既存車両の冷房改造が盛んとなる中で、修学旅行専用と言う性格上155系と159系は冷房化されることなく非冷房のままで廃車になっています。ちなみに167系は新製当初から修学旅行専用と言う使命と波動輸送用車両と言う使命が半々だったために晩年は冷房化がなされています。