記憶によれば木曽福島から塩尻に向かって昼前に2本の貨物列車が続行で設定されていて、そのうち1本が重連でした。今思えば、眼の前の草をなんとかしたかったですが、それは今さら言っても?ですネ!(笑) 73,01,※※ 薮原
完全に私流の解釈ですが、本当の意味での日本の現役蒸機の最後の活躍線区は中央西線中津川―塩尻間のD51だと思っています。それは自分の思い入れもおりますが、貨物列車に限って言えばDLの進出を拒み、電化完成でELへバトンタッチするまでその線区の主力機として活躍したからです。
D51の末期は中津川機関区と木曾福島機関区にD51が配置されていました。主に中津川機関区が中津川―塩尻の直通運転用。木曽福島機関区のD51が主に補機用で中津川―吉舎福島と木曽福島―塩尻間で充当されていたと記憶しています。
国鉄時代の地方駅と言えばこんな駅舎が一般的でした。地域の集いの場所と言った感じでした。電話ボックスが昭和を物語っています。 71,01,※※ 薮原
中央西線の中津川―塩尻間ならほとんどの区間を信州(ワイド)周遊券でカバーされます。当時の信州周遊券は学割で2,200円でした。経路も中央東線や信越線経由ばかりでなく東海道―飯田線経由で辰野へ出るルートも認められて重宝し、結構利用した記憶があります。当時の中央西線は特急はキハ181系の”しなの”は一日3往復体制で、急行”きそ”が輸送のメインでしたので周遊券で利用が出来、短区間でも急行を利用した記憶があります。ただ当時の急行と言えば大衆の乗り物でしたのでいつも混雑していて客席で座った記憶がなく、いつもデッキで立っていた印象が残っています。
中央西線(小海線も)への往復は中央東線で往路夜行の急行”アルプス”で、復路は現地を夕方に出発する”アルプス”での往復が一般的でした。この当時、新宿発下り夜行列車は時期によって多少時刻が変動しましたが新宿22:30発信濃森上行(当時の電化区間は信濃森上まででした)の”アルプス”と23:30前後に松本行の”アルプス”2本の3本体制が続いていました。その他に23:55発の長野行普通列車が設定され、更に繁忙期には23時台に数本の臨時”アルプス”が運転されていました。臨時”アルプス”はもちろん松本運転所の165系も駆け出されますが、田町電車区の167系が充当されていたのを思い出されます。夏のオンシーズンでどんな運用を組んだのか宮原電車区の165系(ひょっとしたら167系?)が新宿に現れたのには驚かされました。ただオンシーズンを除けば混雑で座れないと言うことはなく、発車1時間前までにコンコースに設けられて場所に並べはまず、座れない事はありませんでした。
上りの”アルプス”はほとんど昼間に運転されてしまうために夜行”アルプス”は全盛期でも1本(長野発の普通夜行列車はありました)だれで、更に新宿が5時前に到着してしまうので、使い辛くほとんど乗る人はいなかった様です。
撮影後、復路は長野へ出てスキー臨の返却列車と察しれる臨時夜行快速列車で帰りました。当時としては珍しく、12系と10系寝台車の混結編成の快速で長野駅を23時頃は発車して上野に5時頃に到着したと記憶しています。本来は回送でも良い様な列車ですので乗客はまばらで12系車内は暖房が効きすぎで窓を少し開けて乗りました。深夜に横川駅に到着しEF63が開放される間、EF63を撮影せずにこちらを撮っていました。 73,01,08 横川
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山本敏
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A君
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