5日の小学校の午後一の授業時間に、地元の話をする機会を得ました。
あいさつ等々を含め、45分の1コマの間に地元の話は、3人が話をしました。
昼休みの校庭 すくな! 団塊の世代からは隔世の感!
準備
資料など
開始
以下は、私の持分 結局13分程度だと、この程度(以下の文の内容は、抜粋 わかるかな???)
俯瞰図 笑 です。 四小の右側の緑は、沼をしめしています。
それでは、以下概略
“よもやま話”として、少しお話をしてみますので、皆さんも少しでも良いので、自分の住んでいる周りはこんなことがあったのだなぁって考えてもらえると嬉しいです。
そして、歴史の考え方の違いもあるので、本当かもしれませんし、間違いかもしれません。もしあなたが疑問に思ったり、面白と思ったら、思い出したときに自分で調べてみて下さい。また違った答えが見つかるかかもですよ!
****師岡城の周辺としての説明*****
こんな感じですかね 笑!
四小が、ここです。そして、ここが、鎌倉時代から続いていた勝沼城、師岡城とも言われていますが、四小の東の山の方にあった城です。天守閣があったような城では無く、堀や木の塀で囲まれた山城です。勝沼城で説明しますね。
勝沼城から師岡城になったときに神奈川県の方から師岡さんがやってきてお殿様になりました。現在でも神奈川県に師岡という地名があります。
【大塚山を示す】
ここ、大塚山の大塚の塚、 塚と言うと一般的にお墓を想像しますが、刀の塚もあり、出っ張っているところの意味もあるようなので、城に敵が来ないか見張る小山だから、大塚山だったと思われます。
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めも
築城年代が不明で、鎌倉時代から続く名族三田氏の居城として、16世紀半ばまで用いられた。三田氏が北条氏照により滅ぼされた後は師岡将景が城主となり、城名も師岡城と改められた。詳しい廃城時期は不明だが、1590年(天正18年) 豊臣秀吉による小田原征伐後に廃城になったと考えられている。
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【塩船観音を示す】
そして、勝沼城から鬼門の方向、つまり鬼の来るとこです。風邪や疫病がくる方向と言われています。その方向に塩船観音があります。入口に仁王像が立っていて、鬼を防いでいますよね。
【春日神社を示す】、【馬場を示す】
東側は通り道なので大門という大きな門があってその外側に馬の訓練をした馬場がありました。大門、馬場先として地名が残っています。
通り道なので春日神社があります。
【六万薬師を示す】
南には1回拝むと六万回の効用があると言われた六万薬師堂、師岡城落城後に建てられたものですが、建つ前にも何かあったと考えるのが自然です。
そして西側には勝沼神社、
【勝沼神社を示す】
勝沼神社から、5月に青梅のお祭りがある住吉神社があります。【住吉神社を示す】
山梨の方から敵が攻めてきたら、勝沼神社から鉄道公園の方を通って住吉神社に兵隊を送って、住吉神社の下を通る敵を攻撃できるようにしたと考えらます。
【虎柏神社を示す】
北方向に、虎柏神社があります。またあとで説明があると思います。こうして師岡城の周りは神様で守られていたわけです。
【北側の飴を示す】
北に何もない! でも、秘密にしておきたいのですが!青梅ゴルフ場のところに小さな祠があります。これで回りが神様で守られていたわけです。
次いでですが、この菖蒲公園になってるとこの田んぼに、底なしの場所がありました。耕運機を進めると沈んでしまう場所で、私の父は、何度も石を入れたのですが、無くなってしまったそうです。父が言うには、師岡城の井戸があったのじゃないかと!
【沼を示す】
ここは沼でした。この四小も校庭の下に川が2本も流れているように、四小から東の方は、田んぼでした。師岡城のころは田んぼというより、沼に近いものでした。この沼は、暴れ川の霞川が作っていました。この沼が師岡城を攻めることが出来なく、江戸城が300年でしたが、師岡城は600年攻められなかったと言われています。