逆順でたどる平安京の天皇たち
108代 後水尾天皇 文化・子孫繁栄に専念した後半生 下
泉涌寺 月輪陵
院政を敷いた、後水尾上皇は文化活動と子孫繁栄にいそしんだ。
普通の男ならば様々な制約があるが、やんごとなきお方にはそんな制約はなく自由奔放に振舞った。現代であれば飲む・打つ・買うという事になるが、そこは高貴な方はやることは決まっている。寺院の建立や庭園(別荘)の建設だ。
晩年に向けて、有名な修学院離宮の創造に専念する。徳川家の金銭的な支援も取り付けたのだろう。
離宮は、上御茶屋・中御茶屋・下御茶屋の3か所の庭園に分かれていて、54万㎡に及ぶ。
候補地としては、聖護院の長谷殿や岩倉殿、また圓通寺の幡枝御所などを見て回り、最終的に、修学院の「御茶屋隣雲亭」辺りに決めたとされる。上皇がしばしば自ら足を運んで指示したことが、近衛予楽院「槐記」という日記に残っている。(京都検定的に必須の情報)因みに、単に「離宮」と呼ぶべきであり修学院は周辺の地名である。
また、中御茶屋は、明治になって近隣の林丘寺の移転に伴ってその建造物を取り込んだものである。現在見学は予約が必要だ。筆者は怠慢にてまだ見ていない。
むつごと
一方、生殖活動はすさまじい。記録に残るだけで、7人の女御や中宮相手に36名の皇子・皇女を残した。ご自身が22歳の時に7歳上のおよつ御寮人との間に1男1女をもうけた後は、中宮徳川和子(東福門院)とは、7名のお子をもうけている。ただ男子は育たず皇女のみが成長した。その後は、5名の典侍(下級の宮廷女官)を愛し続けて、最終61歳まで子をもうけている。特に、幕府が正式に院政を認めた1937年あたりからご自身の40歳代の男盛りにはすさまじい勢いで子作りを行っている。40歳前半で10名以上子が出来ている。平均寿命が50歳までの時代に、この精力は如何なものだろう。現代ならギネスものだ。
古代の天皇にもその例は多いが、その結果歴史に貴重な軌跡を生む。
清和天皇が多くの子をつくったお陰で臣籍降下し、源氏(清和源氏)の祖となった。平氏の祖である桓武平氏も桓武天皇の生殖力のお陰だ。後水尾上皇は、京都の門跡寺院の隆盛に大きく貢献した。宝鏡寺や霊鑑寺などの有名な尼門跡寺院はほとんどが後水尾の皇女が祖になっているか中興となっている。
その結果、宮廷文化の伝承をこれらの寺院を通じて今、我々を楽しませてくれる。
最後に、所縁のお寺を一つ紹介する。
戒光寺 釈迦如来立像 首に血の跡?
泉涌寺の参道を歩いていると、ほとんどの人が通り過ぎるお寺がある。「10mの木造釈迦如来像」と書いてある。塔頭 戒光寺(かいこうじ)は、丈六の釈迦如来像が有名なお寺だ。
後水尾天皇身代わりの仏像とされる。作は運慶湛慶なので鎌倉時代なのだが、よく見ると首のあたりに何かシミが見える。後水尾天皇の東宮時代、即位争いに巻き込まれ暗殺された。首を絞められたが奇跡的に助かり、その後、この釈迦如来の首に血の跡が見つかった。それ以来、身代わりのお釈迦様。そして、首から上の病気にご利益があるとされ、その大きさから「丈六さん」と親しまれる事になる。
ありがたいことです。丈六とは、仏像の本来の大きさで、立って5.4メーターほどだ。
後水尾天皇は、前半生は、幕府に抗ったが、後半生は優雅に文化に専念した。85歳の長寿を全うし昭和天皇がそれを越えるまで最長寿の天皇であった。
その年齢を越えた時の、昭和天皇のコメントは、
「後水尾天皇の時は平均寿命が短く、後水尾天皇の方が立派な記録です」
いずれも大変ご立派な天皇だった。日本人で良かった・・・・。
以上、次回は父 後陽成天皇。
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