逆順でたどる平安京の天皇たち
107代 後陽成天皇 秀吉と家康に翻弄された天皇
父 |
誠仁親王 祖父 正親町天皇 母は、勧修寺晴子 |
l 在位中元号 |
l 元正・文禄・慶長・ |
l 生年・崩御 |
l 1571年12日31日~1611年5月9日 |
l 在位 |
l 1586年12月17日~1629年12月22日 |
l 朝廷 |
l 京都御所 土御門東洞院 |
皇后 |
近衛前子 |
l 皇子・皇女 |
l 多数(約25名) |
l 先代 |
l (祖父) 正親町天皇 |
l 次代 |
l (3男)後水尾天皇 |
l 陵墓 |
l 伏見御陵 |
即位時は、豊臣政権の盛りで、譲位時には、徳川政権の初期であるという大きな節目に天皇であった方だ。
大きな業績は、秀吉の「聚楽第への行幸」と、家康への「征夷大将軍宣下」の二つだ。
残念ながら朝廷における功績はほとんど伝えられていない。
在位中、「宮中密通事件」という重大事件が起こっている。幕府大奥や朝廷の宮中では、男性の行き来については非常に制限される。天皇や将軍以外の男性の『不埒な行為』を恐れるのだろう。中国では、宦官という去勢された男性しか宮中奥深く入れない制度を近世まで守っていたくらいだ。
その宮中で、女官と若い公家との密通事件が発覚し、幕府の知れるところとなり多くの女官が処分された。中に、天皇の寵愛の典侍がいて大いに叡慮を乱したと伝わる。
結果、天皇は譲位し後水尾天皇に譲る。しかし、この譲位も後陽成の希望通りではなく不本意であった。天皇の希望は、二宮(次男)であり、幕府の希望は当然ながら、一宮(長男)であった。結果妥協の結果だろうか、三宮の後水尾に決まった。この親子が終生不仲であった原因はここにある。
因みに、関ケ原合戦の時、丹波城に籠城していた細川藤孝(幽斎)が、古今伝授の唯一の資格者であったため、勅令をもって停戦させている。古今伝授とは古今和歌集の解釈を口伝にて伝える秘伝である為、それが絶える事を恐れた天皇の叡慮であった。これは功績だ。
なお、平安時代の陽成天皇と同様、若い時の素行の悪さが伝わるが、筆者は後水尾との不仲による後世の創作と思料する。
御乱心や御乱行と伝わる天皇は、皇統が別の血統に変わった時や、次期天皇と不仲であった場合、多くのケースで前任を陥れる。
現在の企業の社長交代時のクーデター事件と何ら変わらない。
次期権力者は、まず前権力者を批判して自分の正当性を主張する。古代から人間の性は何も変わらない・・・・。(涙)
なお、諡号父子逆転については前回述べた。313回をご覧ください。
次回は、祖父正親町天皇。
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