友と談話室で雑談後、二人で1階ロビーに行くと、もう外来患者もない広い待合の中、携帯を触っている妻がポツンといました。こちらの気配を感じたのか妻は私達の方向へ顔を向けると、笑顔で応えてくれました。『遠いのに・・これから・・帰るのも大変やな。今日はありがとう。』笑顔で言う友に『いやいや・・今から豊中の嫁さんの実家に寄るし・・』本当は行かないのですが・・・妻の実家も阪急沿線なので友に気を使わせたくなかったのです。私達に気づいた妻は椅子から立ち上がり駆け寄ってきました。『いつも主人がお世話になっています。また・・食事に主人を誘ってやってください。』それは妻なりに元気になってくださいというメッセージなのです。『はい。是非!コップ一杯のビールと御飯で!』笑顔で返す友の顔を見てると、とても癌を患っているとは思えないくらいでした。病院を出ると『来てよかったね♪』妻が一言。病院前のバス停には珍しく5~6名の若い学生風の女性が並んでいました。もう外は暗くなり始め暫くするとライトを点灯したバスがやってきました。塚口駅に着くと結構、人も多く商店の明かりで何故か活気ある風景に見えたのは私と妻だけ・・『お父さん・・梅田で御飯、食べて帰ろうか?』もう、そんな時間??と思い時計を見ると既に18時になっていました。『そやな。そうしようか?帰って作るのも大変やろ?』私の言葉に『帰って作れと?私の実家、ここから近いし、お父さんだけ家に帰れば?』ケラケラ笑いながら塚口駅の改札をくぐったのでした。
病室の冷蔵庫から缶コーヒーを2つ取り出し『あっちに行こうか。』4人部屋の病室で話すことは他の患者様にご迷惑がかかります。廊下に出て歩き始めると『前に会った時に比べて、しっかり歩けてるやん。』そう言えば今年1月、抗がん剤治療を終え癌の消滅を聞いたことで、もう一人の友人と3人が集まり天王寺で食事をした、その日以来、会っていませんでした。『そうかな?』そう返すと笑顔で『うん!うん!凄い回復やで!今日は遠いとこ・・来てくれて・・』自分の癌には全く触れず、私の身体のことばかり気にかけてくれるのです。(相当、辛いはずやのに)そう心に思いながら談話室のソファに腰をかけました。”プチ”缶コーヒーを開けて一口、ゆっくり飲むと『久しぶりやな・・』私は何気なく言葉を発しました。『再発は、ある程度、想定はしててん。ショックと言えばショックやけど、初めて癌宣告を受けた時に比べたら軽かった・・』果たして本心だろうか?私は心の中で、そう思い。一旦、癌が消えて腫瘍マーカーの数値も異常値から、かけ離れたら誰しも”治癒した”と信じるはず。そして、もう二度と癌はやってこないと信じた後の再発は、相当、落ち込んだはず。でもソファで腰かけコーヒーを飲んで居る友は精いっぱいの笑顔で軽かったと言っている。今日は友の話したい事、心の奥にある、どうしようもない気持ちを少しでもガス抜きできれば・・そう思って病院に来たのです。私は時折、相槌をうちながら友の話に聞き入っていました。あと1年・・再発が遅れて欲しかった。その一言に、再発の覚悟と治癒への希望の葛藤と闘っていた8か月だったのか?友には二人の子供がいて長女は既に社会人だが長男は今、学生である。その長男も昨年、大学をあきらめ専門学校へと進学したのであるが『あと1年・・そうすれば就職の目処もたち安心できるのに・・』そう悔やむ気持ちもイッパイ。父としての責任を果たしたい!その思い。癌の治療にはお金も半端なく必要になってくる経済的な不安。『傷病手当・・来年2月で切れるんや。同じ病気での期間は1年半の支給やけど、これ・・復職期間も含まれてるねん。8か月の復職期間は期間にカウントされる。医療保険入ってるけど癌保険には入ってなかったから来年2月から経済的に辛くなるねん・・嫁さんが多少なりとも蓄えはあるけど・・それもなぁ・・』あとは高額医療制度とか・・『お前ンとこは?』脳出血で倒れ労災が承認されたことは友も知っている。『俺は大丈夫や・・あ!去年、言うてた障害厚生年金、癌も出来るって去年、言うたけど申請したんか?』気になっていたことを切り出すタイミングだと思って聞いてみると『あ、それな。俺もパソコンで調べたよ。あれって殆ど寝たきりの治療にならないとアカンみたいやな。』缶コーヒーを一口、飲んでから友はトーンを低くして言った。『障害年金の申請って書類審査のみやで。医師の診断書の書き方次第。あとはお前が病状の申立書をどう作成するか?や。抗がん剤治療の副作用で苦しんでる人でも受給してる人はおる!自分では中々、書類の作成は面倒やから・・そや。俺が世話になった社労士に聞いてみようか?』私は少しでも役に立てるなら・・そう思って言うと『そうなんや。』まだ気持ちがスッキリしないようである。医師とのコミュニケーションは良好で医療保険の時の診断書も丁寧に書いてくれたらしい。『ダメ元・・で行こうや。もし行けそうやったら申請してみて認定されたらラッキーと思ったらどうや?』そう言うと『ちなみに・・お前、なんぼ受給や?』私は正直に言った。『え?そんなに??』友は驚いた表情で返してきた。厚生年金を給与から控除されてる期間も控除金額も私と、ほぼ同じなのは、わかっている。なぜなら同じ会社で20年以上、そして昇進時期も、ほぼ同じで同じポジションで頑張ってきた間柄。共に平均年収額は、そう変わりない。障害年金は支払った金額と期間で受給額は想定できる。『ま、お互いにそれなりの給料、貰ってきてたし。俺の受給額聞いて、申請してみる気になったか?』友は『まず・・社労士に打診してみて社労士が申請してみると言ったら頼むワ。』障害年金には1級~3級があり1・2級なら国民年金の基礎年金が加算される。1級が無理でも2級なら相当の年金が受給できるので癌治療や長男の学費に大いに役立つはず。『よっしゃ!ほな早速、社労士に連絡してみるから』話し込んだら1時間近くもいてしまった・・『今日は突然、来て、すまん。』私が言うと『奥さん・・1階のロビーにいてはんねやろ?挨拶させてくれるか?』二人でエレベーターホールへと足をむけた。
午後3時。私と妻は阪急梅田駅構内に私と妻はいました。『お父さん・・塚口やった?』私は軽く頷くと妻は切符を買い”ハイ”っと渡してくれました。神戸線のホームへと杖をつきながら、ぎごちない歩き方で電車に乗り込むと車内は空いていて『良かったね。』小柄な妻と腰かけて数分後、あづき色の電車が出発しました。中津を過ぎ淀川を渡るころ急に西日が車内に差し込み『あ!反対側・・座った方がよかったね。まぶしさを遮りながら十三~園田、塚口・・塚口駅に着くと『ちょうど一年前・・お見舞いに来たね』ボソツと言う妻に『そうか・・あれから1年』私は少し思い出しながら塚口駅を出て伊丹市営バス停まで、また杖を突きながら歩いていました。そう言えば去年の8月、肺がんになったとメールが届き、その内容には見舞いは遠慮してほしいとのことでしたが9月と11月、2度ほどお見舞いに行きました。そして今回は【再発】のメールを受け先月下旬より抗がん剤治療を行うと、そして見舞い遠慮願うと書いてありました。・・妻にメールの事を知らせると『来てほしいン違うかな?お父さんに会いたいンと思うヨ』妻が言うには本当に見舞いを遠慮してほしければ、わざわざ再発したと知らせないし入院日まで連絡しないというのです。『メール・・返信するの?』私は、返信しようかどうか迷っていた・・というより、どう返信してよいのやらわからなかったのです。『言葉が思い浮かばへんねやろ?時間・・おいてみたら?』妻の言葉に。。そうやな・・と妙に納得してメールを返さないでいると・・”フォン”私の携帯が鳴ったので見ると友からのメール。内容は治療は順調に行っていて副作用も重くないとのこと。『ほらぁ・・来て欲しいって言ってはんで!』妻が携帯を見ていた私の横から声をかけてきたのです。『私、パート昼までにするし・・行こ!』と妻から背中を押され・・今、バス停で待っているのでした。バス停の正面に見えるスーパーは兵庫県では有名なスーパーがあり、そこに出入りする人たちを何気に見ているとバスはやってきました。約10分・・目的の病院に到着。『私、ロビーで待ってるから、ゆくり雑談しておいで!』妻は笑顔でロビーの椅子に腰かけました。私は面会の手続きを済ませると西病棟に入院しているとのこと。友には見舞いに行く・・とは全く連絡せず突然の訪問でした。(もし・・抗がん剤治療中で気分が優れていなければ、見舞いの品を詰所に預けて帰ろう・・)そう思っていましたが。『すみません。』詰所の小窓を開け声をかけると20代半ばの可愛らしい看護師さんが受けてくれました。『Kさんですか?今は大丈夫ですよ。この廊下の突き当り右側が、お部屋です。』気持ちの良い応対に少しホッとしながら廊下を歩き突き当り右側。病室の表札は4名。その中に、友の名前がありました。たぶん・・窓際かな?どのベッドが友であるのか。左手前は不在のままカーテンが開いていましたが、あとの「3ベッドはカーテンが閉まっています。窓際だと窓側から少しのぞき込めるので私は、まず窓際へと向かいました。突き当りに洗面台があり、まず右側に目をやると60歳くらいの男性が気持ちよさそうに寝ていました。(違う・・)そして左側に目を向けるとベッドに腰かけ携帯を手に取っている友がいました。『こんにちは~!』顔を上げて、こちらを向いた友は、驚いた表情で・・少し間をあけたあと『え!遠いのに!!』突然、来たので驚いたのでしょう。でも、すぐ、その表情は笑顔へと変わり私も安堵したせいか『来ちゃいました♪・・あ、これ・・』見舞いの品を渡しながら『あ、そうそう下町ロケット2・・読んだ?』わたしが聞くと『いや・・まだ読んでへん。持ってきてくれたん?』嬉しそうに受け取りながら『談話室・・行こうか?』そう言いながら冷蔵庫から缶コーヒーを2つ取り出す、その冷蔵庫を見てみると沢山の缶コーヒーがあったのです。(やっぱり来て欲しいんや)私も脳出血で入院していた時、お見舞いに来てくれる事が、どんなに嬉しかったことか・・冷蔵庫の缶コーヒーは、いつだれが自分を尋ねて来てもいいようにしている友の心遣いなんだと思いました。
消費者金業界は大手から零細を含めて昭和50年代半ばの頃、全国2万社以上あったそうです。でも・・平成27年の現在、一体、何社残っているでしょう・・業界トップの規模を誇った武富士は数年前に倒産しましたが、それまでも何度か淘汰の渦が来ています。昭和59年、大手某社も倒産の噂が・・かくいう私の勤めていたレ●クも綱渡り状態・・激震が走った理由は銀行等の金融機関からの資金が止められたからです。サラ金の社会問題化によって世間はサラ金に資金を提供していた銀行や生保・損保業界に批難をあびせたからかも知れません。業界も自業自得と言えば、それまでですが・・当時、私はN生命の終身保険に加入していましたが・・ある日、某支部長に呼び出され『Y君・・N生命。。入ってるらしいな・・解約してくれへんか?』理由を聞くとN生命はレ●クから10億円の資金引き上げ・・いわゆる貸しはがしにあうというのです。『強制ちゃうけど・・ま、考えといてや』当時、債権回収部署に居た私は営業店の支店長を目指して頑張っていたので(これは・・昇進に影響するかも)そう思い解約したのです。その後・・今は破綻した日本長期・・銀行や興銀の方々が支社ビル・本社ビルの視察に来られ当時の営業本部長が案内していまして。。債権回収部門にも視察に来られました。会社は資金を引っ張るため必死だったのです。昭和59年~60年は中堅の消費者金融が、あいついで倒産や合併が、あいついで行われていたのです。レ●クも何社は傘下に収めた企業もあります。私が在職時の最初の大きな地震は金融機関の資金引き締めです。その後、大蔵省(現財務省)元官僚を会長に招くと・・資金が潤沢となり経営は安定化へと方向転換していくのです。この大渦は一体、何を意味しているのか?消費者に望まれる体質に変化しないと・・淘汰するぞ!という神様のお灸のようなものか・・・昭和58年 貸金業規制法は施行されても・・なおのこと悪質な取り立てをする業者が後をたちませんでした。法を無視するなら・・と消費者金融業界にとって『お金』は一番の営業不可欠なもの。これを絞めるしかなかったのでしょう。大手も例外なく懸命に生き残りをかけていた時代でした。でも業界は、まだ懲りてなかったのです。平成に入ると商工ローン問題が噴火したのです。これが次の大きな激震となったのは私にとって、つい最近の出来事のようでもあります。
振り返ると、これまで自分は『何をやっててんやろう?』と何度となく思うのです。高い給料が欲しく、そして少しでも高い職位を目指して・・サラリーマンをしてれば普通?かもしれません。ブランド品を欲しがり・・自分の利益になることばかり優先してきたように思って・・振り返ると恥ずかしさの余り・・昼間、一人リビングで笑ってごまかす自分自身・・その後は『はぁ~・・』と大きなため息を漏らしてしまう。お金では到底、買うことが出来ない多くを失ったことの気づき・・病気になって初めて目が覚めた自分。『我欲』がどれだけ多くを失うか・・目先の損得に囚われた恥ずかしさ。亡くなった母が生前、よく言っていたいくつかの言葉を思い出しました。そのうちの1つ。『損して得取れ・・』私は、こう解釈していましたが母の言いたかったのは『損して徳取れ・・』であったんだと。徳・・一体なんであるのか50歳を過ぎて、しみじみと心に響き始めたのです。世の中、どんどん変化し人間にとって生活も便利・医療も発展し寿命の延び・・不思議と人間の若さも衰えが遅く・・30年前の60歳と現代の60歳の若さ感覚は違います。今の80歳で総入れ歯の人・・そんなにいない。でも私が子供のころ結構、いたように思います。若い男女もLINEやツイッターで出会いをの求め・・自動車も自動運転が開発され本当に未来へ向かっている実感はありますが、人間の本質は不変ではないかと。それは愛情であったり誠実さであったり、そして感謝の心・・物や環境の変化はしても人の本質で大切な部分は失ってはいけない・・でも人間って物やお金を持ってしまうと、その本質が負の方向へと変わることさえある・・。我欲が大きく膨らんで自己中心。。傲慢・・他人を見下し利用し自己の利益を必要以上に得ようとしたとき・・幸せは遠のくような気がします。サラリーマンで30歳~40歳半ばまで、私は『人間、欲が無くなったら終わり』そう考えていました。でも今は違います。欲を少しづつでも無くしていくと不思議と気持ちが落ち着き穏やかになり他人に優しくなれます。お金は生活できて人さまに迷惑かけないほどあればいい。必要以上に入れば人のためになる使い方をすればいいんじゃないか?あれほど輝いて見えたロレックスやヴィトン・・時々、娘と百貨店に行ってロレックス・ヴィトンのショップに見に行くのですが気持ちが躍りません。いい品であることは十分にわかっていますし素晴らしいブランドであると思います。でも全く心が躍りません。妻から『お父さん、誕生日・・何がいい?今、使ってるヴィトンの財布も古いしね』そう・・私の財布は妻と新婚旅行に行ったときに買ったヴィトンのエピ・・色はグリーン。『ヴィトン?そんなん、もったいないし・・いらんよ。それやったら温かい布団カバーがいいな』そう答える私に『お父さんも変わったね。』私は妻に言われ、そうなんかな?ロレックスもタンスにしまい込んだまま全く腕につけようと思いません。普段、着ている服も『しまむら&ユニクロ』です。そんな今、思うことは・・俺って何してたんやろ?遠回りしたなぁ・・でも気づけた事は宝物や。もし?来世があるならば・・どう生きていくか、ふと考えてしまうときもあります。人生に無駄なことはない・・この言葉も少しわかりかけたような気がします。