「もし、あなたがこのようなときに沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたも、あなたの父の家も滅びるだろう。」(エステル4:14新改訳)
奸臣(かんしん)ハマンの計略により、ユダヤ人絶滅計画が立てられた時、エステルは王妃(おうひ)であった。自分がユダヤ人であることを黙(だま)っていれば、彼女はただひとり王宮で助かっていたかもしれない。しかしそれではいけない、神があなたに何を求めているかを考えなければならない、と養父(ようふ)モルデカイは諭(さと)した。その結果、エステルは文字通り自分のいのちをかけ、王に近づき、同族のため命乞い(いのちごい)をしたのであった。▼時と場合により、沈黙(ちんもく)は大きな罪になる。それは自己愛の最も卑怯(ひきょう)な現れとなって、多くの犠牲者(ぎせいしゃ)を生むかもしれない。主イエスがゲッセマネからゴルゴタへ進まれたとき、弟子たちをはじめすべての人々が沈黙し、見捨ててしまった。いっしょに十字架につこうと名乗り出る者は一人もいなかったのである。▼ああ私たち人間はなんと卑怯で罪深い存在なのであろう!恥ずかしさにふるえ、涙にむせびつつ刑場を去り、暗がりの中でひれ伏すことがほんとうの礼拝ではないだろうか。「召使いの女はペテロを見て、そばに立っていた人たちに再び言い始めた。『この人はあの人たちの仲間です。』すると、ペテロは再び否定した。しばらくすると、そばに立っていた人たちが、またペテロに言った。『確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。』するとペテロは、嘘ならのろわれてもよいと誓い始め、『私は、あなたがたが話しているその人を知らない』と言った。すると鶏がもう一度鳴いた。ペテロは、『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います』と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして(外に出て行って・・・マタイとルカにはこの語がある)彼は泣き崩れた。」(マルコ14:69~72同)