しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <雄羊(おひつじ)の皮>

2024-03-07 | 出エジプト記
「天幕のために、赤くなめした雄羊の皮で覆(おお)いを作り、さらに、その上に掛(か)ける覆いをじゅごんの皮で作った。」(出エジプト記36:19新改訳)

会見の天幕全体は四種類の幕でおおわれた。これは人なるイエス・キリストを象徴(しょうちょう)している。いちばん外側はじゅごんの皮製で、砂漠に住む人々の天幕と変わらない。▼そのように、イエスはナザレで育(そだ)ったふつうの青年としてすこしも変わったところのない姿であった。その次の赤くなめした雄羊の皮は、主の愛をあらわしている。主は父のお心に全(まった)く従い、罪びとのため十字架上にいのちを捨(す)てることを決心して地上生涯を生きられた。その燃えるような愛を象徴したのが赤い皮であった。▼三番目にある真っ白な山羊の毛で作られたおおいは、キリストのきよい心を象徴している。汚(けが)れた人間の世界を生きられたにもかかわらず、御子(みこ)は一点の罪にも染(そ)まらず、あがないの子羊として、完全な生涯を送られた。もっとも内側にある錦(にしき)の覆いは、主の人格の最奥部(さいおうぶ)が天の輝きと父のご臨在(りんざい)に満ちた栄光そのものであったことを示していた。▼三年間、主と交わり、その人格にふれた弟子ヨハネが感嘆(かんたん)したのも無理(むり)はなかった。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14同)

朝の露 <ベツァルエル>

2024-03-06 | 出エジプト記
「モーセはイスラエルの子らに言った。『見よ。主は、ユダ部族(ぶぞく)のベツァルエルを名指(なざ)して召し、彼に、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた。』」(出エジプト記35:30,31新改訳)

モーセが造営(ぞうえい)した神の幕屋は、いわゆる職人が自分の知恵で作った工芸物ではなく、神の霊に満たされた者の造作(ぞうさく)であった。これを聖書から味わえば味わうほど、そのふしぎさが現代の私たちにも伝わって来る。▼思えば、人として地上に現れたイエス・キリストも幕屋であられた。その神秘性(しんぴせい)は、私たちがどんなに追及(ついきゅう)してもなお窮(きわ)められず、惹(ひ)きつけてやまないものを持つ。また、その意味では、いま私たちが手にしている聖書も、神の幕屋と言うことができるだろう。イスラエルの子らは荒野(あらの)の天幕で神を礼拝したが、私たちは聖書という幕屋にあって主を礼拝していることになる。シナイ山から下りて来たモーセの顔は光を放っていたが、聖書は別の意味で光を放っている。しかも時代と地域(ちいき)、諸国諸民(しょこくしょみん)を超えて輝き、照らし続けて今日に及んでいる。▼個人的に、信仰者がこの光に照らされつつ一生を歩むことは、最高の幸せといえよう。「みことばの戸が開くと、光が差し、浅はかな者に悟りを与えます。」(詩119:130同)、「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩119:105同)

朝の露 <顔の肌(はだ)が輝(かがや)きを>

2024-03-05 | 出エジプト記
「それから、モーセはシナイ山から下りて来た。モーセが山から下りて来たとき、その手に二枚のさとしの板を持っていた。モーセは、主と話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった。」(出エジプト記34:29新改訳)
モーセの顔はふしぎな光を放射(ほうしゃ)した。あまりにも長く神と交わっていたため、その栄光が自然に彼の肌を輝かせたのであろう。人々はその神々(こうごう)しさに恐れを感じ、モーセから遠ざかったと記されている。▼12使徒のヨハネは後に記している。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:14同)と、深い感動をこめて・・・。あきらかに主イエスに満ちていた栄光は、モーセのそれとはちがう。モーセはふつうの人間であり、外側から神の臨在(りんざい)に接し、顔が火照(ほて)ったかのように光った。しかしイエスはもともと父なる神のふところ深くに住まいしておられる神である。その愛の交わりの本質が恵みとまこととして現れたのである。▼モーセの肌の輝きは周囲(しゅうい)の人々に畏怖(いふ)の念をいだかせ、近よりがたい雰囲気(ふんいき)を与えた。が、ナザレのイエスの栄光は逆だった。当時の社会で見すてられていた人々、祭司や学者、パリサイ人たちが軽べつし、遠ざけていた取税人、遊女(ゆうじょ)、種々の病気を持って汚れていた人たちが、先を争って押し迫(せま)るように近づけた栄光とかがやきだったのである。どちらをもって真の栄光となすか。

朝の露 <どうかあなたの道を>

2024-03-04 | 出エジプト記
「今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」(出エジプト記33:13新改訳)

神は「イスラエルと共に行かない」と仰せられた。あまりにも不従順(ふじゅうじゅん)な民なので、怒(おこ)って滅(ほろ)ぼしてしまうことになるからと。▼これを聞いたモーセは必死に嘆願(たんがん)する。どうぞ私たちを見捨(みす)てないで、共に行って下さる道があれば、それを教えてください、と。これは期(き)せずして神と人との仲介者(ちゅうかいしゃ)キリストの出現を求める祈りになっている。そして神はその嘆願(たんがん)を受け入れ、会見の幕屋の造営(ぞうえい)を示されたのである。この幕屋の実態(じったい)は、じつのところイエス・キリストにほかならなかった。その受肉降誕(じゅにくこうたん)は千年以上先になるのだが、予型(よけい)として与えられたのが会見の天幕(いわゆるモーセの幕屋)である。こうしてイスラエルは幕屋を設けることにより、神にお会いする道を残された。▼「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6同)

朝の露 <民の不安>

2024-02-29 | 出エジプト記
「民はモーセが山から一向(いっこう)に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。『さあ、われわれに先立(さきだ)って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、わからないから。』」(出エジプト記32:1新改訳)

モーセがいつまでも下山(げざん)しないので、イスラエル人たちは不安になった。そして目に見える神々をこしらえてくれ、とアロンに迫(せま)った。不信仰と不安は紙一重(かみひとえ)である。▼これとよく似ているのがイスラエル初代の王サウルであった。ペリシテ人と戦っていた時、サムエルがいつまでも来ないので待ちきれなくなった彼は自分でいけにえをささげてしまった(Ⅰサムエル13章)。そのため、彼は王位を失うことになったのである。▼信仰とはどこまでも神の約束を待ち望むことで、不安や不信仰との死闘(しとう)である。このときアロンがいのちがけで民の要請(ようせい)を拒絶(きょぜつ)し、あくまでモーセの下山を待ち望んでいれば悲劇(ひげき)は起きなかった。主が再臨される終末時代もこの信仰が私たちに求められると、主はおおせになった。「まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放(ほう)っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速(すみ)やかにさばきを行ってくださいます。だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰{不屈の信仰}が見られるでしょうか。」(ルカ18:7,8同)。 *{不屈の信仰}・・詳訳聖書から