しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <安息日と仕事>

2024-02-28 | 出エジプト記
「六日間は仕事をする。しかし、七日目は主の聖なる全(まった)き安息(あんそく)である。安息日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。」(出エジプト記31:15新改訳)

この戒(いまし)めはとてもきびしく見えるが、主イエスは「安息日は人のために設(もう)けられたものである」(→マルコ2:27)と仰(おお)せられた。もし安息日がなかったら、人間は死ぬまで働かされ、苦しみの奴隷(どれい)となっていたにちがいない。神は私たちに対する愛とあわれみから、休息(きゅうそく)のときを設(もう)けてくださったというのがほんとうである。▼このように、人は安息日があるため、労働から解放(かいほう)され、息をつけるのだが、ユダヤ人指導者たちは逆に、安息日(あんそくにち)を厳守(げんしゅ)せよといって民衆(みんしゅう)をさばき、苦しめた。彼らは安息日を守っているかどうか、目をひからせ、人々の心を窒息(ちっそく)せんばかりにしばりつけた。なんという律法のはき違(ちが)えであろう。▼主イエスは神ご自身だから「安息日の主」であり、守る、守らないは全く自由なのに、パリサイ人たちから「お前は人々の病気を癒(い)やした(すなわち仕事をした)」といって非難(ひなん)されたのであった。

朝の露 <香りの高い香>

2024-02-27 | 出エジプト記
「アロンはその上で香りの高い香をたく。朝ごとにともしびを整(ととの)え、煙を立ち上らせる。アロンは夕暮れにともしびをともすときにも、煙を立ち上らせる。これは、あなたがたの代々にわたる、主の前の常供(じょうく)の香のささげ物である。」(出エジプト記30:7,8新改訳)
会見の天幕で香をたくのは、ひじょうに大切なことであった。幕屋には神の臨在(りんざい)をあらわす雲が昼も夜もとどまっていたが、それとともに祭司がたく香の煙も立ち込め、両者が混じって会見の天幕を包(つつ)んでいたことがわかる。▼やがて始まる天上の大礼拝で、子羊が巻物を受け取ると(黙示録5:8)、長老たちは香に満ちた金の鉢(はち)をささげるが、「香は聖徒たちの祈りであった」と記されている。つまりあらゆる時代の聖徒たちがみ父とみ子にささげて来た祈りは、第三の天に満ちる尊(とうと)い香となってたちこめ、その中で救いのご計画が進められるのだ。私たちが朝夕ささげる祈りは、このように尊いささげ物として、金の鉢を満たしていることを思うと、あらためて厳粛(げんしゅく)な気持ちになるではないか。これからも喜んで祈りの生活を続けたい。▼「巻物(まきもの)を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老たちは子羊の前にひれ伏(ふ)した。彼らはそれぞれ、竪琴(たてごと)と、香に満ちた金の鉢を持っていた。香は聖徒たちの祈りであった。」(黙示録5:8同)

朝の露 <会見の天幕(てんまく)>

2024-02-26 | 出エジプト記
「その場所でわたしはイスラエルの子らと会(あ)う。そこは、わたしの栄光によって聖なるものとされる。」(出エジプト記29:43新改訳)

イスラエルは不信仰の罪を犯(おか)したため、どこにおいても神にお会いできる、というわけにはいかなくなった。ただ一か所、会見の天幕として聖別された場所にあってのみ、会うことがゆるされたのである。▼この場所を新約的な光でみれば、じつはイエス・キリストご自身をあらわしていることがわかる。主はただ一度、永遠の供え物としてご自身のいのちを十字架にささげ、父なる神に近づく道を設(もう)けられた。主イエスの死と同時に、エルサレム神殿にあった隔(へだ)ての幕が裂(さ)けた事実がそれを示している。じつに人となられた神の子羊(こひつじ)・イエスこそ、神と人間が会える場所であり、いわば神のおられる第三の天が地上に降(くだ)って来たことと同じなのである。▼そこで、今や御聖霊(ごせいれい)を内に迎えた新約の信仰者たちは、地上に生きているあいだ、さながら自分が会見の幕屋にいるかのように、神と交わりながら過ごすことができるのだ。ハレルヤ。「悲しみ尽(つ)きざる浮世(うきよ)にありても、日々主と歩めば御国(みくに)の心地(ここち)す。山にも谷にも小屋にも宮にも、日々主と住まえば御国の心地す。 ハレルヤ! 罪咎(つみとが)消されし我が身は、いずくにありても御国の心地す」(新聖歌268番より)

朝の露 <さばきの胸当て>

2024-02-22 | 出エジプト記
「さばきの胸当(むねあ)てにはウリムとトンミムを入れ、アロンが主の前に出るときに、それがアロンの胸の上にあるようにする。アロンは絶えず主の前に、イスラエルの息子たちのさばきを胸に担(にな)う。」(出エジプト記28:30新改訳)

アロンは大祭司(だいさいし)として、イスラエル全部族のさばきを担(にな)った。これは、天における大祭司イエスが、あらゆる時代の信仰者たちの運命を担い、全責任をもって父なる神の前にとりなしている様子(ようす)をあらわしたものである。▼「キリストは・・天そのものに入られたのです。そして今、私たちのために神の御前(みまえ)に現れてくださいます」(ヘブル9:24同)とあるが、アロンが胸の上にイスラエルの名を刻(きざ)んだ宝石を置いたように、主イエスが私たちのことを片時(かたとき)も忘れず、気遣(きづか)っていてくださるとは!▼また、「イエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります」(同7:25)ともあり、私たちの心からすべての恐れ、不安を取り除き、完全な平安と確信を満たしてくださるのである。霊的、信仰的にみると、私たちが救われて御聖霊を内に迎えたというのは、大祭司服を着たこととおなじである。つまり、天の父が私たちをごらんになるとき、栄光と美に輝いた主イエスを通して私たちをごらんになるのだ。だから信仰者の罪とけがれは主の血潮と愛の輝きに飲みつくされ、まったく見えなくなっている。これがあがないの尊さである。主イエス・キリストを着るというのは、これほどにすばらしい事実であることをおぼえたい。「あなたがたは古い人をその行いとともに脱(ぬ)ぎ捨(す)てて、新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。」(コロサイ3:9,10同)

朝の露 <刺繍した垂れ幕>

2024-02-21 | 出エジプト記
「庭の門には、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いた、長さ二十キュビトの刺繍(ししゅう)した垂れ幕(たれまく)を張る。その柱は四本、その台座(だいざ)は四個とする。」(出エジプト記27:16新改訳)

幕屋の周囲は神域(しんいき)、いわゆる境内(けいだい)として真っ白な亜麻布(あまぬの)で仕切(しき)られていた。ここに入るには東側の垂れ幕をくぐらなければ入れなかった。▼つまり、会見の天幕には計三枚の幕があり、外側から順に、①境内に入るための幕、②聖所に入るための幕、③至聖所(しせいじょ)に入るための幕となっていた。ふしぎにも、この三枚は東向きに張られ、会見の天幕の入り口になっていたのである。これらは、純白(じゅんぱく)の亜麻布をベースに、青、紫、緋色(ひいろ)の撚り糸(よりいと)でケルビムなどが織(お)り出されていた。そして、いかなる人も幕でできた入口以外からは決して神域に入れなかったのだ。▼もちろんこれはイエス・キリストを表わす。なぜなら、主ご自身が、「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます」(ヨハネ10:9同)と言われたからだ。キリスト者は十字架で死なれたお方を信じ、救われ、神の国に属する者となる。そこが第一の門であり、さらに信仰生活で霊性が深められ、第二、第三の入口を通って天の至聖所に導かれていくのである。▼「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆(だいたん)に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。また私たちは、神の家を治(おさ)める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振(ふ)りかけられて、邪悪(じゃあく)な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心(まごころ)から神に近づこうではありませんか。」(ヘブル10:19~22同)