「あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いがあらわになるためです。」(ルカ2:35新改訳)
マリアとヨセフは、イエスが生まれて四〇日たったとき、エルサレム神殿に連れて行った。それはモーセ律法の規定により、いけにえをささげるためであった(レビ記12:2)。母親の胎を最初に開く男子、つまり長子は本来、神のものであり、本人の意思にかかわらず生涯を全き献身者として送らなければならない。そうしない場合、夫婦はその代わりに、全焼のいけにえと罪のためのいけにえを献げる必要があったのだ。▼さて、そのとき神殿境内にいたシメオン老人は幼子イエスを見、祝福の祈りを献げた。なぜなら、彼は長い間メシアの出現を待っていたからで、35節はマリアに向かって述べた預言である。これは祝福とはいえ、イエスの御生涯を表した内容で、おごそかな審判の内容でもあった。▼それから30数年が過ぎ、ゴルゴタのときが来た。マリアは「わが子イエス」が十字架につけられたとき、そのそばに立っていたが、大勢の人々がイエスをののしり、あざ笑う光景を見た。彼らは毎年エルサレムの祭りで、共に神を賛美し、なかよく食事をし、語り合った人々だ。その彼らが今、わが子イエスを呪い、つばを吐きかけ、くちびるを突きだし、汚れた者として非難しているではないか。たぶんマリアの心はずたずたに引き裂かれたろう。▼人間はイエス・キリストの前に出た時、本当の姿を現す。心の奥底まで、神の光によってあきらかにされる。マリアは母として、女性として、十字架かかったわが子イエスが、あのときシメオンが預言したように、「人々の反対にあうしるし」、「イスラエルの多くの人々が倒れたり立ち上がったりするために定められたしるし」であることを見た。そして心を剣で刺し貫かれたのであった。