今でこそ、バス路線でも狭隘区間では、小型の日野ポンチョ型とか中型のエルガミオ型という整理券式ワンマン対応の車両があるし、バックアイもあるため何ら心配はなし。
しかしながら、1960〜70年代頃の記憶では、路線バスは車掌乗務は当たり前。前扉もなく、後方幕も手回しなど、至って簡単な構造の車両でしたね。まだまだボンネット式が多くて、それがないだけ、随分と近代的なバス車両に感じたものでした。
また、今のような小型車とか中型車もあまりなく、狭隘区間も車掌の誘導で大型車が無理矢理に乗り入れていたように思いますよ。
さて、私自身がいささか乗車中に怖い思いをした路線系統について。
まず、名古屋市営バスでは15、120、152号系統の岩塚(初代)〜万場大橋、万場小橋〜松下住宅の区間。前者は庄内川手前で運転手が素早くハンドルを回していましたね。また、後者は新川沿いの区間。一歩ハンドル操作を間違えれば、河川に転落でしたよ。
いずれも今はこんな区間に路線バスは経由していませんね。
1970年2月頃の岩塚本通開通や、80年頃の島井町付近の新道開通で、あんな危険な区間に入らなくても良くなりましたね。
また、15のほか、後には124、125号系統が経由していた牛田通三丁目〜烏森口。あの区間も怖かったですよ。
その道、今は区画整理があったのか、跡形もない。
他には、あの千種郡道も有名でしたが、それに近い狭隘区間としては赤萩町〜大松。今でこそ市バスは通りませんが、道そのものは昔のまま。19、52号系統ともワンマン化後も暫くはあんな狭隘区間を経由していましたね。
現存するものならば、明徳橋〜当知住宅〜惟信高校正門も怖いなあ。特にあの幹高畑1号系統が大型ノンステ車になってから。尤も最近はモデルチェンジで車体が幾分は短めになり、そうでもないかな?
名鉄バスでは依佐美線の大原付近。尤も今は廃止されたらしいが、ツーマン時代はかなり車掌も神経を使っていたような。
また岩藤線の東梅森〜岩崎下側、岩藤〜夏焼〜五色園もかなりの狭隘区間でしたね。
もう、どれも今は忘れ去られた界隈です。
ちなみに名鉄バスでは60年から津島市内にてワンマン運行も始まっていたようだが、当時は前乗り後ろ降りで、整理券もなく、運賃の支払いは乗客の事前申告制だったらしい。66年には整理券方式が初めて登場したそうだが。