誰しも、親もしくは自分が介護を受けるようになる可能性はあります。
それが、事故などによる後遺症によるものか、老いによるものかはわかりませんが、いざそのときが訪れたら、自分はどう行動したらいいのだろうか、と常に考えている状態です。
介護について考えるとき
これまで、母についてたまに触れていましたが、再度申しますと、母は介護を必要とはしていません。
自分でトイレもできますし、食事もできます。
ただ、持病により体力がないため、家事ができません。
たまに、食器を洗ったりしますが、その数分間でも立ち続けることが辛いようです。
服を処分した際も、疲れたら座る、を繰り返しながら進めていました。
この母が、もし自力で全く動けなくなり完全介護が必要になったり、ある程度は動けても必ず介助が必要になったりしたら、ヘルパー、デイサービス、施設への入居、自宅介護、訪問医療と、いろいろ考えることが出てきます。
テレビやネット、知人友人の介護についてのリアルな話を目の当たりにすると、常に自分だったらどうしたらいいだろうか?と考えるようになりました。
家族が歳を重ねるということは、こういうことと向き合わなければならないということにもなるのですね。
介護中の事故に対する意識
介護中の事故は、命に係わる事例もあれば、すぐに処置すれば事なきを得る事例もあります。
症状によっても、事故が起きる要因はさまざまだと思います。
ただ、介護を受けている本人が予期していない状態で起こる事故は、命に係わる事例はもちろん、どんなに小さいハプニングでも、起きてほしくないはずです。
介護中の事故で、とくにヒューマンエラーは避けたいですよね。
自分が介護するときでも、施設で完全介護を受けている場合でも、デイサービスでたまにお世話になる場合でも、ただ誰かが少しだけ気を付けていたら防げる事故なのであれば、そうするのがきっとベストなのだと思います。
介護中の事故は、介護する側もされる側も、メンタル部分に大きな影響が出ると思います。
ましてや、それによって命を失うことになってしまったら、どちらも気持ちをどこに持って行ってよいかわからなくなるに違いありません。
ですから、介護中のヒューマンエラーによる事故を防ぐ対策は、専門職の方や専門施設だけでなく、自分自身も把握しておく必要性を感じています。
ヒューマンエラーによる事故を受け止めることができるか
なぜ、こんな話をしているかというと、とある方の親御さんが、介護中の事故で亡くなったと伺ったから。
お話を詳しく書くことは、ご家族の許可をいただいていないため控えますが、ヒューマンエラーだったようです。
その方の親御さんは、最初は施設に入居していたのですが、家族会議で自宅介護に切り替えることになりました。
そして、自宅でヘルパーの方にお世話を任せている最中に、事故が起きたとのこと。
その事故は、普通に生活していても起きるハプニングだったのですが、通常は自力で正常に戻すことができます。
しかし、完全介護を受けている方にとっては、とてつもなく辛く苦しい状態だったと推測されます。
このときの、ご家族の皆様と介護をされていたヘルパーの方のお気持ちを考えると、つらい気持ちになると同時に複雑な感情が入り乱れます。
ヘルパーの方は、毎回精いっぱいのお世話をしてくださっていたと思うと、なぜ気を付けてくれなかったのか、と責めるだけのことは、自分にはできそうにもありません。
しかし、大切な家族をヒューマンエラーによって失うことを考えると、悲しむと同時に、防げたのではないのか、そのときどういう状態でその事故が起きたのか、なぜ自分の家族がそのような目にあったのか...
自分の感情を冷静に保つことは、絶対にムリだと思います。
今回の事故は、介護されている場所は関係がありません。
なんでしたら、外出中におきるかもしれない事故ですし、健康体の人であっても、自らその事故を引き起こします。
生きていたら、一度や二度は経験するハプニングでもあります。
だからこそ、なおさら「なぜ、この程度のことで命を落としたのだろう?」という気持ちが湧いてきても不思議はないです。
何かよい防止策がみつかれば
今回のヒューマンエラーは、本当に細心の注意を払っていたら、防げる事故だったと思っているのですが、100%防ぐことができないのは、おそらくふとした日常で起こり、誰でも経験があるハプニングだからだと思います。
何度か経験し、そのたびに自己解決してこられたのなら、それが重大な事故につながるなど、想像もしないと思います。
そうなると、人はその行動を無意識に進めてしまったり、惰性で繰り返したりします。
実際、その事故が起こるまでの行動は、誰もがしている行動です。
そこから、ハプニングが起きて事故になるなど、考えながら生活している人はいません。
ただ、介護を受けている人、病気や身体的な事情を抱えている人、小さな子どもには、注意を払う必要がある行動です。
そのため、今まで自己解決してきた人でも、相手の立場を想像しながら接する必要があるのですよね。
こういう、日常的に起こりうるハプニングで自己解決できる場合は、リスクマネジメントしないことがほとんどですよね。
起こりうるハプニングだけど自己解決できるから、日ごろからこういう準備をしておこう、というアイデアにはならないと思います。
そこで、そういう日常的なハプニングを、介護される人や小さい子ども、身体的な事情を抱えている人が起こさないようにする道具やアイデアの情報が、あらかじめ用意してあったらいいのだろうな、と思っています。
道具はいろいろと開発されていますが、パーフェクトではないし、どこを視点として作られた道具なのか、という点で使う側に合っていないかもしれませんよね。
しかも、こういう道具がありますよ、こんな小さなハプニングが防げますよ、という商品は、いざ使うときにしか情報を集めようと思わないし、集めたとしても情報数は少ないだろうと思うのです。
道具もそうですが、ライフハック的なアイデアなども、いざそのときにならないと情報を集めないと思いますし、結局、いま必要のない状態で集めるには、限界もあるでしょう。
ですから、いざ介護が目の前に迫ってきたときに、すぐに情報を集められる媒体を調べておく必要があるのかな、と感じています。
具体的な情報ではなくて、その具体的な情報へ案内してくれる情報網、介護の情報フローのようなものがあったらいいのにな、と思います。
その中で、いかに自分の今の状態に近い情報を得られるか。
間違えずに、その道具や方法を選択できるかどうか。
そして、その情報をいざというときに引き出せるか。
最終的には自分の意識次第なのですが、整った情報網があれば、考えたり実行したりする際の負担が、ほんの少しだけ減るかもしれません。
介護が始まってしまうと、思った以上に考える余裕がなくなるのは、周りの経験者を見ているとわかります。
正しい選択をする余裕も、きっとありません。
情報によって少しでも安全な介護に導けるのなら、その情報は常に得ていたいです。
介護のことについては、まだわからないことの方が多く、自分でも日々考え方が変化します。
何が正しくて、何がよくないことなのかも、状況や環境によって大きく変わります。
その中で、自分がいかに冷静に客観的に情報を求めることができるか。
私が考えなくてはいけないことは、まだまだ山積みです。
それが、事故などによる後遺症によるものか、老いによるものかはわかりませんが、いざそのときが訪れたら、自分はどう行動したらいいのだろうか、と常に考えている状態です。
介護について考えるとき
これまで、母についてたまに触れていましたが、再度申しますと、母は介護を必要とはしていません。
自分でトイレもできますし、食事もできます。
ただ、持病により体力がないため、家事ができません。
たまに、食器を洗ったりしますが、その数分間でも立ち続けることが辛いようです。
服を処分した際も、疲れたら座る、を繰り返しながら進めていました。
この母が、もし自力で全く動けなくなり完全介護が必要になったり、ある程度は動けても必ず介助が必要になったりしたら、ヘルパー、デイサービス、施設への入居、自宅介護、訪問医療と、いろいろ考えることが出てきます。
テレビやネット、知人友人の介護についてのリアルな話を目の当たりにすると、常に自分だったらどうしたらいいだろうか?と考えるようになりました。
家族が歳を重ねるということは、こういうことと向き合わなければならないということにもなるのですね。
介護中の事故に対する意識
介護中の事故は、命に係わる事例もあれば、すぐに処置すれば事なきを得る事例もあります。
症状によっても、事故が起きる要因はさまざまだと思います。
ただ、介護を受けている本人が予期していない状態で起こる事故は、命に係わる事例はもちろん、どんなに小さいハプニングでも、起きてほしくないはずです。
介護中の事故で、とくにヒューマンエラーは避けたいですよね。
自分が介護するときでも、施設で完全介護を受けている場合でも、デイサービスでたまにお世話になる場合でも、ただ誰かが少しだけ気を付けていたら防げる事故なのであれば、そうするのがきっとベストなのだと思います。
介護中の事故は、介護する側もされる側も、メンタル部分に大きな影響が出ると思います。
ましてや、それによって命を失うことになってしまったら、どちらも気持ちをどこに持って行ってよいかわからなくなるに違いありません。
ですから、介護中のヒューマンエラーによる事故を防ぐ対策は、専門職の方や専門施設だけでなく、自分自身も把握しておく必要性を感じています。
ヒューマンエラーによる事故を受け止めることができるか
なぜ、こんな話をしているかというと、とある方の親御さんが、介護中の事故で亡くなったと伺ったから。
お話を詳しく書くことは、ご家族の許可をいただいていないため控えますが、ヒューマンエラーだったようです。
その方の親御さんは、最初は施設に入居していたのですが、家族会議で自宅介護に切り替えることになりました。
そして、自宅でヘルパーの方にお世話を任せている最中に、事故が起きたとのこと。
その事故は、普通に生活していても起きるハプニングだったのですが、通常は自力で正常に戻すことができます。
しかし、完全介護を受けている方にとっては、とてつもなく辛く苦しい状態だったと推測されます。
このときの、ご家族の皆様と介護をされていたヘルパーの方のお気持ちを考えると、つらい気持ちになると同時に複雑な感情が入り乱れます。
ヘルパーの方は、毎回精いっぱいのお世話をしてくださっていたと思うと、なぜ気を付けてくれなかったのか、と責めるだけのことは、自分にはできそうにもありません。
しかし、大切な家族をヒューマンエラーによって失うことを考えると、悲しむと同時に、防げたのではないのか、そのときどういう状態でその事故が起きたのか、なぜ自分の家族がそのような目にあったのか...
自分の感情を冷静に保つことは、絶対にムリだと思います。
今回の事故は、介護されている場所は関係がありません。
なんでしたら、外出中におきるかもしれない事故ですし、健康体の人であっても、自らその事故を引き起こします。
生きていたら、一度や二度は経験するハプニングでもあります。
だからこそ、なおさら「なぜ、この程度のことで命を落としたのだろう?」という気持ちが湧いてきても不思議はないです。
何かよい防止策がみつかれば
今回のヒューマンエラーは、本当に細心の注意を払っていたら、防げる事故だったと思っているのですが、100%防ぐことができないのは、おそらくふとした日常で起こり、誰でも経験があるハプニングだからだと思います。
何度か経験し、そのたびに自己解決してこられたのなら、それが重大な事故につながるなど、想像もしないと思います。
そうなると、人はその行動を無意識に進めてしまったり、惰性で繰り返したりします。
実際、その事故が起こるまでの行動は、誰もがしている行動です。
そこから、ハプニングが起きて事故になるなど、考えながら生活している人はいません。
ただ、介護を受けている人、病気や身体的な事情を抱えている人、小さな子どもには、注意を払う必要がある行動です。
そのため、今まで自己解決してきた人でも、相手の立場を想像しながら接する必要があるのですよね。
こういう、日常的に起こりうるハプニングで自己解決できる場合は、リスクマネジメントしないことがほとんどですよね。
起こりうるハプニングだけど自己解決できるから、日ごろからこういう準備をしておこう、というアイデアにはならないと思います。
そこで、そういう日常的なハプニングを、介護される人や小さい子ども、身体的な事情を抱えている人が起こさないようにする道具やアイデアの情報が、あらかじめ用意してあったらいいのだろうな、と思っています。
道具はいろいろと開発されていますが、パーフェクトではないし、どこを視点として作られた道具なのか、という点で使う側に合っていないかもしれませんよね。
しかも、こういう道具がありますよ、こんな小さなハプニングが防げますよ、という商品は、いざ使うときにしか情報を集めようと思わないし、集めたとしても情報数は少ないだろうと思うのです。
道具もそうですが、ライフハック的なアイデアなども、いざそのときにならないと情報を集めないと思いますし、結局、いま必要のない状態で集めるには、限界もあるでしょう。
ですから、いざ介護が目の前に迫ってきたときに、すぐに情報を集められる媒体を調べておく必要があるのかな、と感じています。
具体的な情報ではなくて、その具体的な情報へ案内してくれる情報網、介護の情報フローのようなものがあったらいいのにな、と思います。
その中で、いかに自分の今の状態に近い情報を得られるか。
間違えずに、その道具や方法を選択できるかどうか。
そして、その情報をいざというときに引き出せるか。
最終的には自分の意識次第なのですが、整った情報網があれば、考えたり実行したりする際の負担が、ほんの少しだけ減るかもしれません。
介護が始まってしまうと、思った以上に考える余裕がなくなるのは、周りの経験者を見ているとわかります。
正しい選択をする余裕も、きっとありません。
情報によって少しでも安全な介護に導けるのなら、その情報は常に得ていたいです。
介護のことについては、まだわからないことの方が多く、自分でも日々考え方が変化します。
何が正しくて、何がよくないことなのかも、状況や環境によって大きく変わります。
その中で、自分がいかに冷静に客観的に情報を求めることができるか。
私が考えなくてはいけないことは、まだまだ山積みです。