Fuji Trip!

水豚先輩の週末旅日記

冬雨の鎌倉江の島散歩 鎌倉篇

2016-04-03 00:39:44 | とりっぷ!

いつも通りに駅前の駐輪場に自転車を停めて、歩く。

この日はあいにくの空模様で、先日の天気予報では雪すらもちらつくなどと言っていたのだが、自転車を使った。
ちょっとした“まじない”のようなもので、天気の予測ができない日はあえて好天の時の状態で出かけてみる。
そうすると天気が良くなったりならなかったりする。
かえって悪くなることもあるから、効いているのかは疑問であるが、要は気持ちの問題である。

改札を通り抜けて、いつもであれば左側の階段を降りるのだが、今日は右側の階段を降りる。
慣れないホームに降り立つと、ちょっと特別な感じがしてよい。





この日は大学サークルで私が企画する最後の小旅行。
目指すは古都・鎌倉と湘南・江の島である。








集合時間よりも早めに到着して、ちょっぴりひとり散歩。
横須賀線の北鎌倉駅にて下車。

構内踏切を渡りながら、横須賀線の車両を見ると、青とクリーム色のストライプを纏っており紳士的だなと思った。
ちょっとインテリな感じがしてかっこよい。



私個人としては、ここ北鎌倉はとても好きな場所である。
鎌倉の中心部からは山ひとつ隔たっており、非常に閑静だ。
北鎌倉といえば鎌倉五山第一位の建長寺、第二位の円覚寺、第四位の浄智寺がある。
それ以外にも、「駆け込み寺」として有名な東慶寺、「アジサイ寺」で有名な明月院などが挙げられるだろう。

鎌倉の寺院の中でも、私の好きなお寺は北鎌倉に多い。
地形上起伏が多く、境内の全体を把握できないところがまず好奇心をくすぐる。
そして古木や四季折々の花など人工物が自然に囲まれているような雰囲気がよい。

寺院だけではなく、道路や路地にも言える。
狭いけど静かで落ち着く路地が多いのも北鎌倉の特徴だ。
寺社は集合してからも多く参拝する予定であるし、今回は路上の散策を楽しむことにしよう。

この日はまだ、散策したことのない北鎌倉駅の北東を歩こうと思う。








まず訪れたのは横須賀線の車窓からも見える謎の洞窟。
一度はじっくり見てみたいと思っていた。

鎌倉は入り組んだ地形と、狭い平地という条件から、山肌を掘った隧道や切通しが非常に多い。
まるでどこか異界へと続いているのではないかと思ってしまうほど不思議なものもある。

この洞窟も、朱色で化粧をした唐風の門が目を引く。
インパクトは絶大である。

「好好洞」と書かれたこの洞窟は近隣の中華料亭の「好々亭」と関係しているというが、お店の専用路というわけではなさそうだ。







外見とは裏腹に、内部は素掘りである。
電気は通っており、天井には明かりがひとつ。

洞内は上り勾配になっているためか、雨水が小川のようになって流れている。
もちろん地面も舗装されていないから、かなり自然味溢れたつくりだ。








洞内中央部には左右に塗り込めて塞がれた穴がある。
コンクリートには「覗いてください」と言わんばかりに縦に少しだけ穴が開いている。
何か妖怪とかそんなものを見てしまっては困るので覗くことはしなかったが、何かの貯蔵庫か防空壕のような場所かもしれない。

洞内で道が交差しているのは非常に面白い。







好々洞を抜けると、右手は上り坂になっていて、坂を登り詰めたところに八雲神社がある。
そのまま道なりに行くと、道は円覚寺境内へと続いている。
円覚寺に向かって上り坂になっていて、途中からは非常に眺めがよい。
向かう場所が寺院であり、途中には階段があったりするので、車通りはなく、散策には最適。

左手にある円覚寺の塔頭には、小京都のような壁が続いて古刹の面影が残っている。
天候が悪いが、晴れた日は右手に富士山が望めるかもしれない。

好々洞から円覚寺境内まで、人には1人しか出会わなかったが、メジロやハトなどの野鳥とよく出会った。








さて、小1時間の北鎌倉散策を終えて、集合場所の鎌倉駅へと向かう。
ウォーミングアップは終了。



 

10:30
JR鎌倉駅の東口前に集合。
4年生の私が企画した旅行であるから、4年生は全員参加してくれた。
彼女らとはサークルの活動以外にもよく出かけているから、最後だからといっていつもと変わらぬ雰囲気である。

道行く人は傘を持っているけれども、雨は降っていないようだ。
雨の鎌倉もよいけれど、散策には雨が降っていないほうが気楽である。
傘を持たぬというまじないが夕刻まで効くとよいのだが。


鎌倉駅から出発する観光客の大半は、小町通りに流れ込んでそのまま鶴岡八幡宮を目指す。
今回の我々も同じである。
最初の目的地は鶴岡八幡宮と、その境内にある神奈川県立近代美術館鎌倉だ。
実は私が楽しみにしていたのは後者の方である。

この神社は鎌倉時代以来の古社であるから、境内には摂社や末社はもちろんミュージアムも2件ある。
今回は時間の許す限り巡り歩きたいと思う。



神社の境内にある近代美術館は“カマキン”と呼ばれており、日本で初めての公立美術館として長い間知られていたが、この度2015年3月31日で閉館することになった。
いつか行こうと思って通り過ぎていた場所。
今回は最初で最後の訪問となるだろう。

天気予報では雨の予報であったから、普段は人で溢れかえる小町通りも少しだけ空いている。
昼食を何にしようかと考えながら、寄り道はせずに鶴岡八幡宮の南詰へと到着。

源氏池・平家池を横目に境内に入ると、一直線に伸びた参道の先には舞殿や大石段が見える。
ここも普段は参道の両脇に露店が出ているのだが、今日に限っては一店も出ていない。

そういえば、露店の人たちってどこからやってくるのだろうか。
気になりだしたらきりがない。







さてさて、鶴岡八幡宮。
戦勝祈願と源氏ゆかりの社として有名なこの神社は、康平6年(1063年)に源氏の氏神である京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜に勧請したのがはじまり。
治承4年(1180年)に源頼朝が現在の地に遷座したと伝わっている。
その前にはもう少し南側、現在の元八幡の地に祀られていた。
この元八幡については、のちほど訪れてみようと思う。

八幡宮といえばハトポッポ。
本宮の額の「八」の字はハトがモチーフになってる。
境内にも多くの鳩がいて、結構人馴れしているというか、コミュ力がある。








上掲の写真のように晴れた日になると、舞殿の屋根で鳩たちがひなたぼっこする和やかな光景も見られる。

広い境内の中でも、もっとも鳩が多いのは源氏池に浮かぶ白旗弁財天社。
小さな太鼓橋を渡って境内へと入る。

そういえば、参道を中心として右手の池を源氏池、左を平家池と呼ぶ。
源氏池には小島が3つ、平家池には4つある。
前者には「産」につながる3を、後者には「死」につながる4を配したという。
しかし、この逸話がいつからあるものなのかは定かではないという。








弁天社に参れば、境内には大量の鳩。
天気のいい日は地面にも社や木の上にも鳩だらけなのであるが、今日は天候が不安定であるから、今日の鳩はほぼ地面で静かに過ごしている。
それぞれが文字通り「鳩胸」になっているのが可愛らしい。

そして、ここの鳩は珍しく色が白い。
ふつうの鳩もいるのだが、その比率は7:3くらいだろう。

この白幡弁財天というのは頼朝が承久の乱の旗揚げ時に、妻の政子が戦勝祈願を行ったことが始まりとされている。

ここの弁財天は鎌倉七福神のひとつ。
弁財天といえば、七福神の紅一点で、現在では諸芸上達や財宝神として知られていることが多いが、江戸時代以前は武神としての性格が強かったといわれる。









友人のひとりは鳩にモテモテ。
実はあらかじめ社務所で「コイの餌」を購入していたという。

先ほどまでは静かだった鳩も餌をめがけてまっしぐら。
一瞬のうちに鳩まみれになり、終いには「ウン」も付いた友人なのであった。

本宮へと向かって、せっかくウンが付いたのだからと社務所でみくじを引くと、なんと凶であった。










さてさて、2013年に突如倒壊した大銀杏を横目に大階段を上がるといよいよ本宮である。
階段を登り切って、後ろを振り返ると、海までまっすぐに伸びた参道が見わたせる。

戦勝祈願なんて、する柄ではないので、とりあえず「無事卒業」を祈ってみる。
鎌倉は自宅からも近いので、お礼参りにも来ることができるだろう。









参拝が終わったら、もう少しだけ境内の散策を。
境内向かって右側には白旗神社と鎌倉国宝館がある。

鎌倉国宝館は鎌倉市にある寺社の宝物を管理・展示している博物館。
1928年に完成した建物は現在、国の登録有形文化財に指定されているので、展示品だけではなく建築も楽しめる。
今回は入館していないが、以前入館した時は円応寺の初江王坐像が印象的であった。
初江王は閻魔をはじめとする十王のひとつで、睨みをきかせた玉眼が美しい。

収蔵品は彫刻から工芸、絵画に至るが、彫刻がもっとも魅力がある。
仏像好きの人はぜひ一度訪れて頂きたい。


その国宝館のほど近くに建つのは、白旗神社。
本宮に比べると小さな社であるが、メインストリートから外れているので、清閑で荘厳な雰囲気に包まれている。
黒色の社殿もまたかっこよい。

 









白旗神社の近くで私が気になったのは「鶴亀石」。
脇参道の道端にちょこんと祀られている2つの石。
「相模国風土記」にも載るといわれるこの霊石は水で石面を洗うと鶴と亀の模様が浮かびあがるという。

今日は雨でしっとりとしているので、見えるかなと探してみたが、残念ながら確認することはできなかった。

 










次に、参道左手にある祖霊社を参詣。
白旗神社よりも人気がなく、木々に包まれた空間。
氏子の祖霊を祀るシンプルな社がぽつんと建ち、一見何の神社かわからいほど。
私も大学に入るまで、この社があることすら知らなかった。


さて、鶴岡八幡宮を一巡したところで、次は神奈川県近代美術館鎌倉へと向かおう。




 



鶴岡八幡宮境内、最後に訪れるのは神奈川県近代美術館鎌倉。通称カマキンというらしい。
神社の境内に近代美術館とはまた不思議。

この美術館は1951年に日本初の公立美術館として誕生した由緒正しき美術館。
参道を中心にして左側、平家池のほとりに建つ建築はル・コルビジェの弟子である坂倉準三の設計だ。

65年を経てもなお、斬新な建築は古今の美術館評論でも必ず取り上げられるほど。
そのため、存在はよく知っていたが訪れたことはなかった。

この度、2016年1月31日をもって惜しくも閉館してしまうとの情報を知り、急遽この旅程に組み込むことにした。
我らが文化研究会、ここのところ美術系には疎いようなので、これまたよいチャンスである。


展覧会は閉館を意識した「鎌倉からはじまった。PART3」。
昨年11月から連続して行っているこの「鎌倉からはじまった。」の展覧会はこの美術館の歴史を収蔵品と共に振り返るものであるという。
最後となるPATR3では1951年から1965年を扱っている。








さすがに閉館間近ということもあって、多くの人々が来館していた。
美術館の規模は大きくはないものの、大谷石の壁面と、なめらかな手摺りなどに心躍らせてしまう。

といっても私も近代美術には明るくないので、展示作品について深く語れはしないのだが、きっと中高あたりの美術の時間、自画像関連でお勉強したであろう松本竣介『立てる像』がある。
「鎌倉からはじまった」展はPART1から順に時間軸をさかのぼって展示しているから、今回鑑賞することのできる展示作品はこの美術館の収蔵品の中でもっとも古いものになるということになる。
1651年から1965年。
時は戦後であり、少しばかり薄暗く、また薄明るい雰囲気を感じ取ることができる。

ロの字型になった館内は、中心が吹き抜けの中庭になっている。
2階の展示室を巡ったあとは、半野外の階段を下って一階へと戻る。
平家池にせり出した1階はベンチも置かれて、休憩にはぴったりである。

1階は彫刻室になっていて、中庭にはイサム・ノグチの『こけし』が鎮座している。
これがまたかわいい。

展示室内は撮影禁止だが、中庭では撮影可能なため、皆が「こけし」と記念撮影をしているのだった。










さてさて、八幡宮を出たところでしばしの昼食タイム。
小町通りでしらす丼を頂いてから、早々に次の散策を開始しよう。

団子より花というか、最悪食事は抜きでもガンガン行けてしまう私は時に伴侶に疎まれるのであるが、それくらいには旅に貪欲なのである。
それでも最近は甘味だとか定食なんかに少しばかり興味が沸いてきて、以前よりも食事に割く時間が増えた。

そんなことはどうでもよくって、次に向かうのは鎌倉駅よりも南側のエリア。
地名でいうと小町とか大町とかいう場所で、小町大路や滑川沿いに大小さまざまな寺社が立っている。

鶴岡八幡宮という大規模な神社を巡ったあとは、対照的な小さくも歴史の深い場所を巡る。

鎌倉のメインストリート、若宮大路を渡って、最初の寺院は大巧寺。
大巧寺の本堂は若宮大路ではなく、ひとつ西側に走る小町大路側を向いて立っているが、どちらの道からも参拝できるように参道が設けられている。
若宮大路から本堂までは参道というより散策路のようなお洒落な道があって好き。
参道の両脇には小さな庭園のようになっていて、丁寧に管理されているようす。

この大巧寺は「おんめさま」とも呼ばれている。
おんめとは産女(うぶめ)のことで、死産した女性の霊や妖怪の類である。
なぜそのような霊が祀られているのかというと、その昔、近くの滑川のほとりによく産女が現れたという。
その産女の霊を大巧寺5世の日棟聖人が成仏させて、宝塔を建てることで安産の神として祀られるようになった。

現在でも大巧寺は安産祈願の寺として知られている。
寺院の縁起に妖怪や魑魅魍魎の類が関わっているのがなかなか興味深い。











大巧寺を過ぎて、小町大路に出たら南下。
道が滑川を渡る直前に右手に見える寺が本覚寺である。
こちらの寺院は鎌倉七福神の夷を祀っている。

本堂は絶賛修復工事中。
京都に然り、鎌倉に然り、いつもどこかで修復工事を行っているものだ。
現在は高徳院の大仏も修復のため、全身を覆われていると聞く。

それでも本来の姿は見れずとも、臨時の姿もまたよい。
巨大な本堂と重機の組み合わせはなんとなく壊されてしまいそうではらはらしてしまうのがまた楽しくもある。

夷を祀った夷堂は境内脇に、わりと立派な建築がある。
夷とは恵比寿のことであるが、ビールで有名なにっとりと笑ったふくよかな神様の印象とは少し異なる。
堂内を覗くと、真っ黒でいて、目と口だけが怪しげに白い異人が鎮座しているのだ。

えびす様とはもともとは異邦人やマレビトをそう言った。
漁を生業にする人々は水死体のことを縁起を担いでえびす様と呼ぶ場所もあるそうである。
前章で述べた弁財天のそれと同じで、時が経つにつれ現世利益的な柔和な神になったのだが、本来は少しばかり怪しげな、謎につつまれた神様なのである。

 



本覚寺の目の前に架かる橋は夷堂橋。
これを渡ると大町になる。
橋を渡るために、道路は鍵の字に曲がっていて、自動車は運転しづらそうな道である。

橋を介して、本覚寺と対面するように立つのは妙本寺の総門である。
橋のほとりから、山の中へと妙本寺の参道が続いている。

 

 



鎌倉のひっそり系寺院をあげるとしたら絶対に挙げることのできる妙本寺。
比企谷(ひきがやつ)と呼ばれるこの地は、もともと比企一族が住む地であったためにこう呼ばれる。

しかしながら、1203年の比企の乱で比企一族は滅ぼされてしまう。
偶然、京都におり生き残った比企大学三郎熊本が日蓮聖人と出会い、一族を弔わんと発願、献上したのが妙本寺である。

総門を抜けて、しばらく歩くと、うっそうとした森が待ち構えている。
参道をまっすぐ進んで祖師堂へ向かうコースと、左の小さな方丈門をくぐって本堂を経由するコースのふたつがある。
今回は方丈門を抜けて、小さな参道を進む。

寺院といえば、本堂が中心の配置が基本と考えてしまうけれど、本山となる寺院では開祖を祀る開山堂や祖師堂が中心となる場合もある。
ここでも中心は日蓮聖人を祀る祖師堂である。








境内最奥に、どんと立つ祖師堂は鎌倉髄一の木造建築で、屋根の反り具合といい木材の渋みといい素晴らしい。
山に囲まれているから、昼なお暗い場所ではあるが、それを払拭するかのような巨大建築である。

建造されたのは天保年間というから江戸時代の建築である。










祖師堂は棟も高く、無駄な張り紙や設置物もないシンプルな空間。

谷に響く鳥の声を聴きながら境内の木々を眺めるのもよい。


祖師堂の左には比企一族の供養塔というか墓があって、4基の五輪塔が建てられている。
鎌倉では墓地はやぐらといって洞穴に設けられることが多いのだが、ここでは設けられていない。

時に政治の中心として発展した都市である鎌倉は、各所で闇を抱えている。
栄えるものあれば衰えるものあり。
墓石は何も語らないが、晴れきらない雰囲気がこの寺院にはある。

そんな雰囲気を感じる散策も悪くない。









祖師堂の目の前にある二天門は1840年建造と伝わっている。
近年、修繕工事が行われたとみて、極彩色の彫刻が目を引く。

特に中央に飾られる龍の彫刻は見事で、しばらくは見入ってしまう。
つい何年か前、夕刻に初めてこの寺院を参拝したときに、斜光に照らされる彫刻を見て鳥肌が立ったのを覚えている。
上掲の画像はその時のものである。



 



妙本寺の総門前まで戻ったら左折して、再び南下。
小さな路地を進むと左手に小さな寺院が見えてきた。

常栄寺、通称:ぼたもち寺である。
「ぼたもち」という名前が印象的で、名前は知っていたが訪れたのは初めてだ。

もうここまでくればお分かりであろうが、この寺院も日蓮宗寺院である。
小町大路には日蓮辻説法跡なる旧跡もあるように、この大町・小町一帯は日蓮の活動領域であったこともあり、日蓮宗寺院が非常に多い。







ぼたもち寺の由来も、この地に暮らしていた尼が刑場に送られる日蓮へ胡麻入りぼたもちを捧げ、結果的に難を逃れたという逸話から来ている。
そこから「御首継ぎに胡麻の餅」として有名になったという。

毎年9月12日には「ぼたもち供養」なる法会が行われるそうだ。
日蓮像にぼたもちを捧げるというもので、一度見てみたい。





 

 



ぼたもち寺を過ぎて、さらに南下していくと、八雲神社に到達する。
この神社は鎌倉最古の厄除け神社で、新羅三郎義光が奥州攻めに向かう際に、この地で京都祇園社を勧請したことに始まる。
祇園社は現在の八坂神社。牛頭天王と呼ばれる疫神を祀っている神社だ。
当時、この地でも疫病が流行していたと考えられる。

神社は山を背にした緑深い神社で、徒歩でしか歩くことのできない参道が落ち着きがあって、心地よい。
境内の中心には「新羅三郎手玉石」と説明されたふたつの石が置いてある。

どうやら新羅三郎が豪傑だったようで、この石を持ち上げたとかいう伝説があるのだろう。
石は意外にも可愛らしいので撫でておいた。

この神社の拝殿右側には細い道が続いていて、祇園山ハイキングコースへと続いている。
不安になるほど狭い道なので、そこがまた魅力となって、足元ぬかるむ中、少しだけハイキングコースを進んでみることにした。
先に何があるか、一見してわからない道って、好奇心がくすぐられてしまう。

無論、私に付いてきたのは男子諸君で、女性陣は神社の境内で待っていると言った。








ハイキングコースは本殿裏から容赦ない上り勾配となって立ちはだかる。
木の根や水たまりに気を取られていると、ぬかるんだ落ち葉に足を奪われてしまう。

しかし背後には材木座や遠く由比ヶ浜も望めるようになって、5分弱で祇園山展望台へと着いた。
西南方向に開けた展望台は、海がよく見える。
曇天なのが惜しいくらいで、夕景は特に美しそうだ。
眼下の街から踏切の警告音や自動車のクラクションなど様々な音が聴こえてくる。

少しばかり堪能したら、神社へと戻ろう。

ちなみに祇園山ハイキングコース、このまま先へ進むと山の尾根を縦断して東勝寺腹切りやぐらへと到達する。
鎌倉幕府滅亡時に北条氏が自害し果てた場所で、現在も供養が行われている場所である。









私たちはなお南下して、横須賀線の踏切を渡る。
住所はついに材木座となって、海が近いことを知らされる。

気を付けて歩かないと気づかなそうな細い路地を入るとその奥に元鶴岡八幡宮、通称:元八幡がひっそりと立っている。
お気づきのように、鎌倉髄一の大神社である鶴岡八幡宮の前進である。

1063年に源頼義が京都の石清水八幡宮をこの地に勧請したことに始まる。
石清水八幡宮は源氏の氏神社である。

1180年に現在の鶴岡八幡宮へと遷座され、ここは元八幡となったという。

鶴岡八幡宮から始まり、元八幡までの寺社邂逅もこれにておしまい。
道に沿って、寺社を巡れば様々な角度から鎌倉の歴史がみえてくる。









鎌倉駅には戻らずに、知らない道を歩いてひとつ先の和田塚駅まで向かう。
和田塚駅付近には、鎌倉幕府の功績者であった和田一族が、和田の乱で滅び埋葬された場所であるとされる和田塚がある。
また、最近では甘味処「無心庵」の最寄駅としても知られている。

ここからは「江ノ電」こと江ノ島電鉄に乗って、江の島へと向かうことにする。

江ノ電は江の島を経由して藤沢駅と鎌倉駅間の約10㎞を結ぶ私鉄で、全線開通は1907年と100年以上の歴史を持つ鉄道だ。
単線四両編成の小さな車両が、コトコトと走っている姿は可愛らしい。

その車窓は実に魅力的で、路地あり、トンネルあり、海あり、併用軌道(道路上の走行)ありとめまぐるしい。
そしてまた主要な観光地を結ぶ唯一の鉄道であるから、休日には超満員である。

しばらくすると、和田塚の駅に抹茶色の電車が滑り込む。
本日は天候が優れないこともあって、いつもよりは空いているようだ。








鎌倉は三方を山に囲まれた地形であるから、各方面に切通しが残されている。
鎌倉や湘南方面を繋いでいたのは極楽寺坂の切通し。
現在は自動車道路に拡張されているが、江ノ電は極楽洞なるトンネルで潜り抜ける。

ここから先は狭い谷戸をうねるように走行して、稲村ケ崎駅を過ぎると海岸沿いに躍り出る。
パッと視界が開けて、海が広がるその一瞬はよく歓声が上がるほど印象的である。

本日は曇天であるが、晴天の日や夕暮れは特に美しいのでそのためだけにもう一度訪れてもよいほどだ。
以前にこのサークルで江の島に向かったときは、ちょうど夕焼けが美しかった。

途中、鎌倉高校前の駅は、ホームが海へ向いている絵に描いたような駅で、平日夕方には実際に高校生が利用していてそれもまた絵になる。
江ノ電の好きな光景のひとつだ。


しばらく海岸沿いを走行したあとは、再び住宅街を突き進んで腰越駅に到着する。
この駅は電車の一番後ろの車両がホームに入りきらずにドアが開かないという珍しい駅。
それほど狭いところに駅があるということだろう。







腰越駅から先はしばらく道路の真ん中を走行する。これが併用軌道というやつである。
ハイライトが多すぎて、江ノ電の車窓は語りつくせないが、この併用軌道が終わればまもなく江の島駅。

さすが観光地の玄関口とあって、江ノ電にしては大きな駅である。
改札前のスズメの像が洋服を着ていて可愛らしい。
小さいが、皆よく気が付くようでアイドルのようにパシャパシャと写真を撮られている。

江の島駅から江の島の入口までは徒歩15分ほど。


江の島篇につづく…





※この記事は武蔵大学文化研究会Blogむさぽけっとに投稿した
「これが最後だ!!えのかまTOUR 1」~「これが最後だ!!えのかまTOUR 5」を加筆・訂正したものです。

 



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