災害地での救援活動を見る度に、自衛隊の隊員達の姿には頭が下がる。だからこそ仙谷由人官房長官の「自衛隊は暴力装置。」という発言には「そういう言い方って酷いなあ。自衛隊の隊員達の尊厳を踏み躙った発言だ。」と感じた。しかし右打ち職人様の記事「自衛隊は暴力装置でしょ?」を拝読して、「暴力装置」という言葉自体の意味合いを自分が捉え違いしている事に気付かされた。ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは「人間の尊厳や人権を脅かす『暴力』を統制する為にはより強力な暴力、即ち組織化された暴力が社会の中で準備されなければならない。軍隊や警察が其れに当該し、権力の根本に在る『暴力装置』と位置付ける。」としたそうで、此の定義付けからすると仙石官房長官の発言は必ずしも「酷い。」の一言で片付けられない気もする。
どんな綺麗事を並べ立てようと、“実質的に”自衛隊が「軍隊」で在るのは確かだろう。そうなると、ヴェーバーの定義付けで「自衛隊=暴力装置」という事になる。「暴力」というマイナス・イメージの言葉が先行し過ぎて、感情的に「其れは無いだろ。」と捉えられてしまうのだろうけれど(斯く言う自分もそうだったけれど。)*1、冷静に「社会学の用語」として捉えれば、仙石官房長官の発言は強ち間違ってはいないと言える。
又、「人間で在る隊員達を『装置』とするのは如何な物か?」という思いも在ったけれど、良く良く発言を振り返れば「(組織としての)自衛隊は暴力装置。」と言っており、「(構成員で在る)自衛隊員達が暴力装置。」と言っている訳では無い。
以前から何度も書いている事だけれど、国民の生殺与奪権を握っている政治家には、常に厳しい目が向けられるべきだと思っている。特に国政を司る与党の政治家達には、より厳しい目を向けなければいけないし、全うな批判で在れば彼等は其れを甘受しなければいけない。だから今回の仙石官房長官の発言に関しても、「其れはおかしいのでは?」という声が上がる事自体は悪くないのだが、マスメディアや野党の一部が何とかの一つ覚えの如く多用する「仙石官房長官は極左だから。」と言う切り口を、今回“も”使っているのはどうかと思う。(因みに自分は、極左も極右も好きでは無い。)「『暴力装置』という言葉を使った事が、イコール『極左』と安直に結び付ける。」ので在れば、何故か一部のメディアしか取り上げていない様だが、自民党政権下の昨年3月に「警察と軍隊という『暴力装置』を、合法的に所有するのが国家の一つの定義。」と発言した石破茂政調会長も、同じく極左という事になってしまうだろう。(石破政調会長は此の発言に付いて「あくまで政治学的な定義で在り、自分は自衛隊とは一言も言っていない。」と説明したそうだが、では彼は「自衛隊を100%軍隊では無い。」と断言するのだろうか?賢明な彼がそう捉えているとは思えないし、非常に苦しい言い訳だと思う。)
*1 「片手落ち」という言葉に対して「差別だ!」と叫ぶ様な、言葉狩り的な感じが無くも無い。
どんな綺麗事を並べ立てようと、“実質的に”自衛隊が「軍隊」で在るのは確かだろう。そうなると、ヴェーバーの定義付けで「自衛隊=暴力装置」という事になる。「暴力」というマイナス・イメージの言葉が先行し過ぎて、感情的に「其れは無いだろ。」と捉えられてしまうのだろうけれど(斯く言う自分もそうだったけれど。)*1、冷静に「社会学の用語」として捉えれば、仙石官房長官の発言は強ち間違ってはいないと言える。
又、「人間で在る隊員達を『装置』とするのは如何な物か?」という思いも在ったけれど、良く良く発言を振り返れば「(組織としての)自衛隊は暴力装置。」と言っており、「(構成員で在る)自衛隊員達が暴力装置。」と言っている訳では無い。
以前から何度も書いている事だけれど、国民の生殺与奪権を握っている政治家には、常に厳しい目が向けられるべきだと思っている。特に国政を司る与党の政治家達には、より厳しい目を向けなければいけないし、全うな批判で在れば彼等は其れを甘受しなければいけない。だから今回の仙石官房長官の発言に関しても、「其れはおかしいのでは?」という声が上がる事自体は悪くないのだが、マスメディアや野党の一部が何とかの一つ覚えの如く多用する「仙石官房長官は極左だから。」と言う切り口を、今回“も”使っているのはどうかと思う。(因みに自分は、極左も極右も好きでは無い。)「『暴力装置』という言葉を使った事が、イコール『極左』と安直に結び付ける。」ので在れば、何故か一部のメディアしか取り上げていない様だが、自民党政権下の昨年3月に「警察と軍隊という『暴力装置』を、合法的に所有するのが国家の一つの定義。」と発言した石破茂政調会長も、同じく極左という事になってしまうだろう。(石破政調会長は此の発言に付いて「あくまで政治学的な定義で在り、自分は自衛隊とは一言も言っていない。」と説明したそうだが、では彼は「自衛隊を100%軍隊では無い。」と断言するのだろうか?賢明な彼がそう捉えているとは思えないし、非常に苦しい言い訳だと思う。)

*1 「片手落ち」という言葉に対して「差別だ!」と叫ぶ様な、言葉狩り的な感じが無くも無い。

言葉狩りっちゃそうですけど、暴力装置って言葉に涙出るほど悔しい思いをしてる自衛官もいたかもしれないし、自衛隊を表現する場合に必ず使わなければならない言葉でもありませんでしたね。当然石破氏が使った場合でも同じ事だし、素直に認めてしまえばいいのに。
最近何かとsengoku官房長官の独特の言葉の選び方が話題となりますが、一部の左の人は「防衛的彼女」とか一風変わった言葉遣いをされるので、耳慣れない言葉や咄嗟の造語を聞くと、彼の昔取った杵柄を思い起こす人も多いかもしれません。ウェーバーが定義付けしたような意味合いよりも左翼の言葉と感じた方が多かったんでしょうね。
言葉狩りといえば、時代劇で音消しされるのが何より嫌いです。地上波だと古典落語もフルで演じるのが困難です。時専chなどは借りたテープに手が加えられていないかぎりは音消しを行わないんですが、同じCSでもファミ劇あたりの音消しは酷いです。刑事ドラマどころかマンガまで平気で消しまくり。
今回の件、仙石官房長官が言わんとしている事は判るのだけれど、「もっと適切な言葉をチョイスして欲しかった。」というのは在りますね。冒頭でも記した様に、個人的には自衛隊員達の活動には頭が下がる思いが在るし、“言葉尻だけを捉えて”自衛隊員の子供達が学校で苛められる可能性もゼロでは無いのだから。
仙石官房長官に所謂「左翼的な思考」が在るのは否定しないけれど、だからと言って十把一絡げ的、且つヒステリックに「極左!」と叫ぶマスメディアや一部野党には辟易。与党も野党も、些末に言葉尻を捉えて糾弾するのでは無く、本質的に議論を深めて欲しい。
人の考え方は十人十色ですから、同じ言葉から受ける印象というのは色々在る。「片手落ち」という言葉に関しても非常に不快に感じる人も当然居ましょうが、絶対多数で言えばどうなのか?何でもかんでも差別とする事で社会の潤いが無くなってしまう事や、差別と結び付ける事で却って差別感を助長する事を、自分は懸念します。
仰る様に、昔のTV番組を見ていると、差別用語という事で音声が消されているケースが少なく無く、興醒めさせられる事は結構在りますね。「天才バカボンシリーズ」なんか其の典型だし、以前の記事(http://blog.goo.ne.jp/giants-55/e/d779517892bb823384d58dbccf5e5e45)でも紹介した様に、ドラマ「探偵物語」では再放送時、看板に描かれた「トルコ」(ソープランドの旧呼称。)の文字にボカシが入れられた事も在ったとか。此処迄行くと、ややエキセントリックさを感じてしまう。
「法相は『個別の事案に付いては、御答えを差し控えます。』と『法と証拠に基づいて、適切に遣っております』という2つの言葉さえ覚えておけば良い。」と発言した柳田法相が辞任しました。「(地元で)気を許し過ぎたというのが率直な所だと思う。結果的に不用意、ジョーク交じりというか、ああいう発言をした事は私の非。」辞任会見では口にした様ですが、「最後の最後迄、此の方は事の重大さを判ってなかったんだなあ。」と飽きれるばかり。潜在的にそういった思いが無ければあの発言は無かったと思うし、ジョークで済まされる話では無い。法務関係に精通しているとも思えない人物を、嘗ての自民党の如く論考恩賞&年功序列的に選んでしまったのが、菅政権の間違い。精通していないならいないなりに、真摯に取り組む姿勢が在れば別だけれど、件の発言からは其の姿勢すらも無かった事が露見してしまったのだから、辞任は当然の事。遅きに失したと言わざるを得ない。
しかし仙石官房長官の件の発言に関しては、「もっと適切な言葉遣いが在ったろうに。」という思いは在れども、「言葉自体の意味合い」としては間違っている訳では無い。「暴力」とか「装置」という表面的な言葉の印象だけを取り上げ、エキセントリックに騒ぎ立てるのは不毛。きちんと本意を説明せずに謝罪してしまった仙石官房長官も駄目ならば、「兎に角、重箱の隅を突っ突いてでも、揚げ足を取れればOK。」という姿勢が露骨に垣間見えてしまう野党のスタンスも駄目。野党の中では一抹の期待をしていた「みんなの党」も、結局は今の所「何でもかんでも野党に反対すれば良い。」という従来型の野党のスタンスと同じで、此れは全く残念な事。「政界」という狭い世界の中だけで、権力闘争に明け暮れる事だけを念頭に置いているかの様な政治家達。全くレベルが低いです。
今後とも何卒宜しく御願い致します。