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「植物状態の男性、最高裁が生命維持停止を認める フランス」(6月29日、AFPBB News)
フランスの最高裁に当たる破毀院は28日、脳に重度の損傷を負い、植物状態となっている男性、ヴァンサン・ランベールさん(42歳)の生命維持装置の停止を認める判決を下した。ランベールさんの妻の弁護士が発表した。此の訴訟は、死ぬ権利を巡る歴史的な裁判として注目を集めていた。
ランベールさんは2008年の交通事故によって植物状態となり、延命を継続するか停止するかを巡って、家族内が分裂。6年に亘って法廷で争い、フランス国内でも意見が二分していた。カトリック信者であるランベールさんの両親は、延命治療の継続を求めていた。
「ランベールさんを逝かせる事が、最も人道的な行為。」と信じる妻ラシェルさんの弁護士は、「此れで決着が付いた。」と述べ、「此れ以上は上訴出来ない為、他の法的手段は無い。」と話した。
先月にはランベールさんの担当医が生命維持装置を停止した数時間後に、パリの控訴院が装置の再開を命じたが、破毀院は其の判決を覆した。
破毀院はランベールさんの延命の是非に付いては論ぜず、控訴院が判断を下す権利を有するかどうかのみが問われ、28日の判決で、「控訴院に、権利は無い。」との最終決定が下された。
ランベールさんの両親の弁護士は、生命維持装置が外された場合は「殺人」の罪で告訴すると警告している。
フランスでは、回復の見込みの無い重篤な疾病や重傷を負った患者に「消極的安楽死」が認められている。ランベールさんの裁判は、「死ぬ権利」を認めた此の法律を巡る議論を再燃させた。
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何度か書いている事だけれど、自分は「生きたくても生きられない人が存在するのだから、自らが命を絶つ事は“基本的に”反対。でも、『治る見込みの無い病気となり、激しい苦しみの中、死を待つだけの人。』の場合、本人が望むならば、死ぬ権利(安楽死)を認めて上げて欲しい。」というスタンス。「癌に罹患した祖母が、激痛や呼吸困難で長期間に亘って七転八倒した挙句、亡くなった姿を見ている。」からだ。
今回の場合、植物状態となる以前にランベール氏が、「そういう状態となったら、安楽死を希望する。」という旨を明らかにしていたかどうかが不明だけれど、恐らくはしていなかったと思われる。そうなると、彼自身の意思は確かめ様が無いので、“残された家族達の意思”が問題となる。
「彼を逝かせる事が、最も人道的な行為。」とする彼の妻の思いも理解出来るし、又、「どんな状況で在っても、生きていて欲しい。」と考えているで在ろう彼の両親の思いも理解出来るので非常に悩ましいけれど、個人的には今回の判決を支持したい。
「ドキュメンタリー番組が好きで、『NNNドキュメント』や『ザ・ノンフィクション』、『ドキュメント72時間』等を良く見ている。」事は以前に書いたが、今月2日に放送されたNHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」は衝撃的な内容だった。「去年、1人の日本人女性が、スイスで安楽死を行った。女性は重い神経難病を患い、『自分らしさを保った儘、亡くなりたい。』と願っていた。患者の死期を積極的に早める安楽死は、日本では認められていない。そんな中で、民間の安楽死団体が、海外からも希望者を受け容れているスイスで、安楽死する事を希望する日本人が出始めている。此の死を選んだ女性と、彼女の選択と向き合い続けた家族の姿は、私達に何を問い掛けるのか見詰める。」という内容。
安楽死を希望した女性は、4人姉妹の三女。当初、2人の姉と1人の妹は皆、彼女を安楽死させる事に反対していたが、「自らの自由がどんどん失われて行き、“生かされている状態で死を待つ事”に恐怖心を持ち、何度か自殺し様とした彼女の姿。」を見て来た事で、2人の姉は安楽死に賛成する様になる。でも、妹だけは「姉妹達にどんなに迷惑が掛かっても構わないので、生き続けて欲しい。」と反対し続ける。姉達の気持ちも、又、妹の気持ちも理解出来る。
結局、三女はスイスで安楽死した。ベッドに横たわり、致死薬入りの点滴が腕に繋げられた彼女。自らがストッパーを外せば、致死薬が体内に入って行くシステムだ。ベッドの周りに居る2人の姉に対し、「御姉ちゃん達、此れ迄ずっと有難う。幸せな人生だったよ。」と笑顔を浮かべて感謝の意を述べる三女。そんな彼女に、「此方こそ有難う。貴女が居てくれたから、本当に幸せだった。」と答える姉達。感情を必死で抑え、淡々と語っている感じだった。
そして、三女は自らストッパーを外す。穏やかな表情で二言三言呟く様に話した彼女が、すっと“寝入る”・・・そんな感じの死だった。「多少は苦しむのかなあ。」と思っていただけに、“呆気無さを感じる死”で在り、又、三女が逝った瞬間、感情を必死で抑えていた姉達が泣き崩れた場面と併せ、非常に印象に残った。
命をテーマとする話題は非常に重くて、軽々に断定することはできませんね。
自分自身の事として考えるなら、病気であれ事故であれ回復する見込みがないなら延命処置は受けたくありません。
肉体的苦痛があればなおさらですが、仮にそれが無くても、ただ単に「機械によって生かされているだけ」の状況に、精神的苦痛を感じるからです。
今回の記事の事でいえば、キリスト教(特にカソリック)は殺人はもちろん自殺も原罪としているので、息子さんのご両親は肉親の情とは別の意味でも反対されているのでしょうし、分からなくはないです。
しかし、キリスト教が想定していなかった「機械によって生かされる」ことが、はたして教義にかなっているのかどうか。
科学も医療も進歩自体はありがたいですが、あくまで人間としての自己実現の維持が前提であって、ただ有機物として生かしておくことを是とする考え方には与したくありません。
“人の生き死にが関わる問題”というのは、他の問題以上に軽々に扱うべきでは無いし、又、其の考え方も千差万別だと思います。
“我が身の場合”と“近しい人間の場合”では、自分も考えに迷いが生じる。悠々遊様が触れておられる様に、我が身の問題ならば「生かされているだけなのは嫌。」となるけれど、家族の場合だったら「藻掻き苦しんでいる様な状態に到っていなければ、どんな状況でも生き続けて欲しい。」と思ってしまうし・・・。
今回の御両親の場合、仰る様に“教義の面”というのも、大きく影響しているでしょうね。でも、余りに教条主義なのもどうかと思うし、状況に応じての柔軟さというのも必要ではないかと。
大分昔になりますが、日本の或る宗教にのめり込んでいた両親が、教義に従って我が子への輸血を徹底的に拒み、結果として我が子を死なせてしまったという悲しい事件が在りましたし。
輸血などの医療行為がなかった旧約聖書の時代に作られた教えとはいえ、まだ血液型の違いが知られる前の、近代になって血液型に違いによって生じた死亡事故や、エイズなど血液を介した致命的な病気の発生によって、信者の教義に対する
信念はより強化されたのだろうと思いますね。
彼らにとって輸血は悪魔に魂を売って生きながらえることと同じなのでしょう。
そう考えれば、自然な状態で死を迎えることが、一番理にかなっているのかも。
私の母は2度目の脳梗塞でほぼ植物状態になり、医者から延命処置をしなければ1週間持たないと言われましたが、母が望んでいたことでもあり私自身も同じ考えなので、栄養補給の点滴以外、人工呼吸器の装着など一切の延命処置を断り、10日ほどで眠るように息を引き取りました。
この判断を今も後悔していません。
どんな主義や主張を持とうが、明々白々に違法で在ったり、他人様に迷惑を掛けない範囲で在れば、其れは個人の自由だと思っています。宗教に於ける教義も同様で、「一旦体内から流れ出た血液は、其の時点で不浄で在る。」という考え方も、信者自身が信じ、そして“自身に対して禁じる事”で在れば、他者がどうこう言える事では無いとも言えます。
でも、問題はそういった教義を信じている本人達は別にして、其の子供にも押し付けている場合。当人が年端も行かない幼子だったり、又、そういう教義を信じていない場合、押し付けるのは或る意味“犯罪”とも言えましょう。
自分の母も悠々遊様の御母様と同じ趣旨の事を常々言っておりますし、自分も又、同じ考えですので、悠々遊様の御母様の最期には共感を覚えます。「どんな形で在れ、生き続けたい。」という考えを否定はしないけれど、少なくとも自分は“生かされているだけという形”を好ましく感じないので。