北朝鮮内の一部で、金正日総書記の肖像が撤去されたというニュースに続き、今度は朝鮮中央報道等が、何時も使用している総書記への敬称を使わなかったとラヂオプレスが報じた。何時も使用している敬称というのは、「我が党と我が人民の偉大なる領導者金正日同志」という例のアレだ。この事態を巡って、「指導部の方針で、個人崇拝の行き過ぎを改めようという動きではないか?」とする意見が在る一方で、「北朝鮮内で金体制が揺らいで来たのでは?」とか「肖像撤去を命じながら、実際に撤去した者は収容所送りにする為の”踏み絵にしているのではないか?」等々、様々な憶測が飛び交っている。
それにしても、独裁者と呼ばれる人間の多くが、過剰な肩書&敬称付けを好む。神格化する事によって、より権力基盤を強固にしたいという思いが根底には在るのだろうが、異常とも思える程の肩書&敬称付けをされて、恥ずかしいとは思わないのだろうか?権力の座に昇りつめ、イエスマンで廻りを固め”裸の王様”化して行く中で、そういった羞恥心すらも失ってしまったのか。それとも、元々そういう”祭り上げ”が好きな人間だったからこそ、権力に固執するのか。どちらにしても、第三者の立場で言えば、金正日の敬称はかなり”痛さ”を感じてしまう。
金正日を褒め称える言葉は数限りない。「人類音楽の天才」とか、「世界最高の映画監督」、果ては「ユーモアの才能に満ち溢れた指導者」というのも在るそうな。何しろ、「万有引力の法則」等多くの定理&法則の発見や、多くの文化&芸術作品の制作が、金正日によって成されたと平然と報道する彼の国の事なので、もう何でも有りなんだろう。
ルーマニア革命で失脚&処刑された独裁者のチャウシェスク元大統領の場合も、一族挙げて過剰な肩書&敬称付けを好んでいた。彼の妻エレナも、「世界最高の薬剤師であり科学者」という肩書を使っていたが、CO2を「コドーイ」と読み続けていたという話を読んだ事がある。ルーマニア語で、数字の2は「ドーイ」と読むそうで、そこから「シー・オー・ツー」ではなく「コドーイ」と読み続けていたのだとか。長嶋一茂氏が立教大生の時、英語の時間で「The」を「てへ」と読んだという伝説(実話らしいが)に近いものがある(^o^;;;。
この様な空虚な”祭り上げ行為”を嘲笑する日本人は多いだろう。かく言う自分もそうだ。しかし、翻って我が日本の皇室に対する報道姿勢を見ると、かなりの過剰さを感じる事が多い。いみじくも大橋巨泉氏が、次の様な事を書いていた。
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今上天皇が皇太子だった頃、結婚相手の現皇后は「美智子”さん”」であり、「ミッチー」でさえあった。弟の常陸宮は「火星ちゃん」であり、その妃殿下は「華子”さん”」だった。それが、今や「雅子”様”」のみならず、「愛子”様”」とも呼ばれる時代。「愛子”ちゃん”」とした方がどう考えても可愛いのにである。せっかく身近になった皇室を、雲の上に押し上げる様なものであって、天皇や皇太子の意に必ずしも沿うものではないと思う。
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その通りだと思う。どの分野に於いても”御精通”されているといった報道や、過剰な敬称の連発は、皇室離れを助長しこそすれ、決してプラスにはならないと思う。自然な報道姿勢で、人間臭さい部分に触れられれば、より「国民と共に在る皇室」を実感出来ると、右でも左でもない自分には思えるのだが・・・。
それにしても、独裁者と呼ばれる人間の多くが、過剰な肩書&敬称付けを好む。神格化する事によって、より権力基盤を強固にしたいという思いが根底には在るのだろうが、異常とも思える程の肩書&敬称付けをされて、恥ずかしいとは思わないのだろうか?権力の座に昇りつめ、イエスマンで廻りを固め”裸の王様”化して行く中で、そういった羞恥心すらも失ってしまったのか。それとも、元々そういう”祭り上げ”が好きな人間だったからこそ、権力に固執するのか。どちらにしても、第三者の立場で言えば、金正日の敬称はかなり”痛さ”を感じてしまう。
金正日を褒め称える言葉は数限りない。「人類音楽の天才」とか、「世界最高の映画監督」、果ては「ユーモアの才能に満ち溢れた指導者」というのも在るそうな。何しろ、「万有引力の法則」等多くの定理&法則の発見や、多くの文化&芸術作品の制作が、金正日によって成されたと平然と報道する彼の国の事なので、もう何でも有りなんだろう。
ルーマニア革命で失脚&処刑された独裁者のチャウシェスク元大統領の場合も、一族挙げて過剰な肩書&敬称付けを好んでいた。彼の妻エレナも、「世界最高の薬剤師であり科学者」という肩書を使っていたが、CO2を「コドーイ」と読み続けていたという話を読んだ事がある。ルーマニア語で、数字の2は「ドーイ」と読むそうで、そこから「シー・オー・ツー」ではなく「コドーイ」と読み続けていたのだとか。長嶋一茂氏が立教大生の時、英語の時間で「The」を「てへ」と読んだという伝説(実話らしいが)に近いものがある(^o^;;;。
この様な空虚な”祭り上げ行為”を嘲笑する日本人は多いだろう。かく言う自分もそうだ。しかし、翻って我が日本の皇室に対する報道姿勢を見ると、かなりの過剰さを感じる事が多い。いみじくも大橋巨泉氏が、次の様な事を書いていた。
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今上天皇が皇太子だった頃、結婚相手の現皇后は「美智子”さん”」であり、「ミッチー」でさえあった。弟の常陸宮は「火星ちゃん」であり、その妃殿下は「華子”さん”」だった。それが、今や「雅子”様”」のみならず、「愛子”様”」とも呼ばれる時代。「愛子”ちゃん”」とした方がどう考えても可愛いのにである。せっかく身近になった皇室を、雲の上に押し上げる様なものであって、天皇や皇太子の意に必ずしも沿うものではないと思う。
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その通りだと思う。どの分野に於いても”御精通”されているといった報道や、過剰な敬称の連発は、皇室離れを助長しこそすれ、決してプラスにはならないと思う。自然な報道姿勢で、人間臭さい部分に触れられれば、より「国民と共に在る皇室」を実感出来ると、右でも左でもない自分には思えるのだが・・・。

やはり、人民は全て暗唱できないといけないんでしょうか?
落語の寿限無を思い出してしまいました。笑いの構造的には一緒かと思います。